「裏山の奇人」

裏山の奇人: 野にたゆたう博物学 (フィールドの生物学)

裏山の奇人: 野にたゆたう博物学 (フィールドの生物学)


本書は若手研究者の研究物語のクリーンヒットを飛ばし続けている東海大学出版部*1の「フィールドの生物学」シリーズの一冊.今回はアリヅカコオロギなど好蟻性昆虫の研究者,小松貴によるものだ.何しろ本のタイトルに自ら「奇人」をつけ,近代日本三大奇人の南方熊楠にあこがれ,自ら4人目になりたいと書いているほどであり,全編を通じてその独創性あふれる生き様がほとばしるように描かれている.


本書の記述は著者が幼年期から虫好きの奇人であったというところから始まる.それは2歳の時の記憶から書き始められている.著者は2歳にして庭にある石をひっくり返してアリを観察し,アリヅカコオロギを発見し(図鑑の記載からそれをアリヅカコオロギだと正しく認識し),さらに採集が難しいといわれるそのアリヅカコオロギの簡単な捕獲法まで編み出すのだ.幼稚園,小学校とすすみ,当然ながら著者は極めつけの昆虫少年になる.ここでは少年時代の様々な昆虫の思い出が語られている.スズメバチに餌を手渡して手懐け,さらにコウモリにも餌付けをするエピソードは印象深い.


昆虫の研究者になることを志した著者は信州大学の理学部に進む.ここでは学生時代に入り浸った裏山の生物相が詳しく語られている.
キバをぶつけあってオスオス闘争をするアリに擬態したアリグモ*2,キタクロミノガの羽化,ジョナスキタシバを捕らえたものの樹幹の巣に入らずに落としてしまうニトベギングチ(ギングチバチの一種),ケラを狩るクロケラトリ(アナバチの一種),闇夜に舞うオオツノトンボなどの観察は細かい.昆虫以外では様々な夜行性の哺乳類を見つけ,声は聞こえども姿の見えないシュレーゲルアオガエル*3を見事にキャッチする.アリの様子の異変から新種のノミバエを発見した経緯について自慢げに書いているのはほほえましいし,カラスの群に近づくことに成功すると今度はヒッチコックの映画にあるように襲われたくなり,モビングを誘発しようとする話は確かに奇人を名乗るにふさわしい.そのなかでもベッコウバチは人を襲わないと信じてちょっかいを出してオオモンクロベッコウに刺されてしまう話はいかにも図鑑大好き少年の陥る罠そのもので楽しい.
学部4年になり著者は研究テーマをアリヅカコオロギに定め,当時科博にいた師匠丸山宗利に出会い,データを集め始める.そこでDNAから導かれる系統樹とそれまでの形態による分類が一部食い違うこと,アリとのつきあい方(寄生の態様)にスペシャリストの種とジェネラリストの種があり,系統は入り組んで,形質に収斂が見られることを見つける.よくある話といえばよくある話だが,実験の詳細,思いがけない結果など生き生きと描かれていて,最初のリサーチを語る著者の熱意が伝わる部分だ.なおこの部分の最後で著者は「蟻塚をほじくって何の役に立つのか」というテーマを扱っている.日頃よく批判がましくぶつけられる質問なのだろう.ここの語りは熱い.


次は東南アジアの調査記になる.修士課程に進んだ著者は師匠に誘われてマレーシアのジャングルでの調査に同行する.最初はアリに徹底的に刺される話で読者を引きつけておいて,ウスバカゲロウに寄生するハチとの一期一会の観察,スカラベ(糞転がし)の観察で天気予報ができるようになったこと*4,宝探しのようなツノゼミ探しなどの楽しい話を書き連ねている.最後には東南アジアでデング熱に感染し,帰国後発症した顛末が語られている.今回有名になったのでもうそんなこともないだろうが,著者は長野の某病院で「自分はデング熱にかかったに違いない」と主張したが信じてもらえず,不適切な投薬のためにあわやという目にあうのだ.


著者は博士課程に進み,またも師匠から誘われて今度は南米エクアドルに旅立つ.グンタイアリ,グンタイアリと共生する好蟻性昆虫,モルフォチョウ,多様なツノゼミとの出会いが楽しそうに描かれる.なお南米には著者の専門のアリヅカコオロギは分布しないそうだ.著者は南米ではそのニッチを好蟻性のゴキブリに占められているためではないかと推測している.帰国後著者は博士論文*5を仕上げ,いよいよ研究者として一本立ちする.


ここからはポスドク苦闘編になる.あわや無職かという危機をかろうじて逃れて著者は同じ信州大学ポスドクとなる.採用されたプロジェクトは「熱帯の植物とアリの共生関係」に関するもので,まずその関連のトピックとして東南アジアのオオバギとカスミカメムシの共生関係とその種分化が紹介されている.そして著者は片方で裏山に通い続ける.そしてケカゲロウの発見,採集,幼虫期の生態確認に成功する.これは本当にうれしかったのだろう.経緯が生き生きと描かれている.そのほかアラカワアリヤドリバチ,イバリアリ,アブラムシに寄生するハラビロクロバチ,コケガの幼虫がアリの守るカイガラムシの甘露を盗み飲むこと,珍種ミヤマアミイロケアリなどの観察が描かれている.
そして師匠と一緒に「アリの巣生き物図鑑」の製作に関わったこと,小笠原に遠征して,周到な準備の元にわずかしか観察例のないオガサワラヒゲブトアリヅカムシの採集に成功したこと,なんとしてもフサヒゲサシガメを見つけてみせるという決意が述べられている.


本書の最後はあこがれの好蟻性昆虫メバエ科のスティロガステルの写真撮影をめぐる物語だ.著者は最初のエクアドル調査でグンタイアリの群近くにハエがいるのに気づいたが,それが好蟻性のメバエであることを帰国後知らされ,そのなかのスティロガステルの姿にあこがれ*6,撮影したくてたまらなくなる.そして次にめぐってきたペルーの調査では後わずかのところで果たせず,「このままハエにも会えず,定職にもつけずに朽ちていくのか」と落ち込み果てる.しかし幸運にも再度のペルー行きが実現し*7,紆余曲折,艱難辛苦の末にこの美しいハエ*8の撮影に成功するのだ.ここは著者の思い入れたっぷりかつ劇的に書かれていて本書の白眉といえるだろう.そして熊楠になりたいという希望を述べて本書は終わっている.


本書は,研究物語が20%,楽しい昆虫話が50%,そして奇人伝が30%という内容で,ちょっとしたオタク風味と爽快な貧乏話が味を添えているという構成だが,そのどの部分も面白い.それは著者の昆虫の謎を解きたいという純粋な熱意がすべてを包み込んでいるからだろう.今後の著者の研究人生の充実を願って推薦の言葉としたい.


関連書籍


師匠とともに仕上げた一冊.写真撮影に大きく貢献したようだ.

アリの巣の生きもの図鑑

アリの巣の生きもの図鑑

*1:東海大学の改組により2014年4月から旧来の「東海大学出版会」から「東海大学出版部」に名称変更されたようだ.

*2:なお著者は観察した2頭のクモにメタトロンとサンダルホンと名付けている.

*3:いったん近くにより,警戒したカエルが鳴くのをやめたら,その場で足踏みしつつ足音を弱くしていく.カエルが人が行ってしまったと思いこんで再び鳴き始めたところで,カエルのいる穴を見定めて手を突っ込んで捕らえるのだそうだ.確かに春先にシュレーゲルアオガエルの声はよく聞くが,その姿を見ることはきわめて難しい.私は遠くから双眼鏡で随分探したものだが見つけたことがない.足音でだますのか!

*4:スカラベが木に登ると大雨が降るのだそうだ.おそらく気圧を感知するのだろう.なお著者は「私はアイドルなので排泄などという汚らわしい行為を一切行わないのだが,ジャングルではなぜか都合よく人糞に遭遇する」と書いていて笑わせてくれる.

*5:論文執筆のつらさ,その中での癒しは「18歳未満お断りのジャンルのゲームに登場する二次元美少女たち」だったこと,論文謝辞に二次元美少女名を加えたところ指導教官からやんわり指導されたこと,それでもあきらめきれずに印刷に回すときにその一部に「向坂環」を混ぜたことが書かれている.謝辞にゲームキャラクターの名があることを見破った指導教官の慧眼には感服するしかない

*6:思いっきり擬人化された美少女アニメ風イラスト「堕天の精霊スティロガステル」なる挿し絵になっている.この装丁の科学書としては衝撃的な図だ

*7:渡航費用の捻出にも苦労する話が書かれている.最後は師匠によるネットを使った寄付のお願いで集めることができたようだ

*8:口絵に見事なカラー写真が添えられている.ハエなのだが,確かに美しい.特にこの著者の熱意と苦労を読んだ後ではそういう印象だ.