本書はヒトの意識の進化的な説明で有名な心理学者ニコラス・ハンフリーによる意識にかかる最新作である.原題は「Soul Dust: The Magic of Conciousness」.ハンフリーは「内なる目」において,意識について,社会性の動物としてのヒトにおける同種他個体の行動を予測するためのシミュレーションソフトとして進化したのではないかと議論した.そして「赤を見る」においてはその進化的な経路として,感覚を知覚するための自己観察デバイス由来ではないかと示唆している.本書はどちらかといえば「赤を見る」の議論の延長としての性格が強いものだ.なお本書も紀伊国屋書店の企画「進化と哲学」における長谷川眞理子選書の一冊であり,そして本書のかなりの部分は哲学的な議論によって占められている.
まず第1部では意識とはどのような現象であるのかが追求される.まず導入として意識の哲学でおなじみのクオリア,哲学的ゾンビが登場し,確かに意識は自分にしかわからないような私秘的な感覚だが,決してその有無が外部から観察されないということはあり得ないと議論する.なぜなら意識システムは複雑で精妙であり自然淘汰の産物だとしか考えられないが,それならば,その有無は適応度の違いとして外部から観察されるはずだからだ.もちろんゾンビ派の哲学者たちは認めないだろうが,私には簡潔で圧倒的に説得的な議論に感じられるところだ.
そして続いて「赤を見る」の続編としての意識の現象的な分析が始まる.ここではあり得ないものの知覚としてのペンローズの三角形と,それをある角度から可能にする無様な実体(ハンフリーはこれをグレガンドラムと名付けている)というモデルを提示して,「意識」は,ある感覚的インプットに反応して,脳内で一見あり得ないもの(ハンフリーはこれをイプサンドラムと名付ける)を生み出し,そして自分自身に提示しているという現象である,つまり一種の幻想だと説明する.ここからいったん「赤を見る」のおさらいになり,これは生物が外界を知覚するための古いシステム(刺激を受けた自分の内部の一部を観察して刺激を知覚するシステム)由来だとする.するとこれは一種のフィードバックループが内包されていることになり,システムとしてはカオス系のストレンジアトラクターの挙動を示すことが可能だ.そしてこれこそがイプサンドラムの特質であり,「意識」が自分を感覚する際の時間の厚みを生み出すのだと主張している.意識現象の1つの特徴として時間の厚みを指摘し,かつそれをカオスで説明しようというのはなかなか斬新で面白いところだろう.
第2部では進化的な議論がなされている.意識はどのような適応的な利点を与えたのか.ハンフリーはそれが様々な行動の動機の強化を与えたのではないかと議論している.
まず第一に意識は自分が存在することを感じる.それはより生きようとする意思を強くするだろう.当然の疑問は単純な報酬系ではだめなのかということだ.ハンフリーはそれでは底の浅い動機しか作れないだろうとコメントしている.私はこの議論は弱いと思う.この線で押すならば,様々な課題に対して一貫して有効な報酬系をデザインするのは難しく,自分の存在を感じさせる方が進化にとって容易だったのではないかという議論の方がよかったように思う.
ハンフリーはさらに,意識は世界をより美しく価値あるものに見せるのに役立ったという議論を行っている.自分の周りの様々な現象が美しく見えるのは,意識の感覚的なマジックが外部に投影されているからなのだ.これをアーメルとラマンチャンドランの皮膚電流実験の驚くべき結果を使って説得的に示す部分は見事で,本書の読みどころの一つだ.さらに意識は自分が今ここに存在しているという驚異が自分にしか属さないという内省を経て自分自身への超越的な意義の感覚に至らせる.ハンフリーは意識がこのような意味を世界に与える有様について,魂の無数のまばゆいかけらが世界に振りまかれる様子に例えて,これをスターダスト(星屑)ならぬ「ソウルダスト」と呼んでいる.本書の題名はここからきている.
ハンフリーの議論は続く.さらに意識のデザインを見ると,本来バラバラに分離していてもいい感覚,思考,知覚,意思の主体がすべて同一であるように感じられるということがある.これは人生が一つのプロジェクトであって,単一主体がそれを運営しているのだと感じさせる.さらに他人の心も同じようになっているのではないかという推測を経て,この社会の相互作用を目的と意思を持つエージェントによるものだと知覚できるようになる.これらはいずれも社会生活に役立っただろう.これらは「内なる目」におけるハンフリーの初期の主張を含んでいるがより拡張されたものだといえるだろう.
最後の第3部では,さらに大胆な主張がなされている.確かに意識は自分自身の存在を認識させてそれを大切にする動機を与える.しかしそれは自らの「死」を認識させ,「どうせ死ぬなら生きる意味がどこにあるのか」と考えさせ,逆に意欲を削ぐことになるかもしれない.であれば意識は自然淘汰をどう生き延びたのか.ハンフリーは「未来を割り引いて現在を大切に考える」「子孫や世界の幸福を考える」などの方策もあるが,それだけでは足りないだろうと議論する.そして「魂の不滅」を感じられるような意識が自然淘汰により進化したのではないかと主張している.このあたりはいかにもハンフリーらしい独創的な考察で,一気に飛びつく気にはならないが,なかなか筋は通っており,読んでいて大変おもしろいところだ.
最後に動物の意識(ヒトと同じ水準ではないだろうが,一部の哺乳類や鳥類に何らかの段階のものがあるだろう),宗教との関連(不滅な魂は,有神宗教に大きく先立つだろう),意識ない異星生物が高度文明を持つ可能性(好奇心にかかる自然科学は難しいのではないか)などが述べられて本書は終わっている.
本書は意欲的で,一部哲学的な議論に踏み込んでいて,これまでの著作とは異なり,哲学者や詩人の引用も多い.そのあたりには好き嫌いがあるかもしれない.しかし全編に渡って練りに練った独創的な考えが述べられており,いかにもハンフリーという一冊に仕上がっている.まさに「進化と哲学」選書にふさわしい読んでいて啓発されることの多い書物だ.
関連書籍
原書
意識についての前著.これは2004年にハーバードで行った講演内容を一冊の本にまとめたもの.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070111
同原書
ハンフリーによる意識についての最初の本.
同原書