「Risk Intelligence」 第3章 トワイライトゾーンへ その2 

Risk Intelligence: How to Live with Uncertainty (English Edition)

Risk Intelligence: How to Live with Uncertainty (English Edition)


RQの低い人達はともかくも白黒をつけたがるか,どこまでも曖昧さを引っ張ろうとする.エヴァンズはこれにかかるいくつかのトピックをここで扱っている.



<ワーストケースシンキングの誤謬>


決着忌避傾向は重大なリスクの時に表面化しやすいとエヴァンズは指摘している.
例えばテロや破滅的な災害(エヴァンズは黙示録的なシナリオと言っている)などに対して人々は無視したり異常に関心を持ったりする.大きなリスクに対して,それがはっきりしたイメージをもたらし,心理的にとらわれてしまうのだ.この顕著な問題がワーストケースシンキングに現れる.


例:チェイニー副大統領の1%ドクトリン:パキスタンの技術がアルカイーダに渡る確率が1%あるなら,それが確定的だという前提の行動にでるべきだ


これは馬鹿げた意思決定につながりやすい.1%のリスクを100%として扱おうというのは確かに馬鹿げたことだ.エヴァンズは,それは取る手段のコストの分析(特にそうでなかった場合の)をできなくしてしまうのだとコメントしている.
なぜこれが決着願望ではなく(不確実なものを100%として扱うのだから決着したがっているようにも見える)決着忌避願望に由来するとエヴァンズは言っているのだろうか.おそらく普通は1%はあまり生じないと考えるところを拒否し十分起こりうると考えて重大視するという部分を指しているのだろう.いずれにせよ異常さは際立っている.


またこれは環境問題の活動家にもよく見られるとエヴァンズは指摘している.「恐れ」にとらわれてしまうとコストが見えなくなるのだ.これは昨今の日本においても大きなトピックだろう.


エヴァンズはここでもう一つの例として「パラノイア的子育て」をあげている.ダイアモンドの「昨日までの世界」でも指摘されていたが,アメリカの子育てのパラノイア振りは一部の論者には目に余るのだろう.

  • 見知らぬ人に警戒し,常に監視下に起き,自由を大幅に制限する.
  • これによる運動,社会化,独立心の形成などの機会メリットは無視される.

<オールオアナッシングの誤謬>


次は決着願望のもたらす誤謬だ.人々は白黒をつけたがり,物事を0か1かで考えようとしてしまう.


エヴァンズが特に問題だとして指摘するのは,確信するための証明ハードルをあげる傾向だ.絶対的な証拠がなければだめという態度はよく見られる.しかしこれではどんな言説も受け入れられず,行動できなくなってしまうリスクが高い.
エヴァンズはここで例として英国で三種混合ワクチンの接種率が下がったことを取り上げている.日本でも同様な問題があるが,これは単純に100%安全でなくてはだめということだけではなく(それならば接種しなくても病気にかからない保証も必要になってしまう)自分の決断で物事を変えることにだけ責任を感じてしまうという心的傾向も大きいように思われる.いずれにしても100%の安全を求める傾向は人々の心に根強くある.エヴァンズはこうコメントしている.

100%の安全などはないのだ.水ですらコップ一杯飲んで病気になるリスクをゼロにはできない.しかしだからといって水を飲まないのは馬鹿げている.毎日何百万人*1もの人が水を飲みながら病気にはならない,そして水よりも安全なものは無いことをしめしている大量の証拠がある
「証拠の欠如は無いことの証明ではない」と良く言われるが,しかし多くの場合はそうなのだ.これまで誰も人魚を見たことがないということは,残念ながら人魚は実在しないということの強い証拠なのだ.


最後の一文は論理学的には厳密性を欠いているが,まさに確率論的な世界では十分合理的な行動指針の基礎になるということだろう.さらにエヴァンズは,何かを信じる前に証拠を要求するのは合理的だが,圧倒的な証拠を頑強に要求するのは別の話だとも指摘している.それをどこまでも要求するのはむしろ議論を避けるための煙幕に過ぎないことが多いのだ.多くの陰謀論はこのテクニックに依拠している.



エヴァンズは決着願望が逆に働くケースも示している.「何か少しでも可能性があれば,それはある」と考える傾向だ.

例えば「超自然的な力がある可能性は0ではない」というような言説だ.しかし「0ではない」という情報には大した意味がない.そのような人には「ではいったい何%だと思っているのか?5%?あるいは10%」と問うことにしている.そして彼が95%以上と答えれば,初めてまともな議論が始まる.

エヴァンズはこれはジャーナリストがインタビュー相手にしかけるトリックにもよく使われるとコメントしている.彼等は相手にほとんど生じないことの「可能性があるかないか」を問うのだ.「無い」と答えるのは自信過剰に見えるし,「ある」と答えれば,あたかも「蓋然性が高い」と答えたかのように扱われてしまう.そしてウィキリークスジュリアン・アサンジがこのトリックをしかけるジャーナリストを上手くあしらった例も紹介している.ここはなかなか面白い.


エヴァンズはこの問題を扱う上で役に立つのは法廷でのやり方だという.法廷では完璧な証明は要求されない.英米法の刑事裁判では有罪については「合理的な疑いを入れない」程度の証明でよいとされる.
法廷での決着に0%か100%かではない証明の仕方があるという理解は,信念や知識にかかるものにはいろいろな証明の段階があるという理解につながる.


ここでエヴァンズはドーキンスの「The God Delusion」の議論を詳しく紹介している.それまでドーキンスについて原理主義無神論者かと思っていたが,著書を読んでみるとそうではないことがわかったというのだ.実際この本にはきちんと確率的な議論があり,神の存在の可能性について「0ではないがほとんどあり得ない」と考えていると自分の立場を説明している.


本章の最後はこうまとめられている.

このようなトワイライトゾーンをうまく扱うのは人生のいろいろな場面で有用だ.手術の是非,どこを受験するかなど.絶対的な証拠を求めすぎてはなにもできなくなる.


さてエヴァンズによるとこのような「曖昧性への非耐性」「ワーストケースシンキング」「オールオアナッシング傾向」などのほかにまだ人々のRQを下げているものがある,それは次章のトピック「ヒューリスティックス」だ.



関連書籍


本書で紹介されているパラノイア的な子育てに関する参考文献


Paranoid Parenting

Paranoid Parenting



 

*1:Millions of Peopleとあるが,趣旨からはBillionと書いた方がよかったように思われる.