読書中 「The Stuff of Thought」 第7章 その10

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


さてここまで冒涜語,タブー語を解説してきたピンカーは,このような冒涜語についてどう向き合うべきかをいうことを最後に述べている.これは事実の分析ではなく,価値判断の問題でピンカーの著述としてはやや異例な部分だろう.


最初は放送清潔法について.これについてはピンカーは政策論としてさらっと流している.要するに政府が口を挟むようなことではないが,でも嫌な言葉を子供に聞かせたくない親のためにそういう言葉が出ない放送局があっても良いだろう述べるにとどめている.


つづいて心理言語学的な立場からタブー語に対して,どのような場合には反対し,どのような場合には耐え,あるいは喜ぶべきかについてコメントしている.


まず言葉はある意味で武器であり,人を傷つける力がある.だからそういう言葉を使うときには,聞き手がどう感じるかよく考えた方がいいという.これは当然のコメントだ.


そもそも外部者からアフリカ系アメリカ人がniggerと呼ばれたり,女性がcuntと呼ばれたり,ユダヤ人がa fucking jewと呼ばれたときに,なぜ私達は怒るのだろうか,あるいは怒るべきなのだろうか.
ピンカーによると,その語句自体に意味はないので,これが偏見を助長させるから怒っているのではない.この怒りの原因ははこの言葉に対するスピーチ認識と自動的に生起される言外の意味の認識にあるのだと推測している.

nigger という言葉を聞くことは,何かしらアフリカ系アメリカ人に対する軽蔑の考えや,それを口にすることでそれを認めていると人と共謀するという考えを試すことになるのだ.同じことは他のタブー語にも当てはまる.
単にモラルに反することを聞くだけでは済まないのだ.それはモラルを堕落させるように感じ,単に考えると不愉快なだけでなく考えるべきでないと感じるのだ.そしてそれこそがタブーだ.


ではタブー語を使うのは止めた方が良いのか.ピンカーはそうは考えない.


まずピンカーは1960年代に性的タブーは有害と考えた人たちがタブーをなくそうとしたのだが,かえって性的なモラルは堕落したことをあげている.60年代のセックスを巡る性的な言葉の氾濫と,非嫡出子,性病,レイプ,拒食症の増加の時期が一致しているのだ.もっともこれはどちらが原因かは微妙なところだ.


次に意図したり,いい加減さからタブー語を使いすぎれば,タブー語はその感情的な鋭さを失い,本当に使いたいときに役に立たなくなってしまうと指摘している.これはピンカーが冒涜語を擁護する理由だ.
こはちょっと力が入っている.


人々は実際にある状況で冒涜語を使う.これが使えなければ作家や歴史家は真実を伝えられなくなってしまう.ピンカーは第二次世界大戦の兵士の描写などの例を挙げている.ノーマン・メイラーはリアルに描こうとして当時の風潮との板挟みに悩み.「fug」なる造語をひねり出したそうだ.
また激情を表すすばらしい表現の例としてある小説で,ポーランド人の娘が,ナチからかくまったユダヤ人の男に裏切られ,ひっぱたたかれてののしる場面を例にあげている.「私はあんたの命を救ったのに,あんたに食べ物の最後の一かけを口移しにし,あんたの糞(Shit)を運び出したのに!」


ピンカーは本章をこう締めている.

うまく使えば冒涜語は陽気で,痛烈で,気味悪いほどの描写力がある.ほかのどんな言語の形より,それは統語法の組み合わせパワー,メタファーの喚起力,頭韻,韻律,脚韻の楽しさ,そして考えられるもの,考えられないものに対する私達の態度の感情的なチャージなどによる私達の表現能力を最大にしてくれる.
それは,左右,前後,新古の脳のすべてを最大限まで拡張してくれる.
シェイクスピアテンペストにおいて半獣のカリバンに人間についてこう言わせている.「おまえは俺に言葉を教えてくれた,そして俺が得たものは,ののしることができるようになったということだ」


第7章 テレビで言っちゃいけない7つの言葉


(5)冒涜;賛成か反対か