From Darwin to Derrida その154

 

第12章 意味をなすこと(Making Sense) その19

 
ヘイグは「選択」と「選好」を採り上げる.単に何かを選択したことだけがわかっても,その選択者の選好はわからない.何を選択し,何を選択しなかったのがわかれば,選択したものと選択しなかったものの間で選好勾配があることがわかるということになる.ここからヘイグは本章の冒頭で登場した「水素センサーを備えて大気成分に水素がないときだけマッチを擦る機械仕掛け」の話に戻る.

違いの生成とメカニズム その2

 

  • 爆発,あるいは爆発しなかったことの原因の問題をもう一度考えてみよう.片方で,マッチを擦ることの有無,酸素の存在の有無は違いを作っていない.水素の存在の有無こそが違いを作っている.もう片方で,マッチを擦ることや酸素の存在は爆発を引き起こすメカニズムの本質的な要素だ.科学者が水素の有無についてコントロール実験を行うとき,その他の条件をそろえようとする(もし彼女が酸素の有無やマッチを擦ることの有無の条件を変化させるなら,それは実験変数になり,潜在的な違いを引き起こすものとなる).観察は現実の出来事であり,可能性の中の違いではない,違いではなく,現実の物事がメカニズムを構成する.しかし私たちは違いを作るためにメカニズムを調べるのだ.

 
これは因果を調べるためのコントロール実験の話ということになる.コントロールされた条件のあるなしで結果が異なれば,それが違いを作る因果的な要因と推測できる.しかし実験自体は現実の出来事であり可能性を直接見ているわけではないということだろう.
 

  • 「違いを作るものとしての因果」は,何が違いを作りうるのかという問題だ.それは選択されなかった経路の歴史だ.「メカニズムとしての因果」は別の結果ではありえなかったものであり,物事の連鎖の単一の経路だ.この原因についての2つの概念の関係は熱心に議論されてきた.(Hall 2004; Strevens 2013; Waters 2007)異なる行動は異なる結果を生み出しうる.しかし特定の行動は特定の結果を生む.私たちは容易に世界をアイデンティティ,あるいは関係性として解釈し,たやすくこれらの視点を見逃してしまう.

 
この(コントロール実験が含まれる)現実に存在した出来事の連鎖とあくまで可能世界の中で定義される因果との関連について哲学的な議論があることが紹介されている.ここで参照されているのは「Causation and Counterfactuals」に収められたホールの「Two concepts of causation」という論文,ストレヴェンスの「Causality Reunified」という論文,そしてウォータースの「Why Genic and Multilevel Selection Theories Are Here to Stay」という論文になる.最後の論文はマルチレベル淘汰にも絡んでいるようでなかなか剣呑な雰囲気だ.

https://www.fitelson.org/269/Hall_TCOC.pdf
philpapers.org
www.cambridge.org


 

  • 解釈者とは,可能性のある入力(観察のエントロピー)を可能性のある出力(行動のエントロピー)に結びつける進化したメカニズム,あるいはデザインされたメカニズムだ.これらの自由度がメカニズムの能力(何を観察できて,どんな行動ができるか)を決める.解釈者は特定の入力を特定の行動として解釈するまで,不確定で未決定だ.情報は,観察されるまでは別でありえたものだ.意味は,観察が異なれば別でありえたものだ.解釈と情報(違いを作るもの)と意味(作られた違い)を結びつける.自らの運命に干渉するように進化した解釈者にとって,唯一有用な情報は違いを作る違いについてのものだ.
  • 違いを作るものとしての因果は,私たちの知識の不確実性を選択メカニズムに投影する.トークンとしての出来事が一度しか生じない単一ユニバースにおいて,なぜ「別でありえたもの」は「別でありえなかったもの」より重視されるのだろう.それはどんな違いを作るのか? どのように決定できるのか? フィッシャー(1934)は私の心に1ビット干渉し,私は今や「別でありえたもの」を選ぶ.しかし私は違いも,それにかかっているものも理解していない.そのビットは元に戻りうる.「別でありえたもの」の視点から見ると,私たちの選択は世界を変える.私たちは,過去の選択が違いを作り,将来の選択が違いを作るからこそ,選択するように進化したのだ.

 
なかなか難解なテキストだ.解釈者は得られた情報が示す様々な可能性の中で自らにとってよい結果(違い)をうむような行動を選択する.つまり解釈によりあり得た不確定で未決定な状態は1つに収束する.量子論のようなテキストでもあり,デネットの自由意思の解釈にも近いだろう.
最後に出てくるフィッシャー(1934)とはフィッシャーが「Philosophy of Science」に投稿した「Indeterminism and Natural Selection」という論文を指している.これは第11章でも引用されていたものだ.
https://digital.library.adelaide.edu.au/dspace/bitstream/2440/15119/1/121.pdf


デネットの議論はここにある