書評 「野ネズミとドングリ」

 
本書は島田卓哉による日本の野ネズミとドングリのかかわりについての研究物語.丁寧に研究の道筋が語られている.なお本書において「ドングリ」はブナ科コナラ属の樹木の果実*1のみを指している*2
 

はじめに

冒頭でこの一連の研究のきっかけが書かれている.日本の森林性野ネズミであるアカネズミはブナの実やドングリを食べて冬を越すことが知られており,典型的なドングリ食者だと考えられていた.しかし著者がブナの実だけ,ミズナラのドングリだけで飼育してみたところドングリだけを食べ続けたアカネズミはどんどん衰弱し一部が死亡したのだ.当初著者は一種類の餌だけだとこういうこともあるかぐらいに受け止めていたが,指導教官に「良い餌だけ食べて死んでしまうなんて全く説明できない.何か秘密があるに違いない」と諭され,研究を始めることになる.
 

第1章  日本の野ネズミ

まず日本の野ネズミが簡単に解説されている.家ネズミと野ネズミの違い,日本にはネズミ科9種,キヌゲネズミ科*36種が生息すること(本州だとネズミ科はアカネズミ,ヒメネズミ,カヤネズミの3種,キヌゲネズミ科はヤチネズミ,スミスネズミ,ハタネズミの3種になる)*4がまず説明され,ここから本書の主人公アカネズミが紹介される.
アカネズミ属のネズミはユーラシアに広く分布し,(分岐の浅い順に)ヨーロッパ系統,(アカネズミを含む)アジア系統,ネパールアカネズミ,(日本にだけ分布する)ヒメネズミの4グループを形成する.そして多くの地域で2種が分布するという興味深い傾向があるが,理由はよくわかっていない*5.日本の本州ではアカネズミとヒメネズミが同所的に生息し,アカネズミの方が2倍ほど大きく地上性,ヒメネズミは半樹上性となっている.
アカネズミについては繁殖生態,生活史(寿命は2年ほどで年2回繁殖),食性(植物種子,根茎,果実,昆虫などでコナラ属ドングリへの依存度が高い),共生者(オオヤドリカニムシがお尻付近に着いていることが多い.寄生者のマダニを食する相利共生関係らしい),調査法などが解説されている.
 

第2章 ドングリを食べる

ここではまず冒頭でも触れられたアカネズミのドングリとブナの実のみを与える飼育実験(もともとは餌の消化率を調べる目的で行ったものだそうだ)とその結果の謎が改めて詳しく紹介される.
そしてこの謎を解くべく,まずなぜドングリのみを与えたアカネズミが衰弱するのかを突き止めることになる.ドングリには炭水化物のほかかなり高い濃度でタンニン*6が含まれている.当時一般的にはタンニンは毒物(質的防御)ではなく消化阻害物質(量的防御)と認識されていたが,よく調べてみると,このような二分法は適切ではなく,タンニンには消化阻害作用(タンパク質や酵素と結合)だけでなく急性の毒物としての作用(内的窒素の流亡)があることが判明する.
ここから著者の最初のドングリ供与実験が解説される.タンニン測定法,タンニンフリーの配合飼料を確立し,まずタンニンフリー飼料で一定期間飼育したあとコナラのドングリ供与群,とミズナラのドングリ供与群,コントロール群を比較する.結果は明瞭でアカネズミはコナラやミズナラのドングリだけでは健康状態を維持できないことが確かめられた.
 

第3章 毒を克服する

では野外のアカネズミはどのようにしてドングリを食料として利用できているのか.著者は(1)貯食毒抜き仮説,(2)(シギゾウムシなどのドングリ虫との)食い合わせ仮説,(3)土喰い解毒仮説,(4)馴化仮説などいくつか仮説を立て考え始める.ドングリ虫は落果後すぐ脱出してしまうし,アカネズミの胃内容物に土が見いだせないことから(2)と(3)は捨て,(1)と(4)を確かめることにする.
まず貯食毒抜き仮説を確かめるべくドングリを土に埋めてタンニン量が変化するか確かめると,埋めて3ヶ月経ってもタンニン量が変化しないことが分かり(1)は棄却された
そして馴化仮説を確かめることになる.まず予備実験としてタンニンフリー飼料を与えた群と捕獲直後群でミズナラドングリ供与比較実験をすると,捕獲直後群では体重が減少しないことがわかった.馴化のメカニズムを考察し,そこからタンニン結合性唾液タンパク質がタンニン摂取により分泌量が増加すること,タンナーゼ産生腸内細菌がアカネズミの腸内に存在し,これもタンニン摂取により増えることを確かめた.
ここで本番としてタンニンフリー飼料供与群と少量ドングリ供与する馴化群を比較する実験を行い,体重変化,タンニン結合性唾液タンパク質分泌,タンナーゼ産生腸内細菌量を調べた.結果はいずれも馴化群でタンニン無害化が生じていることを支持するものだった.
またアカネズミにタンニンが高濃度にあるドングリ部位の摂食を避けるような行動防御も行っている(効果は小さい)ことも確かめた.
ドングリは決して優しい食物ではないのだ.著者は最後に「世界はなぜ緑なのか」問題にも触れつつ,ドングリは実は厄介な餌なのだということを強調している.

仮説を検証していく物語は楽しい.しかしなぜわざわざ馴化が必要になるのか(なぜ唾液や腸内細菌が最初から無害化できるように進化していないのか)については解説がなく,謎が残る.おそらくこの防衛にはコストがかかるので,ドングリを大量に食べることが予想されるような状況を条件として防御を展開する方が平均的には有利だということなのだろう.
 

第4章 野ネズミとドングリ

著者はここまで飼育実験でわかったことをフィールドで確かめたいと考えるようになる.ちょうどそのころ京都から盛岡への転勤を打診され,岩手のフィールドでそれに取り組むことになる.
ここでいったん日本の生態系の中でのドングリの意義が整理されている.

  • ドングリを食べる動物は多い.ツキノワグマ,ヒグマ,ニホンジカ,イノシシで胃内容物の大部分がドングリになることがあることが報告されている.(ネズミ類は粉々に砕いて食べ,消化も速いので胃内容物や糞から食物組成を明らかにするのは難しい)
  • 食物としてのドングリの特徴は,1個1個が大きいがハンドリングコストがかかること,結実量が多く,豊凶があること,炭水化物が豊富でタンニンを処理できれば貴重な栄養源になること,長期間の保存が可能なことになる.
  • ドングリは貯食型種子散布(実際に貯蔵され,忘れられて発芽するのは極くわずかだが,大量に結実するので意味がある)を行い,散布者としてはアカネズミとカケスが重要だとされている.
  • 岩手のフィールドのデータでは落果したドングリの70%以上が野ネズミに食べられるか持ち去られ,のこりの大半もシギゾウムシがつくか,菌類に寄生される.

ここから著者のリサーチとなる.様々なことを調べているのが印象的だ.

  • アカネズミとヒメネズミのコナラとツブラジイ(シイ属なので狭義のドングリではなく,タンニンが少ない)の果実選好性を調べたところ,ヒメネズミは摂食(その場で食べる)も貯食(持ち去る)もツブラジイを好んだが,アカネズミは摂食はツブラジイ,貯食はコナラを好んだ.(体の大きなアカネズミにとってはコナラの方が運搬効率が良いからだろうと推測されている)
  • コナラのドングリの変異を調べると,母樹ごとにも母樹内でも種子サイズやタンニン含有量の変異に富んでいることがわかった.(変異の意義についてはわかっていない)
  • 非破壊タンニン測定法を確立させ,アカネズミの(種子サイズやタンニン含有量の分散を変化させた)採餌パッチの選好性を調べた.アカネズミは種子サイズについてはばらつき受容的だが,タンニンについてはばらつき回避的だった.種子サイズは目で見てわかるのでその場で大きな種子のみ選ぶことが可能だが,タンニンについてはそうでないためと推測される.

 

第5章 野ネズミの数を決めるもの

最終第5章は個体群動態.ドングリには豊凶があることが知られており,これと野ネズミの個体群動態の関係が焦点になる.それまで関連があるというリサーチもないというリサーチもあって判然としなかった.また著者自身の経験としても大台ケ原のヒメネズミはブナの実の豊凶には反応したが,ミズナラのドングリの豊凶には反応しなかったそうだ.
著者はドングリの豊凶に対する野ネズミの個体数変化は当該ドングリのタンニン含有量により異なるという仮説を立て,既往論文のメタ解析を行う.まず世界のドングリを栄養量とフェノール量(タンニン量)からタイプ分けし,ネズミ側も種子食,草食,中間タイプにタイプ分けし,方策に対する反応をメタ解析する.結果は複雑で興味深いものだが,ポイントとしては高エネルギー高フェノールのドングリの豊作に対しては,種子食のネズミは反応し,そうでないネズミは反応しないというところだ.著者はこれはネズミのタンニン耐性により反応が異なるために生じるのではないか考え,タンニン耐性仮説を立てる.
そして著者はこれを検証すべく,北海道でミズナラ(低栄養高フェノールタイプ),アカネズミ(種子食),ヒメネズミ(種子食),エゾヤチネズミ(草食)のリサーチを行う.各ネズミのタンニン耐性を直接調べ(アカネズミ>ヒメネズミ>エゾヤチネズミの順だった),20年間のミズナラの豊凶と各ネズミの個体数変動を解析する.結果は3種ともに密度依存性があり,ミズナラの豊凶に反応する傾向があるのはアカネズミだけだということになりタンニン耐性仮説が支持された.
さらにここで著者はドングリとネズミだけでなく,ネズミの捕食者,ネズミに卵を食べられる鳥類,樹木の葉を食べネズミに蛹を食べられる昆虫,ネズミに寄生するダニの個体数が豊作年(t),翌年(t+1),翌々年(t+2)にどうなるかを解説し,そしてこのような複雑な生態系の動態はネズミやダニが媒介する感染症を通じて人類にも影響を与えていることを指摘している.
 
本書はドングリ食であるはずのアカネズミがドングリを食べて衰弱するという謎からはじめて,ドングリのタンニンによる防御の意味,アカネズミのその防御をかいくぐる仕組み,それが生態系や個体群動態に与える影響と進む研究物語が実に丁寧にまじめに書かれている.じっくり語ってもらって本当にありがとうございますという風な読後感の残る端正なたたずまいの一冊だと思う.

*1:ドングリは子葉と種皮(渋皮)だけでなく,果皮を含むので,単なる種子ではなく堅果と呼ばれる果実になるのだそうだ

*2:広義ではマテバシイなどのブナ科の樹木の果実を広く含める場合もある.ブナ科全部含めるとブナの実やクリ(これらは普通ドングリとは呼ばれない)なども含んでしまうため,このあたりは厳密には難しいところになるらしい.

*3:ハムスターが含まれる分類群になる

*4:英語だとしっぽが長くて耳が大きいネズミをmouse(小型),rat(大型)と呼び,目や耳が小さく尾も短い野ネズミはvoleと呼ばれるそうだ.日本産野ネズミを英語で表現するなら,ネズミ科のネズミはmouseに,キヌゲネズミ科のネズミはvoleに当たるそうだ.

*5:おそらく資源制約が2種までは何とかなる程度だということだろうが,なぜほとんどの地域でそうなのかについては想像の域を出ないと解説されている

*6:タンニンとは特定の化学成分の名前ではなく,「植物によって生産される,タンパク質と高い結合能力を有する分子量500以上の水溶性ポリフェノール」の総称なのだそうだ