「The Better Angels of Our Nature」 第9章 より善き天使 その2  

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined

The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined


「より善き天使」の2人目は自制だ.


II. 自制


ここではピンカーはこう始めている.

昔から人々は自制しようと苦労してきた.そして現代においては,美食やドラッグや借金によりさらに重要だ.暴力はまさに自制の問題でもある.
自制は文明化プロセスと大きな関係があるように見える.統一国家と交易により人々は殴りあうことを我慢するようになった.ヨーロッパでの殺人率は1/30になった.名誉の文化から威厳の文化に移行したのだ.


《自制の科学》
自制の科学の問題は,短期的利益と長期的利益の相克の問題だ.
そして短期的利益を優先すること自体は多くの場合合理的だ.ヒトは明日死ぬかもしれないし,とっておいた楽しみがなくなるかもしれない.だから将来の楽しみは現在価値に割り引かなければならないのだ.だから問題は割引率の詳細にある.


(問題1)割引率が高すぎる

  • ヒトの進化的環境では合理的でも現代では不合理
  • だいたい余命が数年程度の割引率になっているという試算がある.
  • ナッジのリバタリアンパターナリズムはここを問題にしている


(問題2)割引率がフリップする

  • 近視眼的割引率,双曲割引とも呼ばれる.
  • これはちょうど短期的利益という自身と,長期的利益という自身が争っているように解釈できる
  • そして脳内には実際に二つのシステムがあるようだ.(ここでピンカーは脳神経学的な詳細を説明している.長期的利益を判断する回路が壊れるとヒトは実際に衝動的になるのだ)
  • この長期的利益を判断する回路はいわば「自制システム」と考えてよい.このシステムの能力には個人差があり,成功と相関することが知られている.


この双曲割引の問題は最近ではいろいろなところでよく議論されるようになってある程度おなじみだが,ピンカーはさすがに鋭く,きちんと割引率の絶対値の問題と,指数曲線からのずれを分けて扱っている.もっともこの後の分析にこの2者を分けたことが直接効いているわけではないようだ.とりあえず割引率が低いこと=自制能力が高いこととして議論は進む.


《自制能力と暴力の関係》
状況証拠によれば,この両者には関係がある.

  • 犯罪は自制のなさで引き起こされているように見える.彼らは小さなゲインを取るために大きな長期的コスト(信頼を失う,刑務所にはいる)を払っている.
  • 暴力犯罪者のリサーチによると,彼等は学校時代から問題を起こしている.飲酒運転,各種の中毒,非暴力犯罪が多い.そして多くは驚くほど衝動的に行動している.


リサーチは自制能力の個人差にかかるもので全体の減少傾向の説明にはならない.また犯罪との相関は確かにあるが,因果はわからない.自制能力から暴力減少を説明するには,個人の自制能力が上下するとそれと共に暴力傾向が上下すること,社会が時代に連れて全体の自制能力に影響を与えることができることを示さねばならない.


ここでピンカーはバウマイスターの様々な自制能力のリサーチを紹介し,これまでの知見を「暴力は自制の神経メカニズムが弱くなることで生じる」と考えてよいとまとめ,詳細については以下のように整理している.

  1. 自制能力の個人差は安定している.おそらく遺伝要因もあるだろう.
  2. 自制能力は使い続けると減退し,数分単位で変動する
  3. 自制が弱いとセックスや暴力に対して衝動的になる
  4. 自制の個人差と「子供じみているか,だらしないか」は相関する.
  5. 前脳皮質には自制が生じることにかかる部位があり,その部位の損傷者は衝動的になる


《社会の変化》
では社会が変化して行く仕組みはどう考えればいいのだろうか.ピンカーは,まず自制は意識的に関与できるものであることを指摘する.そして「自制についてよく考えれば自制する方法についても考えるようになるのだ」といい,いくつかの方法をあげている.

  1. 物理的なオデュッセウス方式:空腹でスーパーにいかない,天引き貯金,Stick.com,ナイフのマナー,入り口で銃を預ける
  2. 心理的な方法:注意をそらす,物事の再解釈(これは挑発ではなく相手が未熟さを見せているだけ)
  3. 割引率の変更:デイリーとウィルソンの発見;平均余命が小さい地域で殺人率が高い.これは社会が安定すると割引率が下がることになりマシュー効果を説明できる.
  4. 栄養状態の改善:前頭葉は糖を大量に消費する.そして糖分補給は自制能力を回復させる.刑務所で栄養を改善すると暴力が減るという複数の実験結果がある.
  5. エクササイズ:鍛えれば前頭葉が膨らむわけではないが,神経回路ができる可能性はある.また1,2のトリックも回路形成につながる可能性がある.そして実験すると効果がある.
  6. 流行:確かに60年代は「威厳のある立派な大人」というロールモデルは地に落ちていた.


では社会は本当にこのような方法で変わっていったのだろうか.ピンカーは変わっていったと主張し,それを示すものを2つあげている.

  1. 金利:確かに金利にはインフレ,成長率,リスクプレミアムの要素もあるが,心理的な割引率の側面もあるはずだ.そして英国では1400年頃に,インフレも成長率も大きく変わらない中で10%前後から5%前後に低下している.
  2. より直接的な指標(合理的論理的かどうか,秩序や自制に価値をおいているかなど)を用いた社会分析:ホフステッドの6次元分析では,うち2軸が相互に相関しつつ殺人率に相関している,この2軸は「長期と短期」「耽溺と制限」だった.


ピンカーはこれにより「文明化プロセス仮説は,心理,脳科学,経済という異なる分野で,実験とデータ双方で支持されている」といってよいと結論づけている.


なお金利の説明についてはやや疑問がある.ピンカーも書いているように金利は収益率(これが期待割引率や成長率の基礎になる)とインフレ率の他,リスクプレミアムで決まる.さらに取引コストがこれに影響するはずだ.ピンカーはリスクプレミアムは大きな変動がないと考えているようだがそうとは限らないだろう.またリスクプレミアム自体人々の自制能力と関連している可能性もある(踏み倒しを思いとどまるかどうかは自制の問題だ).細かく言うと期待収益率と事後的に達成された成長率も同じではない.また信用市場における競争が貸し手側の超過利潤を減らしたり,より効率的なクレジット管理手法を可能にして貸し手のコストを下げて金利を下げた可能性もあるだろう.1400年頃の金利低下を自制能力向上の傍証とするにはやや議論は粗いように思う.