From Darwin to Derrida その195

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.大学の文理に関する蘊蓄を披露したヘイグは,ドイツの哲学者ディルタイに言及する.ディルタイは自然科学は部分から全体を理解するもの(これを「説明」と呼ぶ)で,人文科学はまず全体を経験し,部分を区別するのだ(これを「理解」と呼ぶ)と論じたらしい・
  

第15章 ダーウィニアン解釈学 その3

  

  • ディルタイの見解によると「説明」は統合,つまり連結していないパーツを組み上げることであり,これに対して「理解」は連結した統一から始まるということになる.理解はこの単にして全なるもののパーツを分析することだ.ディルタイは1900年の「Die Enstehung der Hermeneutik(解釈学の興隆)」において社会人文科学の中心問題を単一の存在の一般化だと定式化している.

 

  • 人文科学のシステマティックな探求が,単なるものの客観的理解からより一般的な関係性や内包的連結に波及していくとしても,理解や解釈のプロセスは基礎であり続けるだろう.故にこれらの原則の方法論的確実性は,歴史そのものと同じく,この単一のものの理解をユニバーサルに妥当なものにできるかどうかにかかっている.だから人文科学は,自然の概念的知識とは全く異なる,独自の問題を持つのだ.

ディルタイ

 
引用部分はいかに19世紀末のドイツの観念的な哲学者のもので難解だ(ちゃんと訳せている自信はなし).人文科学は全体を経験することがまず先に来る「解釈」の学問であるというわけで,しばしば現在の自然淘汰に懐疑的な学者たちが自然淘汰的な説明を(批判的な形容として)「還元的」とする土壌の起源であるようにも感じられるところだ
www.digitale-sammlungen.de

 
ここからヘイグがなぜディルタイを持ち出したのかの部分になる.ヘイグは人文科学も自然科学の手法をより用いるべきだとするのではなく,自然科学のうち少なくとも生物学にはこの「まず全体を経験する」問題があるのだと指摘する.なかなか独特の視点で面白い.
 

  • しかしこの問題は人文科学(human studies)のみにあるものではない.それは全ての生物についての学問に生じる.全ての生物種,全ての生物の属は深い進化史を持つ独自のものだ.
  • ナメクジの行動に取り組む生物学者は演劇批評家と全く同じ立ち位置にある.個別のパフォーマンスは進化と発生的過去に形作られており,その詳細を知ることはできないし,経験科学の方法論で操作できない.多様な情報源からなるその知識は,もしナメクジの意味を知りたいなら,解釈の問題から逃れられない.生物学は自然に接ぎ木された魂の実り多い小枝なのだ.(Biologie is a fruitful scion of Geist grafted on Natur.)

 
生物の行動,あるいは適応的機能の発揮をパフォーマンスという用語で表しているが,これは演劇の演技とかけられていることになる.
確かにナメクジなどの生物個体は個別のパーツからなる有機的生命体であり,そう形作られるには発生の仕組みが必要で,そしてそれがそうある理由は進化史における自然淘汰の働きがあることになる.ヘイグによれば,進化史を持つ生物を理解する問題には,人文科学的な解釈学の問題が内包されているということになる.
 

  • 解釈学のサークル(部分から全体を理解することと全体から部分を理解することの相互関係)は生命を理解することの中心にある.
  • 自然淘汰のメタファーは,生物個体のパフォーマンスがどの個体が生存繁殖しどの遺伝子が複製されるかを決定する全てのプロセスを包含する.全体がパーツを淘汰し,問題が解決を淘汰する.
  • 情報遺伝子は過去のパフォーマンスのアーカイブテキストで,過去のパフォーマンスがテキストを作り,そのテキストが情報を与えてくれる.物質遺伝子は劇の中の俳優だ.
  • 生命はテキストとパフォーマンスが相互依存的に互いに双方向の因果関係を持つサークルだ.サークルは永遠の繰り返しから突然変異(違いの起源)と淘汰(違いの消去者による意味の想像)によって救い出される.繰り返し使用のテストを耐え抜いた劇の小道具は生物個体がその世界を解釈するためのツールなのだ.

 

  • 生命体の精妙なメカニズム(私が魂と呼ぶもの)は,生物個体に多様な感覚入力を統一された行動の選択として統合することを可能にする.
  • 魂は簡単には分析できない.それは純粋の物理学的用語により説明可能であり,説明不可能だ.
  • 魂の構造は物理化学的に不定(arbitrary)であるが,物理法則に従う.魂の行動は,物理世界における意味を作り出すものであり,物理化学的に適切(apposite)だ.
  • 魂の行動を理解するにはメカニズムだけでなく動機と意味の説明が必要だ.解釈学と生物学は相互依存的に共存する.生物学は解釈的な魂の進化的発生的起源を説明する.魂の理解は解釈の問題なのだ.

 
この部分は圧巻だ.これまでヘイグが論じてきた様々な要素(自然淘汰と目的論,テキストとパフォーマンスの再帰的な関係,意味と解釈)が組み合わさり,生物学という営みの深さが論じられている.