協力する種 その13

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

第4章 ヒトの協力の社会生物学 その1


第4章は理論編ということになる.冒頭ではまた著者たちによるドーキンスダーウィンの思わせぶりな引用が並べられている.*1

シカゴの成功したギャングのように,我々の遺伝子は極めて競争的な世界を勝ち抜いてきた.・・・成功した遺伝子の持つ顕著な性質とは,無慈悲な利己性であると私は主張する.通常,この利己性の遺伝子によって利己的な行動が引き起こされる.
ドーキンス利己的な遺伝子

利己的で争い好きな人が団結することはない.そして人々の団結なくして何事も達成され得ない.勇敢で,思いやりがあり,誠実な人々.危機が生じたときには互いに警告して助け合い,守ろうとする人々.そうした成員をより多く抱える部族は,勢力を拡大し,他の部族との争いに勝ち抜くことができただろう.こうして社会的で道徳的な性質は,ゆっくり発展して世界中に広がっていったことだろう.
ダーウィン「人間の由来」


そして著者たちはこう宣言する.

人間は協力的な存在である.だが我々の遺伝子は,ドーキンスのシカゴのギャングと同様に利己的である.利己的な遺伝子が利他的な人々を生みだすことなどあり得るだろうか.あると,我々は考える.


これではまるで,ドーキンスが人間は利己的だといっているが,しかし賢明なダーウィンと著者たちはそうではないと考えているのだといわんばかりだ.しかし冒頭のドーキンスの文章は実はこう続いている.

しかし,いずれ述べるように,遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の利他主義を助長することによって,最もよく自分自身(遺伝子)の利己的な目標を達成できるような特別な状況も存在するのである.

要するにドーキンスのこの本はまさに本書と同じように生物個体の利他的な性質がどのように進化しうるのかを扱った本なのだ.ギンタスが「利己的な遺伝子」を「人間は利己的な存在だ」ということを主張した本だと誤解していることは以前から明らかだったが,このような引用をしておきながら,直後の文章も読んでいない振りをするとはいかがなものだろうか.まさに悪質な「印象操作」というべきだろう.


さて,本書の主張に戻ろう.本章のポイントはまさにドーキンスの本のテーマと同じであり,いかに利己的な遺伝子(進化的なロジック)から利他的な個体行動を説明できるかということになる.
著者たちは卓越した入門書としてデュガトキンの「The Altruism Equation: Seven Scientists Search for the Origins of Goodness」をあげている.この本は(私自身は未読だが)ダーウィン,ハクスレー,ホールデン,ハミルトン,クロポトキン,アリー,プライスの物語を通じて利他的行動の進化の謎の探求を示したものだ.書評などを眺めると物語性の強い読み物のようだ.本来ならここには「利己的遺伝子」を持ってくるのがふさわしいところだ.(なぜだかわからない歪んだ偏見のために)ドーキンスは絶対に持って来たくないということなのだろう.

The Altruism Equation: Seven Scientists Search for the Origins of Goodness

The Altruism Equation: Seven Scientists Search for the Origins of Goodness


著者たちは利他性進化の研究史をこうまとめている.

  • この探求史の中で筆頭にあげられるべきなのはハミルトンの1964年の論文だ.包括適応度のアイデアそのものはハミルトンのオリジナルではないが,この論文により適用範囲は大きく拡大された.
  • E. O. ウィルソンは「昆虫の社会」(1971)「社会生物学」(1975)の2冊の本を通じて社会構造の重要性に着目し,新しい生物学的アプローチを見いだした.
  • プライスは1970年にマルチレベルで働く淘汰圧を分析するための独創的な手法を考案し,新たな道を切り開いた.この手法はすぐにハミルトンによって取り入れられた.
  • 1971年:トリヴァースによる直接互恵性に関する論文.
  • 1973年:カヴァリ=スフォルツァとフェルドマンによる遺伝子と文化の共進化モデルの論文
  • 1973年:メイナード=スミスとプライスによる進化ゲーム理論の論文
  • 1981年:ハミルトンとアクセルロッドによる「協力の進化」論文.ここでトリヴァースのアイデアは進化ゲームの形で定式化され,包括適応度に依拠して展開された.

そしてこのように評価する.

  • これらのモデルは論理的数学的には皆首尾一貫しているが,実証的な妥当性(観察される人間の協調性を説明できるか,前提条件が人間の進化環境に存在したか)には差がある.この点からハミルトンの包括適応度を出発点にするのが良いと考える.


いろいろと微妙に引っかかるところだ.ハミルトンの1964論文の真の価値は,ホールデンの8人の従姉妹云々などの洞察(ホールデンはパブで議論しただけで,きちんと数理的に詰めて論文として発表したわけではない.これは包括適応度が発表された後になってメイナード=スミスが紹介した個人的記憶に基づく逸話にすぎず,ハミルトンの論文執筆当時にはもちろん知られていなかった.)を越えて,個体が何を最大化させようとしているのかを明示的に示し,そしてこの包括適応度の計算方法を提示し,さらに(ここが数理的には重要だが)この結論が当該遺伝子頻度の多寡にかかわらず成立することを示している点にある.包括適応度理論は明らかに独創的なハミルトンのオリジナルなアイデアなのだ.ホールデンの議論はそのごく一部のエッセンスに過ぎない(ホールデンの議論はその利他的な遺伝子が稀であるときにしか自明ではない),そして(本書の議論を追う観点から見て)さらに重要な論文は,それをより一般化し,血縁度について回帰係数を用いて再定義した1970年,1972年,1980年のものだろう.ドーキンスに続いてハミルトンについても矮小化されているようで義憤に堪えない.
E. O. ウィルソンは様々な進化理論を総説し世に知らしめたことが大きな業績で,特に何か新しいモデルを提示したわけではない.プライスの方程式は形質と適応度の共分散と進化速度の関係を示すもので,マルチレベルによる分析はハミルトンによるその応用(1975年)だ.またこの一連の流れの中に遺伝子と文化の共進化を持ってくるのも唐突だ.
とはいえ,個体の行動を分析するための出発点に包括適応度を持ってくるのは適切なところで,そこには私としても異存はない.


関連書籍


Nature's Oracle: The Life and Work of W.D.Hamilton

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社会生物学論争史」の執筆でも知られる科学史家セーゲルストローレによるハミルトンの伝記.ハミルトンの業績の意義について最もよくまとめられている一般向けの本でもある.メイナード=スミスによるホールデンのパブの逸話の紹介が引き起こした顛末についても詳しい.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130322

*1:なおこのダーウィンの文章は,ダーウィンが書き残した唯一のグループ淘汰的な記述であり,グループ淘汰が好きな人々が引用を好むことで知られているものだ.