Bad Acts and Guilty Minds 第2章 犯罪行為 その4

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


精霊「クーガ」に取り憑かれている中で,患者の腹を切って死亡させた呪い師ファツマのケース.
なぜ私達がファツマの処罰をためらうかの論点その1「記憶がない」について前回見てきた.


<論点その2>
何か別のものに取り憑かれて行った行為を処罰すべきなのか.


超自然に取り憑かれた行為だという抗弁の実例が(やはり英国のアフリカの植民地で)実際にあるそうだ.被告は,葬儀において棺をになっていた時に近づいてきたものを棺が動いて3度打ちつけて殺害したという事例で,「その棺が人を殺した」と抗弁した.判事は相手にしなかったそうだ.


ケーススタディのファツマの場合,実際の裁判所は無意識下の行為だとして無罪判決をしている.


このような無意識下の行為だとして「行為性」を否定する抗弁は裁判でしばしば争われるという.カッツによると裁判所は滅多なことではこの抗弁を認めないようだが,ということは認めるケースもあることになる.


ケンタッキーで実際にあった事例では,たたき起こされたばかりの状態で反射的にポーターを射殺してしまった事例があるそうだ.被告は自分は夢遊状態にあったのだと抗弁した.裁判所は「故意」を否定して無罪とした.
また警官ともめた際に発砲されて腹に命中したとたん激情に襲われ相手を殺した事例では,腹の銃弾が深い情緒的な反射を起こしたのかということが争われたそうだ.
有名なケネディ暗殺容疑者オズワルドの殺害事例では被告ルディはてんかんの発作を抗弁として持ち出している.この事例では無意識下の行為は否定されて有罪となっている.



カッツは人は常に意識的に行動しているわけではなく,無意識下の行為と呼べる状態はしばしばあるのだと議論している.(ここでジュリアン・ジェインズの,古代には意識がなかったという説を紹介しているのはちょっとした脱線だろう)
結局「意識」とは何か.人は自分の心についてよくわかっていないし,自分が何を見て何を感じ何をしているか常に意識しているわけではないのだ.
カッツは認知科学の最近の知見である,まず感じて行動し,意識的な知覚や理屈は後付けであるということを紹介し,見えていても盲目を主張するケースも説明している.


このあたりも,ヒトの進化的な心理・認知傾向と実際の状況がずれているために,道徳・倫理判断が難しくなる例の1つだろう.無意識の行為は「行為」ではないがそれを狭く解釈して,個別事例ごとに考えるという解決しかないということだろうか.


日本では行為が意識下でなされたものかどうかという問題はまず「行為論」として議論されているようだ.もっとも「『意思に基づく』人の身体の動静」かどうかと問題にするときには,しゃっくりの様な反射的行動をのぞく(どのみち故意がないのだから議論しても意味はあるのか)か,不作為とどう考えるかあたりが問題にされているようで,本章にあるような無意識下の行為はあまり議論されていないようだ.結局このようなケースの実質的な判断は「行為論」ではなく「故意」があったかどうか,あるいは心神喪失と言えるのかという「責任」の話だということだろう.
いずれにせよアメリカ刑法の参考書には,このような限界事例について,認知科学では単純な意思に基づく行動モデルでは捉えきれない部分がある知見が増えていることにも触れているが,日本の参考書には記述がない.実際にそういう抗弁が陪審相手に主張されるかどうかということの反映だろうか,それとも法律学の閉鎖性を示しているのだろうか.


仮にファツマのケースが日本であった場合に,本当に無罪でいいのかどうかはなかなか難しい.実務的には心神喪失が主張されて鑑定という流れになるのだろうが,結局何かが人に取り憑いたようになることが本当にあるのか,それをきちんと鑑定できるのか,社会的に受け入れられるのかの総合判断ということになるのだろうか.