Enlightenment Now その58

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第20章 進歩の将来 その3

 
ピンカーはトランプ現象の背景を見てきた.では今後どうなるのだろうか.ここはおそらくピンカーが最も訴えたかったことの1つであり,真剣に議論されている.
 

  • これまで何十年も世界を牽引してきたリベラルでコスモポリタンな啓蒙主義ヒューマニズムと権威主義的反動ポピュリズムの間の緊張はどうなっていくのだろう.
  • これまでリベラリズムを推し進めてきた人の流動性,コネクティヴィティ,教育,都市化の流れは反転しそうにない.性や人種の平等への動きも止まりそうにはない.確かにこれらは推測にすぎない.しかし1つ確かなことがある.ポピュリズムは老齢者の動きなのだ.

(ここでトランプ支持,ブレクジット支持,ヨーロッパのポピュリスト支持の年齢別の比率が示されている.いずれも50歳以上で高く,それより若いと急速に支持が減っていく形になっている.ソースは出口調査にかかるニューヨークタイムズの記事)

  • 第15章で扱ったリベラル傾向のコホート効果からみるとこのトランプやブレクジット支持の年齢効果に驚きはない.このグラフはこれらのベビーブーマーやそれ以前の人々が今後ポピュリズムを墓場に一緒に持って行ってくれるかもしれないことを示している.もちろん「君が25歳でポピュリストでないのならハートが無く,45歳でポピュリストなら脳が無いのだ」*1ということである可能性はあるが,政治的方向性についてのこのようなライフサイクル効果は見いだされていない.人々は歳を取っても開放的価値を持ち続けるのだ.ギタとゲルマンのリサーチではアメリカ人には「歳を取るほど共和党大統領候補に投票する傾向」がないことがわかっている.今日ポピュリストに反対している若者が,今後ポピュリスト支持になることは考えにくいのだ.
  • どのようにして啓蒙運動へのポピュリストの脅威という主張に反論すればいいだろうか.経済的不安定は問題ではない.だから製鉄会社の作業員のレイオフ問題に対処し,彼らを慰めようとするのは(それ自体に価値はあるにしても)いい戦略ではないだろう.文化的な反動が問題なのだから,不必要な二極化レトリックやアイディンティティポリティックスを避けるのが賢明だろう.メディアにも役割があるだろう.長期的には都市化や人口動態が一部の問題をある程度解決するだろう.
  • しかし最大の謎は.ポピュリストの政策により不利益を受けるはずの人々の実に衝撃的な割合が選挙を棄権することだ.若いイギリス人,アフリカ系アメリカ人,ラティーノたちはなぜ棄権するのだろう.この謎は我々を本書のテーマ「今こそ啓蒙運動」に引き戻す.
  • ポピュリストが「西洋諸国は不公正で機能不全であり,劇薬しかこれを改善できない」と決めつけることについて,私はメディアとインテリは共犯関係にあると思う.ある左翼は「私はアメリカがクリントンの元で自動運転されるよりトランプの元で業火に包まれて崩壊するのを見る方を望む,それなら少なくとも劇的な変化が期待できるから」とまでコメントしているのだ.主流のメディアもアメリカを人種差別と不平等とテロと社会的病理と機能不全の巣窟といって憚らない.
  • このようなディストピアレトリックの問題点は,人々がそれを額面通りに信じてデマゴーグのアピールに魅力を感じてしまうことにある.「(ポピュリストの極端な考えを信じたとして)何か失うものがあるというのか」と考えてしまうのだ.しかし,もしメディアとインテリが統計と歴史に基礎をおいているなら,この問いかけにも答えることができる.
  • 民主制は貴重な獲得物なのだ.それはいつも問題含みだが,大火を引き起こして灰の中から何かが現れるのを期待するより遙かにまともに問題を解決できる.

 

  • 現代を擁護するためのチャレンジは楽観主義がナイーブに見えるということだ.公正,平等,自由についての完璧な理想は危険な妄想だ.人々はクローンの集合体ではない,だからある人の満足は別の人の不満を呼ぶ.そして自由であることには破滅する自由も含まれているのだ.リベラルな民主制は進歩を起こせる,しかしそれはぐちゃぐちゃの妥協や継続的な改革を通じてのみ得られるのだ.
  • ある点についての進歩は予測できなかった別の問題を提起し,その解決はまた別の問題を提起する.それが進歩というもののありようだ.我々を前に進めてくれるのは創意,同情,良き制度だ.後に引き戻すのはヒトの本性の暗い部分と熱力学の第二法則だ.
  • 啓蒙運動と科学革命以来,我々は毎年破壊するより少しだけ多く創造してきた.そのわずか数%の違いが積み重なって文明と呼ばれるものが構築されてきたのだ.進歩が自動的に進んできたように思えるのは振り返ってみたときだけだ.
  • 我々はこのような短期的な停滞や後退を挟みつつ長期的に進むアジェンダについて適切な名前を持っていない.楽観主義というのは適切ではない.なぜなら物事が常にうまくいくと考えるのは常に悪くなると考えるのと同じぐらい間違っているからだ.ケリーは「プロトピア:protopia」と呼ぼうと提唱している.あるいは「悲観的希望」「楽観現実主義」「ラディカル累積主義」という提案もある.私の好みはハンス・ロスリングによる「あなたは楽観主義者ですか」という問いに対する回答だ.彼はこう言った.「私は楽観主義者ではない.私は非常に真剣な可能性主義者だ:I am not an optimist. I’m a very serious possibilist.」と.

 
進歩は自動的に得られたものではない.それは先人たちの努力とぐちゃぐちゃの歴史的道のりの上にあり,大切に守りさらに継続していくべき獲得物なのだ.だから冷静に真実と理性をもって粘り強く進歩を擁護していかなければならないというのがピンカーの本書のメッセージだ.まことにその通りだと思う.

*1:これはピンカーが巷で流布しているミームを修正したもの,この「ポピュリスト」という部分には,様々なミームの変種において,リベラル,社会主義者,共産主義者,左翼,共和党支持者,民主党支持者,革命家などが現れるのだそうだ.そして誰が最初に言ったかについても諸説ある.有名どころではユーゴー,ディズレーリ,バーナード・ショー,クレマンソー,チャーチル,ボブ・ディランが登場するそうだ.ピンカーはオリジナルについておそらく19世紀の法律家アンセルメ・バトビーではないかとしている.

Enlightenment Now その57

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第20章 進歩の将来 その2

 
将来にどのような懸念があるのか.ピンカーはまず潜在的経済成長率が低下しているのではないかという問題を扱った.そして次に本命のポピュリズムの興隆を取り扱う.
 

  • これとは全く異なる進歩にとっての新しい脅威は啓蒙運動の基礎を破壊しようという政治的な情勢だ.2010年代になって世界は「ポピュリズム」と呼ばれる反啓蒙運動を目撃することになった.これは正確には権威主義的ポピュリズム(民衆の主権を強いリーダーが体現する形をとる)と呼ばれるべきものだ.
  • この権威主義的ポピュリズムはある意味ヒトの本性への押し返しと見ることもできる.すなわち部族主義,権威主義,敵を悪魔として扱う,ゼロサム思考を要素とし,それらを抑えようとしてきた啓蒙運動を否定するものだ.
  • この権威主義的ポピュリズムには右翼のそれも左翼のそれもある.そして両者とも経済をゼロサムの闘争だと誤解する素朴理論(左翼は階層間の闘争,右翼は国家間あるいは国民対移民の闘争の文脈で用いる)に従う.問題は世界の現実から生まれる不可避のチャレンジであると捉えず,エリート階級,外国,マイノリティの陰謀から生まれると考えるのだ.そして進歩を全否定する.
  • (このポピュリズムの起源については第23章で扱うが)ここでは近年の盛り上がりを考察しよう.
  • 2016年にポピュリズム政党はヨーロッパ議会選挙において13.2%の得票を得て11カ国で連立政権の一角に参画している.ハンガリーとポーランドではリーダーシップを取り,英国ではブレクジットに大きな影響を与え,そしてアメリカでドナルド・トランプの当選を後押しした.「Make America Great Again」というトランプのキャンペーンスローガンほどポピュリズムの部族主義,後ろ向き思考をよく表しているものはないだろう.

 

  • 私はこれまで進歩を扱う章を執筆してきたが,それぞれ各章の最後に「しかしここまでの進歩はトランプの登場によって脅威にさらされている」という警告をおくという誘惑に抵抗してきた.しかし脅威はリアルだ.2017年が歴史の転換点になるのかどうかはともかく,ここでレビューしておくことは重要だろう.
  • 寿命と健康:トランプは「ワクチンが自閉症を引き起こす」という既に科学的に否定された主張を擁護している.またオバマケアを葬り何千万人もの健康保険をなくそうとしている.
  • グローバル経済:トランプは貿易をゼロサムだと考え,はっきり保護主義をとっている.
  • 技術革新,教育,インフラ:トランプはテクノロジーにも教育にも無関心だ.
  • 格差:トランプは移民と貿易相手を悪魔視し,技術の変化による中流下層の仕事の減少を無視している.そして格差を和らげる累進課税や社会保障に敵対的だ.
  • 環境:トランプは環境保全に有用な規制を経済を破壊するものだと決めつけ,温暖化をフェイクだとする.
  • 安全:トランプは安全規制も馬鹿にする.そしてエビデンスベースの政策に全く興味を示さない.
  • 平和:トランプは国際貿易をけなし,国家間の取り決めを無視し,国際機関の力を弱めようとしている.
  • 民主主義:トランプは報道の自由に関する法を反ジャーナリムズの方向に変えようとし,自分の当選に関する異議について脅迫的に行動し,取り上げようとする司法システムの正統性を攻撃する.これらはすべて独裁者の特徴だ.トランプはロシアやトルコなどの権威主義的リーダーを礼賛し,民主的なドイツの指導者を馬鹿にする.
  • 平等:トランプはヒスパニック移民を悪魔視し,イスラムからの移民を禁止しようとする.何度も女性の品位を傷つけ,人種差別・性差別主義者に寛容だ.
  • 知識:トランプは馬鹿げた陰謀論をふりまわし,意見は真実に基づいて決めるべきだという考えをあざける.
  • 核戦争の脅威:恐るべきことに,トランプは核戦争の脅威から世界を守ってきた規律を掘り崩そうとしている.彼は気軽に核の使用や核軍備競争についてツイートする.

 

  • しかしドナルド・トランプは,そして他のポピュリストたちは,本当にここ250年間の進歩を破壊してしまうのだろうか.まだ悲観して自殺すべきではない理由がある.何世紀にも続いた動きがあるなら,おそらく背後にシステマティックな力があるのだ.そしてここ数年ですべてのステークホルダーが反転したと信じる理由はない.
  • システムのデザインとして,アメリカの大統領制は任期のある君主制ではない.大統領は権力の分立の上にあるのだ.そこには立法府,司法,行政システムがある.トランプの権威主義はアメリカの民主制にストレステストをかけているが,ここまでのところ,このシステムはいくつもの戦線でトランプの攻撃を押し戻している.(司法,行政,ジャーナリスト,トランプ自身の政策スタッフたちの奮闘が解説されている)さらに州政府も抵抗しているし,他国政府も多くの大企業もトランプに唯々諾々と従うわけではない.多くのステークホルダーの利益は平和と繁栄と安定の上にあるのだ,そしてグローバル化のメリットも同じだ.これらを永遠に否定できるはずはない.真実を巡る戦いについても,真実の側にはビルトインされたアドバンテージがある.あなたが真実と共にあるなら,真実は決して消えてなくならないのだ.

 

  • より深い問題は,このポピュリズムの興隆は,これから生じる大きな流れを体現しているものかどうかということだ.2016年に生じたことは世界が中世に戻ることを暗示しているのだろうか.
  • まず第1に,今回の選挙は啓蒙運動に対する信任投票ではない.トランプは共和党のパルチザン候補としてスタートして共和党候補になり,投票全体ではクリントンに対して46:48で負けていた.就任時の支持率は40%に過ぎない.退任時の支持率が58%あったオバマは明確に啓蒙運動の精神を支持していた.
  • ヨーロッパの選挙もコスモポリタンなヒューマニズムに対する信認投票ではなく,感情に訴えるいくつかの問題(共通通貨,ブリュッセルの官僚たちによる押しつけがましい政策,イスラムのテロと中東からの膨大な難民の受け入れなど)への反応と見るべきものだ.それでもポピュリズム政党は13%の票を得ているに過ぎない.トランプとブレクジットの後でも多くの選挙でポピュリズム政党は議席を減らしている.
  • しかし,政治情勢より遙かに重要なのは社会と経済のトレンドだ.歴史的進歩は勝者と共に敗者も創り出す.そして明らかな敗者はグルーバル経済における敗者であり,批評家たちはまるで船の難破の原因を探るようにしばしばこれらの敗者がポピュリストの支持者だと指摘する.しかし我々はこの説明が間違っていることを知っている.アメリカの大統領選では経済が重要だと答える低所得者層はよりクリントンに投票し,高所得者層はよりトランプに投票している.そしてトランプ支持者は移民とテロが重要問題だと答えているのだ.
  • 統計家のネイト・シルバーは「所得ではなく,教育水準がトランプ支持を予測できる要因である」と指摘している.なぜ教育が影響するのか.凡庸な説明は「高い教育水準がリベラルと相関する」というものだ.もう少し面白い説明は「高い教育はマイノリティーを悪魔視しなくなるようにする」というものだ.そして最も興味深い説明は「高い教育を受けると真実と理性による議論を好むように,陰謀論から背を向けるようになる」というものだ.
  • シルバーは,さらにトランプへの地域別投票マップは失業,宗教,銃所有,移民比率のマップと重ならないが,Googleサーチの「nigger」サーチ頻度マップと重なることを見つけた.「nigger」サーチ頻度はダヴィッドヴィッツが人種差別感情の信頼できるインディケーターであることを示したものだ.

誰もが嘘をついている?ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性?

誰もが嘘をついている?ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性?

  • これはトランプ支持者の大半が人種差別主義者であるという意味ではない.しかし公然の人種差別主義は憤激と不信に姿を変える.そしてマップのオーバーラップはトランプ支持の強い地域は,何十年にもわたるマイノリティの権利擁護と統合の試みに最も抵抗する地域であることを示している.そして出口調査でトランプ支持と最も関連するのは悲観主義だ.トランプ支持者たちの多くはアメリカは間違った道に進んでいると答えるのだ.
  • 大西洋の向こうで,政治学者のロナルド・インゲルハートとピッパ・ノリスは同じようなパターンを見いだした.経済要因はあまり効いていなかった.ポピュリストへ投票するのは,より老齢で宗教的で田舎に住み教育程度が低く男性で民族的なマジョリティである傾向があったのだ.彼等は権威主義的価値観を持ち,自らを右翼と規定し,移民とグローバル化を嫌っていた.ブレクジットへの投票も同じだった.インゲルハートとノリスは権威主義的ポピュリズムの支持者は経済ではなく文化的な敗者なのだと結論づけた.彼等は自国の価値観が進歩主義的に大きく転換していく中で疎外感を持つようになったのだ.そしてこれはアメリカでも同じだ.
  • ポピュリストの興隆は,グローバル化,人種的多様性,女性の権利,世俗主義,都市化,教育という現代の潮流への反動だとしても,その選挙での成功は投票者をうまく誘導できるリーダーがいるかどうかに左右される.だからヨーロッパの各国でのポピュリスト議席の割合はそれぞれ異なっているのだ.

 
トランプの当選は啓蒙運動に対するリアルな脅威だ.そして本書が書かれるようになったきっかけでもあり,ピンカーは詳細にその背景を論じている.トランプ現象についての論評は膨大にあり,このピンカーの議論がその中でどういう位置にあるのか私には判断できないが,この文化的な敗者だという議論は説得的だ.
私がトランプ当選に至るアメリカの流れを見ていて感じたのは,リベラル側の道徳的な押しつけがやり過ぎだったのではないか(そしてそこには偽善の匂いが濃厚にある) ということだ.強烈にアイデンティティポリティクスをかまされると白人男性は何も言えなくなるだろう.自分たちが当然としてきた文化的な価値観が道徳的に劣ったものとして否定され,まさに新しい価値観の象徴のようなヒラリーが大統領になるのかと思ったときの彼等の鬱屈した気持ちが投票所で吹き出したということではなかったのだろうか.
 
日本の政治情勢はアメリカやヨーロッパとは少し異なる.露骨なポピュリズム政党は存在しないし(維新は少しそれに近いし,小池新党がそうなる可能性はあったかもしれない.しかしいずれにしても文化的敗者を支持基盤とするような政党ではないだろう.),陰謀論や硬直的な姿勢はリベラル寄りとされる政党にもよく見られる.安倍政権は思想信条的には過去のノスタルジアの理想化部分を持つが,実際の政策は女性活躍や働き方改革を見てもわかる通りリベラル寄りだ.そして何より若者が自民党をより支持している.私に論評する能力は無いが,興味深いところだ.

Enlightenment Now その56

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第20章 進歩の将来 その1

 
ピンカーの「進歩」の解説である本書第2部もいよいよ最終章になった.これまでは現在までの進歩を語ってきた.ここでピンカーはまとめをおき,さらに将来を展望している.
 

  • 啓蒙運動が18世紀後半に始まって以来,平均寿命は30歳台から70歳台に延びた.貧困も減少した.戦争は減り,ジェノサイドや殺人も減った.世界はより安全に,より自由になった.より民主的になり差別も減った.識字率は向上し人々はより利口になった.人々は余暇を楽しみ,幸福になった.
  • 大気汚染や森林破壊などのグローバルな課題も解決に向けての動きがある.温暖化と核廃絶問題の解決はなお途上だが,それは解決可能なのだ.啓蒙運動はなお効果を発揮しているのだ. 

 

  • しかし同時になお世界全体では7億人が貧困の中で暮らしている.戦争も根絶されてはいないし,専制独裁政も残存している.先進国でも女性抑圧やヘイトクライムがなくなったわけではない.温暖化は進行中で全世界の保有核兵器はなお膨大だ.

 

  • つまりここまでの進歩があったからといってユートピアが達成されているわけではないということだ.我々はなお進歩が継続するように努力しなければならない.では進歩が継続できるという希望はどのぐらい理にかなったものなのだろうか.

 

  • まず継続可能を支持する議論から見ていこう.
  • 啓蒙運動と科学革命は知識を人々の状況を改善するために使ってきた.そしてここまで200年以上効果を持ち続けた.それは70以上の(短期的には上下があるがトレンドとしては)右肩上がりのグラフで見た通りだ.様々な点での改善は互いに支え合っている.ゲノム,ニューロ,AI,物質物理,データサイエンスなどのテクノロジーの進展は進歩を加速させる要因だ.モラルの進展も同じだ.そして200年以上続いたものはなお継続するだろうというのは分のある賭けだ.

 
基本的に進歩は継続可能だというのがピンカーの立場だ.ここからピンカーの議論は懸念材料にはどのようなものがあるのか,それを克服できるのかというものになる.ピンカーの議論する最初の懸念材料は「経済」問題になる.
 

  • 21世紀に生じた懸念材料はあるだろうか.1つの候補は経済だ.産業革命以降200年以上経済成長は続いてきた.1960年代の悲観主義者はリソースの枯渇や汚染から成長は維持できないと訴えた.21世紀の悲観主義者は成長自体が低下すると主張する.1970年代にそれまで2%ほどあったアメリカの成長率が0.6%程度に低下した.これは潜在成長率の低下で新しい基準だというのだ.彼等は人口動態や発明の枯渇や文化の変容を原因に挙げる.
  • ではこれは進歩の終わりを意味するのか.それはありそうにない.まず低いとはいっても成長は続いている.そしてこれは先進国だけの問題であり,途上国のキャッチアップは続いているのだ.そしてテクノロジー主導の生産性向上が生じつつある兆しが見える.テクノロジーウォッチャーは,みな自信をもって我々は新たな豊穣の時代に入りつつあると主張している.
  • どのような進展が期待できるのか.まずエネルギー面では第4世代型原子力発電,カーボンナノチューブ太陽発電,液体金属バッテリー,スマートグリッド,ゼロエミッションガスプラントなどがある.生産面ではナノテクノロジー,3Dプリンターが利用できる.ナノフィルターによる浄水,遺伝子編集による農作物,ドローン,ロボットの利用も視野に入りつつある.医療面では医療チップ,AI診断,幹細胞技術,RNA干渉が利用される様になるだろう.教育もネット利用で大きく変わるだろう.情報をキーにした第2次産業革命,イノベーションプロセスのイノベーション,新しいルネサンスがまさに起こりつつあるのだ.
  • この第二次産業革命は経済を停滞から蹴り出してくれるだろうか.経済成長は技術だけでなく国家財政や人的キャピタルの状況にも依存するので確実なことはわからない.またGDPのような統計は新しい情報時代の豊穣さを測るのに不向きな部分がある.新しいモノやサービスには,デザインに莫大なコストがかかるが,一旦できあがると非常に安価にコピーできるようなものが増えている.フリーエコノミーも拡大している.また環境や安全や人権的価値はより非市場的に消費されるようになり,GDPでは捉えにくくなる.そのような新しい経済の拡大は伝統的な商品にかかる成長率をスローダウンさせているだろう.これを自然に解釈すれば,これは進歩が加速しているから生じている現象で進歩の停滞ではないということになる.

 
ここでピンカーが議論しているのは,経済の潜在成長力の問題だ.第二次世界大戦後先進国の成長率は高かったが,80年代以降下がってきている.これは構造的な問題であり,進歩を阻害するものではないのかという議論ということだろう.潜在成長率がどのように定まるのかについては明確な理論はないようだ.それは結局テクノロジーや制度で決まっていくのだろう.そしてピンカーの議論はテクノロジーの視点からは将来は有望だというものだ.(おそらく日本にもこれは当てはまる.ただ日本のデフレから抜け出せない苦境は制度的要因と不適切なマクロ経済政策(緊縮的財政政策)も加わって生じているということだろう.)
そしてグローバル経済も不適切な政策(まさにトランプが推し進めているような保護主義的な政策を含む)が採られれば成長は阻害されるだろう.この政治的反動が次に議論されることになる.
 

書評 「人類との遭遇」

人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ (早川書房)

人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ (早川書房)

 
本書は人類の進化史を22のトピックに分解してエッセイ風に解説する一般向けの本だ.著者のイ・サンヒは韓国出身で,アメリカで活躍する女性の古人類学者.韓国の雑誌に連載したものが元になり,それを一冊の本に仕上げたものだ.原題は「Close Encounters with Humankind」*1.


 
冒頭で著者自身の旅が語られる.韓国からアメリカに移り,東海岸で学者のキャリアを始め,西海岸で助教授のポストを得る.そして赴任に際して恩師ミルフォード・ウォルポルフから強く勧められて1人で自動車を運転してペンシルバニアからカリフォルニアまで大陸横断することになる.異文化との遭遇,キャリアへの思い.人種差別,アメリカの広大さに触れるエッセイはなかなか味のあるもので,読者は著者の世界に一気に引きずり込まれていくことになる.
そこからは順不同でいろいろなトピックが語られていく.私が興味深いと思ったのは以下のようなところだ.
 

  • クラビナ遺跡のネアンデルタールの化石人骨には部位の不揃いと特徴的な傷跡があり,当初古人類学者はこれを食人の証拠だと考えた.しかし1980年にメアリー・ラッセルは食人説に疑いを持ち,これは単に二次葬のあとではないかと考えつく.そして食べるために動物を解体した際に骨につく傷と腐敗した死体の骨を清めて二次葬にする際につく傷を比較し,クラビナのネアンデルタール人の骨の特徴的な傷は二次葬によるものであることを解明した.
  • 新生児の頭の大きさと骨盤の関係から出産時の女性のお産の容易さと運動性にはトレードオフがあることはよく知られている.サピエンスでは新生児は産道内で180度回転して骨盤の穴を通り抜ける.ネアンデルターレンシスの骨盤をCTスキャンしたところ.新生児は産道内で身体を二度回さなければならない*2ことがわかった.おそらくネアンデルターレンシスも社会的出産を行っていたのだろう.
  • 化石骨の年齢を推定し,集団の年齢構成を見ると,長寿化はエレクトゥスの時代ではなくサピエンスになってから生じたことがわかった.あるいは認知革命や芸術の出現は長寿化のおかげかもしれない.
  • 現在アフリカのエレクトゥスの最古の化石,ジャワのエレクトゥスの最古の化石,ドマニシのゲオルギクスの化石の年代は約180万年前でそろっている.これにより人類のアジア起源の主張がまた復活しつつある.
  • ドイツの古生物学者が香港の薬局で購入した「竜骨」の化石は中期更新世に栄えた史上最大の類人猿ギガントピテクスの大臼歯だった.その後ギガントピテクスの化石を求めて熱心に発掘がなされたが,これまで下顎骨と歯の化石しか出ていない.それでも大きさはゴリラの雄の2.5倍以上あったと推定されている.興味深いことに犬歯に性的二型がなく,この巨大化は性淘汰によるものではないと思われる.あるいは当時強力な捕食者として台頭してきたエレクトゥスに対する防衛として巨大化したのかもしれない.
  • ホモ・ハビリスが,いかにも雑多な化石の寄せ集めのようになり,はたして意味のある種として認められるのかどうかについては学界内でも紆余曲折があった.現在では頭骨の大きなものをルドルフエンシス,小さいものをハビリスに分類するという方向が有力になっている.(この話にはリーキー一家が様々に絡んでいて,詳細は大変面白い)

 
このような話が満載で本書はいろいろ面白いのだが,専門外の分野の記述には少しおぼつかない部分も散見される.
行動生態学周りでは,利他性の進化についての解説がズルズルになっていて,これに最初に取り組んだのがアリやハチをコロニー単位で利己的だと考えたE. O. ウィルソンであるみたいな書きぶりになっていたり,ハミルトン,ドーキンスの採用する遺伝子視点からの進化理論について「遺伝子決定論」*3であると説明していたりする.おそらく基本的によくわかっていないのだろう.配偶システムや排卵隠蔽の進化あたりの説明もかなり雑だ.このほか「種」とは何か,ジャンクDNAとは何か,中立説の意義あたりの解説もかなり危ういものだ.
また彼女がウォルポフの直弟子であるということもあるのだろうが,人類の多地域進化説についての肩入れが過ぎるように思われる.近年のサピエンスとネアンデルターレンシスの交雑があったという知見について多地域進化説の復活を可能にするものだというのは言い過ぎだろう.そもそもの多地域進化説は,基本的にヨーロッパ人種はネアンデルターレンシスから,アジア人種は北京原人から,アボリジニはジャワ原人から直接進化し,互いに交雑があって単一種となったというかなり無理のあるものだ.サピエンスの単一アフリカ起源説の根幹は揺るがず,ただ既に分岐して久しいネアンデルターレンシスと(そしておそらくデニソワ人とも)一時的限定的な交雑があったというように理解をすべきものだろう.
 
そのあたりについては注意しながら読む必要はあるが,しかし一般向けに興味深い話題をつないで大変よく書けている科学啓蒙書であることは間違いない.特に専門である古人類学に直接関係する話題は大変面白い.北京原人,フローレス原人,デニソワ人の話はいろいろなエピソードにあふれていて興味深く読める.総説的な記述も多いし,激しい論争を一歩下がって解説しているところも読みどころだ.ところどころのぼやき的なコメント*4にも味がある.人類の進化史に興味がある人には楽しい一冊だろう.

 
 
関連書籍
 
原書

Close Encounters with Humankind: A Paleoanthropologist Investigates Our Evolving Species (English Edition)

Close Encounters with Humankind: A Paleoanthropologist Investigates Our Evolving Species (English Edition)

*1:もちろん映画「未知との遭遇:Close Encounters of the Third Kind」をイメージしたものだろう.

*2:360度という意味なのだろうか,ちょっとよくわからなかった

*3:これはもしかしたら単なる誤訳なのかもしれない,原文には当たれていない

*4:単一起源説と多地域進化説の論争はウォルポフの直弟子としていろいろ複雑な思いがあるのだろう.1990年代にはこの論争が科学的なものからどちらが人種差別的かという政治的なものになってしまったことが語られている

Enlightenment Now その55

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第19章 実存的脅威 その4

 
悲観論者が強調する「実存的脅威」,ピンカーはロボカリプスもAIの暴走もあり得ず,サイバーテロやバイオテロの脅威も非常に小さいことを論じた.では核戦争はどうか.これはソ連崩壊まではリアルな恐怖だったのが記憶に新しい.ピンカーはかなり丁寧にここを論じている.
 

  • 人類の破滅シナリオの多くはばかばかしいかリスクが非常に小さいものだが,核戦争の脅威はリアルだ.人類は世界を破滅させることが可能な核兵器を実際に持っている.インドとパキスタンの争いが全面的な核戦争にまで至れば直ちに20百万人の人が死ぬだろう.そして核の冬が来る.
  • 日本に原爆が落とされ,ソ連との冷戦がスタートすると新しい歴史悲観主義が生まれた.それは「人類は神から恐るべき知識を,それを責任を持って使う知恵を持たないままもぎ取った.人類は自ら破滅する運命にあるのだ」というものだ.ある種のインテリにとっては核兵器の発明こそが科学をそして現代自体を糾弾する根拠となっている.
  • 科学を糾弾するのは見当違いにも思える.実際に核兵器の危険性を訴えてきたのはアインシュタインをはじめとする物理学者たちなのだから.そして物理学者たちは今でも警鐘を鳴らしている.
  • しかし不幸なことに彼等は自分自身を政治心理学のエキスパートでもあると考えてしまっている.そして大衆を動かすにはその恐怖に訴えるのが有効だと誤解している.ドゥームズデイクロックは客観的なリスク分析なしにプロバガンダ的に分針を進めたり遅らせたりしている.今ではそこには温暖化リスクも込みだと言って針を進めているのだ.

(ここで1950年代から1970年代までのアインシュタインをはじめとする様々な物理学者による第3次世界大戦の悲観的な未来予測の例がいくつかあげられている.)

  • これらの予言ジャンルは冷戦終了後に時代遅れになった.恐怖を持続させるために運動家たちはニアミス案件を喧伝するようになった.運動家たちは「世界が直ちに対策を取らない限り,我々は皆死に絶えるだろう」というメッセージを伝えたかったのだろう.しかし世界が直ちに対策を取るようには思えず,大衆は考えても仕方のないことは考えないようになった.その結果核戦争のテーマはメディアでの露出を減らし,ジャーナリストたちはテロとスキャンダルを代わりに取り上げるようになった.
  • 近年では核の恐怖の焦点は戦争よりテロに比重を移しているように見える.運動家は核テロの恐怖を煽ろうとしているが,効果は疑わしい.人々は実際に生じる銃や爆弾のテロに反応し,規制の強化やイスラム移民の制限を望むようになる.
  • このようなバックファイアは当初の反核キャンペーンの時から危惧されていた.歴史家のポール・ボイヤーは反核キャンペーンは実際には核軍拡を促進したことを見いだした.

 

  • 温暖化でも同じだが,人々は解決可能だと思うと問題を認識するようになる.ここではポジティブなアジェンダのためのいくつかのアイデアを指摘しよう.
  • まず「破滅は運命づけられている」と言うことをやめよう.破滅まであと数分という時計が70年間もほとんどそのままというのは時計の方が間違っているのだ.世界を構成するシステムが核戦争を抑止している可能性を認識すべきだ.多くの反核運動家はそんなことをしたら核廃絶できないと反対するだろう.しかし核保有国が明日すべて核廃絶することはないのだから,何がうまく働いているのか,そしてそれをもっとよくするにはどうすればいいのかを考えるべきだ.
  • まず歴史の事実を認識しよう.旧ソ連のアーカイブに「先制核攻撃」プランはなかったのだ.それは核抑止力は実際に効いていたということだ.そして冷戦終了後は両サイドとも安心して核軍備の縮小に合意している.「核兵器は核戦争を引き起こす」というよくある技術決定論的認識とは逆に,リスクは国際関係に大きく依存するのだ.キューバ危機の記録を詳細に調べると,ケネディもフルシチョフも最初からエスカレーションする気は毛頭なく,いかにうまく収めるかに腐心していたことがわかる.
  • ぞっとさせるようなフォルスアラームが何度もあったが核戦争が起こっていないのは,単に幸運の結果であることを意味しない.技術と人間が破局を避けるように組み合わさり,危機が起こるたびにその教訓を受け入れてシステムが改善されてきたのかもしれない.
  • 問題をこのように捉えると,パニックや自己満足を避けることができる.そして核戦争の確率をさらに下げる方法を検討できる.
  • はてなき核増殖シナリオも誇張されたものであることが明らかになった.1960年代には核保有国はすぐに30を越えるだろうと予測されていた.しかし21世紀になっても核保有国は9カ国に過ぎない.核開発プランを放棄した国は多い.確かに北朝鮮の核は脅威だ.しかし世界はさらにぞっとするような狂気の核保有独裁者2人(スターリンと毛沢東)と半世紀も核戦争なしで過ごせたのだ.
  • テロリストによる核強奪(あるいはガレージでの核開発)とスーツケースによる核持ち込みテロシナリオも冷静に分析しよう.確かに原爆を作るノウハウはそんなに難しくない.しかし純度の高いウランや兵器利用可能なプルトニウムを入手・保管し,各国のテロ対策チームに探知されずに原爆を作成するのは極めて困難だ.探知されずに核兵器を運搬することも極めて難しい.

 

  • 冷静になれたら,核兵器の残虐な魅力から離脱しよう.核兵器は人類の進歩を体現する科学技術の精華というより,ヒトラーとナチが先に開発するのではという恐怖から生まれたマンハッタンプロジェクトという歴史的な偶然からうまれた技術に過ぎない.そしてそれは第二次世界大戦を終わらせた原動力になったわけでもない.核抑止で長い平和を可能にしたわけでもない.
  • 核抑止力は(両超大国の対になる実存的脅威になった場合を除けば)実際にはぐちゃぐちゃなものだ.核は無差別に広いエリアを汚染し,戦争に勝ったとしても占領地の価値を失わせ,自軍の損傷も引き起こす.何より非戦闘民を無差別に大量殺戮してしまう.これは政治家にとっては耐えがたい結果であり,事実上使用はタブーになり,単なるブラフの道具に過ぎなくなった.フォークランド戦争においてアルゼンチンはサッチャーがブエノスアイレスを核攻撃するはずがないと信じていた.これは抑止自体に意味がないといっているのではない,通常兵器で十分に抑止は可能だといっているのだ.
  • MAD(相互確証破壊)理論による核抑止力の本質は先制攻撃を受けた後の二次打撃能力にある.しかしすべてのシナリオで二次打撃能力を保証するのは難しい.それはヘアトリガーによる攻撃を誘惑し,フォルスアラームによる破局の可能性を引き起こす.
  • そもそも偶然に生まれた技術で,使いようもなくリスクだけあるのならやめればいいのだ.もちろん作成技術知識をなかったことにはできないが,合意の元に廃絶は可能だ.実際にそのようにして廃絶に向かっている兵器はいくつもある.対人地雷,クラスター爆弾,化学兵器,生物兵器は世界各国で禁止されている.
  • 第一次世界大戦でドイツ軍は80マイル先から200ポンド砲弾を直接砲撃できる長距離砲「グスタフガン」を開発し,パリ市民を恐怖で震え上がらせたが,実際には狙いは不正確で扱いにくく,結局ドイツ軍はこれを放棄した.核兵器はグスタフガンのようになるだろうか.核廃絶運動は1950年代からあり,「グローバルゼロ」がそのスローガンだ.レーガンは1986年に「核戦争に勝者はいない.核兵器の唯一の価値は使用の抑止にある.だったら全部無くした方がいいだろう」とコメントしたし,オバマも2009年に「アメリカは核も戦争もない世界にコミットする」とプラハで演説した.
  • ゼロは魅力的な数字だが,達成は容易ではない.より現実的なのは兵器庫を減らしていくことだ.そしてそのプロセスは進んでいる.(冷戦時代からの米ソの核軍縮条約とその実施の概要が説明されている)

ここで世界全体の核兵器保有量の推移グラフが示されている.アメリカとソ連/ロシアの保有が大半だが,1990年がピークで現在はその1/6程度になっている,ソースはOur world in data.https://ourworldindata.org/nuclear-weapons
 
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  • 冷笑家たちは,まだ世界には1万発の核があるじゃないかというかもしれない.しかし1986年には5万4千発あったのだ.そして条約の外側にも核軍縮へ向かわせる力がある.実際に核保有国は大国間の緊張が緩むと互いにそっと軍備を減らす.これは心理学的には緊張緩和の漸進的交互的主導権(GRIT)と呼ばれる過程だ.これが進んでアーセナルが200以下に減れば核の冬のリスクは事実上なくなる.

 

  • 現在のリスクは核保有総量から来ているわけではない.警戒警報への即時応射戦略が最大のリスクになる.微妙なシグナルをノイズと分別するのは難しい.警報が発せられれば,大統領は午前3時であってもたたき起こされ,微妙なシグナルへの応答を数分以内に決断しなければならない.理論的にはカモメの群れの誤認から第3次世界大戦が始まりうることになる.実際には警告システムはもっとずっとよくできていて,ヘアトリガー警報で自動応射するようにはなっていない.しかし決断までの時間が限られているので,シグナル誤認のリスクはリアルだ.
  • 元々警戒警報への応射戦略は,敵ミサイルが自軍サイロを完全破壊して報復能力を喪失するリスク(相手がそれを確信できれば先制攻撃を誘ってしまう)を避けるためのものだ.しかし現在国家は第1射を避けることができる潜水艦からミサイルを発射することができる.そうであればもっとゆっくり時間をかけ,事態を見極めてから報復攻撃をするかどうかを決められる.
  • であれば警戒警報への応射戦略は不必要でリスクを持つだけだ.核防衛アナリストは皆ヘアトリガー警報への即時応射戦略をやめるように強く進言している.オバマもジョージ・W. ブッシュもマクナマラも皆これに賛成している.
  • では何故反対する人がいるのか.一部の理論家は「危機において一旦警報応射からはずしたミサイルを元に戻すことが挑発行為と受け取られる」とか「サイロミサイルの方が信頼性が高く正確なので,戦争に勝つためにはセーフガードすべきだ」などと主張している.

 

  • (もう1つの問題は,通常兵器による攻撃に対する抑止力への期待だ.)良心的な人にとっては,自国が核攻撃を核抑止以外の目的で使うというのは受け入れがたいだろう.しかし米国をはじめとする核保有国は「自国や同盟国が通常兵器による重大な攻撃を受ければ核を使うかもしれない」としている.しかし先に使うというポリシーは報復の連鎖を呼び込みかねず危険だ.
  • だから核戦争を避けるには「先には使わない」ポリシーが望ましい.すべて保有国がこれを採用すれば原理的に核戦争は避けられる.これは条約によって一斉に決めることも可能だし,GRITによって達成することも可能だ.核タブーは事実上「もしかしたら先制攻撃するかも」ポリシーの抑止効果を減少させているし,「先には使わない」ポリシーに変更しても,通常兵力と第二射能力で抑止は可能だ.
  • 「先には使わない」ポリシーへの変更は容易に思えるし,オバマは2016年にほとんど採用の寸前までいった.アドバイザーは,中国,ロシア.北朝鮮を利することになるし,同盟国の信頼を失わせ,核開発に向かわせかねないとしてそれに反対した.長期的には緊張緩和時にもう一度考えてみるべきだろう.
  • 核廃絶はすぐには実現できない.だからグローバル・ゼロの達成には忍耐と持続力が必要だ.しかし道は開かれている.少しずつ核を減らし,ヘアトリガー警報応射をやめ,「先には使わない」ポリシーを採用すれば,今世紀後半には単純な相互抑止のための最小限のアーセナルにまで縮小できるかもしれない.

 
核戦争は真にリアルなリスクなのでピンカーの議論も真剣で,なかなか踏み込んだ詳細な解説になっている.私には軍事や地政学についての論評能力はないし,北朝鮮の最近の動向や,インドとパキスタンの状況を考えるとなかなか楽観はできないように思うが,冷静に考えるのは確かに重要だろう.