書評 「世界は美しくて不思議に満ちている」

世界は美しくて不思議に満ちている――「共感」から考えるヒトの進化

世界は美しくて不思議に満ちている――「共感」から考えるヒトの進化


本書は進化心理学者である長谷川眞理子による様々なところに発表した小文を集めたいわばエッセイ集になる.序文のあと大きく3部に分けられており,第1部で人生や心についてのエッセイ,北極紀行などの様々なテーマを扱ったものを集め,第2部で進化心理学や行動生態学からわかってきたヒトという生物についての解説文,第3部でそれらの知見から社会問題を考える小文が集められている.

序文としては今回書き下ろしのものではなく,3.11直後の2011年5月に書かれた「文明の先を見据える」という寄稿が採用されている.現在の文明の状況が生態系の中の1生物種としては異常なものであること,(原子力発電に対してどういう立場に立とうと)この分不相応な暮らしを続けていく限り状況は変わらず,(状況を変えるには)生活の見直し,文明の先を見据えることが重要だが,さらに肝心なことはそれを実践する気が本当にあるのかということだろうと結んでいる.

第1部 世界へ出る

第1部は様々な内容の素晴らしいエッセイが並んでいる.人生や心を語るエッセイには前提としての人類史や自然淘汰の解説が収録されており,その簡潔さが美しい.そして特に最後の長編2編が素晴らしい北極紀行になっていて本エッセイ集の白眉だと思う.2週間の北極ツアーは,北極海を旧ソ連時代に建造された調査船に乗って回遊し,上陸できるところで上陸,航海の間には同行する動物学,植物学,地質学の専門家の学問的解説が受けられるという垂涎もの.巨大な氷山の美しさ,それがひっくり返るときの衝撃音,ホッキョクグマ,セイウチ,ナガスクジラ,ハシブトウミガラスなどとの出合いが書かれた第1編は臨場感ある旅行記になっているし,学生時代に入手したダイアン・フォッシーの記事のあるナショジオの付録の北極地図から始まり,北極探検の歴史(ここはかなり詳しく語られ,フッカーの南極行きやニコライ・ヴィヴァロフに話が飛ぶところも面白い),南極条約のような条約がないという地政学的解説,スバーバル諸島の成り立ちとスノーボールアース仮説の関係,天候不順で最後に1日滞在した街の想い出が収録された第2編は自由奔放に話が飛んでさらに楽しい.
その他私が面白いと感じたところをいくつか挙げておこう.

  • ホモ・サピエンスはなぜ世界中に拡散したのか.大きな要因はその好奇心つまり新奇性の追求傾向だろう.この好奇心がどのような方向に向かうのかは,子どもが世界をどのように見ているかにかかっている.現代の科学技術のほとんどは子どもがいじくり回してなんとかなるものではなくなっており,身近な技術への好奇心をはぐくむのは難しくなっているのかも知れない.
  • 学生や院生から「人生に意味や価値があるのかどうかわからない,生きていく意味がわからない」という意見を聞くことがあるが,私はこの感覚がわからない.世界は美しくて不思議に満ちてているのでそれを探求するためにずっと生きていたいと思っている.生物学者になって研究して得た結論は「生物は皆一生懸命に生きている」ということだ.何か意味や価値があるから生きているのではない.生きているからこそ,意味や価値が生まれるのだ.
  • ヒトは他者に心があると想定する(これはメンタライジングと呼ばれる).メンタライジングをすると集団内の他メンバーの意図や気持ちを類推し,それに気を配りながら行動し,自分を含めた自集団をメタ認知し社会関係を多元的に把握できるようになる.
  • ヒトは生後かなり早い時期から他者への協力傾向が生まれる.だから私はヒトに関しては性善説を採る.道徳感情も協力傾向から生まれている.ヒトの協力傾向の特徴は血縁を超えた他者への協力が可能なことだ.血縁を超えるようになった理由には「共同繁殖」が必須になったこと,高い知能により「系図」を思い描き拡大家族を認識できるようになったこと,メンタライジングにより同じ心を他者に見いだし,共感できるようになったことが挙げられる.
  • 片方でヒトは人為的な境界を引くことにより意識的に共感を断ち切って不寛容になることもできる.これを乗り越えるには前頭前野によるメタ認知によって辺縁系の情動を抑える必要がある.そのような理性の言葉は読書や議論による深い思考の訓練が必要だと考えられる.全世界に不寛容が広がっているのは,特定の仲間内だけに発せられるSNSなどの発信が深い思考による吟味を不可能にしているからなのかもしれない.

 

第2部 ヒトを知る

ここではヒトを進化生物的に解説した総説的な文章が並んでいる.いろいろなところに寄稿した文章を集めたものなので内容に重複もあるが,様々な知見の関連性がいろいろな形で提示され,かつ繰り返し重要なところを語ってくれるようでそれもまた味わい深い.著者の見解の骨子になっているようないくつかの解説を紹介しておこう.

  • (進化心理学が提唱した)EEAについてはいろいろな議論があったが,現在では何か特定の生態環境ではなく,いくつかの特徴を併せ持つものとして抽象化されている.そのような特徴には,高栄養・高エネルギーの獲得困難の食物に特化した採食,食糧獲得等の行動に使われる高度な技術(道具)使用への依存,集団内の協力と共同作業による生業活動や社会運営,男女の分業と協同,両親祖父母血縁者非血縁者を含む共同子育て,言語による知識伝達による累積的文化,が挙げられている.
  • ヒトの成功の鍵はどこかで競争的な知能が協力的な知能に変わったことにあるのではないかと考えている.実際にチンパンジーとヒトの大きな差は他者の心を推測できるかどうかではなく,その心の理論を使って協力的に行動できるかどうかのところにある.それは共感の中で(情動感染や感情移入ではなく)特に認知的共感と関連があるだろう.
  • ヒトの言語コミュニケーションの特徴は,(それが動物にも見られる単なるシグナルなのではなく)相手と心的表象を共有しようとしているところにある.これは三項関係の理解というものが成り立っている必要がある.
  • 心の共有があるからこそヒトは言語を持ち,文化を累積的に進歩させながら伝えていける,そして因果関係の理解,認知的共感により社会関係の改良を探ることができる.互いに認識が異なることが理解し,話し合うことができるのだ.このような社会性がヒトの繁栄の最大の要因だろう.
  • ヒトの大きな特徴の1つは非血縁者も含めた集団メンバーによる共同の子育てだ.これにはサバンナでの食糧採集に共同作業が必要になったこと,子どもの離乳は早いが自力で生きられるようになるまで非常に時間がかかるという生活史の進化が関係している.
  • 利他行動の進化は行動生態学の大きなテーマであり,そのメカニズムとして血縁淘汰や直接互恵的説明が提唱されてきた.ヒトではこれらの理論が要求するような特定条件下だけの利他行動を行うのではなく,あらゆる文脈における協力行動が可能になっている.ヒトにおいては心の理論を持ち,因果関係の理解が可能になり,それにより他者の心の動きの原因を理解できるようになっていることが重要なのだろう.ある行動が利他行動かどうかという議論を超えて,様々な「協力行動」「向社会行動」がなぜ進化したのかを解明していくことがヒトの理解を深めるのに役立つだろう.
  • 女性はなぜ(一見進化的には不利になりそうなのに)閉経するのか.閉経のメカニズムを調べると祖先状態から閉経可能になるように変化しており,文明や長寿化の副産物ではなく何らかの適応であることを強く示唆している.適応仮説には祖母にとっては自らが繁殖するより孫の子育てを手伝う方が包括適応度が上がるという「おばあちゃん仮説」と,(人類祖先ではメスの分散の方が大きい形が基本だと考えられる中で)限られたリソースでどちらが繁殖するかという姑と嫁のコンフリクト状態において,姑にとっては嫁の子育てを手伝うと包括適応度的にもある程度の利益があるが,嫁には姑の子育てを手伝っても包括適応度的な利益がないので姑の閉経が進化したという「コンフリクト仮説」がある.両者は排他的ではないので共に効いている可能性がある.

 

第3部 社会で生きる

ここでは進化生物学や進化心理学の知見を前提にして社会問題を考察したエッセイが並んでいる.主なテーマは持続可能性,子どもの虐待,女性活躍社会,宗教問題になる.

  • エコシステムはエネルギー循環と物質循環から考察でき,基本的に物理的環境と生物や生物集団との相互作用を持つ複雑適応系だ.これまでの環境問題は,公害や特定生物の絶滅問題であり,解決策の提示は比較的容易だった.しかし現在の大きな問題は地球温暖化であり,全体のシステムが複雑適応系であることから因果関係の把握が難しい.そういう中で「持続可能性」の概念を生み,「生物多様性」の維持が重要らしいことが認識されているというのが実態だろう.しかしその厳密な科学的理解はまだ十分ではない.この解明が進めば子孫のことを思う人々の態度は変化していくだろう.
  • 狩猟採集民は自然から過度の収奪をしないという神話があるが,リサーチによると彼等は短期的な肉獲得率を最大化するような狩猟戦略をとっている.しかしそれでも人口密度が十分低かったし,ものを持ち運ぶ必要があるので持ち運べる以上の収奪をしなかったから自然と調和していられたのだろう.

 

  • 動物にとって自らの子どもを殺す性質は進化しにくいが,生涯に多数回繁殖し,現時点での子育てがうまくいきそうもなく次のチャンスが確実にある場合には,現在の子を遺棄したり殺したりして次のチャンスにかける性質は進化しうる.ヒトの場合にはこれに共同繁殖だという要因が加わる.物理的環境や子ども自身の健康問題だけでなく,その属する社会集団から共同で養うべき子どもであると認められない場合には「子育てがうまくいきそうにない」という(無意識的なものも含めた)認識につながることがある.このような状況での遺棄や虐待は現代の倫理観では許されないことであるが,ヒトにも生物としてその傾向があることは理解されておくべきだ.
  • ヒトの子どもはなぜこんなに大声で泣き止まなかったりするのだろうか.チンパンジーの子はほとんど声を上げない.共同繁殖種であるヒトの幼児には「この関係は気に入らない」と発信して,別の誰かの世話を受けようとすることが適応的だったのかも知れない.
  • 虐待問題を改善させるためにはヒトが共同繁殖種であるということを大前提として社会福祉や教育制度を構築しなければならないだろう.
  • 理想の社会を考えるときにはヒトの進化史を理解しておくべきだ.女性の活躍を促進しようとする政策を立てる場合にも,男女の繁殖戦略の違いやヒトが共同繁殖種であることを大前提として制度を考えるべきだ.

 

  • 宗教を進化生物学的に考えるとどういうことになるか.機能から考えてみよう.宗教のあり得べき機能には,(1)世界の成り立ちの説明,(2)道徳判断の指標,(3)死と死後の世界についての説明,(4)この世の悲惨に対する救い,(5)内集団の結束があるだろう.
  • 脳内基盤を考えると,(1)(3)にはヒトの自意識,因果関係の推論能力,因果を説明されると快を感じる情動が関わっている.(4)は因果関係の推論能力と共感感情,道徳感情が関わっているだろう.(2)の道徳についてはダーウィンがそれを進化的に説明しようとしたし,現在では様々な方向から研究が進んでいる.超自然的な権威はより抜け道を許さないことに役立ったのかも知れない.(5)はヒトには集団間で争いがあり,宗教はその手段として利用された文化要素だということになる.宗教とその心的基盤の進化を解明するためには自意識,因果推論能力,その説明に快を感じる情動,共感感情の進化を考察すべきだということになる.
  • ヒトには自分が優れているという優位性バイアス,自分はうまくいくと考える楽観性バイアス,自分は物事をコントロールできているという制御可能性バイアスがある.宗教はこの3つの認知バイアスを肯定・促進し,さらにこのバイアスを制御しようとするように思われる.私は「自分たちは神に選ばれた」「神を信じていれば悪いことは起こらない」「神はすべて見透している」という考えはこれらの認知バイアスにすり寄った考えだという仮説を立てている.逆に仏教のような宗教はこの認知バイアスを消し去ろうとしているのかも知れない.

 

最後に結びの書き下ろしエッセイが置かれている.動物からヒトに研究の興味が移ったのは,ヒトが生物として明らかにおかしいことをしており,チンパンジーとの間の巨大な違いはどこから来るのかを知りたかったからであり,言語と文化を可能にしたヒトの特徴への解明物語につながったこと,それは協力,共感,高度な社会性が鍵になっていることをまず語っている.そしてローラーコースターのように進む現代文明の行く末,環境問題の解決の難しさに思いを馳せる.著者の最後の言葉は,未来は予測できないが,ヒトは論理的に思考した人に共感し協力する能力を持っているのだから,意識して目標を立て実行することができるかも知れない,そういうことを考える次世代を育てるのが私たちの世代の義務だろうというものだ.そして最後に「果たしてそれは間に合うのだろうか?」と書いて本書を終えている.
 
 

長谷川眞理子の文章は明晰でわかりやすく,読んでいて非常に快感だ.様々なテーマについて書かれたそのような文章を集めた本書は私にとっては宝箱のようなものだ.ヒトについての様々な解説はいろいろなところで聞いていたことを明確に関連づけて復習できる貴重なものだし,宗教についての考えは初めて触れるもので,これも興味深い.そして何より北極紀行が素晴らしい.カバー絵がこれまた雰囲気が出ているセイウチになっているのもいい.すばやく電子化されているのもまたまた嬉しい.私にとって常に端末に入れておく珠玉の本の1冊になるだろう.


関連書籍


長谷川眞理子によるダーウィンハウスやガラパゴス諸島への紀行エッセイ.これも大変楽しい.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20060815/1155647712

ダーウィンの足跡を訪ねて (集英社新書)

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ヒトの心や生活史に関しては以下のような本がある.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20081027/1225114016

ヒトの心はどこから生まれるのか―生物学からみる心の進化 (ウェッジ選書)

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同じくヒトの心や生活史に関連した最近の対談集.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170115/1484477256