書評 「What is Tanuki?」

What is Tanuki?

What is Tanuki?

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本書は東大出版会より出されたタヌキの専門書だが,そこからとても予期できないほどの迫力と熱意にあふれた本だ.著者は,タヌキを追いかける傍ら極真空手にうちこみ,その黒帯を持つ女性研究者であり*1,そもそもこの「What is Tanuki?」という題は極真空手創始者の大山倍達の著書「What is Karate?」ヘのオマージュであるというのだ.いかにも型破りで期待を持たせる.
 

第1章 タヌキの生き方

 
第1章ではタヌキとはどういう生物なのかが概説されている.個人的に興味深かったところを紹介しよう.また第1章の最後には著者が「信綱」と名付けたタヌキの生き様が具体的に紹介されている.

  • タヌキは食肉目動物の中で「器用貧乏」だ.走りも泳ぎも登りも狩りもある程度はこなせるが特に優れたものはない.
  • 生態的には「好機主義的雑食」であり,その時そこにあるものをひろく食べる.咀嚼はあまりせずにすぐに飲み込む.
  • 配偶システムは基本モノガミーであると考えられる.ペアが成立すると年間通してほぼ毎日一緒に行動する.オスにも育児行動が見られる.
  • 行動的には大胆にして細心.里山に適応して餌付けされることも多い.千葉の調査地では里に暮らすタイプと山に暮らすタイプに分かれている.

 

第2章 どこから来て,どこへ行く

 
第2章はタヌキの進化史が語られている.ここでは食肉目内の分岐から説かれている.

  • イヌ亜目とネコ亜目の分岐はおよそ5000〜6500万年前と考えられる.その後イヌ亜目はイヌ下目とクマ下目に分かれ,イヌ下目はいくつかの科,亜科に分かれていく.その中にイヌ科があり,起源地は北米と考えられている.
  • イヌ科は後期中新世(1160万年前頃)にユーラシア,アフリカに渡った.タヌキ属はおよそ1000万年前に,キツネ,オオカミと分かれる.(なおイヌ亜科内の分岐年代については激しい論争がある)
  • タヌキ属内では,300〜500万年前に複数の分岐があり,いくつかの大型のタヌキの化石が知られている.現生タヌキの祖先系列と考えられるのはNyctereutes sinensisでユーラシア全体に分布したようだ.
  • ユーラシアでは様々なタヌキが生息したが,更新世までにはほとんど絶滅し,現生タヌキ(N. procyonoides)につながる系列のみが生き残った(アフリカでもいくつかの分岐があったようだが100万年前頃には全て絶滅した).現在タヌキは1属1種とされている.
  • 現生タヌキの亜種には中国東部のビンエツタヌキ,朝鮮半島のコウライタヌキ,モンゴルからシベリア南部のウスリータヌキ,中国内陸部のウンナンタヌキ,日本のホンドタヌキ,エゾタヌキの6亜種が認められている.日本には朝鮮半島経由で更新世に渡ってきて,その後2亜種に分かれたと思われる.大陸の各亜種は完全な地理的隔離がないまま地域的亜種になっていったものと思われる(ただしコウライタヌキは完新世以降地理的隔離を受けている)
  • タヌキの核型は2n=42とされてきたが,ロシア産タヌキで染色体数56が報告され,日本のタヌキについて調べると染色体数の個体差,さらには個体内での多型があることが発見された.これはB染色体によるものであることがわかっている.現在タヌキの核型はホンドタヌキとエゾタヌキで2n=38+B’s,大陸タヌキで2n=54+B’sとされている.将来的には日本のタヌキは別種とされる可能性がある.

第3章 raccoon dog

 
第3章で扱われるのは毛皮産業による大規模飼育と外来種問題.*2

  • タヌキは旧ソ連によって毛皮のために大規模に飼育された経緯があり,そこから逸出したウスリータヌキが東欧を経て中欧,北欧に分布を広げている.外来種としてのタヌキの適応力は食性の広いこと,冬ごもり能力があること,繁殖力が高い(父親による育児があることも要因)こと,分散能力が大きいことだ.(生態系への影響や人獣共通感染症(狂犬病,SARS,エキノコックス,疥癬など)リスクなどが詳しく解説されている)
  • 毛皮のためのタヌキの養殖はかつては日本でも行われた*3.現在の狸毛皮生産量は突出して中国が多い.アニマル・ウェルフェアは毛皮産業の大きな問題だ.

 

第4章 タヌキは化かすのか?


第4章はタヌキの民族学が取り扱われていて楽しい.日本の狸民話*4における「化ける「化かす」,キツネの扱いとの対比,「名のある狸」名鑑*5が語られ,最後に著者自身による「昔話」と称するフィールド話が収められている.
 

第5章 タヌキにまつわる諸問題

 
第5章ではタヌキに関するいくつかの問題が扱われる.本章の最後では「武道における間合い」を引き合いに出して,私たちは野生動物と適正な距離を保つべきだと力説されている.

  • ロードキル:タヌキは交通に対して「立ち止まり型」行動*6をとり,自動車や列車に轢かれるリスクが高い.タヌキのロードキル数は狩猟や捕獲による死亡を遥かに上回る.高速道路に対する単純なアンダーパスやオーバーブリッジは効果がない.タヌキの習性にあわせた調整*7が望まれる.
  • 餌付け:意図的餌付けおよび(残飯や農作物残渣の放置,放任果樹,無防備な農地など)意図しない餌付けはロードキルや農作物被害を増加させる.
  • 農作物被害:日本における農作物被害の双璧はシカとイノシシによるもの(それぞれ42%,37%)で,タヌキ,ハクビシン,アライグマによるものは比較的少ない(それぞれ1%,3%,3%).それでも防備することによって減らすことができる.
  • 外来生物:日本におけるタヌキと競合する外来生物にはアライグマがある.アライグマの有害捕獲数および防除捕獲数は,それが特定外来生物に指定されて(2006年)から急増しているが,同時にタヌキの有害捕獲数も相関係数ほぼ1で増加している.これは外来生物防除捕獲および有害捕獲政策が科学的でも倫理的でもないことの証左である.

 

第6章 タヌキの幸せ,ヒトとの共存

 
第6章はタヌキを研究してきた著者の思いが込められた章になっている.ある意味「魂の叫び」的な章だ.冒頭ではヤブイヌの研究を例に,興味が研究を進め,理解が得られ,それが共感につながる過程が説明される.

  • 私は「好き」→「知りたい」→「研究」→「もっと好き」→「もっと知りたい」という無限ループにはまってタヌキを研究してきた.タヌキを研究しているというと,しばしば「それがなんの役に立つのか」という反応を返される.そして現在日本では研究費を得るためにそれが問われる.だとすると野生動物はそれが問題を起こすか絶滅に瀕しないと研究できないことになってしまう.それは我が国が野生動物に価値を認めていない*8ということだ.
  • タヌキの知見が少ないのはそれが(野生動物を科学的に観察して記述する土壌のある)西欧や米国に分布していないという事情と無関係ではない.
  • 野生動物にかかるニュースにおける日本のメディアの常套句には「我が物顔」「居座る」「占領」「大繁殖」などがある.かつてタヌキの怪我などの治療には傷病鳥獣教護制度からの補助があったが,「害獣」と認定され,この対象ではなくなった.この寛容のなさはなんなのか*9
  • ヒトはあらゆるレベルで生物多様性に大きく関わっている.しかし自分たちの行動は「生態系の保全」から切り離して決めているとしか思えない.環境包容力はヒトの許容性次第なのだ.私がタヌキであれば,ヒトに対して「生物多様性」と「ランドスケープの連続性」への配慮を望むだろう.

 
タヌキの本としての本書の本文部分はここまでだが,これまで別のところに寄稿したタヌキに関する巻末エッセイがいくつか収録されている.根性でタヌキを追跡する奮闘記や,様々なタヌキの逸話が語られていて大変楽しい読み物になっている.
 
以上が本書の内容になる.タヌキについてどのような動物でどのように進化してきたのかという科学的な知見が語られたあとは,タヌキをめぐる様々な問題や世間や行政のタヌキの扱いヘの批判が情熱的に語られていて,読者としてはその熱気に当てられるように読み進められる本だ.私的には進化史の部分が勉強になった.ちょっと異色な本だが,日本の野生哺乳類に興味がある人にはとても楽しい一冊だと思う.

*1:極真の黒帯は博士になるより難しいと自慢しており,この本の各所に著者自身の手による黒帯を締めたタヌキのイラストが登場する.

*2:冒頭に「この先,読んで悲しくなるかもしれません」というトリガーワーニング的注意書きが表示されている.どのような残酷な描写があるのかと身構えたが,いくつかの感染症の説明と毛皮産業でのタヌキの飼育状況や殺狸状況が酷いものであったという抽象的な描写があるだけなので,(残酷場面が苦手な人も)それほど恐れる必要はないように思う.著者は人間の都合で振り回されるタヌキの苦境に強い共感があるようだ

*3:軍隊の防寒装備用として奨励された経緯があるそうだ.なおこの養殖ブームは1939年の毛皮価格の暴落により終焉したそうだ.文字通りの「捕らぬ狸の皮算用」が生じたらしい.

*4:狸の話は四国に突出して多いのだそうだ

*5:ここは特別に楽しい.日本三大狸は「佐渡の団三郎」「屋島の太三郎」「淡路の柴右衛門」だそうだ

*6:米国研究者による分類だそうだ.この他には「無反応型(鳥類など)」「駆け抜け型(ボブキャット,ミュールジカ,アカカンガルーなど)」「忌避型(ハイイログマ,ヘラジカなど)」があるとされている

*7:のり面上の障害や侵入防止柵など

*8:日本の態度は「野生動物は増えすぎれば減らしたいが絶滅だけは避けたい」というものだとされている

*9:これに対する環境省の見解は「野生鳥獣の救護目的は個体の保護ではなく,生物多様性の保全だ」というものだそうだ

From Darwin to Derrida その174

 

第13章 意味の起源について その12

 
ヘイグの意味についての論考.エリオットの詩を引用しながらタイムスケールの問題が考察されたのち,ガチガチのメカニズム主義者はリボスイッチをナノセコンドタイムスケールの原子レベルで説明可能だが,数十億年タイムスケールのなぜそれがそこにあるのか,つまり究極因あるいは目的因を説明できないと主張した.ここから「サルとタイプライター」というセクションが始まる.サルとタイプライターを用いた話は,しばしば自然淘汰の説明によく出てくる印象がある.ドーキンスが引用されるかと思うと,冒頭で引用されるのはヴァイスマンであり,さらに本文中ではボルヘスが登場する.
 

サルとタイプライター その1

 

  • 淘汰の理論に対する反対論は多様で無数にある.・・・今日まで続いている反対論には,「淘汰は何かを捨て去るだけで,生み出すことはできない」というものがある.この反対論は,この議論そのものが淘汰の創造的有効性を強く擁護しているということを見逃しているといえる.

アウグスト・ヴァイスマン 「Germinal Selection」(1896)

 
この引用元はMonist誌に掲載されたヴァイスマンの1896年の論文になる.Monistというのは最古の哲学の学術誌の1つであるようだ.1896年なのでダーウィンの自然淘汰説には異論が多かった頃だ.特に哲学者の議論に我慢ができなくなったヴァイスマンが投稿したということなのだろうか.
academic.oup.com

 

  • ダーウィニズムはしばしば「純粋にランダムな過程からは価値は生まれえない」という論拠で批判される.プリンストンの神学者チャールズ・ホッジはダーウィンの議論が「構造と本能の意図せざる変異の緩やかな累積」に頼っていることを批判した.
  • 似たようなやり方で,私たちは独自の「仮説」を元に聖書の起源と内容を考察している男を思い浮かべることができる.その仮説は「聖書は神あるいは人の心の産物ではなく,蒸気の力で動く植字機がでたらめに植字してできた」というものだ.
  • それは千年で一文を作り,次の千年でもう一文を作り,1万年で2つの文を正しい位置にセットする,そうやって百万年経てば,聖書が,その歴史的詳細,気高き真実,経験で卓越した韻文とともに作られるというのだ.そしてさらにそこには理想の中の理想,至高の権威と敬愛,その前に信者非信者をとわずに全世界が畏敬の念とともにひれ伏すキリストの描写が含まれるというのだ.
  • この想像を認めるとしたなら,その理屈は世界の図書館の全ての本についても当てはまるはずだ.このようにしてダーウィニズムは文学にも当てはまることになる.こんなものが,キリスト教と教会を一掃するだろうとされている理屈なのだ.

  

  • ホッジは,そして似たような自然淘汰への批判は,ダーウィンが創造性をランダムさに帰していると解釈している.彼等は心を持たないプロセスがランダムさから秩序を生み出すことができるということがわかっていない.心だけが創造性を持つと考えている.

 
これは典型的な自然淘汰を全く理解できていない批判だ.神学者というのを割り引いて見てもなかなかナイーブだ.ヘイグは特にこの植字機の議論について掘り下げていく.
 

  • ホッジの植字機のアイデアはホルへ・ルイス・ボルヘスの「Total Library」の印刷機として採用された.「Total Library」は機械的にランダムに文字と句読点を印刷して得られる全ての本の集積だ.これまで書かれた全ての本,これから書かれる全ての本,そして書かれうる全ての本はその図書館のどこかの棚にある.それは本書も,本書の全ての草稿も所蔵している.そしてその他なのどこかには,全ての読者を納得させるように書かれた本書のバージョンもあるだろう.しかしこの図書館は全く役立たずだ.

 

  • 全てはそこにある.・・・しかし正確な事実についての文章1つに対して,何百万もの不協和音,ごたまぜ,でたらめがそこにはある.人類に許された全ての世代を使ってもこのめまいのするような図書館から何らかの価値ある1ページをみつけることはできないだろう.

ボルヘス 「Total Library」

 
引用元はこの本になる.邦訳があるのかどうかはちょっと調べて見たがよく分からなかった.

 

  • まともな目的のためには「Total Library」は意味をもたない.ランダムに作られたテキストから価値を見いだすには何らかの選択原則が必要なのだ.

 
よくあるこの手の批判への反論としては,ドーキンスによる747ジャンボ機の部品を使ったものが印象深い.ここでヘイグはホッジの批判を元に,それに類似したボルヘスの発想から反論を組み立てていくということになる.

From Darwin to Derrida その173

 

第13章 意味の起源について その11

 
ヘイグの意味についての論考.エリオットの詩を引用しながらタイムスケールの問題が考察される.リボスイッチにはその配列の進化をもたらした数十億年スケールと分子配座にかかるナノセコンドスケールが共存している.そして自然淘汰はリボスイッチを(配座の揺らぎの中で)適切なレベルの入力にのみ敏感になるように調整することができることを具体的に説明した.
 

決定的アクション その2

 

  • 世界に実在する全てのものは質料因と作用因の結果であるという還元主義的メカニズムの擁護者たちの主張を一旦認めてみよう.構造主義生物学者はTPPリボスイッチのメカニズムを原子のレベルで説明できる.彼等はリガンドの結合がどのようにアプタマーの一過的な配座(それは潜在的で,多数の可能配座の間を揺れ動いている中から選ばれたものだ)を安定化させるかを記述することができる.しかしこの共時的メカニズムの説明(それはどのように働くのか)は,歴史的な疑問(それはどのように現れたのか)や目的論的な疑問(それは何のためにあるのか)に答えられない.

 
そして世界の説明に質料因と作用因しか認めないガチガチのメカニズム主義者(これは生物学においては構造主義的生物学ということになる)はリボスイッチの原子レベルの動態を説明できても,それがなぜそこにあるのかは説明できないということが説かれる.これはいわゆる至近因と究極因の違いということで本書でも散々議論されていたところだが,ここでは分子の揺らぎのタイムスケールという新しい視点からもう一度説かれているということになる.分子レベルの詳細を具体的に提示した議論により説得力が増すことを狙っているのだろう.
 

  • 現存するTPPアプタマーは最近の任意の世代の創造物ではない.TPPを結合するRNA配列はおおむね40億年前に発見された.そしてそれは全ての現存するTPPアプタマーの共通祖先だ.この40億年の歴史を通じて,遺伝子伝達とTPP・アプタマーの結合は途切れることなく連続した.質料因と作用因的な「いかにしてきたのか」の問いヘの完璧な解答は得られないが,得られたとしてもその詳細にたいした重要性はない.因果についての完璧な解答であるためには現代まで続いてきた系列の繁殖と生存の成功だけでなく,子孫を残せなかった全ての突然変異アプタマーの運命まで追跡する必要があるだろう.TPPリボスイッチはチアミンが不要なときにチアミン合成を停止させるので生理的な効率性を高める.この能力を欠いた個体の死についての至近因は数多くあり多様だろう,その中には環境との特異的な組み合わせから,極くわずかな代謝活性の違いが生と死を分かつようなものもあるだろう.これら全ての生死についての違いを作る違いは,TPPに結合するかしないかの違いだ.

 
この部分の議論もちょっと面白い.ガチガチのメカニズム主義者が納得できるような因果の説明を考えて見れば,それは失敗して淘汰されたものを含む全ての系列で生じた40億年にわたるすべての出来事を提示することになるが,その(膨大な詳細を持つ)説明は(少なくともヒトの認知においては)因果の理解には役に立たないだろうということだ.
 

  • 全てのTPPアプタマーは,DNAやタンパク質が起源するより前のRNAワールドの中で進化した祖先アプタマーの子孫だ.これらの高度に保存された構造は今や多様な表現プラットフォームとともにある.そしてそのプラットフォームはバクテリア,アーケア,真核生物のチアミンの活性を制御している.(Duesterberg et al. 2015; Winkler, Nahvi, and Breaker 2002)
  • TPPを認識する1つのRNA配列は20億年以上前に淘汰的探索により発見された.そしてその子孫は,非機能性の突然変異の発生やドリフトにも関わらず,それ以来存在し続けている.TPPアプタマーの「保存」進化は,それらのアフォーダンス,つまりアプタマーの適性,特にTPPとの機能的結合から生み出されるアプタマーの有用性により説明される.私はここで「このアフォーダンス以外のものはなぜTPPアプタマーがその起源以来何十億年も存在し続けているかを理解するには因果的に意味がない(causally irrelevant to understanding why・・・)」という挑発的な主張をおこう.TPPアプタマーはTPPと結合するために実在し,実在し続けるのだ.

 
生物学界隈ではあまり使われない「アフォーダンス」を用いた難しい言い回しで面白いが,この主張が挑発的だとは(私には)思えない.自然淘汰を理解していれば当然の主張ということになるだろう.なおここで参照されているのは以下の論文だ.


www.ncbi.nlm.nih.gov

書評 「ストーリーが世界を滅ぼす」

 
本書は進化的視点から文学を論じる著書を持つ英文学者であるジョナサン・ゴットシャルによる,物語*1がヒトの認知にとってどのような意味を持ち,それが現在の世界にどういう影響を与えているかを論じた本だ.あるいは「物語の闇の力」についての本といってもよいだろう.原題は「The Story Paradox: How Our Love of Storytelling Builds Societies and Tears them Down」
 

序章 物語の語り手を絶対に信用するな

 
序章では本書の大きなテーマが語られている.ヒトが会話するのは,それは相手を「なびかせる」ためだ.それは他人の心に影響を与えることであり,普通には説得で,時には操作ということになる.そして著者は「物語」こそが「なびかせる」ための最も強力な方法だと主張する.
だとすると物語の語り手を無条件に信用すべきではないということになるが,それは非常に難しい.著者はここで陰謀論を信じ込んだ男とその周りの悲劇を語り(これ自体が物語仕立てになっている),「物語に関わる脳」についての不穏な研究結果を紹介する.物語は教えたり学んだりするためのかけがえのない道具だが,それは他人を操作したり洗脳することにも使える.それはスターウォーズの世界におけるフォースに似ているのだ.
そして現在の世界はソーシャルメディアによりストーリーテリングのビッグバンを迎えている.それは私たちをそれぞれ異なる現実に閉じこめ社会を分断してしまう.本書はそれがどのようにして生じるのか,そしてそこから世界を救うことができるかが論じられることになる.
 

第1章 ストーリーテラーが世界を支配する

 
第1章ではヒトが物語にどう向きあっているか,そしてその結果どのようなことが生じているかの概要が描かれる.

  • ニールセンの調査によると平均的なアメリカ人はメディア消費に1日12時間(内テレビに4.5時間)使っている.私たちは人生の大部分を物語の消費に費やしている.でもそれはなぜだろうか.それは心が物語に適するように進化し,物語によって形成されるからだ.物語は情報を保存して伝承する手段として生まれた.私たちは物語を通して最も多く最もよく学ぶ.
  • 狩猟採集民の語り部は高い社会的地位を享受する.それは私たちも同じだ.私たちには優れた物語への飽くなき欲求があり,その語り手(作家,映画監督,俳優など)に報酬を惜しまない.
  • そして私たちはしばしばフィクションを現実のように受け取る.これは映像技術の進歩に対するミスマッチだけでは説明できない.私たちは文字情報でも口頭の語りでもフィクションを現実のように受け取る傾向がある.私たちの脳の深い部分は物語に教えられたことを捨て去れない*2.これは物語への移入(ナラティブ・トランスポーテーション)に関係する.私たちは物語の登場人物の目で人生を見ることができ,その立場に共感する.

 

  • 物語は「起きたことの説明」だ.そしてその中にはステレオタイプ化された構造を持つものがあり,本書ではこの「加工された物語」を扱う.この典型的な構造は「道徳的対立をベースとした主人公の苦闘であり,全てに意味がある」というものになっている.この加工された物語は意味を作り出す道具であり,個々の人間ばかりか文明を丸ごとなびかせる力を持つ.
  • そして数多くの物語がヒトの心の支配について競合しており,支配に成功するのは最も優れた,最もヒトの心を飛ばすことができる物語だけだ.
  • アメリカは現在リベラルと右派の分断にあるが,全体としてはここ数十年でよりリベラルの方向に動いてきた.私はこれはハリウッドのストーリーテラーの功績ではないかと考えている*3.同性愛への理解の最も優れた予測変数は「同性愛の友人や家族と接しているか」だという研究結果がある.アメリカ社会の同性愛に対する是認傾向の増加は同性愛者が登場するドラマの影響と考えられるだろう*4
  • 私たちが物語を追い求めるのは,(至近的には)それが自分の心の中の彷徨い(永遠に自我のナレーションが続きそうな感覚)から逃れてフロー状態に入れるからだ.物語は退屈な自分自身からの逃避でもあるのだ.これはある種のドラッグと同じ作用を持ち,私たちはストーリーテラーの支配下に置かれるのだ.

 
ゴットシャルトははっきり語っていないが,ヒトには特定の構成を持つ物語を好み,その世界に入り込むという心理特性があり,それは祖先環境における学習や社会関係の処理に有用な一種の適応として考えることができるということになるだろう.そして物語自体はヒトの心に入り込むことに競争している一種のミームであり,それに勝つのは「道徳的な対立をテーマに全ての意味があるような物語」だということになる.なお最後の至近的な説明は(その是非については判断できないが)ちょっと面白い.
 

第2章 ストーリーテリングという闇の芸術

 
第2章ではこの物語が持つ力の大きさ,その源泉は何かが論じられる.

  • プラトンは物語の危険性に気づき,理想的な都市国家のあり方を論じた「国家」において「詩人を追放せよ」と主張した.この「詩人」は全てのフィクション作り手を指している.プラトンはストーリーテラーは市民を感情に酔いしれさせる職業的な嘘つきであり,フィクションはホメロスなどの至高の作品であっても益より害の方が大きいと考えた.この主張は後世の哲学者たちからまともに採り上げられなかった.
  • ホメロスの解決策(追放)はお粗末だったが,彼は物語の危険性を見抜いていた.今や大企業,さらに世界の大国や新興国は特別に人を引きつけるような構造化した情報を流して人々を操作している.ビジネス界はこの力に気づき,MBAプログラムにはストーリーテリングが採用されている.
  • 物語の力の源泉は(1)私たちは物語とその伝え手を愛すること(2)物語には粘着性があること(3)物語は注意を引きつけること(4)私たちは優れた物語を人に話さずにいられないこと(5)物語は強い感情を生み出すこと,にある.このうち最も重要なのは(5)だ.感情は人の意思決定の主要要素であり,説得には理性より役に立つからだ.
  • これらの力を発揮するには物語は優れたものでなければならない.優れた物語の1つの要素は「間接的で微妙なものであること」だ*5.私たちは間接的に示されると,そこに自力で意味を見いだすように強いられる.そうして見いだされた意味は読み手のものになるのだ.
  • どのような物語が読み手に受けるかについては膨大な試みと研究がある.受け方には個人差があり,性差もある.Netflixは個々の視聴者に合わせておすすめの映画を画面に表示する.このようなテクノロジーはもっと邪悪な目的にも使える.監視技術とプロファイリングにより個人個人に合わせた陰謀論をささやくことが可能になる.ロシアはアメリカ人相手に実際にそれを試みている*6
  • プラトンの「国家」はソクラテスの語りという物語仕立てになっている.彼は物語の危険性に気づくと同時にその力も認めており,結局それを使うことにしたのだ.

 
私はギリシア哲学にはあまり詳しくなく,プラトンが哲人政治を効果的に行うためには詩人を追放するべきだと論じていたというのは知らなかった.なかなか興味深い逸話だと思う.物語の力の源泉の議論は面白いが,第1章の心理的適応との関連がきちんと整理されていなくて物足りないところがある.物語が強い感情的な力を持つのは,相手を操作しようとする側には都合が良いだろうが,物語の聞き手にはどのようなメリットがあるのだろうか.いろいろ考えどころのような気がする.
 

 

第3章 ストーリーランド大戦

 
第3章はこの物語の力についてのケーススタディになる.採り上げられるのはキリスト教の物語と陰謀論ということになる.

  • プラトンの理想国家は共産制優生学的国家であり,それは哲人王による物語の管理と独占より運営される.ポパーは「国家」は全体主義ディストピアのためのハウツーマニュアルだと苛烈にプラトンを批判した.
  • これまで構想された全体主義的ユートピアは必ず物語を管理独占しようとしている.彼等はストーリーランドをまず支配しないと現実世界を支配できないことを理解していたのだ.(カトリック教会の管理独占の方策が解説されている)
  • (強制的独占以外の方法で)ストーリーランドの戦いに勝つにはどうすればいいのか.トルストイは(正しくも)芸術は感情の感染症だと定義した.そしてどのような要素があれば感染が広がるかについては研究が進んでいる.感染力の最も強い予測変数は「(活性化する感情についての)感情的なパンチ力」だ.
  • ここでキリストの物語の感染力を考えてみよう.全ての宗教は物語だが,キリスト教の物語はどこが優れていたのだろうか.第1にキリスト教は(ユダヤ教やギリシアとローマの多神教と異なり)伝道宗教だ.福音を受けた者はそれを他人に伝える義務を持つ.これは一種のチェーンレタープログラムだ.第2にキリスト教は(ユダヤ教と同じく)不寛容な宗教だった.これはのちに現れる別の宗教物語に対する免疫と考えることができる.第3に感情的パンチ力を考えると,キリスト教は天国と地獄という(異教の神々と全く異なる)巨大なアメとムチを用意している.特に地獄の物語は生々しく迫力がある.そしてキリスト教のドラマは(ギリシアローマの神話が過去の物語なのに比べて)現在進行形の物語だ.この世の終わりはいつ来てもおかしくないという形で提示されている.「今すぐ改心しなければ手遅れになるかもしれない」というのがキリスト教のハードセル要素だったのだ.
  • 我々の世界は陰謀論のパンデミック状況にある.そしてこれらは(理性的に判断されるべき対象である)陰謀「論」ではなく陰謀「物語」だ.陰謀物語は(真実の物語と異なり)感染力を高めるように完璧に作り込める.悪質な情報でも良くできた物語に乗せれば広まるのだ.
  • 世の中に流行った陰謀論は,突き詰めれば「悪」の存在を主張している.つまりこれは道徳上のホラーストーリーであり,信者に道徳的義務として何らかの行動を起こせと迫る.例えば地球平面説*7は単に地球の形状を問題にしているわけではない.地球平面説には(創造論と親和的な)原理主義的な平面主義と世俗的な平面主義がある.原理主義的平面主義は,聖書信仰を揺るがし世俗的世界観*8を広めようとする悪魔の陰謀を非難する物語だ.これに対して世俗的平面主義者たちはSFとミステリーとスリラーが入り交じった世界に生きている.彼等は「大変な手間をかけて人々に地球が丸いと信じ込ませようとしている黒幕」は誰で,動機は何かを探る者たちで,自分たちを史上最大の欺瞞を暴こうとしている天才級の探究者であり英雄だと規定している.
  • 陰謀物語を疑似宗教と考える心理学者もいる.陰謀論は確かに伝統的宗教の原理主義的特徴(口コミで広まった.悪と戦う聖戦の主人公として信者に協力を求める,感情を喚起し信者に伝道させる,否定するエビデンスを跳ね返す)に類似している.
  • 宗教は「物語が大きな益と害を同時に世界にもたらしている」という物語パラドクスが最も純粋に現れている例だ.そこでは物語が貪欲さと傲慢さで不可侵なものとされ,世界の全てを説明しようとし,その物語を守るために戦うものは正義である(聖戦士)と規定される.
  • 私たちにはよくできた物語に対する生得的なバイアスがある.それは祖先環境で最新の社会的情報が重要であったためだろう.このためよくできた物語にならない問題,不活性な感情を喚起する問題にうまく対処できない.私たちが気候問題にうまく対処できないのは,それは物語として出来が悪いということもあるが,感情を不活性化させる物語(問題のスケールが壮大すぎてどうすれば人類が1つになって解決できるかわからない)であるからという面が大きい.これに対して気候変動の陰謀物語は人を激しく活性化できる.

 
プラトンの「国家」の理想像が,かつての共産圏やロシアのような権威主義的国家に似ているという主張も私には興味深い*9.この章の中心となっている物語の力のケーススタディは非常に面白い.特に世俗的地球平面説の部分は傑作だ.
 
 

第4章 「ニュース」などない.あるのは「ドラマ」のみである

 
第4章では力のある物語とはどのようなものか(物語の自然文法)が分析される.

  • ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」は実験芸術の金字塔であり小説の最高傑作とされることがあるが,実際にこれを読破できる読者は極めて少ない*10.これはストーリーテリング芸術の可能性領域が極めて狭いことを示している.ナラティブ・トランスポーテーションは,普段は鍵に守られているが,特定の組み合わせにだけ反応して開く脳の状態なのだ.
  • この組み合わせが物語の自然文法だ.そこには(1)物語は困った問題を解決しようとする登場人物を扱う(2)その奥に道徳的要素を含んでいる*11,という2つの構成要素がある.
  • ハッピーエンドが好まれるという決まり文句があるが,物語の大半は苦闘が描かれていて,最後の数ページで問題が解決され,その後はあっという間に終わる.幸せは(あるとしても)最後だけだ.物語心理にはサドマゾ要素があるのだ.
  • 物語の社会的な目的は,私たちやその時代の真実を映し出すものだともいわれてきた.しかしこの映像は歪んでいる.平和と調和よりも対立,混迷,痛み,抑圧,死の記述の方が読者を吸引することから,その割合が多いのだ.これは歴史書やジャーナリズムについても当てはまる傾向だ*12.ジャーナリズムはストーリーテリングのギルドであり,物語の自然文法から逃れられない.実はニュースそのものの市場などはほとんどなく,あるのはドラマの市場だけなのだ.ニュース価値は「真実かどうか」ではなく「ドラマとして良くできているかどうか」で評価される.善と悪をめぐる闘争はよくできたドラマの要素だ.そしてニュースの消費者は「世界が解決不能な道徳的混乱状態にある」という総合的メッセージを受け取る.
  • よくできたドラマの別の要素は偶然の要素が抑制されていることだ.偶然は物語を始めるためには必要だが,結末に持っていくと台無しになる.それは人々に勧善懲悪への欲望があるからだ.善玉は報われ,悪玉は罰を受けるべきなのだ.勧善懲悪は物語の絶対則ではないが,多くの物語に普遍的通文化的に見られる.このような物語が好まれる背景は,ボームが唱えるように私たちの祖先環境は平等主義的かつ逸脱者への罰がある社会であったということなのかもしれない.だとするとストーリーテリングは個人の幸福だけではなく部族の幸福に根ざしていることになる.「敵役は超個人主義的で弱いものいじめを行い,主人公は仲間と結束して戦い,最終的に主人公たちの向社会的価値観が勝利する」という典型的な物語の構造はこの考えにフィットする.
  • 勧善懲悪のような「物語の教訓」に言及することに対してしばしば批判が寄せられる.批判の一部は「狭量で旧式の道徳を提唱することへの批判」つまり保守的な道徳への反対であり,それ自体が道徳主義的だ.
  • 物語は道徳的なのではなく道徳主義的なのだ.語り手が道徳という強い重力に逆らって物語を作り出すのは難しい.

 
実験文学は業界での評価は高いがほとんどの人はそれを読まない.これは現代音楽なども同じで,かつてピンカーはそれはこれらの現代芸術がヒトの本性とかけ離れた何らかのイデオロギーに沿っていてるからだと説明していたが,それがそのまま当てはまるだろう.
また「ニュースの市場などなく,あるのは物語の市場だけだ」という見方はいかにもシニカルだが,「なぜマスメディアの取材は最初にストーリーありきでその裏付けをとろうとする姑息なものになるのか」をよく説明しているように思われる.
そして受ける物語には共通点がある.道徳的対立と主人公の苦闘,そして勧善懲悪的解決ということになる.これは確かにドラマ,映画,アニメなどほとんどのジャンルの物語に当てはまるだろう.そしてこれが狩猟採集社会の逸脱者への罰と関連した心理傾向だという説明には説得力がある.

   

第5章 悪魔は「他者」ではない.悪魔は「私たち」だ

 
第5章と第6章は本書の中心となる部分で,物語の「闇の力」が描かれる.

  • 物語は共感装置だ.小説が18世紀後半の人権革命の大きな原動力になったと主張する歴史家もいる.そして物語は偏見と同族意識を克服する希望だとしばしば主張される.もしそうならなぜ現代のストーリーテリングのビッグバンに調和と共感のビッグバンが伴わないのだろうか.
  • それは物語には分断の力もあるからだ.共感はよいものとは限らない.だれしも自分の身内や自分に似ているものにより共感を感じるし,それは道徳的判断を歪める可能性がある.そして物語はもっぱら社会的対立を扱い,そこには悪役があり,私たちはそれを憎み,利他的懲罰を与えようとする.これは共感的サディズムと呼ばれる.
  • 私たちの物語についての心理的適応は血縁関係が主体の小さな共同体の時代に進化した.これは大人数(そしてそのほとんどは見知らぬ他人)で構成される国家,多文化・多民族社会にはミスマッチなのだ.
  • 私たちは(集団を結束させて他の集団と敵対するような)物語として自分たちの歴史を記憶する.そして対立する集団には別の物語がある.このような競合する歴史の物語は多くの悲惨な衝突の背景にある.歴史的物語は,過去に現在の想像を押し付けたものであり,祖先たちの肖像というより自分たちの懸念,強迫観念,不満,権力闘争の自画像だと考えるべきだ.
  • 国家的な物語はしばしば高貴な嘘だ.アメリカの建国神話は「アメリカこそが歴史に選ばれた国家である」というアメリカ例外主義の教義が体現されたものだ.60年代の活動家はそこに女性やマイノリティの視点がないことを糾弾し,それは下賎な嘘であると主張したが,それ自体「アメリカは自己欺瞞,抑圧,貪欲さに駆り立てられた破壊者である」という別のアメリカ例外主義の教義の体現になっている.これらはどちらも真実とはいえない.悪と善についての物語文法通りの歴史は疑ってかかった方がよい.
  • アメリカは(いにしえのローマ帝国やモンゴル帝国の没落期のように)かつて国をまとめていた共通の物語を失いつつある超大国なのかもしれない.試練となっているのは互いに矛盾する物語の数々だ.
  • どうすればいいのか,1つの方法は「悪者のいない歴史」を語る努力をするというものだろう.ヒトが道徳的な振る舞いをするかどうかは,多いに偶然(運)に左右される.自分が正しく振る舞ったのは,道徳的幸運であり,道徳的な優位性ではないと理解するのだ.そして必要なのは悪魔への共感「自分も運が悪ければああなっていたかもしれない」だ.

 
受ける物語は道徳的対立を扱う.だからそこには「悪者」が登場し,読者はそれを罰したいと強く感じる.物語が純粋なフィクションならそれでいいが,歴史のような現実を扱う物語は,自分たちの集団と他者の集団の道徳的苦闘を描き,他者を「悪者」にしてしまう.そしてそれぞれの集団の物語は互いに食い違う.これが物語の持つ「分断」の闇の力ということになる.
 

第6章 「現実」対「虚構」

 
第6章では前章で描かれた物語の分断の力が現代社会でどのように働くかが分析される.

  • ハイダーとジンメルによる単純な図形が動く90秒の動画の実験は,人々がそれを物語として解釈すること,物語の内容は驚くほど収斂すると同時に驚くほどの広がりがあることを示した.私たちは目に入るものから物語を創作しているのだ.そしてこの性質は,ある物語にかぶれて執着し,物語の世界観を信じ,世界の中に実際にはないパターンを見いだしてしまう現象を引き起こす.
  • 私たちは自分の存在と一貫性に秩序を与えてくれる物語を手にすると,それを検証するのではなく,必死で守ろうとする.現実を物語の構造に押し込み,物語が真である証拠を捏造する.一度強力な物語が心の中に侵入するとその物語が実権を握るのだ.(ここで2020年選挙の結果に不満を持つデモ隊が連邦議会に乱入した事件にまつわる様々な状況が解説されている*13
  • ハイダー=ジンメル効果を知っておくことは,好ましくないと感じる物語やそれが引き起こす結果を,「それは自由意思からではなく,物語の力に流された結果なのかもしれない」と,もっと建設的に,同情を持って見ることにつながるだろう.悪者とは単に間違ったストーリーテラーに遭遇し,それを信じてしまった不運な人なのだ.
  • 何千万人もが同じ番組を見るテレビが登場したときに,左派はそれは恐るべき画一化のテクノロジーで人々を中流白人の価値観に洗脳するものだと批判した.それ自体間違いではないかもしれないが,彼等はそれに代わるテクノロジーがさらに悪質であることを見抜けていなかった.SNSは個人仕様版の現実の提示を可能にし,私たちはそれぞれ異なる物語宇宙に搦め捕られた.全世界でソーシャルメディアの台頭と社会の二極化が同時進行したのは偶然ではない.
  • もたらされたのは「ポスト真実」の世界だ.人々の(それぞれのいかれた物語に対する)確信は増し,エビデンスの力は奪われた.私たちが中世の暗黒時代から光の中に這い出せたのは,啓蒙主義によるもので,エビデンスのおかげだ.しかし今,エビデンスより「優れた物語」が力を持ち始めている.それは「閉蒙主義」の前兆なのかもしれない.(ここでトランプ*14がその物語の力をいかにうまく使ったのかが詳細に解説されている*15

 

  • ではどうすればいいのか.世界には物語に対抗する手段が必要で,それは物語に対する攻撃や統制ではなく,理性によるべきだ.
  • プラトンに従って物語を追放しようとした1つの共同体は科学界だ.科学とは,本質的に,現実についての物語のどれが真実でどれが虚偽かを見つけ出す,これまで考案された中で最も信頼できる方法だ.
  • 私たちがポスト真実の世界から現実の世界に戻るためには,科学を始めとする実証主義が権威を取り戻すことが必要で,そのためには真実を語る主要機関つまりメディアが変わらなければならない.ジャーナリズムと学術界がなすべき仕事をすれば民主主義の物語戦争で調停役となれるだろう.
  • しかし現在見られるジャーナリズムと学術界のリベラルバイアスはその障害になりうる.人々の学者に対する信用は割り引かれ,大衆が科学を疑う理由になるだろう*16.学術界に吹き荒れるキャンセルカルチャーはトランプと同じぐらいポスト真実の世界に加担している.

 

  • ディープフェイク技術は文書,音声,動画のエビデンスの基礎を掘り崩す.ポスト真実の思想市場で,誤報や偽情報が真実を打ち負かしていることを示すエビデンスが増えつつある.
  • ソーシャルメディアヘの規制を求める声もある.是非検討してほしいが,うまく負の外部効果を取り除くのは難しいだろう.負の外部効果は物語の自然文法そのものにあるからだ.フェイスブックの成功は物語の自然文法を自力で発見し,莫大なスケールで流通させる方法を作り出したからだ.このビジネスモデルはどこまでも自然文法に従っていくだろう.
  • 中国共産党は新しいテクノロジーを用いてプラトンの夢を実現させようとしている.入念に都合の良い物語宇宙を構築し,ファイアウォールという万里の長城で守っている.今世紀のイデオロギーの戦いは中国の権威主義モデルと西洋の次第にぐらついてきたリベラル民主主義の戦いになるだろう.私は西洋の優位性を確信できない.

 
途中のトランプの分析は面白い.しかしこの章の最終的なトーンは暗い.トランプのような物語の力を徹底的に利用しようとするトリックスターに対して私たちの社会はあまりにも脆弱だ.ソーシャルメディアとマスメディアは構造的な弱さを持つし,物語の世界に対抗するべき科学の世界はリベラルバイアスにより大衆の信用を失いつつある.そしてこのトーンは最終章に受け継がれる.
 

終章 私たちを分断する物語の中で生き抜く

 
最終章では,著者の悲観的な思いとその中でとるべき道が示される.

  • 現代は物語が狂気の元凶になっている.私たちに何ができるかについて私は悲観的にならざるを得ない.
  • 私たちが音楽,彫刻,絵画,舞踏を愛するのは物語への熱中が形を変えたものだろう.新石器時代のヨーロッパの素晴らしい洞窟絵画がなぜ描かれたのかはわからないが,それはおそらく何らかの物語の表現だ.そしてそれは私たちの物語本能がいかに深く,それを変えることがいかに難しいかを示している.
  • 物語の毒を中和するには,そこに退屈な部分や心を動かさない部分を混ぜるほかない.しかし私たちはそれを選ばないだろう.それでもこの現代文明最大の問題に対処したいと願うなら,物語心理という新たな分野で大規模な学術的取り組みを始めるべきだ.そして私たちは自分が語る物語についても疑う心を持つべきなのだ.
  • 私の最後のメッセージは「物語を憎み,抵抗せよ.だがストーリーテラーを憎まないように必死で努めよ.そして平和とあなた自身の魂のために,物語に騙されている気の毒や輩を軽蔑するな.本人が悪いのではないのだから」というものだ.

 
以上が本書の内容になる.ヒトは物語で物事を理解するような心理傾向を(おそらく適応として)持っており,物語は狩猟採集社会では社会関係のマネジメントや技術の習得に役に立っていた.しかし(プラトンが見抜いたように)農業革命以降それは「闇の力」を持つようになり,さらに現代のSNS技術の元では強い「分断の力」を持つようになったことが主張されている.
SNSがエコーチェンバーになり分断の大きな要因となっていることは各所で指摘されているが,それを「物語」の力として描いているのが本書特有の視点ということになるだろう.特に陰謀論やトランプの分析のところは読んでいて面白い.最終的なスタンスはかなり悲観的なものだが,それでもいくつかの提案はされていて,ある意味誠実な書き振りといえるものだろう.陰謀論はドラッグのようなものであり,自分もいつどこでそれにおかされてもおかしくないことを理解し,自戒することの大切さを教えてくれる一冊だ.

 
関連書籍
 
原書

 
ゴットシャルの著書
 
処女作 ホメロスのイリアスを題材に進化的な視点から暴力について考察した本. 
そのテーマを広げ,進化的視点から物語を語った本 
本人が総合格闘技にはまって感じたことを進化的視点も交えて語る異色の本 
同邦訳 私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20160403/1459643299

 
専門書 
編者として参加している共著本
Evolution, Literature, and Film

Evolution, Literature, and Film

  • Columbia University Press
Amazon

 

*1:本書では「物語」「ストーリー」「ナラティブ」が各所でほぼ同義語として使われている.微妙なニュアンスがあるのだろうが,本書評では基本的に「物語」を用いることにする

*2:頭ではわかっていても俳優とその演じた役を混同してしまう傾向などが説明されている

*3:これに対して右派は裕福なリベラルの小さな集団が思想コントロールを行っていると受け止め,左派はこれが世界規模の成功になって全世界にアメリカ的価値を押し付けることにならないかと懸念しているそうだ

*4:2012年,当時副大統領だったバイデンは同性愛の支持へのアメリカ人への歴史的変化を引き起こしたのはドラマ「ふたりは友達? ウィル&グレイス」だと発言したそうだ

*5:ここでヘミングウェイの逸話が紹介されている.レストランで彼は自分なら小説一冊分をたった6語に込められると豪語し,友人たちができない方に賭けたあとこう示して見せたそうだ「For Sale: baby shoose, never worn.」

*6:実際にFacebookを用いてアメリカ人同士の対立を煽った手口が説明されている

*7:アメリカの成人の2%,つまりおよそ600万人が平面説を信じているとされる.そして彼等のネット上の活発な活動により,1/3のミレニアル世代アメリカ人は地球の形状について確信を持てなくなっているそうだ.

*8:「聖書は埃をかぶった神話の集積であり,生命は偶然発生し,どろどろした原生生物から何十億年もかけて無意味な性交と殺し合いを経て進化した」という思想だと説明されている

*9:ただこの部分は第2章にある方が構成的にはわかりやすかったのではないだろうか

*10:著者は英文学者だが,以前知りあったジョイス学者を除くと,最後まで読んだ,あるいは読もうとした同業者に会ったことはないそうだ

*11:道徳的要素を持たない物語が本当にないのかというのは「物語」をどこまで厳密に定義するかによるとコメントされている.例えばポルノにはあまり道徳的要素はない.ポルノは純粋に願望を満たす空想のシナリオに消費者を連れていってくれる(ストーリーテリングとは別の)エンターテインメントだとされている.あるいはBLとかラノベもそのような要素を持つものなのかもしれない.

*12:この部分ではピンカーの議論が参照されている

*13:左派は警察の暴徒(白人主体だった)に対する弱腰に人種差別の証拠を見いだし,右派はそれは圧倒的に数が違ったからに決まっていて,なぜ左派は何でも人種差別に結びつけるのかと憤慨した.共和党支持者は左派メディアが全てをトランプのせいにするだろうと感じて嫌悪感を抱き,さらにその中の愛国主義者たちはデモ隊の行動に建国時のマサチューセッツ民兵と同じ愛国心の発露を見た.さらにQアノン信奉者たちは左派メディアの暴徒の映像が左派活動家のなりすましによるフェイクである盤石の証拠を見つけた,などと説明されている

*14:本書内では「でかメガホン」と呼称されている.その名を見るのも書くのもいやだということだろう.

*15:「Make America Great Again」には神話的な壮大さがある.そしてこれほど臆面もなく虚構で固められた人物を私たちが大統領に選んでしまったことこそ,私たちが「ポスト真実」の世界に入った究極の象徴だ.彼は当初単なる泡沫候補だったが,その悪役物語の魅力にメディアはあらがえず,彼はそれをうまく利用した.そしてストーリーテリングの自由市場で競争して,驚くべきことにそこで勝った.メディアにはトランプを無視することはできなかっただろう.なぜならトランプが嫌いな人でもトランプショーは大好きだったからだ.などと説明されている.

*16:現在共和党支持者の59%が高等教育はアメリカの益ではなく害になると考えている.そしてこのリベラルバイアスは一般大衆が賃金格差の原因について語るジェンダー研究の教授を嫌い,警察の暴行の研究で社会学者が投げかける妥当な問いを疑い,弾劾公聴会の歴史家の証言の動機を疑う格好の理由になるだろうとされている.

From Darwin to Derrida その172

 

第13章 意味の起源について その10

 
ヘイグの意味についての論考.エリオットの詩を引用しながらタイムスケールの問題が考察される.いきなりソシュールが登場し,その共時性と通時性についてのヘイグの考察が披露された.

 

決定的アクション その1

 

  • リボスイッチの機能はその進化的過去からの通時的な情報とその環境的現在からの共時的情報に依存する.進化的な情報はRNA配列に書き込まれ,複製系列の過去の自由度「何でありえたか」と,リボスイッチの機能的反応のレパートリーの記述「何でありうるか」を示している.環境的情報は現実の反応「何であるか」を将来の自由度のなかから選択する.

 
ここはソシュールの解釈を通じてリボスイッチにかかるいくつかのタイムスケールの問題を整理し直したということになる.
機能が進化的な過去からの通時的な情報に依存するというのは,それが適応的機能を持つという意味だ,そして環境的現在からの共時的情報に依存するというのはその適応的機能は環境条件に応じて調整されるというという意味になるだろう.そしてそのような自然淘汰を経たRNA配列は過去の淘汰にかかる情報,現在の機能制御の条件についての情報を含んでいる.さらに現在の環境は制御条件を1つに決定する.
 

  • メカニズムにかかる共時的視点から見ると,配座の変化に関するリガンドとアプタマーの役割は因果的に同一だ.しかし適応の意味にかかる通時的視点から見ると,主体としての進化するRNAと客体としての変化しないリガンドの間には文法的な区別がある.

 
機能メカニズム的(至近因的)にはリガンドとアプタマーが結合することにより機能が変化するので,この両者に因果要因としての差はない.しかし進化的(究極因的)にはアプタマーはRNA配列の一部としての進化産物であるが,リガンドはそうではないという違いがあるということになる.
 

  • リボスイッチのエネルギー地形はその形にある.一部の配座は自然淘汰の客体となるに十分な頻度で現れるが,一部の配座はリボスイッチの機能を推測する際には無視できるほど稀にしか現れない.進化したエネルギー地形は自然淘汰により形作られるもので,微小な摂動に敏感で(バタフライエフェクト),大きな摂動には鈍感な(バスタブエフェクト)様相をとる.これによりリボスイッチは,不適切な摂動には鈍感で,適切な入力には敏感になることができる.そしてそれに対応するリガンドはある牽引領域から別の牽引領域にフリップする.

 
ここはリボスイッチの切り替えがノイズの影響を避けてうまく行われるのはそれが自然淘汰産物だからということをいっているのだろう.
 

  • 1つのアプタマーが1つの発現プラットフォームに結びついているようなパラダイム的(範例的)なリボスイッチを考えてみよう.アプタマーは,リガンドにより実現される配座に安定化するまで,潜在的な配座群の中で可逆的な変動(揺らぎ)をする.このリガンドに誘発されるアプタマーの安定化は発現プラットフォームにアロステリックな(高分子のある結合部位の結合が別の部位の機能的変化を生じさせるような)シフトを引き起こし,そのシフトは転写の終了のような不可逆的な化学反応を引き起こす.アプタマーと発現プラットフォームのこの進化した構造は,アプタマーのリガンドの感知による不可逆的な反応が生じるまでは,それぞれ「不確か(uncertain)」,「非決定(undecided)」の状態にある
  • リボスイッチは「決定」(不可逆作用)が何らかの「理由」(リガンドの感知)により生じるという理由のある選択(a reasoned choice)であることの例だ.この入力と出力を持つアロステリックなメカニズムは,物理科学的に恣意的(physicochemically arbitrary)だが,適応的な意味(adaptive sense)がある.

 
そして前段の主張が具体的に解説されている.選択により意味が生まれているということになる.