本書は物理学者であるグレゴリー・グバーが「ネコひねり問題」について語った本になる.「ネコひねり問題」というのは,「ネコは逆さ向けにして落とされても空中でうまく身体をひねって脚から着地するが,物理学的に考えてみて,なぜ,どのようにしてそのようなことができるのか」という問題だ.書店でこの本を見かけて最初に感じたのは,ネコは頭からひねってその後身体全体の向きを変えることができるが,それだけの問題をどうやったら一冊の本にまで膨らませることができるのだろうかということだ.そしてそれに興味を引かれて購入して読んでみたものだが,この「ネコひねり問題」には何重にも絡まる謎があって,どうしてなかなか奥深く面白い.原題は「Falling Felines and Fundamental Physics」
第1章 「ネコひねり問題」に魅かれた有名物理学者たち
第1章はいわば導入ということで,この「ネコひねり問題」にはマクスウェル方程式で有名なマクスウェルやナヴィエ=ストークス方程式で有名なストークスが興味を持ち,実験も行って調べていたという逸話だけが語られている.
第2章 謎は解明されたか?
第2章からネコひねり問題についての学説史が開始される.
- ネコひねり問題の最初の説明は次のようなものであった.「逆さまに落とされたネコは落下後すぐに脚を広げ背中を反らせる.これにより重心がネコの上部に移動し,ちょうど重心が上にある重りが水中に沈む時には反転して重心が下になって沈んでいくように,ネコは空中で反転するのだ.」これはもともと1700年ごろにフランスの数学者パランが与えた説明だという.(パランの人生とネコひねり問題への取り組みが詳しく解説されている)
- 19世紀中ごろまで人々はこれに納得していたらしいが,これは物理的には間違いだ,空気中の浮力は非常に小さく,どこにもぶら下がっていないネコがこのような理由で反転することはない.(ただしスカイダイバーが空中で姿勢を制御するには(空気抵抗が大きいので)背を反らすこの方法が有効だそうだ)
- マクスウェルとストークスはこの説明に納得せずに調べようとしたが,人間の視覚の限界に阻まれネコが実際にどのように動いているのかを正確に知ることができずに前進できなかった.
第3章 馬の運動
ネコがどう動いているかを正確に知るためには写真技術が必要になる.というわけで第3章は写真技術の歴史(写真そのもの,機械式シャッター,高速連続写真)が語られている.本筋の物理問題からは離れるが,様々な発明家の人間ドラマが描かれていてなかなか読ませる発明物語になっている.当時馬がトロットするときに全ての脚が地面を離れている瞬間があるかという論争があったこと,実際に素早く動いている馬の姿を撮影することが可能になり,その論争には決着がついたが,今度はこれまで絵画の中で伝統的に描かれてきた馬の姿と異なっていたために芸術論争が巻き起こったなどの逸話は楽しい.
第4章 フィルムに捕らえられた猫
第4章ではこの高速連続写真が動物の運動の研究家マレの手により改良され,ついにネコの宙返りの連続写真が撮られる経緯が書かれている.ここでも発明家たちの奮闘ぶりが楽しい.
第5章 回って回って
様々な経緯の末1894年にマレは逆さに落とされて宙返り着地するネコの連続写真を撮影することに成功し,フランス科学アカデミーで発表した.物理学者たちはこの写真を見て,ネコはなぜ身体を支える支点なしに宙返りできるかを議論し始めた.これは角運動量保存の法則に反するように思われたのだ.(ここで角運動量保存の法則について詳しい解説がある)
- (写真の発表前に)天文学者で数学者のドロネは猫が支点なしに(つまり何らかの外部の足場を押すことなしに)宙返りすることは不可能だと断言していた.マクスウェルはネコは落とされたときに持っていた角運動量を身体を広げたり縮めたりして調節しているのだろうと考えていた.しかし写真を見るとどちらも間違っていることがわかる(落とされたときにほとんど角運動量を持っていなくとも,ネコは支点なしに宙返りする).
- 物理学者たちは当初混乱した,しかしギューとレヴィがネコが剛体ではないことを考えに入れれば宙返りできるとする説明を見つけた.それは「タックアンドターンモデル」と後に呼ばれる考え方で,前脚の開閉と後脚の開閉をずらして組み合わせることで,上半身と下半身の慣性モーメントを操作するというものだ(まず後肢だけ広げ,上半身と下半身をねじると上半身が余計に回る,そこで後肢を畳み前肢を広げて逆にねじると下半身が余計に回る,あわせると空中で支点なしに回転できることになる).問題は一件落着したように思われたが,ネコが実際にこのモデルに従っているのかは十分に吟味されなかった.
- また同時期にルコルニュがヘビが別の方法で宙返り可能であることを論文で指摘している.ヘビのような細長い動物は円環状になって,全身を身体の中心軸にそって回転させることによって,角運動量を保存したまま上向きから下向きに転回できる.これは理論的な指摘とだけ受け止められていたが,実はネコの動きはこちらに近かったのだ.
第6章 地球を揺るがす猫
ここではこのネコひねり問題がきっかけになったどろどろの科学論争が紹介されている.
- ペアノの公理系で有名なペアノはネコひねり問題について「ネコはしっぽを高速回転させることによってそれ以外の身体を逆方向に回転させられる」ことを指摘した.(後に,この効果が全くないわけではないが,しっぽのないネコも問題なく宙返りでき,その効果はあまり大きくないことがわかっている)
- 当時チャンドラーが計測した地球のチャンドラー揺動の周期が問題になっていた.オイラーはこのタイプの地球の章動があることを予測し周期が306日であると計算していたが,実際の計測周期は427日だったのだ.
- このズレは地球が完全に剛体でないことから生じており,ネコ問題の本質と良く似ている.これを最初に指摘し,海流の影響を示唆したのはヴォルテラだったが,ペアノはこれは自分のネコひねり論文にヒントを得たのだと暗に示唆してこの先取権を軽んじた.(ヴォルテラの取り組み,その後生じた二人の間の激烈なやり取りが詳しく解説されている.*1)
第7章 猫の立ち直り反射
次に問題になったのは,目隠しされたネコも正しく宙返りできるが,このネコは空中でどのように自分の向きを知るのかという問題だった.これが問題になるのは空中に放り出されたネコは実質上無重力状態にあり,重力を使って向きを感知できないはずだからだ.(これは厳密にはアインシュタインの一般相対性理論から導かれるとして,ここで相対性理論の簡単な解説もある)
ここではネコの反射神経系,加速度感知の仕組みの研究史,マグヌスによる内耳による加速度感知によりネコひねり反射が生じるという誤った仮説がまず解説され,ここからの進展が語られる
- マグヌスの仮説を吟味する中で,ラドマーカーとブラークは実際のネコはタックアンドターンモデルに従っていないことに気づき,新たに「ベンドアンドツイストモデル」を提唱した.これはネコは身体を折り曲げることで上半身と下半身の回転軸を(理想的には)180度異ならせ,角運動量を保存しながらそれぞれ回転させるというモデルだ.(これは先のヘビモデルと基本的に同じ考えで)後の研究でネコひねりを可能にする最も大きな要因であると認められている.
- では(目隠しされた)ネコはどのように空中で向きを知るのか.生理学者のブリンドリーは(同じように宙返りするウサギを用いた)一連の研究*2で,ネコは直前何秒かの重力場の記憶に基づいて向きを知ることを明らかにした.
第8章 猫,宇宙へ
では無重力状態ではどうなるのだろうか.ここで著者は宇宙開発史,とくに無重力が生物に与える効果を調べるための実験の歴史を詳しく語る.そこではあまりネコは登場しなかったが,1957年に大型輸送機で作り出された自由落下状況でネコが調べられた.それによるとネコは無重力状態に入って5秒以内であれば宙返りに成功することがわかった.これはブリンドリーの実験結果を裏付けているものだ.
そしてネコの宙返りにヒントを得た,無重力状態で宇宙飛行士が姿勢制御する方法のテクニック開発の物語が語られている.このために開発された数学的手法を用いたモデルが現在のところネコひねり問題の数学モデルとして最も正確なものになっているそうだ.
第9章 謎を隠し続ける猫
ここで新たなネコひねりの謎が提示される.
- 19世紀末に高層建築が増えるとネコが自然淘汰で適応していたであろう高さ(2階程度だと考えられる)以上の高さから落ちることが増えた.当然2階以上から落ちたネコは高いところから落ちるほど怪我することが増えるだろうと思われたが,実際にデータを調べてみると,確かに8階程度まではネコはより怪我しやすくなるが,それを越えると逆に怪我しにくくなることがわかった.
- この謎はまだ完全に解かれていないが,1つの仮説は空気抵抗により終端速度(ネコぐらいの大きさと重さの物体は5~6階から落ちれば終端速度に達する)に近づくと徐々に加速が下がり下向きの重力を感じられるようになるので緊張が解けより着地に向けて準備しやすくなるというものだ.また身体を広げて(ムササビが滑空するのと同じように)着地場所を調節できる可能性も指摘されている.
またここではネコがどのように舌をぴちゃぴちゃさせて水を飲んでいるのかについても解説されている.
第10章 ロボット猫の進化
第10章の話題はロボティクス.様々な動きをするロボットの開発史が語られ,その中の一コマとしてロボットにネコひねりをさせる試みが紹介されている.このロボティクスの研究ではネコひねりを解析するための物理モデルが開発され,ネコひねり能力はベンドアンドツイストモデルで十分に説明でき,タックアンドターンモデルにはせいぜい二次的な役割しかないことが明らかになったそうだ.またここではそれ以外のやり方でロボットを宙返りさせる方法についてもいろいろ解説されていて面白い.
第11章 いまだに残る数々の難問
これでネコひねりの物理は十分に解明されたかに思われたが,実はいまだに論争は続いているのだそうだ.それは実際のネコの動画を見るとベンドアンドツイストだけでなくタックアンドターンやしっぽ振り回しなどの動きの要素が見られることがあるからだ.これは考えてみれば当然で,ネコは正しい姿勢に戻るための方法を1つに限定しなければならないわけではなく,いくつかの選択肢をその場に応じて組み合わせて使っているから(そして個別のネコは異なる組み合わせを使うから)だ.ここでは似たようないくつかの説明が可能な問題としてムペンバ効果(ある条件の元では常温の水より沸騰した水の方が先に凍る現象)の説明についての論争にも触れられていてなかなか面白い.
第12章 猫の宙返りと基礎物理学
第12章はネコひねり問題は幾何学的位相の観点から捉えることができることについて.幾何学的位相を説明するためにフーコーの振り子の挙動(フーコーの振り子の振動面は地球の自転につれて回転するが.(北極点や南極点以外では)1日で360度より少ない角度でしか回転せず,1日経つごとに振動面がずれていく)が解説され,ネコひねりの挙動(ネコが様々に姿勢を変えて元の姿勢に戻ったときにその向きが変わっている)にはこれと本質的に同じ要素があることが指摘されている.
そしてこれは数学では「非ホロノミック系」と呼ばれるものであることが説明され,量子力学における実例,ネコひねりにも言及がある量子力学の論文の話などが語られている.この章は著者が自由に物理学的蘊蓄を語っていて楽しい.
第13章 科学者と猫
第13章では締めくくりとして愛猫家でもあった科学者たち(ニュートン,ハミルトン,ウッド,テスラ,アインシュタイン,ハッブル)の逸話が語られ,シュレジンガーのネコが登場し,そして論文の著者となったネコ*3の話がされている.最後の口直しというところだろう.
以上が本書の内容になる.ネコひねりという問題を膨らませて次から次に関連するトピックが現れ,その中で角運動量を保存しながら宙返りするなぞが徐々に解かれていき,わくわくしながら読み進めていける.ちょっと科学的な息抜きのための読み物としてとても秀逸だと思う.私は多いに楽しませてもらった.
関連書籍
原書
*1:チャンドラー揺動の実際の態様や原因はかなり複雑で,剛体からのズレの最大の要因は海洋底における水圧の変動である旨の解説があるが,なぜ水圧が変化するのか,そしてなぜ水圧の変化が運動に影響を与えるのかについては説明されていない.もう少し詳しく解説してほしかったところだ
*2:レールや自動車や遠心機を使うなかなか大掛かりな実験で詳細は面白い
*3:ヘザリントンが単著論文の原稿にwe, ourを使ってしまい,それを(ワープロのない時代に)直すのが面倒になって愛猫のチェスターを著者に加え投稿し,そしてこの論文は受理された.ヘザリントンはこの悪ふざけを学科長に白状したが,学科長は逆にチェスターに客員特別栄誉教授にしようと言い出した.この話は物理学者の間で大いに広まり,チェスターは業界で大変有名になったそうだ