War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その41

 
ターチンの帝国の興亡理論.第7章はローマ帝国滅亡後に現れたフランク帝国とその後継国家群(後のヨーロッパ列強を形作る国家群)の興隆を扱う.まずはフランク帝国の絶頂期とピレネー沿いの辺境が描かれる.

 

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その2

 

  • ヨーロッパの形成を知るために戻るべき時点は西暦800年だ.この時シャルルマーニュ(カール大帝)は教皇によりローマ皇帝に戴冠された.この時点でカロリング朝フランク帝国は現代のフランス,ベネルクス,西ドイツ,スイス,オーストリア,北および中央イタリア,カタロニアという広大な版図を持っていた.
  • しかしながら,814年にシャルルマーニュが没すると内戦が始まり,フランク帝国は衰亡を始める.帝国内部の弱体化を嗅ぎつけた周辺の敵は国境への侵入襲撃圧力を高める.マジャールは916年と937年にフランスの奥深くまで侵入した.
  • フランク帝国は敵に囲まれていた.サラセン帝国は南西にあり,ヴァイキングが北西に現れ,北東にはスラヴが,そして南東にはマジャールが台頭した.辺境地域(フランクはこれをmarchesと呼んだ)はどこも敵に相対していた.カロリング朝フランク帝国が分解したあと,その後継国家とローマカトリック国家群(ラテンキリスト教国)は何世紀も抗争を繰り広げた.
  • フランクの4つの辺境は真のメタエスニック断層となった.サラセンは異教であり,ヴァイキング,スラブ,マジャールは野蛮だった.これから4つの辺境を順に見ていこう.

 
ここでローマ帝国崩壊後の欧州史についてのターチンの見取り図が描かれている.フランクはゲルマンの大部族連合だったが,5世紀にクロービス王が勢力を伸ばしてフランクを統一し,そのメロビング朝下で帝国になる.7世紀以降実権が宮宰であったカロリング家に移り,8世紀にはカロリング朝が後継帝国となる.その頂点はシャルルマーニュのローマ皇帝戴冠である800年ということになる.そこからセキュラーサイクルに従って内戦と衰退期が生じ,4つの辺境はメタエスニック断層になったということになる.
 

カロリング朝の対イスラム辺境 その1

 

  • この辺境は8世紀に形成された.711年にベルベルの歩兵7000とアラブの騎兵300がスペインに侵入し,キリスト教国(西ゴート王国)の軍隊をグアダレーテ川の戦いで打ち破り,西ゴート王国は滅亡した.イスラム軍はキリスト教徒をイベリア北部の山に追いやり,ピレネーを越えてフランスに侵入した.しかし732年のトゥール・ポアティエの戦いでシャルルマーニュの祖父に当たるシャルルマルテル(カール鉄槌王)に敗北し,侵入は止まった.そこからはイスラムの長い撤退の歴史となる.759年にフランスから撤退.777年にはスペインに侵入したシャルルマーニュと戦う.シャルルマーニュ軍はロンスヴォーの戦いで苦杯を舐めたりもするが,最終的にバルセロナを征服し,カタロニアにスペイン辺境領(La marche d'Espagne,Marca Hispánica)をおく.
  • ロンスヴォーの戦いは後にローランの歌で歌われることになる.そこにはキリスト教徒と異教徒の争いというメタエスニック断層の様相が見事に現れている.
  • イスラム教徒は西ゴート王国を破壊し,南部のアンダルシアに定着した.西ゴート残党のキリスト教徒は中央部から去り北部の山地に撤退した.イスラムは毎年のように北部を襲撃したが,中央部に定着しようとはしなかった.この結果イベリア半島の中央部に両文明に挟まれた空白地帯が生まれることになる.これは典型的なメタエスニック断層だ.両サイドは文化的にも(キリスト教vsイスラム教)経済的にも分断されていた.アンダルシアは豊かで都市化された地域であり,それに対して北部地域は峻厳な要塞地域で,粗野で貧しく,文化的にも遅れていた.

 
これまでのターチンのメタエスニック断層の説明は,文明と野蛮の断層という説明だった.フランクとイスラムの辺境はどちらも文明側で,どう説明するのだろうと思っていたが,イスラムの襲撃から逃れて山地に立てこもった西ゴート残党が野蛮側という説明になっている.とはいえカタロニア辺境は基本的にはローマ,フランクの文明側にあるのでやや苦しいような気もするところだ.