Virtue Signaling その7


Virtue Signaling: Essays on Darwinian Politics & Free Speech (English Edition)

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第4エッセイ 道徳的徳の性淘汰 その3

 
ミラーはまず性淘汰理論に関連する部分を整理した.続いてヒトの性淘汰の特徴に関する部分の整理に入る.
 

性淘汰シグナルと性差

 

  • コストのあるシグナル理論の観点から見ると,性淘汰は必ずしも性差を創り出すようなものに限られるわけではない.相互に配偶選択があるならそれは性差のない極端な特徴を説明することができる.
  • ヒトは母親と父親が共に子育て投資をするという哺乳類では普通ではない特徴を持っている.そして長期的配偶関係においては両性共に同じレベルの配偶選択を行う.これはヒト種において性的身体的装飾(長い髪,比較的裸のボディ,めくれ上がった唇など),そして性的心理的装飾(言語,芸術,音楽,ユーモア,イデオロギーについての創造性,感受性)の性差のなさを創り出した.男性だけに性的装飾があるような(ヒト以外の動物によくある)形(男性が道徳的行動を誇示し,女性はそれを見定めるだけ)にはなっていないのだ.
  • しかしながらヒトの男性は繁殖成功においてより分散が大きい.そして予測通り配偶に対してよりエネルギーや時間をかけ,リスクをとる.そしてそれにはコストが高くリスクのある道徳的徳の誇示行動が含まれる.このモデルは,なぜ男性に赤の他人のために命を投げ出すような向社会性ヒーローが多いのか,なぜ男性がリスクが高く賃金が低い利他的でロマンティックに魅力的な職業(警察,消防,軍人)につくことが多いのか(そしてなぜ女性がリスクが低く賃金が低い利他的でロマンティックに魅力的な職業(看護師や学校の先生)につくことが多いのか)を説明できる.
  • もちろんこのリスクの高低による職業選択の性差にジェンダーにかかる社会的規範が影響を与えていることは疑いない.しかし動物界におけるリスクテイキングの性差の普遍性を考えるとそれが説明のすべてだというのは疑わしい.
  • より一般的には,道徳的徳の誇示や判断に通文化的で安定的な性差がある場合には,性淘汰が関連している可能性が高いと考えるべきだ.多くの伝統的理論はヒトのモラルの進化は血縁淘汰,互恵性など性的に中立な過程によって説明できるとしている.そしてこれらの考え方は様々な道徳的性差を前に困難に陥っている.

 
まずミラーはヒトにおいては配偶選択が相互的であることを強調する.そのためヒトにおいては典型的な配偶選択型性淘汰による装飾を持つような動物に比べて装飾的特徴の性差は小さいと主張する.だから道徳的行動を男性だけが行うわけでもその判断を女性だけが行うわけでもない.ミラーの主張で言うと芸術や音楽についてもこれが当てはまることになる.しかしそうはいってもその程度については性差が観察できる.だから性淘汰が絡んでいるはずだというのがミラーの主張になる.性差に絡んではいろいろフェミニズムが絡んで批判されやすくややこしいところだが,ミラーはここでは深入りしていない.
 

モラルの人物評価Vモラルの行為評価

 

  • コストリーシグナル理論はヒトの道徳的行為に新しい光を当てる.行為は行為者の行動傾向の信頼できる印だということだ.これは個別の行為の道徳性を論じてきた道徳哲学者たちにとっては奇妙な考え方に思えるかもしれない.ただ最近では行為倫理学は徳倫理学に置き換わりつつあり,人的レベルでの記述にも注意が集まっているようだ.
  • この人物レベルは,進化遺伝学の量的形質,進化心理学の配偶選好,社会心理学の個人パーセプション,行動遺伝学のパーソナリティ,刑事政策の保釈基準,そして民主政治の投票選択を統合できるレベルだと思われる.
  • 我々の先史時代の祖先がモラル判断を行為レベルでやっていたというのは考えにくい.彼等は個別の行為を行為者の安定的な個人的な特徴の印として解釈していただろう.それを恋人や友人や同盟相手を選ぶのに使っていたはずだ.緊密な社会グループで暮らしていた祖先環境では個別の行為を独立にモラル判断することは適応的に意味をなさないだろう.判断は行為者のその他の特徴と合わせて行われただろう.我々も小さな子どもの盗み行為,熱病時のうわごとによる言葉に対してより許容的に扱う.また行為者との関係も合わせて判断される.その行為者との社会的関係により同じ行為は異なって判断される.我々は配偶選択ではより優しさを重視し,取引関係ではよりフェアネスを重視する.

 

  • この行為vs人物レベルにはそれ以外にも配偶選択に関連した違いがある.
  • 第1に,同じ「道徳性」が行為レベルと人物レベルでは異なって用いられる.行為レベルでは「道徳性」は特定のルールに従っていたかどうかが問題にされる.これに対して人物レベルでは「道徳性」は配偶相手や友人や取引相手として選ばれるかどうかが問題にされるのだ.進化的には「道徳的人物」はその遺伝的利益を究極的に追求している人のことであるといってもいい.
  • 第2に,人物レベルの「道徳性」は,モラル判断者と被判断者の相互作用から生じる創発的な特徴を持つ.ちょうど美が装飾と評価者の好みの相互作用から生まれるように,道徳的人物は特徴と評価者の好みの相互作用から生まれるのだ.これに対して行為レベルの「道徳性」は,(判断基準はユニバーサルな原則にあるという前提を持ち)観察者の役割を考慮しない.
  • 最後に,行為の「道徳性」を判断する際には,我々は一般的に「すべきである」は「することが可能である」という前提の上にあることを認めている.我々は貧困者にチャリティへの多額の寄付を期待したりしない.しかし人物の「道徳性」判断に関しては,我々はそんなに許容的ではない.トゥーレット症候群患者が初デートの際におかしなことを繰り返し口走ることを止められなかったら,その病状について相手がどんなに理解していても二度目のデートはまず期待できない.我々は効率的な行動ができなくなった精神障害者を哀れむかもしれないが,狩猟仲間として選びはしない.適応度的な賭け金が高ければ,我々は相手に責任能力がない場合でも許容しなくなる.祖先環境で,祖先たちが責任能力なく(自分ではどうしようもなく)邪悪な人々を排除できなければ,連続レイプサイコパスや激情殺人魔から自分たちを守ることはできなかっただろう.

 
この人物評価vs行為評価という視点も面白い.確かに祖先環境で道徳性判断を行うのは,それを元にある行為者を配偶相手や友人や取引相手に選ぶかどうかを見極めるためである場合がほとんどだっただろう.