書評 「なぜ今、仏教なのか」

なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 (早川書房)

なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学 (早川書房)


本書はサイエンスライターのロバート・ライトによる西洋仏教(そのうちの上部座仏教の流れをくむヴィッパッサーという瞑想流派)のマインドフル瞑想の解説及び体験談を一冊の本にしたものだ.
 ライトは1994年に「モラル・アニマル」を出して当時勃興したばかりの進化心理学を(おそらく世界で初めて)一般向けに紹介したことで知られる.ライトはその後「ノン・ゼロ」でノンゼロサムゲームの協力解への探索を人類の歴史に絡めた本を書き,さらに「宗教の進化」で各一神教の歴史を進化的視点から語った本を書いている.この2冊はいずれも最後はぐずぐずの宗教擁護の議論が置かれた怪しいものになってしまっているが,途中までは大変面白い本だった.そこに今度は仏教を語る本ということで,最初は仏教の進化でも扱っているかと思ったが,そうではなくて瞑想を実際に行ったルポルタージュとその体験の進化心理的な面からの解説が混在するという不思議な本になっている.

 というわけで私的には初心者向け瞑想ガイドの部分はともかく瞑想で得られる体験の進化心理学的解釈が読みどころになるというような本になる.原題は「Why Buddhism is True: The Science and Philosophy of Meditation and Enlightenment」.
 

最初に読者に向けての注意書きが置かれている.本書では仏教を扱うが,その「超自然的」要素(輪廻など)は扱わない,仏教と言っても様々だが,共通の核と言える概念に焦点を当てる,などが説明されている.ここでの「仏教」は特に西洋で人気のある瞑想を重視するタイプのものを念頭に置いており,日本に多い浄土真宗のような大乗仏教ではないことに(日本人読者としては)注意が必要だ.
 
次に一神教徒として育てられ,どこかで仏教に帰依した西洋人にとって,瞑想により悟りを得ることは映画「マトリックス」において赤い薬を飲むようなもの(つまり偽りの世界から目覚めるようなもの)だという説明がなされている.これは現在「意識」によって知覚していることは「真実」ではなく,自然淘汰により作られモジュール群により包括適応度上昇のために都合のよい妄想を知覚しているにすぎないのだという解釈をわかりやすく示すものだ.
ここからジャンクフードを食べたいという欲求の正体,そのような快楽が永続しない理由(快楽は目標達成のための行動の動機付けのためにあり,いったん目標達成した後は,次の目標達成の動機付けを行うために消える必要があるし,そのことをあまり自覚しないようになっている)などが解説される.
しかしこのような進化心理学的知見を得たからといって人は救われない.痛みは無くならないし,深い幸せにもつながらない.そこに瞑想を行う意義があるというのがライトの立場になる.そしてやってみると劇的に妄想の実態が明らかになるのだと主張している.
 
ここからは体験談になる.自分がいかに怒りっぽく,注意欠陥障害で瞑想に向かないか(だから実験体として向いている)を説明したあとで,瞑想体験をいろいろと語っている.そして「空」(物事には本質はない)と「無我」(自己は錯覚だ)という二つの仏教基礎概念が会得できれば,我々の普段の知覚がいかに幻想であるかがわかるのだというのが本書の次のテーマになると予告している.
 
ここからライトは私たちの感覚の進化的説明に進む.感覚は適応度を高める決定を行うための道具として自然淘汰が形作ったものだ.だから感覚は基本的には真実に近いが,必ずしもそうではない.ライトは重大な適応価が絡む判断にかかる(最適なエラーマネジメントの結果としての)偽陽性の問題,進化環境と現代環境のミスマッチの問題を例としてあげている.ライトはすべての根底にある幸せの妄想が重要だと指摘する.そして「瞑想」はその妄想を追い払うプロセスとしてとらえることができると説明する.
 
ライトはここで瞑想のこつを伝授している.まず呼吸を使って彷徨う意識から逃れる.その後は二つの流派があるそうだ.一つは長く集中し続けるという方法.もう一つは物事をマインドフルに観察しようとして注意を集中するものだ.後者がライトが実践している「マインドフル瞑想」になる.さらにここから実体験がいろいろ描かれている.
 
このマインドフル瞑想の目的は,「無常」「苦」「無我」の洞察になる.そして悟りへの道で最も重要なのが「無我」の洞察になる.ライトによると「無我」というのは「自己のいうのは思いこみで対応する実体を持たない」という概念になる.ここから様々な仏教諸派の解釈について説明があり,実体験として「無我」の境地に至ると痛みなどの感覚が自分と無関係になるように感じられることが語られている.ライトはそれは「自分の中に思い通りにならず,自分を苦しめるものがあるなら,それを自分と同一化するのをやめよう」という教えだと解釈している.
 
ではこの「無我」は心理学的にはどう解釈できるのだろうか.ここからライトは進化心理学的なモジュールの議論を丁寧に解説する.そして動機を持ちすべてを決定しているように思える「意識」は実は単に動機に気づいているだけで,さらにその気づきも自己欺瞞によってゆがめられているし,それは進化的には「自分が有能で行動に対するつじつまの合う説明ができること」が適応的だったためとして理解できると解説している.このあたりは基本的にはクルツバンの「意識は報道官にすぎない」という説明に沿ったものになっている*1
そして様々な仏教の主張がモジュール的な心という面からうまく解釈できることを説明する.例としては以下のようなことが解説されている.

  • モジュールの活性化が感覚と結びついていると考えると,仏教の「感覚に執着しない」という教えと「無我」の関係が理解できる
  • 嫉妬も1つのモジュールの活性化と考えると,それにとらわれないようにしようという仏教の発想が理解できる.

ライトはここで「このように感覚に応じて様々なモジュールが活性化する中で,コントロールを取り戻したいなら,状況を変える一つの方法は日々の生活の中で感覚が演じている役割を変えることであり,マインドフル瞑想はそれを可能にする」とコメントして瞑想自体に話を進める.

ライトによると瞑想をやってみて最初に気づくのは「心が一カ所にとどまろうとしないために瞑想が難しいこと」だという.ライトは心の逸れ方についていくつか実例を挙げ,それらは「過去か未来が関わり」「自分が関わり」「さらに他人に関する考え」であり,しかも進化心理学のいう特定の単体モジュールの領域内にあるようになっているという.要するに「自我」あるいは「意識」は,自分が何を考えるかを決めているのではなく,何らかのモジュールが活性化するのに気づくということだ.
そしてマインドフル瞑想は自分の感覚と距離を置くことで,よりコントロールを得る良い方法だという.ライトは様々な体験をおいて,感覚と心の動きの関連を語り,そして自らの仮説として,「感覚こそがモジュールの活性化優先度のラベル付けをする主要な手段である(脳が比較検討する際にはその感覚同士を競わせる)」という主張を行っている.そしてそれは進化的理解とも整合的(そもそも感覚は動機因子として進化している)だという.つまり何かを熟慮の末に買おうと考えるのは,十分に行った理性的な分析がその買い物を好ましく感じさせるからだということだ.
クルツバンによる長期と短期の利害の相克モデル(感情を理性が抑えるのではなく,短期的利己モジュールと長期的利己モジュールが競争している)においては意識は後付けの理屈をでっち上げる報道官にすぎない.ライトは基本的にそれを認めつつ,しかしマインドフル瞑想を行うことにより私たちは意識的に介入できるのだと主張する.
利害の異なるモジュールが競う場合には,片方が勝ち,それがうまくいく(誘惑に負けて喫煙して気分が良くなる)とそれが強化されて勝ち続けやすくなる.ここから逃れるためには喫煙などの衝動と戦おうとするよりも,その感覚を検分して,それは自分の一部ではないと感じる方がうまくいくというわけだ.こつはモジュールは「自分」の一部ではないと感じることだというのがライトの悟りになる.
 
ここからライトは感覚が思考や行動に与える影響をさらに細かく描いていく.

  • 「無色」あるいは「空」は「感じられる外の世界は見かけ倒しにすぎない」という概念になる.うまく瞑想を行うと,ものについての物語や意味が消え,不愉快な感覚の負のエネルギーも消失する.それは本質主義からの解脱にもつながる.(ここではブルームによる本質主義の議論が解説されている)
  • 片方でこの解脱は,本質主義によるカテゴリーを曖昧にさせる.雑草をみて美しさを感じることができるようになるが,雑草と有用植物の違いが感じられなくなる.雑草かどうかは大した問題ではないが,これは道徳的な問題については重要な含意を持つ.通常我々は,個人や行動の善悪をかなり素早くカテゴリーベースで決めつける傾向を持つのだ.これは進化環境では素早い判断が重要だったことの反映だろう.つまり元々の「無色」な現実を本質主義的な心が素早く色づけをし,我々はそれを知覚としているということだ.

 
ライトはここから,この本質主義払拭のための瞑想法を説明し,本質を払拭できても「愛情」がなくなることはなく,対人関係はうまく行くことの方が多いこと,ただし善悪についてもカテゴリカルに判断しなくなるので,外側の道徳教育も重要になる可能性があることをコメントしている.
 

  • 「無我」に至る瞑想は自分の境界をぼやけさせる.結局「何が自分か」をどう感じることが有利かという点で感覚は進化適応しているはずだ.だから血縁者の痛みは(包括適応度的に)より感じやすいし,自分の皮膚の内側の痛みは「痛み」として感じる方が有利だからそう感じるのだ.

 
ライトはここから仏教の教義の解釈に少し立ち入っている.まず「無我」と「空」の関係,さらに「縁起」との関係を整理し,そして自分の「怒り」を抑える体験を語る.その上で初期仏教の難問「涅槃に至るためには煩悩に打ち勝つことと自己の錯覚性に気づくこととどちらが重要か」についてその二つは基本的に同じではないかと論じている.また涅槃,悟りについてもいろいろと論じている.

さらにライトはスコープを少し広げて読者に向けて語る.仏教の悟りには西洋科学における啓蒙と共通点(どんな原因がどんな結果をもたらすかの気づきをより深める)があること,仏教の瞑想は理性を捨てるためではなく理性を働かせるためにあることを強調し,「悟り」のチェックリストを置き,ここまでの理解における進化的思考の重要性,そしてよりよき世界を作るためには進化産物である「自己の特別意識」を乗り越える必要があることを指摘する.そして最後に個人的になお瞑想を続けている理由を整理し,世界の救済のためにはこのようなメタ認知改革が重要だという考えを披露して本書を終えている. 
 
 
マインドフル瞑想,あるいはマインドフルネスは西洋では結構人気があるようで,少し調べるといろいろヒットする.ライトは進化心理学やモジュールの議論に親しんでいる中で,マインドフル瞑想に取り組み,その教義や体験が進化心理学が解明してきたことと整合的であることに気づき,本書を執筆することになったのだろう.本書で語られていることの多くは教義や体験を進化心理学的に解説するものだが,さらに「本質主義から解脱したら何が生じるか」の体験談や「自分でコントロールできないモジュールの活性化」を(本来報道官に過ぎない)意識によるコントロールする試みが書かれていて興味深い.どのモジュールがより活性化するかを決めるのがインプットである感覚であるなら,そこに意識を集中するのはある意味うまいやり方なのかもしれない.確かに煩悩から逃れられれば人生は豊かになるだろう.ライトの体験を額面通りに受け取っても瞑想でそういう境地に至るのはそんなに簡単ではなさそうだが,興味のある人には良いガイドかもしれない.


関連書籍
 
原書

Why Buddhism is True: The Science and Philosophy of Meditation and Enlightenment (English Edition)

Why Buddhism is True: The Science and Philosophy of Meditation and Enlightenment (English Edition)

 
本書で用いられるモジュール論が詳しく論じられ,本書でも引用されているクルツバンの進化心理学本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20111001/1317477823

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind (English Edition)

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind (English Edition)

 
同訳書.私の訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20141001/1412160200

だれもが偽善者になる本当の理由

だれもが偽善者になる本当の理由


 
ロバート・ライトの本
 
最初の進化心理学紹介本

 
同邦訳
モラル・アニマル〈上〉

モラル・アニマル〈上〉

モラル・アニマル〈下〉

モラル・アニマル〈下〉

 
世界の歴史をノンゼロサムゲームの選択の推移として解釈して語った本.
Nonzero: The Logic of Human Destiny (English Edition)

Nonzero: The Logic of Human Destiny (English Edition)

  
宗教を文化進化的に考えてみようという本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20090920/1253428284
The Evolution of God (English Edition)

The Evolution of God (English Edition)

*1:なおライトは「意識」はある意味で「特別」だという点においてはクルツバン説に対して一定の留保をおいている