「右利きのヘビ仮説」

右利きのヘビ仮説―追うヘビ、逃げるカタツムリの右と左の共進化 (フィールドの生物学)

右利きのヘビ仮説―追うヘビ、逃げるカタツムリの右と左の共進化 (フィールドの生物学)


本書は若き生態学者,細将貴によるヘビとカタツムリの左右性の進化にかかる研究物語である.その中には子供の頃からの興味やエピソード*1にも触れながら紆余曲折を経て生態学者として研究を進めることになる自伝的な風味もあり,さらにヘビとカタツムリの登場舞台である西表島の探検物語の要素も入れ込まれている.


本書の大きなテーマである生物の左右性は大変面白い問題だ.左右相称生物も完全に対称であることはまれで,多くは何らかの左右性を持つ.たとえばヒトにおいては内蔵の配置や脳の機能に左右性がある.そして特に興味深いのは左右性が時に種内で,時に近縁種間で多型になっていることだ.
本書では,まず生物の左右性の進化の見取り図,そして多型の例が数多く示されて読者の興味をまず引きつける.具体的にはヒトにおける利き手,シオマネキのオスの大きなディスプレー用ハサミ,アフリカ大地溝帯古代湖におけるシクリッド(その中のスケールイーター),イスカのクチバシ,鏡像花,カレイやヒラメ,巻き貝などが紹介されている.多型には1:1になっているものから片方に偏っているものまであり,種内,近縁種間での散らばり具合も様々である.多型の維持の仕組みもわかっていないもの,ある程度わかっているものなどいろいろだが,わかっている中では負の頻度依存淘汰が重要なメカニズムであることがほのめかされている.


ここから著者の研究物語が始まる,巻き貝は海産のものは圧倒的に右巻きだが,陸貝(いわゆるカタツムリ*2)については多くは右巻きではあるもののかなり左巻きのものも存在する.そして日本の南西諸島では左巻きのものが比較的多いのだ.著者は学部生時代に,これは右巻きの貝の補食に特化した捕食者がその地域に存在するためではないかと考えつく.そして大学院への進学,様々な人との出会いの中でその仮説の検証に取り組んでいくのだ.
話は,捕食者の推定(カタツムリ食に特化したセダカヘビ),骨格標本から歯列が左右非対称であることを発見,現地のフィールドリサーチ,ヘビの捕獲,糞の顕微鏡観察によるカタツムリ食性の左右性の確認,ラボでの補食実験による確認,データ収集と処理,論文執筆,投稿,受理へと続いていく.こう書くと無味乾燥なようだが,そこには大変な苦労と悩みがあり,著者の時々の心情とともに物事の進展が生き生きと語られている.
当時所属していた研究室の方向性とこのテーマの不整合,世界中の博物館から骨格標本を取り寄せたり,別の研究室の実験設備を借りたりという手探りの経験,イワサキセダカヘビの希少性,実験に伴う様々な予測不可能性,雑誌編集者からのリジェクトの嵐,研究者として身を立てていくことへの不安などが語られているわけだが,その中でも西表島のフィールドの様子は,夜間リサーチの照明問題,ハブやムカデなどの有害生物,ゲジゲジやクモなどの気味の悪い生物,孤独感,物資の入手難とともに詳しく書かれていて,フィールドリサーチのシビアな状況がよくわかって面白い.
そしてイワサキセダカヘビは補食法が,襲う方向,下顎の構造の2点で右巻きカタツムリに特化し,一定以上の大きさの左巻きタツムリの補食効率が大きく落ちることを実験で確かめ,それが左巻きのカタツムリの種分化を後押ししていることが地理的な分布で強く推定できることを示すことに成功するのだ.
なお本書の記述はヘビの右利きのところが非常に詳しい割に,地理的な分布やカタツムリ側の種分化の解説,特に負の頻度依存的な対補食防御戦略と正の頻度依存的な交尾成功率が重なると種分化しやすいという部分の解説が少なくやや物足りなさがある.紙数の関係ということだろうが,ちょっと残念なところだ.


本書は面白い進化生物学のテーマをわかりやすく提示し,そして解明の過程を著者の体験とうまく融合させて興味深い物語に仕上げている.またちょっと専門的なテーマはコラムに仕立ててあって読みやすい.さらに本書の魅力の1つは関西人である著者のとぼけたユーモアがふんだんに仕込まれているところだ.私は読みながらあちこちで吹き出してしまった.そして何より左右性の進化というテーマについて,読み終わってもなお余韻のようにいろいろ考えさせてくれる本だ.ちなみに私が考え込んだのは以下のようなことだ.

  • 種内・近縁種間の左右性の多型の状況が様々であるのは,おそらく正の頻度依存淘汰的要因と負の頻度依存淘汰的要因が両方あって,交尾成功や送粉成功などの生殖隔離に片方が関連していたり,それぞれの要因が時間的地理的に一様でないために生じるのだろう.
  • であればヒトの利き手はどうなっているのだろうか.仮に脳の機能の左右性との関連上コストが安いから右利きが多いということであれば(本当にそうなのかどうかは知らないが),左利きには頻度依存的なメリットがあるはずだ.それは何だろうか.(野球の左投手のように)まれな方が男性同士の競争上の有利性があるのか,あるいは配偶選択の選り好み的な魅力があるのか(左利きはもてるのか?).もし後者ならそれは何のシグナルでどのようなコストが内包されているのだろう.
  • 利き手やヘビの襲う方向のような行動的な左右性はまだ見つかっていないだけで,動物界にまだまだあるのではないだろうか.
  • カレイやヒラメなどの左右性にはどのような頻度依存淘汰的なメカニズムがあるのだろう.補食や交尾に差があるようには思えないだけに興味深い.あるいは有利不利はなく,浮動だけで説明可能なパターンなのだろうか.
  • なぜ海には右巻きに特化した巻き貝捕食者が存在しないのだろうか.あるいは存在していてもマージナルな捕食者にとどまっているから海産の左巻き貝がほとんどいないということなのだろうか.
  • イワサキセダカヘビがカタツムリの巻きに合わせて襲撃方向を変えないことについて,著者は認知エラー率がある程度あるなら最初から変えようとしない方が有利なのだろうと推測している.これは短期的な説明だが,長期的にもそうなっているのだろうか.つまり巻きをエラー率少なく検知して行動を条件付きにするという認知能力の増大にかかる脳のコストは進化的に高すぎるということなのだろうか.


思い出せば,私が初めてこの右利きヘビの話を聞いたのは著者による日本進化学会の発表においてだった.(記憶では2005年の東北大会だったと思う)面白いテーマだなあと思ったのを良く憶えている.その後リサーチと検証が進み,ついに2つの論文とこのような本にまとまったことは大変喜ばしい.著者の今後のリサーチがますます充実することを祈念いたしたい.



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本書でも触れられているが,シクリッドのスケールイーターの左右性が負の頻度依存淘汰しているという話は大変面白い.私がこの話を最初に読んだのは堀道雄の編集による1993年のこの本においてだ.書棚から引っ張り出してしばらくぶりに眺めてみたが,短期間で適応放散を遂げたまたとない研究対象を目の前にした研究者たちの興奮が伝わってくるような本だ.なお左右性の話は川那部浩哉による第14章に書かれている.



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スケールイーターの左右性は,さらにこの本の堀道雄による章で普通の魚でも左利きと右利きがあるという話に拡張されている.
またカタツムリの左右の巻き方の進化と遺伝についての章もあり(本書の著者との共同研究者,浅見崇比呂によるもの),進化メカニズムの総説と,遺伝についての詳細があり本書の補完としてぴったりの章になっている.ここではヘビの補食の左右性による負の頻度依存淘汰効果があり得るという話も少し触れられている.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080304



著者のサイト
https://sites.google.com/site/masakihoso/publication
本件にかかる2007,2010の論文のダウンロードが可能だ.さらに本書の正誤表も掲載されている.

*1:高校生の時に水草オタクだった著者はムジナモとヒシモドキ見たさに和歌山市の自宅から京都市の京大植物園まで(片道125キロ)の行程を自転車で日帰り往復したそうだ.

*2:タツムリというのは陸産の巻き貝で殻が消失していないものの総称で,分類学的には多系統の雑多なグループなのだそうだ.殻が消失したものはもちろんナメクジと呼ばれる.