読書中 「The Stuff of Thought」 第7章 その6

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

冒涜語の意味論.宗教,汚物に続いて説明されるのはセックス関連語だ.なぜセックスに関連する言葉はタブーになるのだろう.
ピンカーによると1960年代から進歩的な思想家はこれらのタブーは滑稽だと考えてきた.彼等は,セックスはお互いにとって楽しいものであり,不名誉や恥辱から清められるべきだと考えたのだ.性にかかる言葉の上品ぶりは迷信であり,アナクロニズムであり,意地悪なのだ.それはメンケンによる「清教徒主義」の定義が,どこかで誰かが幸せになることへの不安だとしたようなものだというのだ.


なぜ「Fuck you」がののしり語になるのだろう.これは日本語に該当する表現がないことから日本語話者には特に理解しがたいところだ.また通常の英語教育ではfuckに関する文法は教えてくれない.命令形のように思えるが,you が目的語だとすると yourself でなければおかしい気もするし,いったいこれは何なのだろう.


ピンカーはこれは統語法が変わっているからだという.これは実はセックスをするという意味ではないし,それは人の経験の中で性的なことが如何に煽動的かということについて現代の(特に若い男性の)近視眼的な見方からもきているのだそうだ.この「Fuck you」の説明は節を改めてなされることになる.


そしてピンカーはそもそも性的なことをしゃべるのがなぜタブーになるのかの心理的な説明を始める.

いまセックスをしたばかりの二人を考えてみよう.双方とも楽しかっただろうか?そうとは限らない.片方は一生続く関係の始まりだと思い,片方は今夜限りと思っているかもしれない.これで片方が性病に感染したかもしれない.望まない妊娠をしたかもしれない.二人が親族であれば劣勢の有害遺伝子がホモになったかもしれない.恋敵やどちらかの配偶者が嫉妬に燃えているかもしれない.あるいは寝取られ男は今後ずっと他人の子を育てる羽目になるのかもしれない.寝取られ女は金銭的援助を打ち切られるのかもしれない.親は別の政略結婚をもくろんでいたかもしれない.二人は大人でなかったかもしれない.そもそも合意の上ではなかったかもしれない.

セックスは掛け金の高い企てなのだ.リスクとしては搾取される,病気,嫡出の否定,近親相姦,嫉妬,配偶者の暴力,寝取られ,遺棄,決闘,子供の虐待,レイプなどがある.このようなリスクは私達の行動や感情に影響を与えている.セックスについての考えはこのようなことで一杯であり,簡単に楽しめるものではないのだ.


ピンカーは進化心理学が明らかにしたセックスについてのコンフリクトを示し,このような微妙な状況が言語に影響を大きく与えていると説明している.そしてセックスについて軽々にしゃべることは,セックスをテニスや切手収集のように軽く考えているということになる.セックスについての言及は数多い利害関係人の注意を引くのだ.


そしてまず男性と女性でカジュアルセックスについての嗜好が進化心理学的に異なっていることと対応して,言語的にもセックスに関するカジュアルなトークにも同じ傾向があると指摘している.平均して男性はより冒涜語を発し,性的なタブー語は女性にとってより厳しい言葉になる.


そしてピンカーは,この男女差はいかにもヴィクトリアン的だが(下品な言葉を聞いた上流階級のご婦人が失神するイメージ),1970年代のフェミニズムの第2の波の予期せざる結果は,冒涜に対する攻撃的なセンスの復活,ポルノに対する攻撃キャンペーンの言語版だったと指摘して,男女に差はないと主張するフェミニスト達のこの性的冒涜語への傾向をおもしろがっているようだ.そしてセクハラと訴えられた極端な例をいくつか示している.(結構傑作で笑える)


いずれにせよ性的に放縦な雰囲気に対しては男性より女性の方が嫌がるのは事実のようだ.

そしてそれに先立つ1960年代のアメリカは放縦の時代だったと振り返っている.
ウッディ・アレンローリング・ストーンズ,007,ローワンとマーチンのラフ・イン(コメディ番組)などの作品をいま見るのは現代のアメリカ人にとっては痛い経験になりうるのだそうだ.これらに見られるおびただしい色気は,その当時は洗練されてきわどいものだと考えられていたのだが,女性をふしだらに描き,レイプやハラスメントや配偶者の虐待を楽しんでいるようで,今日では強い女性嫌悪症のように思えると感想を述べている.


日本でも状況は似たようなものだろうか.過去の映画作品が今日見るのに耐えられないということはあまりないかもしれないが,(いやあるのかもしれない,高度成長期の映画で今日あまり放送されないものは,実はチェックしてみればそうなのかもしれない.たとえばサラリーマンものでのOLの扱いは現代的に見るとかなりセクハラ的に描かれているものもあるのだろう)いずれにせよここ10年で実生活のなかでセクハラが大幅に減少しているのは確かだろう.
(セクハラではないが時折昔の映画を見ていていて気付くのは,喫煙に関する取り扱いの時代の差だ.例えば20年前の「ドラえもん」ではのび太の父はのび太や静ちゃんがいる部屋で平気でタバコをくわえている.これは新作では恐らく描かれないだろう.セクハラでもそうなっているのかもしれない.)


ピンカーは現代は大きな流れとしてはセックスについてより率直に話せる時代ではあるが,それでもタブーであり続けているとまとめている.

ほとんどの人は公衆の前ではセックスしないし,ディナーパーティのあとでスワップをしたり近親相姦をしたりしないし,売春をおおっぴらにするわけでもない.性の革命のあとでも,すべての可能性を探索するにはまだまだだ.そしてそれは人々がある種の考えに対してなおバリアを持っていることを示している.


第7章 テレビで言っちゃいけない7つの言葉


(3)冒涜の意味論: 神,病気,汚物,性にかかる思考