Language, Cognition, and Human Nature 第5論文 「自然言語と自然淘汰」 その2

Language, Cognition, and Human Nature: Selected Articles

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ピンカーとブルーム*1による言語が適応産物であることを論じる革命的な論文は次のような導入から始まる.

1. 導入

ピンカーは進化生物学に親しんだものなら当然「言語は自然淘汰による適応産物である」と考えるであろう様々な論拠を並べることから始めている.

  • すべての人類社会は言語を持つし,知られている限り過去においてもそうだ.言語は,農業や文字のようにあるグループが発明し,他のグループに広がったものではない.
  • すべての言語は複雑な計算システムで,同じような基本的なルールと表現を用い,(その複雑性と)技術進展との間には注目に値するような相関は知られていない.産業社会の言語が狩猟採集社会の言語より複雑ということはないし,現代英語が古代英語より進んでいるわけでもない.
  • 社会の中で,個人個人は,その知性,社会的地位,教育程度にかかわらず,みな言語の堪能な使い手だ.子供は正式な教練なしに3歳で複雑な文法を使いこなす.子供は聞いている言葉よりシステマティックな言語を創り出すことができ,周りにエビデンスがない場合でも微妙な文法原則に従う.
  • 病気や事故により,知性が障害を受けても言語堪能なままであることもあれば,知性はそのままで言語が不自由になる場合もある.
  • ある種の言語障害は遺伝的に伝達される.
  • 言語のいくつかの様相は特定の脳領域と結びつきがある.
  • ヒトの声道は発声要求にあわせられていて,呼吸や飲み込みなどの別の機能との間での(デザインの)妥協が見られる.
  • ヒトの聴覚能力には会話音声を言語セグメントにデコードするための特殊化が見られる.


ピンカーは,これらの事実から見ると言語能力は,文字や車輪というよりは,コウモリにおけるエコロケーション能力や霊長類の立体視覚と同じようであり,文化的考察よりも生物学の考察対象であることを示唆しているとする.

  • すべての言語研究者は,少なくとも言語のいくつかの様相は種特異性のある生物学的な能力だと認めている.もちろん何がそれに該当するかについては対立しているが.
  • チョムスキーやフォーダーたちによる重要な主張によると,(ヒトの)心は自律的計算モジュール(心的能力あるいは「器官」)によって構成されており,言語の獲得や表出はそれらの特殊化したモジュールによるものだとしている.
  • であれば,「言語能力はダーウィン的な自然淘汰の産物だ」という考えに,みな同意するのが自然に思える.


ピンカーはここで現在の言語学者認知科学者の間ではそうなっていないことを説明している.

  • 驚くべきことにこの結論は係争の的になっている.
  • 世界で最も著名な言語学者の一人であるノーム・チョムスキーとやはり世界で最も著名な進化理論家の一人であるスティーヴン・ジェイ・グールドは,「言語は自然淘汰産物ではなく,脳の増大とまだよくわかっていない構造と成長の法則による副産物かもしれない」と繰り返し主張している.
  • 最近マッシモ・ピアテリ=パルマリーニはこれらの主張の特別に強いバージョンを定式化して発表しているし.プレマックやメラーも似たような見解を公表している.


ここからピンカーは本論文の狙いを明らかにする.

  • われわれはこれらの主張を詳細に吟味し,別の結論を主張する.言語は自然淘汰産物だと考えるべき十分な理由があるのだ.
  • ある意味これは全くもって退屈な試みだ.要するに言語もほかのよくある適応産物と同じだと主張するだけなのだから.
  • そしてわれわれの結論は極端な環境主義をとる言語学者以外の人には容易に受け入れられると考えられるかもしれない.
  • しかし片方でチョムスキーとグールドという二人の重要な学者が繰り返し逆の考え方を表明している以上,彼等の意見は無視できない.実際彼等の議論は多くの認知科学者にも強い影響を与えていて,反淘汰的な考え方が多くのサークルでコンセンサスになっているのだ.


ここからがちょっと面白い.ピンカーはチョムスキーを引用して,彼等の考え方が主流の進化生物学者の間では到底受け入れられないような異端であることをほのめかしているのだ.

  • われわれの結論が正しいかどうかには多くがかかっている.われわれは,「言語が自然淘汰では説明できない」という彼等の主張を知れば,多くの生物学者は驚愕するのではないかと疑っている.実際にチョムスキーは以下のように書いている.
  • 生物学者にとっては言語能力は難問になる.それは真の「創発」現象(生物の複雑性の特定の段階で現れる質的に異なった現象)の例だからだ.
  • この(生得的心的能力の)発達を「自然淘汰」に帰するのは,それが中身が何もない主張,単に何らかの自然主義的説明があるはずだという信念の表明に過ぎないのであれば,問題ないだろう.
  • 進化理論は多くのことを説明できる.しかしそれは言語の進化の問題についてはほとんど役に立たない.答えは自然淘汰理論というよりむしろ分子生物学,つまり究極的には物理法則に理由を求め,どのような物理システムがどのような条件で生物の発達を可能にするのかという試みの中にあるだろう.
  • 生物の特殊な特徴がランダムな突然変異と淘汰的コントロールのみで生じると信じるのは非常に難しいと思える.100年後の生物学は,現在アミノ酸の進化について扱っている方法(つまり複雑な構造を実現できる物理的なシステムは非常に限定されているということを前提とする方法)を生物進化に当てはめていると想像することができる.・・・
  • 進化理論は種分化についてはほとんど何も説明できないだろう,そしてどんなイノベーションについてもそうだろう.それは既にあるものが異なる配分になることを説明することはできるが,質的に新しいものの登場についてはほとんど説明できないのだ.
  • もし言語学研究の発見が生物学者にこのような結論を受け入れさせるなら,それは大ニュースになるはずだ.


チョムスキーほどの知の巨人であっても専門外のことに根拠もなく口出しするとこれほどむごいことになりうるというのは(このケースについてはある程度知ってはいたが)やはり驚愕だ.至近要因と究極要因の違いもわかっていないし,最後の2段落は特にひどい.これはドーキンスがいうところの(特殊創造論者への揶揄してよく使う)「自らの想像力欠如を根拠とする反論」そのものだ.


ピンカーはさらにこの論文が言語学研究へも貢献できることを述べている.

  • 反淘汰論者の理論を精査するもう一つの理由がある.
  • もし現在の言語学理論が進化の総合説と相容れないのであれば,非難すべきは進化理論ではなくて言語学理論であるかもしれないのだ.実際にそのような主張を行うもの(ベイツ,タール,マーチマン(1989),グリーンフィールド(1987),リーバーマン1984,1989)など)も実際にいる.これらの批判論者は,しかしながら,生得的生成文法自然淘汰で説明できることを疑う点でチョムスキーたちと奇妙な同床関係にある.
  • われわれは進化の総合説と生成文法理論の両方に深く感銘を受けており,どちらかを選ばなければならないという状況に陥らないことを切に望んでいるのだ.


やはり当時のチョムスキーの権威とグールドの人気(そして進化生物学以外の学者サークルでの権威)は若手研究者にとって大変なプレッシャーであったことがわかる.ある程度進化生物学を勉強してみれば,当時の言語についてのグールドの言い分はめちゃくちゃで,生成文法創始者として深く尊敬もしていたチョムスキーが(おそらくその受け売りで)でたらめな生物学理解に陥っているのは本当に愕然とするほど残念な状況であったのだろうと思われる.
論文はこの後進化生物学理論を説明し,言語能力が淘汰産物テストに合格することを確かめ,反淘汰的主張を吟味し,それに反駁するという構成を採る.

*1:なお今後本論文の著者については単にピンカーとして表記することにしたい