From Darwin to Derrida その137

 

第12章 意味をなすこと(Making Sense) その2

 
意図を扱う第12章.ヘイグは単にロウソクにマッチを擦る機械仕掛けと水素センサーを備えて大気成分に水素がないときだけマッチを擦る機械仕掛けを提示し,前者は(水素のあるなしで爆発の有無の違いを生じるが,それは単に結果であり)解釈しないが,後者は水素のあるなし(情報)をマッチを擦るかどうか(行動)の選択に解釈するのだと説明した.
  

  • 解釈者による自由度1の解釈はメカニカルで理解を伴わないもので「意味」のラベルには到底値しないように見える.しかし真の洗練された解釈者が多くの自由度と多様な内的解釈をもっているとしても,その解釈の片方に情報があり,もう片方はシステムの別の部位とつながっている(という点においては水素センサー付の機械仕掛けと同じなのだ).

 
この単純な機械仕掛けを複雑にしていくと生物やヒトなどの複雑なデバイスと同じになる(つまりそこには質的な障壁はなく連続するなかでの量的な違いしかない)という論理構成はデネットによる意識の説明によく似ている.そして次の部分でヘイグはまさにデネットを登場させる.
 

  • 複数の配線状態を持ち,配線状態により同じ情報入力から異なる出力を出すことができるデバイスを考えてみよう.入力が出力の原因であるという場合,そこには非常に浅い意味しかない.情報がどのように出力として解釈されたかを理解するためにはデバイスの内的仕組みを知る必要がある.そしてなぜある入力が特定の出力として解釈されたかを理解するにはデバイスの機能と歴史を知る必要があるのだ.システムが何を知っているかを解説してくれるシステム内の全知のホムンクルスを呼び出すことはできない.解釈者は自分が実際に選択を行うまで,自分が何を選択するかを知っているわけではない.しかし観察者はしばしば解釈者の一貫した選択を自信を持って予測することができる.

 
「システム内を解説してくれる全知のホムンクルスなどいない」という部分がデネットの「解明される意識」にある議論になる.システムがどう動くのかについて全知のホムンクルスのような便利なガイドはいないが,そのようなシステムの挙動を観察している第三者はシステムの挙動の一貫性を(帰納的に)予測することができるということになる.

 

  • ジョン・デューイは「刺激と応答は実在論的な区別ではなく,目的論的な区別だ.目的論的区別とは機能の区別であり,それは目的をかなえるかという観点に関係する」と認識していた.
  • 応答(response)は目的を含意する.複雑な過程のネットワークの一部分を恣意的な境界で囲い,その外側から内側への因果を刺激,内側から外側への因果を反応,境界内の過程を解釈と記述することはできない.解釈者は情報を選択するように進化したかデザインされた志向性を持つメカニズムなのだ.このバージョンの行動主義においては入力が出力を決めるのではない.入力と出力の関係がメカニズムを決めるのだ.

 
だんだん哲学的になってきた.デューイはアメリカの哲学者.ここでの引用元は「The reflex arc concept in psychology」という1896年の哲学論文になる.
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