読書中 「The Stuff of Thought」 第8章 その1

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


今日から第8章.言語が交わされる社会的文脈に注目した章だ.


冒頭で映画「トッツィー」のある場面が紹介される.
ダスティ・ホフマンは中年女性ドロシーになりきる売れない中年俳優マイケル・ドーシーの役を演じた.ドーシーはソープオペラで若い女優ジュリー・ニコルス(ジェシカ・ヤング)の味方になっているうちに恋に落ちる.深夜のシーンでジュリーは現代における独身女性の悲哀についてドロシーにしゃべる.
「私が何を望んでいるかわかる?男の人は正直に振る舞える.私に向かって歩いてきて,『聞いて,ぼくは困ってるんだ.いろんなことは言えるけど本当は君に興味があるんだ.いっしょに夜を過ごしたい』と言えるのよ.これって簡単じゃない」
映画で後にジュリーは,正体を知らないマイケルとカクテルパーティで出会う.マイケルはこういう.
「やあ.ぼくはマイケル・ドーシー.聞いて,ぼくは困ってるんだ.いろんなことは言えるけど本当は君に興味があるんだ.いっしょに夜を過ごしたい.そして・・・」
ここでジュリーはマイケルにワインを浴びせる.


何故ヒトは直接的にしゃべらないのか,間接的,婉曲的な表現を使うのかが本章のテーマだ.
ピンカーによると私達は皆直接的にしゃべれればいいのにと思っていながら実際にはそうしないのだ.そしてこのような偽善はヒューマンユニバーサルだといっている.


ここで典型例として取り上げられるのは
「上がっていって私の描いた絵を見ていかない?」という性的な誘い,
「良い店じゃないか,ここで何か起こったら残念なことになるね」という脅し,
「ここでリーダーシップを見せてくれることを期待しているよ」という募金パーティでの一言,
「もし君がグアカモーレをとってくれたら,とっても素晴らしいことだろうに.(仮定法)」(ディナーテーブルで)
などだ.


日本だと最初の例は「お茶でも飲んでいかない」というものか.2番目は私はそういう業界には詳しくないが,それこそ非常に多くのうまい言い方があるのだろう.募金パーティについても残念ながら寡聞にしてよく知らないが,あまり日本では見られないかもしれない.最後は日本語に仮定法がないのでむずかしい.「すみません,そこのお醤油をとってもらえますか」ということになってしまうだろうか.しかしこれでも質問形だから十分婉曲的だろう.ピンカーのいうとおり,ある社会的な局面で私達は間接的なものの言い方をするのだ.そしてこれは確かにヒューマンユニバーサルなのだろう.


これがなぜかについてのよくある直接的な説明,たとえば「私達がごまかす言い方をするのは,当惑するようなことを避けたり,きまりの悪い思いをしないように,体面を保つため,社会的緊張を和らげるためだ」は説明になっていないとピンカーは言っている.
それらはさらに疑問を生みだすだけだ.そもそも「体面」とは何か,なぜ,私達は当惑したり緊張したり恥に思ったりするのだろう.

またよくある言語哲学者の説明はたとえば「協力する2者間の効率的な情報交換という観点から合理的」というような観点からなされているが,これも会話者が常に協力しようとしていることが前提になっていて単純すぎるとピンカーは言う.ここはドーキンス,クレブスの動物のシグナル理論でおなじみの操作可能性という問題とパラレルになるのだろう.ピンカーは互いに協力的でない状況(例えば法廷での争いなど)では高次の志向姿勢の理論,そして合理的な無知(知らない方がよいことがある)の理論などが理解に必要になるのだと示唆している.


本章ではこれらの謎を情報を交換する社会的存在にかかる固有の問題として説明していくという趣旨のようだ.


第8章 人が行うゲーム