書評 「心の進化を解明する」

心の進化を解明する――バクテリアからバッハへ

心の進化を解明する――バクテリアからバッハへ


ダニエル・デネットは進化生物学,認知科学に関する科学哲学者であり,これまで「解明される意識」ではデカルトの心身二元論などの「意識をほかの生理的現象とは異なる特別なものとして説明しようとする立場」を徹底的に否定し,「ダーウィンの危険な思想」でダーウィニズムを鮮やかに解説し,自然淘汰が心や意識を作ったのだという主張を行っている.このような考え方は「自由は進化する」「スウィート・ドリームズ」「思考の技法」などの著作でも展開されている.本書はこのような考察の集大成のような書物であり,いかに意識や理由を求める心がヒトに現れることになったのかについての考察が展開されているものだ.原題は「From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds」

第1部 私たちの世界を逆さまにする

 

第1章 序論

 
言語,文字,算術その他をはじめとする思考道具満載のヒトの心はどのように存在するようになったのか.デネットは「進化の産物である心が数々の思考道具を創り出し,それを用いて心がいかに進化したのか,心が何者であるのかを知るようになった」というのが答えであるが,その細部には衝撃的な含意がいくつかあり,自分は50年以上それを理解することに取り組み,ついに錯綜した藪や沼地を通り抜ける1つの道を見つけたのだという.本書はその道筋についての本になる,
 
序論ではいくつかのテーマが取り扱われている.

  • 進化はほぼ絶対にないものを増幅することに依存する過程であり,原核生物から真核生物などの革命的変化をも可能にする.
  • 人間の意識についての難問を解明しようとする試みには,強力な想像力妨害装置がいくつもある.「謎は神秘のままの方が美しい」という防衛的な態度,「動物にもヒトに似た心がある」と考えたがる態度などもその例だ.
  • デカルト的な心身二元論は,「その『心と体の相互作用』が物理法則に反せずに可能とする説明が不可能である」という問題にも関わらず,一般の間では根強い人気がある.その1つの理由は自由意思と責任はどうなってしまうのかという道徳的な懸念だ.
  • ヒトの意識の問題の解明に抗する大きな力の根源は「デカルトの重力」だ.それは探求者が唯物論に対して何か心安まらないものを感じ,別の科学的な方法を探し求めようとするときに,その者を自己中心的な内側からの視点に閉じ込めようとする力だ.そしてその力もまた進化の産物なのだ.

 
 

第2章 バクテリアとバッハの間に

 
デネットはまずこう問いかける.「歴史上の天才の名を挙げてみよう.すると(おそらくほとんどの人の挙げるリストの)その大半は男性になる,これはなぜか.」政治的抑圧?,性差別的な自己実現的予言?,メディアの偏向?,遺伝子? デネットの挙げる教訓は,「結論に先に飛びついてはいけない,しっかりリバース・エンジニアリングしよう」というものだ.(そして遺伝子より文化進化の方がはるかに影響が大きいという話につなげ,さらにこれからミームを持ち出すが,ミームを巡る議論の両陣営の言い分に簡単に飛びついてはいけないと警告を発している)
 
ここから生命の起源の話になる.これを説明するには様々なリバース・エンジニアリングの創意を凝らし,いくつもの建築ブロックに生じた半ダーウィン的な諸過程の解明が鍵になる.ここではグールドのスパンドレル批判の不当性にも触れながら,「進化はあなたより賢い」ことをよく考慮したリバース・エンジニアリングが重要であることを強調している.
 
 

第3章 理由の起源

 
ダーウィンはアリストテレスの「世界のすべてのものには目的(存在理由)がある」という学説を乗り越えた.これを踏まえた一部の進化生物学者や哲学者たちはすべての説明から目的論的な記述を排除しようとする.デネットはこれもデカルトの重力から生みだされた想像力を歪曲させる力*1だとし,根こそぎの禁欲主義には反対している*2.デネットはむしろ生命圏にはデザイン,目的,理由がくまなく存在しているとはっきり主張すべきだという.自然淘汰はそれ自体が目的を持つ行為者であるわけではないが,「理由」を見いだしそれに追い従う過程なのだ.ここで「理由」と「規範性」を巡る深い哲学的な議論がなされたあと,規範性と関連する「理由評価」は「理由」よりあとに進化した形質であり,世界の中には「一定の実在的パターンが存在するための理由」と呼ぶにふさわしい実在的パターンがあって,自然はこれを発見するための思考道具を私たちに与えたのだと解説がある.
 
ここではさらに,(生命の起源以前に)化学的サイクルなどにより世界に有能な存続体が生じうること,そこでは非機能的なものが機能的なものによって押しのけられていく過程が生じること,そこにはおよそ自己複製するものならなぜ諸部分が現にあるのかの「理由」があり,それをリバース・エンジニアリングによって吟味できることが指摘される.これが「理由」の誕生であり,自然淘汰は自動化された「理由発見器」だということになる.そしてそこで創り出されるのは目的を目指しているがその目的について知っている必要のない存在だ.デネットはこのような理由表象者を持たない「理由」を「浮遊理由」と呼ぶ.シロアリはそのアリ塚がなぜそういう形をしているかについて知らないのだ.
 
 

第4章 二つの奇妙な推理の逆転

 
デネットはダーウィンとチューリングがリーズニングを逆転させたと指摘する.ダーウィンは「美しい機械を作るためには,それをどのようにして作るかを知っている必要は全くない」ことを明らかにし,チューリングは「美しい計算機械を作るためには算術が何であるのかを知っている必要は全くない」ことを明らかにした.
これらを受け入れられない人はたくさんいる.彼等は「理解力なき有能性」「知性なき創造的能力」という概念を心安まらぬものと感じるのだ.それは「理解力こそ有能性の源である」という信念と対立する.この懐疑には原因があるが(正当な)理由はない.
 
ここからデネットはダーウィンの逆転とチューリングの逆転の違いに触れる.その違いとはチューリングの「知性を欠く諸過程の多段連鎖のためのシステム」はインテリジェントデザイナーであるチューリングがデザインしたものだというところだ.これは心や意識を解明する際のギャップあるいは「スカイフック」になるのだろうか.デネットは,埋めるためのギャップはあるが,それは進化的に説明できるのだといい,それが本書のこれからの内容になると予告する.
 
ここでデネットは「存在論:ontology」(ある主体にとっての世界の外見的イメージ)に話を進め,自動制御エレベータープログラムの存在論を考えてみようと読者に促す.プログラムは様々な入力を受け付けるが,そこに「意識」を仮定する必要はない.プログラムのソースコードにはプログラマーが書き込んだコメントがあるのが普通だが,プログラム自体が「理由」を知っている必要はない.古き良き様式のAIはトップダウン方式で.それはデカルト的な理性主義的エキスパートを創り出そうとする試みであったが,そのために人間の心をデザインするという課題がいかに困難であるかを明らかにすることになった(その困難さに気づいたために,現代的なAIは,ビッグデータ,統計的パターン発見技法,ディープラーニングを用いるものに転換されている).
 
二つの逆転を一旦受け入れると,理解力とはすべてのデザインがそこから流れ出してくる神のごとき才能ではなく,理解力なき有能性を備えた諸々のシステムからの創発現象だということになる.
 
 

第5章 理解の進化

 
デネットは引き続き「存在論」を語る.そして生物がその存在論のデザイン的特徴の受益者であるが,その存在論を強い意味で「表象」していないということはありうるのだと強調する.
ソフトウェアのデバックが自動化できないのは,デバック作業はそのソフトウェアの目的に大きく依存しているからだ(言い換えると,その目的を十分に記述するのは最初からデバック済みのコードを書くのと同じ規模の作業になるからだ).では自然はいかにしてデザインをデバッグするのか.それは多くの変異を公開してテストし,敗者は調査もせずに捨て去るという浪費的な方法によっている.だから自然淘汰産物は解読不可能なほどもつれたスパゲッティ・コードに似たものであるのが普通になる.つまり母なる自然は「何も考えていない」のだ.
 
では理解力はいつから生じたのか.ほとんどの生物の有能性はそれを理解している必要がない.デネットは植物からイヌまでの様々な有能性を眺めてそれらに本質的な差が無いことを見る.ここで理解力なき有能性が成立するために重要なのは自然淘汰に未来の正確な予言を可能ならしめるような環境条件の安定性が存在することという指摘がなされ,さらに理解力を考察するためにチドリの偽傷行動を深く分析する(ここはかなり面白い).偽傷行動が適応的なのはそのシグナルが捕食者に意図せざる行動と解釈される場合に限る.捕食者がそれに感づくようになるなら,鳥には新たな淘汰圧(つまり理解力に向かっての淘汰圧)がかかるだろう.つまり理解力は有能性の源ではなく,(淘汰圧から生みだされる)ある種の有能性から構成されているものであり,それは漸進的に進化する.つまり意識あるいは理解力はあるかないかの不連続なものではなく連続的な状態をとるものであり,さしあたりうまくいく近似的解決法を提示するユーザーイリュージョンだということになる.
デネットはここでわかりやすいように連続する理解力を4つの段階に区切って説明してくれている.まず,固定されたデザインを持つダーウィン的生物,次に環境についてオペラント条件付けを行うスキナー的生物,さらに世界から情報を取り出し,仮説的行動を事前にテストできるポパー的生物.最後に抽象的および具体的な思考道具を使いこなすグレゴリー的生物*3が存在する.そして我々ヒトだけがグレゴリー的生物なのだ.そして第2部ではグレゴリー的生物の進化過程が詳しく検討されることになる.
 
 

第2部 進化からインテリジェントデザインへ

 
 

第6章 情報とは何か?

 
デネットはまずシャノンの情報理論を解説してから,進化過程における情報の重要性に議論を進める.進化において重要なのは適応にかかる意味論的情報になる.その重要性はシャノンの定義にある情報量とは一致しない.それを正確に定義することは難しい(というより恣意的でない方法で測定することはできない)が,デネットは「重要な差異を創り出す区別」であるのだと主張し,そしてさらに「その差異」は誰にとってのものかを常に問いかけることが重要だと指摘する.(ここではマイナスの価値を持つ情報,誤情報,意図的に提示される虚偽情報などについても詳しく議論されていて面白い)このような適応にかかる意味論的情報は,進化の中で,直接神経系やDNAにコードされることなく,語用論的含意として無精神的に収集される.
では日々我々の頭に流れ込んでくる価値があると思われない大量の意味論的情報があるのはなぜか.デネットはこれはバグではなく仕様と考えるべきだと示唆する.情報を取り扱う価値あるシステムは様々な種類のノイズに寄生されるリスクを持つが,平均して有益であればいいというわけだ.

ここからデネットは経済的情報(具体的には経済価値のある企業秘密)を例に持ち出して,この点を具体的に説明している.産業スパイがライバル企業のある技術的新製品の秘密を盗み出すには,優れた製品とはどういうものかを事前に知っているほど,持ち出すべきシャノン的情報量は少なくできる.防衛する企業が盗まれる可能性を予期していれば,識別できるが機能を持たない印を(盗用の証拠として)デザインに組み込むだろう.これが機能するのは盗みを働く企業がその印の意図に気づかない場合だけだ.このような行為者間の相互交渉に見られる戦略パターンは,情報量だけではなくどの情報がコピーされるかにも依存する.技術的製品のデザインはインテリジェントデザイナーによるデザインであり,特許を取るにはオリジナリティと有用性(つまり価値)があることを証明しなければならない.そしてオリジナリティは関連する当事者の有能性に依存する.そしてこれらの情報は通常コードなき伝達過程により複製されていく.
そして文化進化においても有能性を持つ当事者間での巨大な規模のコードなき伝達過程がみられる.残る問題は,人類はいかにしてこのように環境から意味論レベルの情報を抽出することに巧みになったのかというものになる.
 
 

第7章 ダーウィン空間:幕間として

 
ここでデネットは「幕間」として1つの思考技法を導入する.それは「ダーウィン空間」と名づけられている.ダーウィンが見いだした自然淘汰の過程はある種のアルゴリズムであり,条件が満たされればどのようなものについても自然淘汰は生じる.しかしこの自然淘汰が生じる過程はすべて全く同じではない.コピーの正確性,適応度地形のなめらかさ,偶然の要素の大きさ,ボトルネック(生殖細胞系列への絞り込み)の大きさ,生殖系列と体細胞系列の分化度,生物体全体の統合性などいくつもの可変的な条件があり得る.そしてそのような連続性のある条件を3つ選び出して3次元プロット*4したものが「ダーウィン空間」になる.
すると自然淘汰過程がこのダーウィン空間を動いていく様を思い浮かべることができる.つまり進化の過程そのものも進化しうるのだ.そしてこれは進化過程の脱ダーウィン化現象を理解する助けになる.
 
またこのダーウィン空間は文化進化に対しても描くことができる.デネットは宗教に関するダーウィン空間を描いてみせる(成長か繁殖か,内的な複雑性,遺伝的進化か文化進化かという軸になり,大気圏*5からフッター派のプロテスタント共同体までを表示している).さらにダーウィン過程による文化進化からインテリジェントデザインへのダーウィン空間も提示されている(シロアリのアリ塚からバッハやピカソによるデザインまでを提示している)
 
こうしてまさにバクテリアからバッハまでをダーウィン空間における軌跡としてみる準備が整う.ここからこの動きがいかにして生じたのか,ただヒトだけしかここに到達できなかった「壁」は何だったのかという問題を考えることになる.
 
 

第8章 多くの脳から作られている脳

 
トップダウン式のメリットは何か.それは動き回る生物にとって環境に素早く対処するための制御中枢としての有能性をもたらすものだ.つまり脳は有能性を発達させるのであり,それには有能性を獲得するため能力というメタ有能性も含まれる.
 
ここでデネットは脳とコンピュータの違いを明確にしている.自然淘汰による絶対的無知によるデザインはヒトの脳を創造できた.そのヒトの有能性がコンピュータをデザインし,コンピュータがヒトを超える有能性を持つAIを実現することは「原理的」には可能かもしれない.しかしすべてをトップダウンでデザインするという初期のAIの試みはこれを可能にするものではなかったようだとしている.実際にはコンピュータプログラマーたちはグレゴリー生物的に様々なツールを使いこなし,プログラム言語から機械語への階層を利用している.自然淘汰による脳は階層化された組織化を実装しているが,それらはコンパイラもコメントもない機械語のみによる仕組みになる.
 
 
デネットはここで巷間言われる脳とコンピュータの違いは本質的ではないという議論をおいている.

  • アナログとデジタルの違い:脳の動作原理は二進法ではないが,何らかの意味でデジタルであると判明する見込みは大いにある.
  • 並列と直列の違い:脳の視覚系などには確かに並列的な経路を利用している.しかし意識を含む最も驚異的な脳の活動は直列的なものが多い.そのような活動においては脳は並列的なアーキテクチャーの上で直列マシンをシミュレートしていると考えるべきである.
  • 炭素とシリコンの違い:これは本質的ではない.ナノテクノロジーの技術はタンパク質からコンピュータを作ることを可能にしつつある.
  • 生きているか生きていないかの違い:人工心臓は生きていないが見事に機能する.機能するためのエネルギー源が何かというのは本質的ではない.

ただし,最後の論点においてはディーコンによる重要な指摘がある.エネルギー源を議論から切り離すとそれは寄生的なシステムの考察しかできない.自律的に動くためのコストや構造を無視してしまうというのだ.これはニューロンの可塑性,様々なタイプのニューロンが存在し,全体として機能するという特徴に関連する.デネットはこのような特徴はボトムアップ式の競争の中の同盟というやり方で可能になるのだとする.
 
 
ここでデネットはニューロンに行為者性(エージェンシー)を付与する.ニューロンは利己的な準ロボットでありエネルギーやリソースを求めて競争し,それがネットワークの特性に影響を与える.つまり脳の構造はトップダウンデザインのコンピュータよりもシロアリのアリ塚に似ているのだ.
脳をうまく機能させるにはニューロンの一群を未来の課題に向けてより効果的なチームに組織するという形をとる必要がある.そして脳は利用可能な意味論的情報をベイズ階層予測コーディングにより選び出す.ベイズモデルは中枢装置なしで高性能の統計的分析機関を組み込むことを可能にする.
ベイズ的ネットワークは(ヒトを除く)動物の心を非常にうまく説明できる.彼等の脳はシロアリのアリ塚的で理由を持たない.ベイズ的予測者であるためには理由を表象する必要はないのだ.ではヒトはどのようにして理由を持つようになったのか.デネットの答えはそれは文化進化を通じてと言うもので次章以降で扱われる.
 
 
さらに本章の最後でデネットは魅力的なアイデアを一つ提示している.それは「野生のニューロン」だ.平均的なニューロンは同じ仕事をするために長い寿命を費やす従順な存在だ.しかし彼等は(スイッチを切られたままゲノムに残っている遺伝子による)ある種の潜在的な自律性を持っている.それは例えば侵略者が出現したような場合,より利己的で新しい神経連結に向けて動き出す可能性を与える.そしてその侵略者の一つの候補が「ミーム」になるのだ.
 
 

第9章 文化進化における語(words)の役割

 
デネットは語こそミームの最良の実例であり,言語こそ累積的文化を可能にするための文化要素だとする.デネットは言語進化のリサーチに関するいくつかのトピックを解説した後,語について詳しい考察をおいている.
デネットはタイプ/トークンという哲学的概念を解説し,まず公共的トークン以外に,私的で内的な語のトークンもまた存在するという事実を認め,その物理的性質についてはよくわかっていないこと,ほとんどの事例では個々の語をその語たらしめているのはその語のトークンではなくタイプであることを認める.
 
 
ここからチョムスキーの言語進化への反対論が言語学者たちに与えた影響を振り返りつつ,ジャッケンドフの進化論を踏まえた言語理論を紹介する,それは語を記憶構造であるとし,それは個々に獲得されなければならないという意味で自律的な構造だと主張する.デネットはそこから議論を進め,語はウィルスのような最少のエージェントであり,複製頻度を高めようとデザインされ,遺伝子と同じ意味で利己的だとする.
デネットはここから,乳幼児の語の獲得過程を眺め,意識の問題を注意深く避けながら,語を理解することは語の定義の獲得と同義ではないとする.語の獲得には意味論的音韻論的制約があり,さらに別の構文論的制約や歴史的偶然も作用する.幼児は擬似ダーウィン的な過程によって言語を獲得する.その際の最初期に獲得される語はある意味シナントロープ的な(準家畜的な)語である見込みが大きい.これは後に方法的選択(つまり真の人為淘汰,家畜化)に進み,トップダウン式のインテリジェントデザインへ向かう一歩になる.そして人々が理由を所有するようになると家畜化された言語がもたらされる.
デネットのそのような過程の例として「音素」の進化を挙げている.音素は言語のデジタル化の革新をなす仕組みであり,聴覚系の調整,デジタル化可能な可聴的ミームの淘汰を生じさせる.デネットは音素は単に信頼性の高い伝達を生みだすだけではなく,我々の有能性が生みだした(単純化されたくっきり目立つ特徴を感知させる)良性のユーザーイリュージョンでもあると主張している.
 
 

第10章 ミームの目からの視点

 
いよいよデネットはミームの議論に踏む込む.ミームとは(行動の)やり方(ways)であり,盗用あるいはコピーする価値のある意味論的情報になる.そして語は範列的(paradigmatic)なミームということになる.それは言語や文法に元来備わっている特徴ではなく取り替え可能な特徴で,言語共同体の中で拡散をほかの変異体との間で競い合う.それは明瞭で観測可能で,リサーチにおけるミームの最良の実例になる.そして語がひとたび文化的な革新と伝達における媒体になるとそれによって文化進化の過程そのものが変化し始めるのだ.
 
ここでなぜミームという用語が,人文・社会科学者にあれほど悪い評判を招いてしまったのかが考察されている.デネットは一部は不勉強な自称ミーム主義者が誇大な主張を行ってきたためであり,さらにもう一部は文化進化過程の理論研究家たちがドーキンスの過大評価を望まなかったためだろうが,最大の要因は自分たちの領域に生物学が侵攻をかけてきたと考え狼狽してしまった人文・社会科学者のアレルギー反応による的外れの批判キャンペーン(これに対するデネットの反論は次章でなされる)ではなかったかと考察し,ドーキンスがミームの例として語を取り上げておけば*6,後の人文・社会学者からの反発をいくらか予防できたのではないかと残念がっている.
 
ではミーム概念は文化進化のリサーチのどのような洞察をもたらしたのか.デネットは3つに整理している.

  • 理解力なき有能性が文化進化過程でも生じることを明瞭に示したこと
  • ミーム自体に適応度があるという理解を可能にしたこと
  • ミームが情報的な対象であることを示したこと

デネットはミーム以前の伝統的諸理論はこれらの理解を欠いており,様々な限界があったと説明している.例えばデュルケーム的機能主義は社会の仕組みの機能や目的を発見したが,それがいかにして生じたのかを説明できなかった.伝統的思考法は,文化的特徴の変化が誰にも意識されずに拡散しうること,情報が理解なしで脳にインストールされることを説明できなかった.理解力が有能性の源であるという信念を捨てられないのだ.さらに伝統的な見方は良質のものばかりに注目し,ジャンクを無視するという欠点も持っている.
 
伝統的な見方を行う人には,ミームがウィルスのようなものだという考え方に拒否感を持つ人が多い.ドーキンスは純然たる寄生ミームの存在可能性を強調したために大きな反発を受けることになった.例えばD. S. ウィルソンはすべてのミームが寄生的であるかのように印象操作し,だから宗教のように人々の利益になっているかも知れない現象をミームで解釈できるはずがないとミーム的視点をとることを拒否している.
デネットはここで,ほとんどのミームは相利共生的であり,我々の適応度を増進させる補助装具となっていることを強調する.しかしいったん相利共生的文化のための下部構造がデザインされると,それにつけ込む寄生的ミームがそれを悪用するリスクは生じる.それはちょうど有益な目的のために素晴らしくデザインされたインターネットにスパム,ポルノ,ネコの写真があふれるのと同じだ.そして「ライバルより多くの子孫を残そうとするよりももっと重要なことが人生にはある」というかなり優勢なアイデア自体,生物学的な適応度とは相容れないアイデアであり,そのようなアイデアが優勢であることが我々を他の動物とは大きく異なるものにしていることの明白な証拠になる.つまり我々は説得されることが可能であり,(浮遊理由ではない)私たちに表象された理由によって動かされることが可能なのだ.
 
では理由を表象できる能力はいかにして進化できたのか.ヒトの推論のリサーチが示しているのは,推論技能は世界を正しく認識するためではなく,他者を説得するために磨き上げられたものだということだ.デネットはこれはそれに先立つ言語使用の技能に依存しているはずであり,共進化的な過程が関与したはずだと考察する.
 
 

第11章 ミーム概念の難点:反論と答弁

 
第11章はお待ちかねのミーム批判キャンペーンへのデネットの反論だ.個別のテーマとしては本書で最も注目すべき部分だろう.
 
 

<ミームなど存在しない(存在を証明できない)という批判>
  • 非存在にかかる哲学的議論は常に滑りやすい.
  • これは色やホームランなどと同じイリュージョンだという主張はあり得る.しかし私はユーザーに適するように進化によりデザインされたユーザーイリュージョンも実在を切り取る一つのやり方であって,リアル・パターンの異なったバージョンだという立場(つまり「色は実際に存在する」と断固主張する立場)をとる.意識も自由意思も存在する.ただそれは一部の人々がこうだと思っているものではないというだけだ.
<ミームは「離散的かつ信頼性のある方法で伝達される」とされているが,文化的変化の多くはこれに当てはまらないという批判>
  • これはリチャーソンとボイドの立場だ.またスペルベルはミームは文化的伝達のごく一部を表しているに過ぎないという理由でミーム論を斥ける.
  • しかし語はまさに極めて離散的かつ信頼性のあるやり方で伝達される存在だ.私たちの累積的文化は語(というミーム)に依存している.
  • さらに語以外にも信頼性の高い自己複製子が存在する.調性音楽,物語のストーリー,ダンス,複式簿記,三角法など.これらの高レベルのミームは理解力に依存している.理解力の持つ解釈者は物理的変動に頑健な複製システムを作り出すことができる.(ここではコンピュータプログラムにおけるtypoとthinkoの違い,ダンスの家畜化など面白い議論がたくさんなされている)

 
 

<ミームは遺伝子と違って,遺伝子座を巡って対立遺伝子と競合しないという批判>
  • 語や音楽やその他のミーム族は「アルファベット式」の(デジタルな)体系を持ち,発音,同義語,ヒットバージョン,役割,整理箱のような「座」を争う.
  • ミームの適応の蓄積にはコピーの十分な信頼性が必要だが,書き言葉のような複製精度を上げる技術をよく考慮しなければならない.
  • いずれにしても遺伝子座における遺伝子間の競争というのはダーウィン空間次元のほんの1つに過ぎない.

 
 

<ミームは,我々が既に知っていることに何も付け足さないという批判>
  • この批判はミーム論は既知の結論の異なるフレームからの再解釈に過ぎない(つまり車輪の再発明に過ぎない)という意味だ.
  • これには幾ばくかの真実がある.ミーム学者は時に伝統的な文化理論の研究者にとっての既知の洞察を新たな洞察として提起してきた.とはいえ実際のところ,多くのミーム学者は伝統的研究者がミームなしでいくつかの仕事をしてきたことを喜んで認めるし,彼等によって収集された洞察を重要視し,それを自分たちのフレームで再解釈することを追求するだろう.
  • しかしミーム学は将来的にも純然たる進歩をもたらすはずだ.伝統的理論には優れたデザインを説明するのにヒトの理解力に頼るか説明を放棄するかのいずれかの道しかない.そこにはミーム学によって埋められるべきギャップが空いている.
  • またミーム学は新機軸の拡散を「脱心理化」するという点でも価値がある,アイデアは気づかれ,評価されなくとも広がりうるのだ.そして遺伝的適応と文化的適応は常に軌を一にするとする理論は,人々に不利益をもたらす文化的変異体が広がることを説明できない.ミーム概念への不信感を隠さないリチャーソンとボイドも,利己的ミームが堅牢であり得ることを認めている.

 
 

<ミーム学は予測力を持たないという批判>
  • ある意味これは真実だが,有効な批判にはなり得ない.遺伝的進化の理論もある生物種の未来予測をそれなりの確実性で行うことはできない.これは進化過程がノイズの増幅装置であることから来る必然だ.

 
 

<ミームが文化の様々な特徴を説明することはできないが,伝統的社会科学はできるという批判>
  • この批判はミーム概念の要点をとらえ損ねている.構造や器官の適応についても遺伝子により直接説明することはできない.それを行うには分子生物学,生理学,発生学その他のあらゆる生物学の専門分野が必要になる.同じようにミームがどのような文化的特徴を生むのかを説明するには心理学,人類学,政治学,経済学その他の学問分野を必要とするのだ.進化がすべての生物学の分野に意味を与えるように,ミーム学の枠組みはこれらの諸学問分野に意味を与えることができるだろう.
  • 本書全体における私の主張は,進化の視座とミームの視座が意識や意味という永遠の難問に思えた問題の多くを変形させるということだ.

 
 

<文化進化はラマルク主義的進化である(だからダーウィン主義のミーム学は当てはまらない)という批判>
  • これはミーム批判者には人気のある説明だ.そして背後にある混乱と自暴自棄的心情を垣間見せるものだ.
  • そしてこれはエピジェネティックな形質の発見がダーウィニズムを覆すものだと吹聴する人々がまき散らすデマと同じだ.一言でいってナンセンスだ.
  • 親によって獲得された形質が若い世代に植え付けられるということとダーウィン的自然淘汰が働くということは排他的な問題ではない.親が獲得した細菌やウィルスを子どもに感染させるという現象が自然淘汰に反するわけではないのだ.さらに彼等はミームにとって問題になる適応度は(宿主ではなく)ミームの適応度だということを忘れてしまっているのだろう.もしラマルク主義が問題になるなら,「ミームの獲得した形質がそのミームの子孫に伝わるのか」を問題にしなければならないはずだ.

 
 

<論争により浮かび上がってきたテーマ>
  • 争点はミームの定義の良し悪しではなく,ミームの視座が有効かどうかというところにある.他の視座からは思いもよらない問いを文化現象に関して提起できるかどうかが問題になる.(そしてそれはできるのだ)
  • ミーム学と伝統的説明が競合している点は,人々の理解力の位置づけだ.伝統的説明は,デザインの卓越性以外何の根拠がなくてもそれを唯一の要因として扱わざるを得ない.ミームはより広い競技場を提供できる.

 
 

第12章 言語の諸起源

 
ミームの累積が巨大にふくれあがるには言語による伝達が不可欠だ.言語は不在対象の差し示しを可能にする.これはデザイン空間における巨大な一歩になる.これは文化進化がダーウィン過程から脱ダーウィン化され,理解力の増大とともにインテリジェントデザインに向かう過程の重要な一段階だ.ここからデネットは言語の進化を考察する.ここも優れた総説として本書の中では読みどころだ.
 

  • 言語の進化を考察するには,まずそれが誰にとってどういう利益をもたらしたのかを考察しなければならない.初期の言語は宿主にとって負担であった可能性もあるのだ(一旦基本的なコピーシステムが成立すると,利己的なミームがそれをハイジャックすることが可能になる).そしてなぜほかの動物は言語を進化させなかったのかも説明できなければならない.

 

  • 最初のミームは語でなかったかもしれない.そして人類がそれを模倣しようとするようになったのはなぜなのかが問われる.
  • ミームからの視点は様々な二重継承モデルに有益な修正を加えることができる.ミームは脳に適応するために進化し,脳はそれに対して遺伝的ハードウェアを調整するという共進化過程が進行する.そして文化的ハイウェイが出現し,寄生体との軍拡競争を行いながら文化進化が進行する.しかしこのような文化進化が肥沃なものとなるためには環境可変性の閾値条件が存在する.
  • 別の閾値条件としては社会的知性や共同志向性*7が提唱されている.またこれに関連してニッチ構築の議論もなされてきた.(いくつかの議論が解説されている)
  • デレク・ビッカートンは「不在対象の指し示し」を重要視し,これは自然淘汰で到達する性質を越えて強力だとし,それを語と語が元で生じる神経科学的過程の共生的発明品であると説明する(これによるメリットはサバンナでの対決的腐肉食者にとってのもの*8だとしている).ビッカートンはミームに懐疑的だが,これはまさにミーム的な議論だ.
  • 言語がヒトのみにあるというのはこのような稀な一連の閾値条件の連鎖があったからなのだろう.

 

  • プロト言語が言語になる進化の道筋も議論や論争の余地が多い.
  • 最初に存在していたのはアラームコールのような信号かも知れない.あるいはジェスチャーなのかも知れない.聴覚的な性淘汰シグナルの軍拡競争があったのかもしれない.
  • ハーフォードはこれらの可能性について包括的な分析を行っている.彼の議論のいいところはそれが何のためにあるのかという問いを自覚していることだ.
  • 言語にはなぜ音素戦略と形態構文論という2つの構築体系があるのか.前者は音声制御,聞き取り,記憶という制約に対処するためにあり,後者はコミュニケーションの生産性のためにあるということになる.このような体系性と生産性への道において,聴覚的ミームにとっては自分と競争者をはっきり区別し,発音習慣を利用することがメリットになり,宿主にとっては記憶と発音における負担を最小限にすることがメリットになる.
  • これによりヒトの言語は音声に関する優れた組み立てブロックを得ることができ,音韻論と意味論が辞書に組み込まれたのだろう.
  • では文法はどのようにできあがったのか.いかなる言語にも主題とコメントの区別はあるが,それ以外の必須項目や必須語順はない.そして言語の複雑性は小集団言語の方が高い.(言語にとっての単純性,効率性への淘汰圧が小さいために)小集団では豊富な新奇性が生まれやすい.それは宿主にとってはメリットでもデメリットでもありうる.大規模集団や異なる言語話者間の接触が多い世界では言語は単純化,強力化,洗練に向かう.ここにはインテリジェントデザインに向かう脱ダーウィン化の過程が現れている.
  • このような有能性はどのように脳内に根付いたのか.大部分は不明なままだが,語や文のような言語的対象,世界にある対象,その関係というアフォーダンスの結合による「概念」の誕生が重要だったのかも知れない.それが所有や,同一性や相違性などの認識を可能にする.

 

  • 文法や形態論(語形論)が有能だが理解力を欠く過程で獲得されることはあり得る(実際にネイティブ言語はそのように獲得されている).それを可能にするのはある種のディープラーニングか遺伝的生得性だ.この二要因をつなぐスペクトルのどこに真理が存在するかについて激しい論争がなされている.
  • 主に学習によるというのは機械学習モデル支持者と様々な言語的要素に見られる漸進性に行き当たった言語学者だ.
  • 生得的言語獲得装置(LAD)主義者は「刺激の不足」論証をよりどころにする.LADは方向付けられた試行錯誤による言語獲得をうまく説明できる「クレーン」だと思われた.
  • ところが「刺激の不足」論証を主導したチョムスキーは自然淘汰によるLADデザインに頑なに反対した.これによりチョムスキーのLAD仮説は「スカイフック」になりはててしまった.
  • チョムスキーは後に自己の立場を修正し,ミニマリストプログラムを擁護するようになった.彼の議論は併合(merge)を扱う認知的才能だけで言語獲得が説明できるというものになる.
  • ピンカーとジャッケンドフは力強く反論した.彼等はかつてのチョムスキーの体系を併合で乗り換えられるという主張は虚偽(あるいは空疎)であるとする.逆に併合動作は文法の初期の形態であり,後の文法ミームの祖先だと見なせるし,併合そのものが大躍進でも跳躍でもなく(自然淘汰による進化によればそうであろう)漸進的に発展してきたものと推測できる(つまり併合を扱う認知能力の起源についてもチョムスキーのようなスカイフック的な説明をする必要がない).

 

  • 理論言語学の議論は厳密な「必要十分条件」や「判別基準」のようなテーマに満ちている.これは言語学者が本質主義的誘惑に惹かれてきたことを示すものだ.しかし言語はそのような厳密な区別がつくようなものではない.むしろミームの個体群ととらえるべきだ.
  • 子どもの言語獲得は明示的な規則というよりも「話すためのやり方」の奥深くに組み込まれているパターンの獲得と考えるべきだ.プロト言語が成功し,それへの応答として文化遺伝的な進化が進み,その集成として「話すためのやり方」ができあがったのだ.ヒトはこの素晴らしくデザインされたシステムの無自覚な受益者なのであり,理解力なしの有能性のまた別の事例である.
  • そして言語の到来によってさらなる偉大な契機,つまり理解力の起源の舞台が整うのだ.

  
 

第13章 文化進化の進化

 
デネットはいよいよ理解力の起源,インテリジェントデザインのクレーン的説明を始める.ここは難解だ.
 

  • ミームのポピュレーション爆発の前段階としてヒトに模倣やコピーへの行動傾向がなければならない.この適応的意義についてはいくつかの仮説がある.
  • 人類がミームに感染するようになった当初から,相利共生体,片利共生体,寄生体などの様々なミームが存在しただろう.
  • そのなかでより相利的なミームを多く複製し,有害なミームを押さえ込もうとする文化的遺伝的研究開発が進んでいっただろう.例えば晩成性は親に依存する期間を伸ばし,面と向かって話をする時間を増大させ,さらにトマセロのいう視線検出,注意の共有を生み,言語獲得過程を効率化しただろう.
  • 草創期のミームの宿主にとって,それはどんな感じのことであっただろうか.ある最少限度で語について気づいてはいただろうが,自分が気づいていることに気づくということはなかっただろう.しかしミームが広まるためにはヒトの知覚的反応が必要であり,それは豊富なアフォーダンスを持って存在していただろう.そしてミームは我々の存在論の中に確かな居場所を持つようになっただろう.

 

  • 理解力なき有能性は動物と同じく人間生活にも至るところに見られるが,我々はこの可能性を見逃し,ヒトの行動を理由の自覚的評価に帰属させ,志向姿勢を用いる傾向がある.
  • (ここでグライスの語の非自然的意味の必要条件の分析,それに対するミリカンやアズーニの批判についての解説がある)アズーニが指摘するようにほとんどの日常的なコミュニケーションは(相手の意図を読もうとする志向姿勢を駆使した)グライス的なコミュニケーションには全く似ていない.それは日常言語はグライス的なコミュニケーションに起源を持つかも知れないが,それ以降大きく変化を遂げているからだ.
  • グライスは浮遊理由の発見のためにリバースエンジニアリングを行い,その説明のための方便として(行為者に理解力があることを前提にする)志向姿勢という用語にたどりついたと考えるべきなのだ.日常言語を使用するにあたって,そのオプショナル機能(操作,欺瞞など)の理由をすべて理解している必要はない*9
  • 祖先たちは語を用いた活動を行いながら,自分たちが何をやっているのかの自覚がなかったということはありうるということになる.自覚が到来するのは,ミームの無意識的淘汰から家畜化された方法的淘汰への切替を果たしたあとだ.

 

  • 言語の発話と理解を行うために,発話された音声分析のためにより多くの注意を払うようになり,自己監視,反省,新たな思考しうる対象としての語のその外見的イメージの中への創発が生じるようになったのだろう.この創発はデザイン空間のトップダウン式の探索の開始を可能にした.例えば「明示的な自問」は有効だっただろう.さらにそれは熟考した内容を記憶しやすいものに変え,振り返り可能にするというメリットをもたらす.その語の研究開発はより一層トップダウン式になるだろう.(ここではまだ意識の問題は先送りにしているという注意書きが置かれている)
  • 理解力はどのように生まれたのか.遺伝的に受け継がれた基礎的なアフォーダンスがあり,それは脳のベイズ学習により環境内のパターンを強調するように増強される.これが有能性を提供する.これらの有能性の中には(道具を使うカラスなどの)ある種の理解力の印であると受け取るのが自然なものが含まれる.そう受け取るのは様々な状況への対応の適応性のためであり,理解の働きは行動の領域にあるのだ.すると理解力とは理論知ではなく有能性から生まれる実践的なノウハウだということになる.
  • ではヒトの理解力はそこに何が付け加えられたものなのか.単にノウハウをコミュニケートする能力ではない.検討中のどんな話題についてもそれを吟味し,分析し,ストックしておく能力だ.これは思考を語,図表,その他の道具を通じて明示的に表象する能力によって成り立っている.そしてそれはメタ表象に及ぶ.何重にも重ねられたメタ表層はヒトの累積的文化の爆発(デネットはマクレディ爆発と呼んでいる)の引き金を引いた.

 

  • 言語はソフトウェアに似ている.言語を獲得することは,プラットフォームに依存しないJavaアプレットの実行環境を実現させたJVM(Java virtual machine)と同じように,誰の脳にも同じアイデアを取り扱うことができる(例えば)EVM(English virtual machine)を話者の脳にインストールしたのと同じなのだ.ミームはJavaアプレットと同じようにEVMの上で競争し,記憶されやすい勝利者のみが生き残っていく.そしてこれはさらに,指示を聞き,理解し,それに従うための認知的な技術(書き言葉,算術,貨幣,暦など)の基礎になる.
  • 書き言葉や算術の発明はなお浮遊理由に基づくダーウィン的な過程によるものだった.それは誰か1人の手になるデザインではなく,後代の受益者たちにリバースエンジニアリングされ,理由を説明されたに過ぎない.
  • 文化進化の理論モデルはしばしば経済学的モデルを基調にしている.これは感染力の強いがらくたの分析には向かないが,人間文化の中の宝石とされる部分(音楽や美術など)をうまく説明できる.そこにはインテリジェントデザインの産物が豊富に含まれる.しかしその背後には無駄の多い探索による二級のデザインや失敗作が大量に存在する.つまり一見トップダウンの世界であっても,そこにはミームの競争が常にあり,理解力に幅のある宿主が存在し,理解力自体が淘汰にかかる.理解力を背景にした複雑な競争*10が主流になるにつれてダーウィン的なミーム進化は背景に退いていく.
  • このような競争において(宿主たる)我々は相手が理由を理解しているという仮定を前提にし,志向姿勢をとるようになる.これはミーム学の放棄ではない.むしろミームの侵略により,我々の心が変容させられたと理解すべきなのだ,

 
ここでデネットはピンカーによるミーム懐疑論に反論している.ピンカーは「文化進化には現実にデザイナーが存在している」ことを持ってミーム論に懐疑的なスタンスをとっている.デネットはピンカーが示した「機知」による創造の背景にも膨大でかつだらだらと続く変異の最終産物的な側面があることを指摘している.(ここでは「フランケンシュタイン博士の創造したショイクスピアが書き上げたスパムレットの作者は誰か」という思考実験があって面白い)

  • インテリジェントデザイナーの代表例にバッハを取り上げよう.バッハは大変博識な研究家で「神与」の音楽的有能性を勉学で補完し,素晴らしい作品を数多く残した.そして自らの音楽を著名にしようという生前の多大な努力にもかかわらず,彼の音楽的名声が確立するのは死後50年を過ぎてからだ.バッハに限らず「埋もれた名作」が復活する過程には,しばしば複数の特徴が見られるが,それらは作者の思慮深いデザイン,卓越性,琴線に触れる要素とはほとんど関わりがない.つまり文化における支配的なパターンを説明するためにはインテリジェントデザイナーの卓越性だけではなく,生き残りを巡る栄枯盛衰の過程を考察する必要があるのだ.
  • 一旦ミームが蓄積し,宿主への取り憑き方が効果的になってくると,ミームの進化的軍拡競争が始まる.そしてその競争は(嘘や脅しやハッタリ,訛りによるID検査のような)ヒトの争いのテクノロジーや対抗テクノロジーを伴い,テクノロジーの膨張が生じる.物々交換,情報交換,約束,警告のような成功事例が積み重なり,インテリジェントデザインなく文化的慣習や制度が生まれる.さらにその中での行動が洗練され,学習過程を加速するための新機軸(書き言葉,算術等)を生み,そしてついにインテリジェントデザインの時代に入る.競争するために理解が必要になったのだ.そこで優勢なのはインテリジェントデザインされたミームだが,そのようなミームもセミインテリジェントデザインや,進化によるデザインによる競争相手が渦巻く大海を泳いでいるのだ.

 
 

第3部 私たちの精神を裏返す

 
 

第14章 進化したユーザーイリュージョン

 
ここまで来てデネットは議論してきたピースをつなぎ合わせて理解力,意識の大問題に取りかかる.
 

  • 進化は生物にその生物のアフォーダンスに対して適切に反応できるようにする.これが理解力なき有能性だ.そしてそれらが当該生物にとって「どんな感じのものか」については完全に不可知論の態度をとり続けることができる.
  • 「ハイイログマにとってハイイログマであることは何らかの感じのことである(意識は人類だけにあるわけではない)」という主張は明白であるように見えるが,しかしそれは想像力の罠にはまっているのだ.それはそういうことを日々語っているからそれを知っていると言っているに過ぎない.原生生物から人類の進化過程のどこかで相転移が生じ意識が生まれると主張するならばそれを証明すべきだ.我々は理解力なき有能性を過小評価しがちだし,動物に志向姿勢を適用してしまいがちなのだ.

 

  • ではヒトの理解力が理解力なきニューロンの活動からいかに生まれるのか.ヒトに独特なのは自らの行動をあとから正当化することだ.それは頭が文化が生みだしたミームで埋め尽くされていく過程で獲得されたやり方であり,特に重要なのが自己非難,自己批判の習慣だ.我々は人生の諸問題にあらかじめ解決を与えるために事前に計画を練り,議論し,自省し,理由を吟味するという習慣を学ぶ.ヒトは自分の未来の行為をデザインするために思考道具を使うのだ.
  • このような思考は様々なバーチャルマシンの階層から作られている.そしてこの重層構造を利用するためにユーザーインターフェイスとしてのユーザーイリュージョンが実装される.これは自分の有能性にアクセスするためのものなのだ.
  • このような自分自身への制御システムへのアクセスが必要になるのは,他者との戦略的コミュニケーションが生じる場面だ.相手に操作されることを防ぐには自分の状態を相手から隠す必要があるからだ.そしてこのユーザーイリュージョンは私秘的なものになる.つまりヒトは共同体でコミュニケーションを行うようになって個人的ユーザーイリュージョンシステムの受益者になった.そしてミームの進化がユーザーイリュージョンの進化のための様々な条件を整えた.ミームは自己にとって可視的になり,自己は物語の重心になり,共有の話題への共同注意が必要になる.自己はオペレーティングシステムのエンドユーザーに似た何かなのだ.我々はそれをどんなものより疑いなく最も親密なリアルだと見做す.これが「我々であるとはどのような感じのことか」(つまり意識)の説明になる.
  • 我々は,これにより自分の思考にアクセスしているが,実際のアクセスの程度は消化作用へのアクセスと大差ない.我々は非常に狭く大幅な編集を受けた経路(意識)に依存せざるを得ないのだ.

 

  • この説明は結局「カルタジアン劇場がある」といっていることになるのではないか?そんなことにはならない.(ここで,意識というユーザーイリュージョンがいかに狭い範囲のアクセスしかできていないかがいろいろ解説されている.そして意識のような問題を扱うには自省による考察(オート現象学)ではなく,他者から客観的にみてどう説明できるかという考察(ヘテロ現象学)として行うべきだと主張している)

 

  • では何故,目覚めている限り常にマルチメディアショーを上演し続けている内的な劇場が存在するように見えるのか.この問題に対する最良の説明は「ヒュームの奇妙な推理の逆転」だ.我々は因果関係を見たり聞いたりしているように感じるが,実際に経験しているのはAがBに続いて起こることだけだ.因果性の印象は外から来るのではなく,内から来るのだ.甘さは砂糖の本質的な性質ではなく脳が創り出すものなのだ.脳はベイズ的予期を反復し,自分の行動も含めた世界の客観的性質を推論する.
  • クオリアの議論も同じだ.補色錯視により(実際にはない)赤いパターンが見えた場合に,内的に赤のクオリアが存在すると考えるべきではない.このような誤った信念の志向的対象はどこにもないというだけなのだ.クオリアの要請は認知的作業を二重化しようとするのに過ぎない.

 

  • デカルトは(当時の環境ではやむを得ないことながら)1人称的視点から意識の問題を考察した.この伝統はデカルトの重力の1つになっている.サールは(その伝統を受け継ぎ)1人称的経験の優先性を断固訴え続けるべきだと主張する.それは科学的探求において対象となる現象のデータが科学的にデザインされた経路では入手できずに,素速いが雑な使い方をするためにデザインされた経路でしか入手できなくなることを意味する.それは説明すべきことのリストの膨張を招き,ハードプロブレムを喧伝することにつながるだけだ.
  • もう1つのデカルトの重力は,心身二元論が自由意思と責任の問題にフィットすると感じられるところから来る.しかし唯物論的議論が自由意思と責任を否定するわけではない.そもそも物理的因果関係から切り離された自由意思が道徳的責任の必須条件になるわけではない.自由意思は(有益な)ユーザーイリュージョンの一部なのだ.

 
 

第15章 ポストインテリジェントデザインの時代

 

  • 科学的な問題解決がどれほど進歩してもヒトの理解力を超えたところにある<神秘>と呼ぶにふさわしい問題が存在するだろう.チョムスキーは意識と自由意思もそうだと主張した.どんな脳も認知的閉包(cognitive closure)を免れることはなく,ヒトの脳だけがこの制約を免れているというのは誇大妄想だというのが論拠だ.しかしこの議論には説得力がない.ヒトの脳は何千もの思考道具により拡張され,認知能力を途方もない桁数で倍加させている.言語は要となる発明品だ.
  • 認知的閉包の論証の弱点は,その<神秘>の具体例を挙げようとするとそれに対する網羅的な探索が始まりその誤りが明らかになりそうになるところだ.
  • 神秘論者の別の問題点は,その理解力の制限は単一の人間の心を問題にしているのか,文明全体に蓄えられた理解力を問題にしているのかについて曖昧であるところだ.現代の科学の営みは,先人の知恵の上に乗り,各専門分野から集まったチームによって行われることが増えている(ここではワイルズによるフェルマーの定理の証明の例が取り上げられている).そして自らの証明の正しさは,複数の思索者が異なる経路を通って同一の誤った結論に至ることはありそうにないという見通しに依拠しているのだ.

 

  • ここまでの説明は,自然淘汰的になされる研究開発が漸進的にクレーンを創り出し,それが将来のクレーンのためのデザイン空間を切り開き,トップダウン式で理由設定を行う研究開発がなされるようになるインテリジェントデザインの時代への上昇についてのものだ.このようなクレーンのカスケードは進化の過程が生みだした自然の産物なのだ.(ここでデネットなこの過程をもう一度振り返って簡潔に再解説している.バイオテクノロジーやナノテクノロジー,音楽,進化的学習のアルゴリズムの分類と万能学習アルゴリズムの夢などの様々なトピックが取り上げられていて面白い)
  • 動物の脳は理解力なき有能性をもたらしたが,それ自体では新しい視座を持つことはない.その先に行くには別のどこかでデザインされて脳にインストールされる認知的な有能性としてのミームの蔓延が求められるのだ.それらの習慣が脳の認知的なアーキテクチャを変化させ,最終的に脳を心へ変えていったのだ.つまりヒトの心は2つの異なった研究開発(遺伝子進化とミーム進化)の遺産の成果が結合したものだ.

 

  • 今のところディープラーニングマシンの有能性にこの種の現象が創発する兆しはない.マシンのモニタリングは人間のユーザーの仕事になっている.これを考えるとヒトの心はユーザーをその内部に宿していることがよくわかる.意識はその中でのユーザーインターフェイスなのだ.
  • ディープラーニングマシンの圧倒的な(理解力を持たない)有能性の故に,我々は多くの実践的,科学的,審美的判断をそれらにゆだねるようになるだろう(デネットは少し前までは夢物語のような事柄が実現しそうになっていることを様々な例をあげて説明している).それでも私はマシンが識別(discriminate)はできても気づき(notice)はできていないと主張する.ディープラーニングが超人的知性のたぐいをもたらすことは,今後50年は,ないだろうというのが今の私の見解だ.
  • ディープラーニングマシンがもたらす真の危険は,超人的知性が自分の運命を自分で決めようとすることではなく,我々が自分たちの道具の理解力を過大評価し,その有能性を超えた権威を機が熟すより先に思考道具たちに譲り渡すことだろう.認知的な補助道具は,道具であり仲間ではないとしてデザインされていくことが望ましいだろう*11

ここでデネットは本書全体の流れを要約して繰り返し,本書を終えている.
 
 

本書はこれまでのデネットの議論の集大成とも言えるもので,意識の問題を進化的視点を採ることによってその起源から説明しようという壮大なものだ.まず陥りやすい罠を整理し(ヒトが動物の心に意識を見てしまうというのが大きな罠の一つにされているのは面白い.ネーゲルのコウモリの議論の影響を与えているのだろう),そして進化的に形成される有能性についてはその持ち主がその「理由」に気づいている必要がないことを何度も強調する.(進化心理的に考えると)これは動物を持ち出さずともわれわれ自身も嫉妬や怒りの適応的な説明に通常は気づいていないことから見ても当然のことだが,陥りやすい罠なのだろう.そしてこの理解力なき有能性についてチューリングマシンというもう1つの例を取り上げて説得性を補強している.
次に最後の議論に持ち込むために,ダーウィン空間,さらにミーム論という思考道具を提示し,読者に最後の展開に至る準備をさせる.このミーム論,さらにそれを用いた言語の進化にかかる第9章から第12章の議論は独立した2冊の本にしてもよいほどの充実した部分で読みどころになっている.ボイドとリチャーソンやスペルベルのミーム忌避がドーキンスへの反発からもたらされているのではないかというのは辛辣な指摘だし,ピンカーへの反論はかなり真剣になされている.ミーム論については一時は盛り上がったが,その後勢いをなくし,文化と遺伝子の共進化についてはボイドとリチャーソンによるモデルによるものが主流になっているというのが私の認識だが,デネットはここで1人がんばっているということになる.私としては寄生的なミームについて「感染力」の問題として小さく扱うよりもミーム的に考察した方がわかりやすいのではないか,特に組織的大宗教を考察する際には有用なのではないかと思っているのだが,デネットの議論はその感覚には整合的だ.そしてデネットは寄生的なミームの考察に有用だということを超えて,ピンカーが強調するような「機知」に基づくひらめきも実はその背後にはミーム間の競争と淘汰過程があるのではないかと示唆していて刺激的だ.
そして最後に意識の問題に進んでいる.それは基本的には社会的な相互作用の中で相手から操作されないためのユーザーイリュージョンだ*12という説明になるが,その過程ではミームの淘汰過程の脱ダーウィン化が重要な鍵であると主張している.
私はデネットの大ファンで,本書の議論の大半について強く説得されたが,この最後の「ミーム論はこのユーザーイリュージョンの成立を説明する上で重要なピースだ」という部分だけはなお腑に落ちていないところがある.それは単に,自らの行動を記憶し,自省し,相手を操作し,相手から操作されないようになるために少しずつユーザーイリュージョンが洗練されたということでは説明できないのだろうか.とはいえ,デネットの提示する物語も十分あり得る道筋であるようにも感じる.私自身さらに研鑽を積んで考察していくべきところなのだろう.いずれにしても重厚な本だ.進化的視点を持って意識を考察しようとする人にとっては基本文献と呼ぶべき一冊になるだろう.


関連書籍
 

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From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (English Edition)

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意識について,デカルト的心身二元論やそれに親和的な議論をこてんぱんにしている本だ.

解明される意識

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ダーウィニズムと自然淘汰についての明晰な解説.スカイフックとクレーンという議論は特に印象的だ.

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

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  • 作者: ダニエル・C.デネット,Daniel C. Dennett,山口泰司,大崎博,斎藤孝,石川幹人,久保田俊彦
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Darwin's Dangerous Idea: Evolution and the Meaning of Life (English Edition)

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自由意思を扱った一冊

自由は進化する

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意識についてのエッセイ集.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20100224/1267008626

スウィート・ドリームズ (NTT出版ライブラリーレゾナント059)

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  • 作者: ダニエル・C・デネット,土屋俊,土屋希和子
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Sweet Dreams: Philosophical Obstacles to a Science of Consciousness (Jean Nicod Lectures) (English Edition)

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宗教についての一冊,新無神論の基本的文献の一つ.私の訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20100827/1282913655,原書書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20070218/1171785769

解明される宗教 進化論的アプローチ

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自らが哲学的考察で用いてきた思考道具をまとめて解説するという面白い趣向の本.グールドの筋悪議論を徹底的に分析しているところは大変面白かった.

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

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Intuition Pumps and Other Tools for Thinking (English Edition)

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*1:ここで働く別の歪曲力としては創造論者に手がかりを与えたくないという願望もあるそうだ.

*2:逆に進化には合目的的なデザインを生みだす力が無いと誤解されかねない(そして創造論者に有利に働く)というデメリットがあると指摘している.

*3:思考道具の役割を強調した心理学者リチャード・グレゴリーの名にちなんでいる

*4:3次元にしているのはヒトの認知的限界からそうしているだけで,理念的にはもっと多くの次元を持つダーウィン空間を考えることができる

*5:生物進化の結果大気圏の組成は変わるが,生物はそれにあわせて進化し,さらに大気圏の組成は変化していく

*6:なぜドーキンスはミームの説明のなかで語を取り上げなかったのかが考察されている.ドーキンスはの中では,(典型的ミームとして)まずアイデアがあり,それが語なしでも伝わりうることを強調したかったのだろうというのがデネットの推測だ.

*7:これはトマセロの主張になる.トマセロは言語はヒトの認識と思考の頂点であって基礎ではないとしているが,デネットは言語なしで累積的文化進化はあり得ず,それは人間の認識と思考のロケット発射台だと反論している.

*8:サバンナでほかの腐肉食者と競争するために,グループを形成し,斥候を出してどこにどんな肉があるかの報告を得ることができる

*9:多くの人が心の理論を使いこなすのに,(高機能アスペルガーの人が多大な努力によってたどりつく)意識的に理解された心の理論を知っている必要がないことと同じだと解説されている

*10:ここではなぜナイジェリア王子の詐欺が未だに消えずに残っているのかの説明があって面白い,それは騙されやすいカモを選び出すフィルターとして機能しているのだ

*11:デネットはここでGoogleなどに見られる先回り型の推測反映システムに苦言を呈している

*12:これは意識は報道官であって,知らない方がいい情報にはアクセスできなくなっているという報道官モデルと整合的だ