Enlightenment Now その23

第10章 環境 その1

ピンカーはここまでの2章で世界全体の富と格差の問題を取り扱ってきた.経済的に世界が改善していることを受け入れざるを得ない進歩懐疑派の次の反論はいわゆる「持続可能性」だろう.古くはローマクラブによる資源枯渇,公害や環境汚染,そして最近では地球温暖化は悲観論のよりどころだ.ピンカーはこう始めている.

  • でも進歩は持続可能なのか?これは健康や富についての良い知らせを聞いた人々のよくある反応だ.何十億の人口で世界の限りある資源を浪費して環境汚染を続けるなら,我々は環境的な最後の審判を受けねばならないのではないだろうか.仮に人口爆発や資源枯渇や汚染の問題を乗り越えても,地球温暖化はどうするのか.
  • 格差の章と同じく,私はこの問題を過小評価するつもりはない.しかしここでは世間によくある憂鬱な常識とは異なる問題のとらえ方を示し,運命主義に替わる建設的な代替案を提示したい.
  • 環境問題自体は自明な問題ではない,個人から見ると地球資源は無限に見える.しかし科学的に考えると,ミクロでは汚染物質は我々やそのほかの生物種に害をなすし,マクロでも生態系への累積的な悪影響は無視できない.これらの科学的知識からの環境運動は1960年代から盛んになった.それは一定の成果を産んでおり,ヒトの進歩の1つであるとも評価できる.
  • 皮肉なことに伝統的な環境運動家はこの進歩を否定する.本章ではロマン主義的な衰退主義に替わる啓蒙運動に根ざした新しい環境主義を提示したい.
  • 1970年頃から主流の環境運動は,擬似宗教的イデオロギーであるグリーン主義(greenism)に握り込まれてしまった.このグリーン主義はアル・ゴアからユナボマー,そして教皇フランシスコまで様々な運動家のマニフェストに現れている.
  • グリーン主義イデオロギーはまず「地球が人類の強欲によってその純潔を汚されたイメージ」から始まる.そしてその根源を啓蒙運動のコミットメントである「理性と科学と進歩」だとするのだ.(それを糾弾する教皇のコメントが紹介されている)
  • その他の黙示録的な運動と同じくグリーン主義も厭世主義に縁取られている.そして目の前にある飢饉に無関心になり,荒廃して人がいなくなった地球の幽霊的なイメージに浸り,まるでナチズムのように人類を害獣,病原体,癌になぞらえるのだ.(シーシェパードのコメントが紹介されている)
  • 近年環境保護の代替的なアプローチが現れた.それはエコモダニズム,エコプラグマティズム,地球楽観主義,ブルー-グリーン,あるいはターコイズ運動と呼ばれる.私たちはそれを啓蒙運動環境主義,あるいはヒューマニスティック環境主義と考えることができる.
  • エコモダニズムは「汚染の一部は熱力学の第二法則から導かれる不可避的な結果だ」と理解するところから始める.ヒトが何か活動するとエントロピーは上昇する.それは常に環境と調和するわけではない,今日の「自然」は人類が大型獣を絶滅させ,森を焼き払ったあとの姿だ.アメリカの国立公園やセレンゲティの「野生」は純潔のサンクチュアリではなくそれ自体文明の産物なのだ.農業はさらに破壊的だ.5000年前からのアジアの米作は水田で腐っていく植生から発するメタンで温暖化を生じさせたという説もある.1人あたりの環境負荷新石器時代鉄器時代の方が大きかっただろう.「自然な農産物」というのは矛盾した概念なのだ.
  • エコモダニズムの2番目の理解は「文明化はヒューマニティにとって善だ」というものだ.それは何十億もの人に食糧を供給し,寿命を2倍にした.動力機関は奴隷制廃止,女性の解放,子供の教育を後押しした.夜でも本が読め,冬も暖かく過ごせるようになった.環境に対するどんな汚染もこのメリットと比較して論じられなければならない.つまり世界には「最適レベルの汚染」があるのだ.
  • 3番目の理解は,この人類のウェルビーイングと汚染のトレードオフは固定されているのではなく,テクノロジーで変えられるということだ.そして人類はより良いトレードオフへと進んできた.経済学者は環境クズネッツカーブという概念を提示している.ある国が最初に経済的に立ち上がるときには環境より経済成長が重視されがちだ.しかし人々が豊かになると環境のことを(そしてクロサイの絶滅のことを)気にするようになる.また電力を得るのにスモッグが不可避なら人々はスモッグを我慢する,しかしテクノロジーで大気汚染のない電力供給が可能になれば人々はそれを選ぶのだ.つまり経済成長は技術と価値観の両方からクズネッツカーブを動かすのだ.
  • エコ悲観主義者はエコモダニズムの考え方をを「技術が我々を救うという信仰だ」として馬鹿にする.しかし実際には彼等こそ「知識は未来永劫今のままで人々は何があっても態度を変えない」というナイーブな信念に捕らわれていて,常に環境についての最終的な破局を予言して外れ続けているのだ.
  • 最初の予言は「人口爆発」だ.ある国が豊かになり教育程度が上がると,最初の段階で人口は増える.しかしこれは彼等がウサギのように繁殖するからではなく死亡率が下がるためだ,いずれにせよ増加は一時的で親たちは子供を少なくするようになる.(ここで1750年から2015年までの世界の人口増加率の推移グラフが示される.ソースはOur World in Data2016)世界人口増加率のピークは1962年の2.1%で,2010年には1.2%に低下している.おそらく2050年までには0.5%以下に下がり,2070年頃に0になるだろう.出生率は欧州と日本という先進国で特に低下している.しばしばイスラム諸国では人口が増え続けるだろうと言われるが,実際にはイスラム諸国でも過去30年で出生率は40%(イランでは70%,バングラデシュでは60%)も低下している.
  • もう1つの(外れ続けた)予言は「資源枯渇」だ.実際には資源は枯渇に抵抗し続けている.1972年のベストセラー「成長の限界」の予言に反して世界のアルミニウム,銅,クロム,金,ニッケル,錫,タングステン亜鉛は枯渇していない.原油レアアースにも似たような予言があって外れ続けている.(これも詳述されている)
  • 黙示録的な資源枯渇予想が外れ続けるということは,「人類はハリウッド映画のように不可避のはずの破滅を奇跡的に逃れ続けている」のか「資源枯渇予想の考え方に欠陥がある」のかのどちらかということになる.(もちろんそれは後者だと考えられるべきであり)資源枯渇予想の欠陥は何度も指摘されている.人類の資源利用はミルクシェークをストローで吸っているように行っているわけではない.まず資源は希少になると価格が上昇し,利用が抑えられ,代替資源が探索される.そしてそもそも「人々は『資源』を必要としている」という考えそのものが間違っているのだ.人々は食べものや照明や情報などのウエルビーイングを高めるソースを求めている.そしてそれはレシピや設計図やテクニックやアルゴリズムなどの「アイデア」によって充足されるのだ.ヒトの心は無限のアイデアを探索でき,それは何らかの特定の物質によって制限されているわけではないのだ.1つのアイデアがうまくいかなくなったら別のアイデアをを試せばいいのだ.
  • これは確かに「持続可能性倫理」とうまく折り合えない考え方だ.しかし「持続可能性」教義は現在のリソース使用率が資源枯渇まで継続するという前提の上にある.しかし実際には社会はある資源の枯渇前にその使用をやめるようになるのだ.石器時代は石が枯渇して終わったわけではない.(ここでピンカーはランダル・モンローのxkcdのコミックを紹介している.そこにはグラフが示されていて縦軸にはGoogle Ngramから採った「持続可能性」という単語の使用頻度(対数表記),横軸は1950年からの時間軸になっている.現在までの(極めてよくフィットしている)使用頻度増加回帰直線が今後継続すれば2061年には1つの文に平均1回「持続可能性」が現れ,2109年にはすべての単語が「持続可能性」になる.https://xkcd.com/1007/ 参照)
  • 食糧供給もここまでは指数関数的に増えてきた.もちろん単一の方法で増加させ続けるのは不可能だ.これはまず新しい方法が見いだされて食糧生産が増えると人口が増え人々はさらに新しい方法を見つけるということが繰り返されて起こったことだ.次の技術革新には遺伝子改良作物,水耕法,都市垂直農園,ロボットハーベスト,肉の細胞培養,GPSとバイオセンサーとAIを駆使した農法などがあり得るだろう.水についても最終的には海水脱塩の方法があるだろう.


ローマクラブの資源枯渇の悲観論に対しては,当初から価格メカニズムと代替品への転換を無視していると批判されていた記憶があるが,その後の世界の動きはまさに批判通りだったということだろう.代替品への転換は近時の原油価格高騰とシェールガスの大ブームでも観察された.原油価格が持続的に60ドルを超えると一気に代替エネルギー開発が進むだろうという予測はかなり前からあったわけだが,まさにそれの壮大な実験となったということになる.