書評 「人類とイノベーション」

 
本書はサイエンスライターマット・リドレーによるイノベーションを扱った一冊.リドレーは「赤の女王」,「徳の起源」,「やわらかな遺伝子」のような進化生物学についての啓蒙書で著名になり,最近ではスコープを広げて「繁栄」,「進化は万能である」のような人類史を進化的な視点から考察するような本を書いている.本書もその流れにつながる1冊で,基本的には「進化は万能である」の第7章「技術の進化」の内容を一冊に広げたもので,人類を繁栄に導くのに役立ったイノベーションがテーマになっている.原題は「How Innovation Works」.
 
ここでリドレーが採り上げる「イノベーション」とは単なる発明・発見ではなく,それを安価で信頼性のあるものにし,採算が取れるようにして世の中に普及させ人々の生活水準を大きく向上させるもののことを指している.そしてそれは何からの「ありえなさ」(エントロピー減少,エネルギー生成)を実現させるものであり,偶然では生じえず,潜在的には無限の可能性を持つ.リドレーによればイノベーションがどうして起こるかについては体系的な概念が確立されていない.そして,本書では様々なイノベーションがどのように生じたのかを丁寧に追い,どのようなパターンがあるのかを探っていくことになる.

具体的にとり挙げられるイノベーションは次のような各種様々なものだ.

  • エネルギー関連イノベーション:蒸気機関,電球,蒸気タービン,シェールガスの生産
  • 公衆衛生イノベーション:予防接種,水道殺菌,抗生物質,薬剤処理蚊帳,電子タバコ*1
  • 移動・輸送のイノベーション:蒸気機関車,スクリュープロペラ,内燃機関自動車,ディーゼルエンジン,飛行機,ジェットエンジン,商用航空の安全性向上
  • 食料生産のイノベーション:ジャガイモの安定栽培,窒素固定(化学肥料),矮性小麦(農林10号と緑の革命),害虫耐性作物などの遺伝子組み換え作物,遺伝子編集技術
  • ちょっとした考え方の転換がきっかけとなったイノベーション:アラビア数字(0の発見と位取り法),トイレのS字パイプとU字継ぎ手,波形鉄板(トタン板),コンテナ船,キャスター付きスーツケース,食のイノベーション(材料,レシピ,フランチャイズ方式)
  • 通信のイノベーション:電信,電話,無線通信,放送,コンピュータ,検索エンジン,ソーシャルメディア,AI
  • 先史時代のイノベーション:農業の導入*2,イヌの家畜化*3,高度な道具の発明*4,分業と交易.火と加熱調理
  • その他(イノベーションの特徴を良く示す例として示されたもの):経口補水療法,テフロン,ケブラー,ポストイット,DNA型鑑定

 
この次から次へとイノベーションの詳細を語る部分は本書の中心のなすもので,読み物として非常に面白く良く書けている.そしてこれらの物語からリドレーが描き出すイノベーションの特徴には以下のようなものがある.

  • 進み方は劇的ではなく緩やか.しばしば地味に進む.試行錯誤を経由した隣接可能性への移行の積み重ねであり,アイデアの組み合わせも重要.基本的に進化的プロセスだ.
  • しばしば起源は曖昧で,誰の貢献が一番重要だったかはっきりしない.
  • 指導や計画や管理はなく,しばしば突破口は偶然に見つかる.
  • 技術の発明より,需要を調査しそのニーズを満たす方法を見いだすことがしばしば突破口につながっている.
  • ほかのテクノロジーの進歩を前提にして現れるべきときに現れる.しばしば同時発明という現象が見られる(前提となる技術や発見の後,多くの起業家たちが激烈な競争を繰り広げる結果として生じる)
  • どのように進むのかを事前に予測することは困難.新しい技術は短期的に過大評価され,長期的には過小評価される 真価が理解されるには15年ぐらいかかることが多い.
  • 「科学的発見からイノベーションが生じる」としばしば考えられているが,発明から科学が生まれる事例も多い(試行錯誤の末にとにかくうまくいくものが見つかり,その科学的原理は後になって説明される).
  • イノベーションは収穫逓減ではなく収穫逓増をもたらす.

 

  • イノベーションが進むには試行錯誤が不可欠.とにかく試すことが重要.誤りに寛容で,リスクテイクが奨励されているような状況が望ましい.
  • 個人やグループの協力,共有が重要であり,チームスポーツ的な面がある.
  • 国家に負うことはほとんどない 国家の資金提供が取りざたされる事例もほとんどはスピルオーバー事例だ.
  • 帝国はイノベーションが苦手.分権的な方がイノベーションが進む(アメリカの連邦制はこの良い例).特に都市で生じる.大企業もイノベーションを生むのは苦手,大企業がイノベーションを進めるには競争が不可欠.

 

  • 背後には激しい競争があり,イノベーションはしばしば詐欺の材料とされることがある*5

 
そしてリドレーはイノベーションに対する阻害要因も詳しく語る.

  • イノベーションは巨大な恩恵をもたらすにもかかわらず大衆から嫌われがちだ.しばしば「仕事を消滅させる」という不安から嫌悪の対象となる.しかしこれまでのところそうならなかったことがはっきりしている.基本的にイノベーションがあると労働者の賃金は増え,余剰労働力はすぐにもっと可処分所得の多い人向けの仕事に吸収される.基本的にイノベーションは本当に大切だと思うことができるように人々を解放するように働くのだ.
  • 特にイノベーションの障害となるのは既得権持ちからの妨害(レントシーキング)だ.例としてマーガリンへの酪農業界からの中傷,遺伝子組み換え(GM)作物・化学殺虫剤に対するヨーロッパの政治運動(グリーンピースやFOEにとってGMなどに対する騒ぎ立ては大きな金づるであることが説明されている)などがある.そしてこれらに対応して「予防原則」を政策としてとるとイノベーションを大きく妨げることになる.現在進行中の妨害にはドローンに対する規制,EUのデータ保護規制がある.
  • 原子力技術が進展しないのはその強い予防政策的な規制にがんじがらめになり,試行錯誤ができないことが大きく効いている.第二次世界大戦後,原子力の未来は明るいと考えられていた.液体金属原子炉や液体塩原子炉などのメルトダウンを原理的に無くして安全で効率的な原子炉を開発できる展望があったのだ.しかし予防原則的な厳しい規制の結果(これには安全面からのもっともな理由もあるが),試行錯誤は封じられ,人類は加圧水型原子炉という効率が悪く安全性にも劣るテクノロジーに閉じこめられ,原子力は斜陽産業となってしまった.
  • そして知的財産権はインベーションを促進するために導入されているものだが,(初期コストが極めて大きな製薬などの一部の例外を除き)特許権はネットではイノベーションを妨害する効果を持っていることが実証リサーチから示されている.(また前半で語られたイノベーターの多くはその人生の大きな部分を不毛な特許権論争に費やしていることも指摘されている)
  • EUは強い規制により最もイノベーションが起きにくい土地となってしまっており,アメリカや日本でも創造的破壊の強風が止みレントシーキングの微風が吹いているようだ*6
  • そしてこれは(その政治的専制にもかかわらず商業活動には割りと大きな自由が黙認されている)中国で(特にハイテク関連の)イノベーションが大きく進展していること*7を説明する.しかし最終的には政治的専制による抑制が生じる可能性が高く,このような状況の未来は決して明るくないだろう

 
最後にリドレーは,イノベーションは自由から生まれるものであり,多元的で企業家精神にあふれる競争のたまものであることを強調して本書を終えている.
 
本書はリドレーによる「世界は(広い意味の)進化にあふれている」という主張の具体例の1つであるイノベーションについて深堀した本ということになる.何はともあれ,様々なイノベーションの具体的歴史的記述は大変面白い.蒸気機関,電球,ハーバー=ボッシュ法,種痘などのイノベーションが巷間伝わるような単純な発明物語とは異なり,非常に複雑で紆余曲折の経緯をたどり,激烈な競争が背後にあることがよくわかる.個人的には子どものころ楽しんだ「発明発見物語」を補完してもらってような気分で大変楽しめた.
そして行き過ぎた予防原則が人類の大きな可能性を摘む馬鹿げた政策であり,既得権持ちのレントシーキングが人類の進歩を阻害していることも強調されている.楽しく発明競争物語を楽しんだ後,現代のEUのイデオロギー的政策の問題点や日本の既得権重視の風潮を憂える気分にもさせてくれる一冊だ.

 
関連書籍
 
原書

 
リドレーの「世界は(広い意味の)進化にあふれている」ことを主張する本.第7章で技術の進化が採り上げられている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160502/1462186705

 


同邦訳.邦題は本の趣旨と異なっていて感心しない.私の訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160916/1474014632

 
 
合理的楽観主義「世界はよくなってきたし,これを続けることは可能だ」についての本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20100925/1285386899

同邦訳.

*1:既存の喫煙手法よりは遥かにましという意味でのイノベーションと捉えられている

*2:リドレーは気候変動が引き金になって世界的にほぼ同時にいくつかの場所で農業が始まったという見解をとっている

*3:ベリャーエフのキツネ実験やヒトの自己家畜化の議論も紹介されている

*4:ここではかつて文化のビッグバンと呼ばれたヨーロッパにおける4〜5万年前の文化興隆を,15万年前からアフリカでゆっくり生じたイノベーションの「追い上げ成長」に過ぎなかったという見解をとっている

*5:ここは一章丸々使って論じられていて面白い.エンロン事件,クアトロバウムの偽爆弾探知機事件,セラノス事件などが詳細に解説されている.ここではシリコンヴァレーにあるヴァイパーウェアの慣行やイーロン・マスクのハイループ構想の怪しさなども採り上げられている

*6:企業の投資意欲が減退していること,コンプライアンス担当役員数が急速かつ継続的に増加していることが指摘されている

*7:デジタルマネーが急速に普及し,多くのレストランにはメニューがなく(スマホアプリが利用される)店にキャッシュレジスターがないことも多い.遺伝子編集,AI,原子力技術の進展スピードも西欧では考えられないほど速いと指摘されている.