War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その39

 
ターチンによるローマ帝国の興隆.辺境とメタエスニック断層線と古代ローマの価値観「父祖の慣行」がアサビーヤにつながったと主張し,最後に古代ギリシアとの差(なぜアテナイやスパルタは帝国にならなかったのか)をあつかう.ターチンはスパルタを吟味したあとアテナイをみる.
 

第6章 オオカミに生まれつく:ローマの起源 その9

 

  • アテナイはスパルタと全く異なる社会を持っていた.しかしその被支配民の扱いの論理には似たところがあった.そしてそれが彼等の帝国の短命さ(紀元前478年〜紀元前404年)をもたらしたのだ.
  • アテナイ帝国は協力的な試み,つまりイオニア人をペルシア帝国から防衛するためのデロス同盟として始まった.ペルシアからの脅威が短期間だがギリシアの団結をもたらしたことは注目に値する.もしペルシアからの脅威が長引けば,マケドニアではなくアテナイこそが巨大な帝国を作ったのではないかと考える人もいるかもしれない.しかし実際にはペルシアはサラミスの敗戦後ギリシアから手を引いた.
  • 外部からの脅威が去った後,アテナイ人はデロス同盟を(同盟全体の共通利益ではなく)自分たちの利己的な目的のために利用し始めた.同盟ポリスのガレー船や軍隊の負担を金の負担に少しづつ入れ替え,徴収した金をアテナイの船と兵の増強に使った.つまり同盟ポリス民を被支配階層として搾取し,自分たちは支配階層として戦士となった.スパルタのヘロット搾取ほど酷い搾取ではなかったが,スパルタとの類似は印象的だ.イオニア人たちは,自分たちの立場を自覚するとアテナイの圧政から逃れようと考えた.アテナイがペロポネソス戦争でスパルタに敗北すると同盟ポリスはみな脱落し,アテナイ帝国は終わったのだ.

 

  • スパルタやアテナイと比べてローマはハンニバル戦争時の苦境に立たされた時にも同盟市から見捨てられなかった.ハンニバルは軍事力による脅しによってしかイタリアの諸都市をローマから引き離すことができなかった(例外はブルッティ人で,戦後ローマから厳しく罰せられた).多くのイタリア諸都市はローマに忠実だったが,しばしばハンニバルに攻撃され,内部でローマ派とハンニバル派に別れることもあった.このような場合,貴族層はローマから受け入れられていたので,概してローマ側だった.彼等の忠誠は後の帝国興隆時に報われることになる.

 
アテナイの市民権とローマ市民権が全く異なる原理によっていたことはよく指摘される.アテナイでは両親ともにアテナイ市民でなければアテナイ市民権を与えられなかった.これに対してローマは非常にオープンで,外国生まれの解放奴隷の子供でも市民権を得ることができたし,征服した都市の貴族層には積極的に与えた.ターチンによるなら,メタエスニック断層に沿っていればオープンになるが,アテナイやスパルタは文明圏の中心にいたのでクローズだったということになる.しかしローマのオープンさはガリア人と相対するはるか前からそうだったのではないだろうか.オープンさが巨大帝国の要因となることは間違いないとして,それをメタエスニック断層と結びつけるのはやや根拠薄弱ではないだろうか.
 

  • 最後にマケドニアを見ておこう.マケドニアはギリシア周辺域の典型的な辺境国家として始まった.マケドニアは最初にトラキア人と相対した.そして次にペルシアに短期間支配された.その後独立を取り戻したが,こんどは拡大するガリア人と相対した.メタエスニック断層に繰り返し触れることでマケドニアには強い国家的団結が生まれた.
  • ローマによる征服後,ローマはマケドニアを4分割して統治した.マケドニアはこの扱いに対して何度も反乱を起こした.彼等は独立を目指したわけではなく(それは無理だとわかっていた),マケドニアとしてまとめてほしいと願ったのだ.最終的にローマはマケドニアを1つの属州とした.
  • 他のギリシアポリスと異なり,マケドニアは最初から領域国家だった.この違いは大きい.アテナイはサラミスの島を手に入れてもそれをアッティカ(アテナイ人の土地)に組み込もうとはしなかった.アテナイは植民を送り込み,サラミス島の住人を被支配民としたのだ.スパルタもメッセニアを征服した時にラコニア領域を広げようとはしなかった.これに対してマケドニアは土地を征服するとそれをマケドニアに組み込んだ.それはフィリップス2世時代まで続いた.この包摂的な政策がアレクサンダー大帝国の元になったのだ.

 
マケドニアの扱いがあまりにも簡単でびっくりする.アレクサンダー大帝国がいかにして生まれたのかはもっと掘り下げるべきだろう.確かにマケドニアはメタエスニック断層線で興隆したが,辺境の強国から大帝国にいたる道においてはガリア人の脅威はあまり影響を与えていないのではないだろうか.そこではアレクサンダーの個人的な才能,野心も大きな要因ではないだろうか.アレクサンダーの軍の強さがアサビーヤだけで説明できるとするのなら,ペルシア帝国やインドとの戦いでアレクサンダー軍(各地の部隊の混成だったはずだ)にどの程度のアサビーヤがあったのかもう少し丁寧にみるべきだろう.
あるいは帝国は短命に終わったので,見る必要はないということかもしれないが,短命に終わった理由はアテナイ帝国の崩壊のような理由ではないだろう.アレクサンダーは包摂的な政策を明らかに採っていたし,彼が短命に終わらず,よき後継者を得ていれば,長期間大帝国として花開いた可能性もあるのではないだろうか.
 

  • 私たちは紀元前1千年紀から紀元後1千年紀のヨーロッパの帝国を見てきた.それぞれの例でメタエスニック断層理論の予測が裏付けられた.世界の帝国は文明の衝突線上で興隆する.ではそれは紀元後2千年忌の世界でも当てはまるのか.次章でそれを見ていこう.

 
というわけですべてメタエスニック断層線で説明できるとするターチンの主張はかなり我田引水的だ.
私の印象では,強国が興隆するには別にメタエスニック断層が必須ではなく,要するに紛争多発・弱肉強食の戦国的な環境があればよいということではないのだろうか.
日本の戦国時代も最終的にはより効率的な軍隊を組織できる戦国大名が各地で成長し,いち早く成長した織田,豊臣,徳川が最後の勝者として日本統一している.その成長具合には経済や技術の要因が大きく,織田軍のアサビーヤが特に高かったわけではないだろう.確かに日本にはどこにもメタエスニック辺境はなかったので,反証となるわけでもないが,軍隊の強さがアサビーヤだけで決まるとするのは無理があるのではないかという印象は禁じえない.