From Darwin to Derrida その21

 

「遺伝子ミーム」その3

 
ミームを扱う第3章.まずはgeneというミームを考察する.
遺伝子(gene)というミームは様々な概念を包含しうる単音節な単語として広がった.そして実際に実験遺伝学者たちの「タンパク質のアミノ酸配列を決めるDNA配列」という使われ方と行動生態学者たちの「表現型の違いを作る遺伝的要素」としての使われ方が広がる.
ヘイグはさらに行動にかかる遺伝子を取り上げ,この遺伝子という用語の行動遺伝学での使われ方と進化心理学での使われ方を吟味する.
 

  • 遺伝子という用語がこの2つの意味で使われ続けたことは「遺伝子が行動を引き起こす」という主張に関する議論を混乱させた.
  • 行動遺伝学者は個人差に興味があり,例えば一部の人がより暴力行動を引き起こすことを説明できる遺伝要素を探そうとする.あるいは暴力的な人はモノアミン酸化酵素をコードする遺伝子に変異があって衝動を抑制することが苦手なのかもしれない.
  • 進化心理学者は,これに対して,適応産物としてのヒト種に典型的な行動に興味がある.だから特定の環境下でほとんどの人が暴力的に行動するような遺伝型を進化させたかの説明を求める.あるいは若い男性は貧富の差が激しい社会においてあまりリソースを得ていないときに暴力的に振る舞いやすいのかもしれない.暗黙裡に比較されているのは現実世界(あるいは過去の進化環境)の適応度と遺伝子が環境に対して別の反応をする仮想世界の適応度だ.
  • つまり,行動遺伝学者は暴力的な人間とそうでない人間の違いについて遺伝要因で説明しようとし,進化心理学者は同じ差異を環境要因で説明しようとするのだ.にもかかわらず,どちらもヒトの行動を生物学的に説明することを拒否する人々から「遺伝決定主義者」とののしられることになる.

 
ここは行動生態学者や進化心理学者が一部の社会学者から「お前達は遺伝的決定論者だ」とを決めつけられてどう反論しても受け付けてもらえないという事情の一環ということになる.ここでヘイグは触れていないが,(行動傾向の個人差を説明する遺伝要素を探す)行動遺伝学も行動が遺伝子だけで決まるとは主張しておらずやはり遺伝決定主義者とののしられるべきではないことには注意が必要だ.
ここからヘイグは誰もが納得する「遺伝子」の厳密な定義は不可能であり,操作的定義を用いれば良いのだという議論に移る.
 

  • ではドーキンスは「利己的な遺伝子」においてそのタイトルともなっている遺伝子をどう定義しているのだろうか.ドーキンスはそこで「遺伝子のユニバーサルな定義はない」と認めている.仮にあったとしても定義自体に神聖性はない.私たちは,明確であれば,自分たちの目的に応じて自由にある用語について定義を行うことができる.私がここで使いたいと思っている遺伝子の定義はジョージ・ウィリアムズの「自然淘汰の単位として十分な世代の間続く潜在性を持つ染色体の一部分」というものだ.これによると遺伝子は分子生物学者が認識する「タンパク質コード領域」より長い場合も短い場合もあることになる.このように定義するなら,ドーキンスは「遺伝子は自然淘汰の基本的単位であり,自己利益の基本的単位でもある」と考えていたということになる.

 
ここからはこの操作的定義を受け入れない人々との間の誤解の話になる.それが遺伝子中淘汰主義者とマルチレベル淘汰主義者との諍いの本質だということになる.

  • しかしこのドーキンスの陶太単位としての遺伝子認識はユニバーサルに受け入れられることにはならなかった.その理由の1つは,遺伝子について異なる科学者は異なる暗黙の定義を念頭においていたからだ.例えばDSウィルソンとエリオット・ソーバーは「遺伝子は単に陶太単位の階層(遺伝子,細胞,個体,グループ,種)の最下位のレベルであるに過ぎず,何ら特別ではない.どの階層内でも淘汰は働き,個体にとっての善やグループにとっての善のための陶太が遺伝子にとっての善のための陶太と同じように存在する」と主張している.このように遺伝子を細胞の下の階層においているというのは,暗黙裡に遺伝子を細胞内の物質的な存在として定義していることになる.

 

Unto Others: The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior

Unto Others: The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior

 

  • しかしドーキンスの定義はこれとは異なる.ドーキンスはこういっている.
  • 利己的な遺伝子とは何か? それは1つのDNAの物理的な実体ではない.それはあるDNA配列の世界中にばらまかれたすべてのレプリカのことだ.キーポイントは遺伝子は他の個体内の自分のレプリカを助けることができるということだ.もしそうなら,これは個体としての利他主義が遺伝子の利己主義から生まれることを意味する.
  • DSウィルソンとソーバーにとっては遺伝子は細胞にある物理的実体だが,ドーキンスにとってはそれはウィルソンとソーバーのいうすべての階層にばらまかれている情報単位なのだ.私はこの議論の的になっている陶太単位を(それが実際に何であるかにかかわらずに)「usit」という使用しやすい短い語で呼ぶという誘惑に耐えることはできない.

 
論争のキータームの定義がすれ違っているのだから,論争はどこまでもすれ違いでひたすら無意味になるのも当然というところだろう.なお最後に出てくるusitという語のミームとしての今後はどうなるのだろうか.そもそも淘汰の単位論争自体が下火になっている(どこまで行ってもすれ違いなので双方あまり熱心ではなくなっているのだろうか?)のでこのミームが成功するのは難しいかもしれない,