From Darwin to Derrida その212

 
解釈の自由性についての補足があり,その補足の補足(Supplement to the Supplement)ではsexとgenderの意味の歴史が語られる.ここまでは英国において19世紀にはsexとgenderはほぼ同義で使われていた(その証左として1849年に出版されたディッケンズのデイヴィッド・コパフィールドが引かれている)こと,当時はむしろgenderのほうがややこっけいな言い回しとなっていたことまで解説された.
 

補足の補足 その2

 

  • 私は「sex」と「gender」についての最近の用法シフトを,ミーム進化を考察するために調べてみたことがある.

 
これは全く知らなかったが,ヘイグはこれについて「The Inexorable Rise of Gender and the Decline of Sex: Social Change in Academic Titles, 1945–2001」と題する論文を書いているようだ.表題にもあるようにこの用法シフトはアカデミアの論文についてのものが取り扱われている.
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

  
またそもそもの使い分けとしては,genderには文法に関するもの(文法的性:ドイツ語やフランス語にある名詞についてのカテゴリー(女性名詞,男性名詞,中性名詞など)に関する概念)としての用法があったという説明を聞いたことがあったが,ヘイグはそれについては触れていない.
 

  • 短くまとめると,社会心理学者と精神分析医たちは「社会的に構築された”gender”」と「生物学的に決定された”sex”」の区別を1960年ごろに導入した.「gender」はこれらの分野での専門用語となった.そしてそれは理論的区別を明確にするためと,読者に「著者は社会的なことが生物学的なことより重要だと考えている」ことのシグナルとして使われていた.動物は「sex」を持つ.ヒトだけが「gender」を持つのだと.
  • この基礎から,1980年代にフェミニストが「gender」を性差について社会的要因が大きいとする彼女たちの信念のシグナルとして使い始め,「gender」は一般的にも使われる用語となった.
  • しかし「sex」と「gender」の使い分けは当初のものと異なってきた.「gender」はそれが社会的なものだろうと生物学的なものだろうと,男性と女性の差の全てを指す用語とされた.ハムスターさえも「gender」を持つのだ.

 
つまりこれはsexとgenderは当初ほぼ同義であったものが,1960年ごろ明快に異なる意味を持つとされ,それが1980年ごろから再びオーバーラップされた意味を持つようになったということになる.
 

  • 私はこの論文において,「sex」と「gender」の意味が再収斂した2つの要因を示唆した.
  • 第1に生物学的要因と社会的要因は性差の決定においてしばしば相互作用する.そしてそのような状況においてニュートラルな用語がなかった.そのようなオーバーラップのケースで「gender」はより安全なデフォルトだった.そのため生物学的「sex」と社会的「gender」の区別が崩れていったのだ.
  • 第2に多くの聞き手は性差にからんで使われる「gender」という語を聞き,その理論的な区別を知らないまま,それをファッショナブルな一般用語として受け入れた.

 

  • 現在私は「gender」の興隆と「sex」の衰退にはさらに別な要因があると考えている.ある学生は彼女がなぜ「sex」より「gender」を好むかをこう説明した.「「gender」はカテゴリーだが,「gender」は行為だ」と
  • 一部の話者は「sex」が性交を表す意味もあるのでそれを使うのを避ける.「sex」が性交についての婉曲表現として広まったのは20世紀になってからだ.あなたはFワードを見て顔をしかめたことがないだろうか? 私はそれを書くのをためらうし,読んでもとまどってしまう.婉曲話法はそれを言うのをはばかられることをいうための礼儀正しい方法だ.しかしある婉曲表現が定着すると,私たちのその物事についての忌避感はその婉曲表現にも付着し,それは礼儀正しさを失う(いまやSワードに強く結びついてしまった「toilet」という語の言語的運命を考えてみよう).私たちが「sexual activity」についてオープンにしゃべることへのためらいは「sex」という語を「sexual connotation」で汚染してしまった.そしてこのような結びつきがより直接的でない語への好みを産み出したのだ.皮肉なことはもはや忘れられた「to gender」の定義は実は交尾に関係していたということだ.

 
学術用語の厳密な使い分けを理解しないままファッショナブルな一般用語として流行るというのはいかにもありそうで面白い.そしてもともとsexには性交という意味はなかったが,婉曲表現としてその意味が染みついてしまったので使用が避けられるようになってgenderが一般に使われるようになったというのはさらにありそうな話だ.日本語の「セックス」にはもともと英語の「性別」という意味よりも「性交」という意味の方が強い単語になっているので,この説明がより腑に落ちるということかもしれない.日本での「性」「セックス」「ジェンダー」の用法の変化を調べるといろいろ面白いだろう.
 

  • 話し言葉,書き言葉としての「sex」と「gender」の公的な形態(つまり発音と綴り)は文脈における用法の大きな変化にも関わらず変わっていない.変化は公的形態への私的連合として生じた.語の意味は歴史を持つものであり,本質的に決まるものではない.
  • どの時点においても異なる話者は語の公的形態が何を意味するかについて異なる解釈をし,その公的形態を異なる文脈で使う.十分多くの話者がその語を「間違った」意味で用いれば,その私的定義はその言語コミュニティの受容された規範になる.異端は正統になる.意味は用法なのだ.

 
そしてヘイグのここでのメッセージは,意味は用法にある,そして文脈と私的テキストに沿った解釈が重要なのだということになるだろう.