Enlightenment Now その50

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第18章 幸福 その4

ここまでピンカーは幸福度の推移,アメリカの状況を語ってきた.ここから幸福に関連する個別トピックに進む,最初は「自殺」だ.
 
<自殺>

  • 自殺は社会の不幸を示すいい指標だと考えられるかもしれない.しかし実際には自殺率はかなり謎めいた数字を示す.自殺はそれを引き起こす絶望や動揺がその人の判断力を失わせているので,例えばそれがどのぐらい容易かというような条件に左右される.実際に一国の自殺率は簡単で効果的な自殺手法が可能かどうかによって左右される.(例として英国における石炭ガスの普及,アメリカの銃の普及が挙げられている)さらに経済状況によっても上下するし,天候の影響も受ける.そしてメディアが自殺をロマンティックに取り上げるかどうかにも左右されるのだ.
  • 不幸と自殺が関連するかどうかすらも怪しい.最近のリサーチは「幸福な自殺のパラドクス」を報告している.幸福度の高いアメリカの州やヨーロッパの国は回りに比べてわずかに高い自殺率を示すのだ.
  • また自殺と事故を区別するのは実際には難しいという問題もある.そして検死官はそれが自殺か事故かについて,誰がどう非難され犯罪とされるのかという状況に左右されがちだ.
  • 自殺が死についての大きな要因であるのは確かだ.アメリカでは年間4万人以上自殺しており,これは死因の第10位だ.世界全体では年間80万人以上自殺している.しかし全体のトレンド,国間の違いのトレンドは見いだしがたい.年齢・コホート・時代問題に加えて男性と女性はしばしば逆の方向を示すのだ.見いだされるのは1980年以降途上国の女性の自殺率が40%以上低下していること,男性の自殺率が女性の4倍あることだ(だから自殺率の推移は男性のそれに大きく影響を受ける).そして誰もなぜ世界最高の自殺率がガイアナ,韓国,スリランカ,リトアニアで観測され,フランスの自殺率が1976年から1986年にかけて急上昇した後1999年に元に戻ったのかを説明できない.

 

  • しかし巷にあふれる2つの言説が間違いであることを示すことはできる.1つは「自殺率は上昇を続けており,今や歴史的に最高水準に達している」というものだ.自殺は古代ギリシア時代から知られている.ただ自殺は犯罪とされていた(英国では1961年まで犯罪だった)こともあって歴史的な信頼できるデータは少ない.その中で得られるデータをプロットしてみた.

(1860年から2014年にかけての英国,スイス,アメリカの自殺率の数字の推移グラフが載せられている.いずれもある範囲内を上下しており全体的な上昇傾向はない.英国では1965年以降,スイスでは1980年以降は着実に低下しているように見える.ソースはWHO,Centers for Disease Controllほか)

  • 英国,スイス,アメリカとも過去の一時期の方が現在より自殺率が高い.自殺率の推移は年齢(自殺率は青年期に高く,そこから下がり,引退期にまた上昇する),コホート,時代,性別のうねりが合わさったものだ.アメリカの最近の上昇(2000年以降少し上昇気味)はベビーブーマーたちが引退期に入ったことの影響を受けている.コホート効果も複雑だ(詳しく説明がある).ニューヨークタイムズの「アメリカの自殺率が過去30年で最高になった」という見出しは「リセッションと高齢化にもかかわらず,アメリカの自殺率は過去のピークの2/3だ」とすることもできるのだ.
  • もう1つの誤った言説は「啓蒙主義的人道主義のパラゴンであるスウェーデンで自殺率が最高だ」というものだ.これは1960年にアイゼンハワーがスウェーデンの社会主義的な経済を批判するために持ち出したことが発端となっている.確かに1960年にはスウェーデンの自殺率はアメリカより高かった.しかし世界最高だったことはないし,その後低下して現在ではアメリカより低いのだ.一般的には西欧諸国では自殺率は低下トレンドにあり,トップテンに西欧諸国は入っていない.

 
<鬱>

  • 近年より多くの人,特に若い世代が鬱と診断されている.そして世間では最近のテレビドキュメンタリーの「静かな疾病が我が国を襲い,子どもを殺している」が取りざたされている.ここまで幸福度も孤独も自殺も問題ないことを見てきたからこれは考えにくい.そして実際にそれは幻想に過ぎないのだ.

ここでいくつかのリサーチの問題点が扱われる.比較において異なる年代の人に鬱だったときの記憶をたどってもらう場合の問題点(記憶の偏向,サバイバル効果など),尋ねる時期が異なる場合の問題点(時代効果の影響),何が鬱かという基準の拡大など様々な点が指摘されている.

  • 心理学者たちはこの「疾病の利用」「コンセプトの変更」「病気の売り込み」「精神病理学帝国の拡大」について警鐘を鳴らしてきた.ローゼンバーグは最新のDSMに従えば,アメリカ人の半数が何らかのメンタルディスオーダーに診断されてしまうとコメントしている.
  • 「精神病理学帝国の拡大」自体はある意味モラルの進歩のサインだとも言える.何らかの理由で苦しんでいる人を病気と診断することは同情の表れの1つであり,実際にそれで症状は改善されることがある.
  • 診断基準が拡大している中で鬱が増加しているかどうかを知るには,基準を固定しサンプルを調整したリサーチが必要だ.完全にコントロールしたリサーチはないが,スウェーデンとカナダで基準を固定できているリサーチがある.それによると鬱の増加は観測されていない.いくつかメタアナリシスもあるがやはり鬱の上昇は認められない.
  • 鬱は不安と相関する.では不安は増加しているのだろうか.これはW. H. オーデンの1947年の詩「不安の時代」で歌われている問題だ.この問題についてのメタアナリシスによると子どもと学生の標準不安テストの得点は1952年から1993年にかけて1標準偏差上昇している.しかし学生の不安スコアは1993年に天井を打っているようだ.1970年代から21世紀にかけての高校生と大人を対象とした長期リサーチによるとコホート間の不安スコアの上昇はない.

 
 
厚生労働省の数字で日本の自殺率を見てみると以下のグラフのようになる.バブル崩壊からリーマンショックにかけて男性の自殺率が高止まりしているのが特徴的だ.アベノミクスで雇用環境が改善し始めると急低下しており,かなり経済状況の影響が大きいことが見て取れる.少なくともどんどん自殺率が上がっている状況ではない.

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同じく厚生省の数字で見ると日本の鬱は21世紀に入って上昇傾向のようだ.これは診断基準を調整する前の数字ということになるのだろう.実態についてはちょっと調べた限りではよくわからない.