War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その52

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その13

 
カロリング帝国の辺境.ここまで南西部辺境とスペインの興隆,北西部辺境とイギリス,フランスの興隆,北東部辺境のドイツとリトアニアの興隆をみてきた.最後に残るのは南東部辺境になる.
 

カロリング朝の南東部辺境 その1

 

  • 本章で議論した3つの辺境は,ある意味ローカルな問題だった.これらのダイナミクスはせいぜい数百キロ程度の範囲で生じた出来事に影響されていたに過ぎない.しかしラテンキリスト教世界の南東部の辺境は何千キロも離れたユーラシアの反対側の出来事に大きく影響された.そこにはモンゴルと北中国の接触面があり,世界最大規模のメタエスニック辺境となっていた.
  • このアジア内部の辺境は紀元前第1千年紀に形成され,中国の様々な王朝形成の要因となった.ステップサイドからは匈奴,突厥(トルコ),蒙古(モンゴル)が興った.

 
ここでターチンは中国とモンゴルの境目を世界最大のメタエスニック辺境としている.たしかにうねるように流れる中国史はこの辺境を抜きにしては語れないだろう.ここでターチンは言及をヨーロッパまで影響を与えた民族に限っているので,匈奴,突厥,蒙古のみを紹介しているが,中国史に大きな影響を与えた遊牧系民族としてはこれら以外に,契丹(遼を建国),女真(契丹とともに金を建国),満州(清を建国),鮮卑・拓跋(隋や唐のかなりの要素を占める)があり,その他にも多くの民族が知られている.
 

 

  • これらの遊牧国家はいずれも巨大な帝国となり,他の遊牧民を服従させたり全滅させたりした.圧迫を受けた遊牧民は戦士を集結させ,女子供や家畜とともに西に向かった.そしてその圧力を受けた遊牧民がさらに西に向かうというドミノ効果を引き起こした.この結果中国発の帝国興隆パルスが圧力波となってステップを伝わった.この波はユーラシアステップの最西端であるハンガリー平原に達した.

 
ターチンはまるでハンガリー平原が中央アジアのステップと直接つながっていてその西端であるかのように書いているが,実際には中央アジアステップが直接つながっている平原はウクライナ,ポーランドにあり,ハンガリー平原はカルパティア山脈で隔てられている.ちょっと微妙な描き振りだが,波がハンガリー平原に何度も到達したのは歴史的事実ということになる.
 

  • 最初にハンガリーに到達した波は(匈奴の末裔とも言われている)フン族によるものだった.次の波はアヴァールによるものだ.アヴァールは突厥(トルコ)の一派だと言われている.そして次にマジャールが現れた.最後の波はバトゥーによるモンゴルの襲撃だった.モンゴルは1241年にハンガリーの軍隊を壊滅させた.しかしバトゥーはモンゴルの後継者選抜に参加するためにそこを去った.
  • ハンガリーに遊牧民が達するたびに隣接するドナウ川中流域(現在のオーストリア,チロル)は恐るべき隣人を迎えることになった.これがラテンキリスト教世界の南東部辺境を形成した.カロリング期の788年,シャルルマーニュはババリアをフランク帝国に組み入れた.その当時,後にオーストリアとなる地域はアヴァール帝国の支配下にあった.そこから8年かけてフランクはアヴァールを打ち負かし,東辺境(Ostmark:後のオーストリアの語源)を置いた.そこはババリアからの植民によりほぼ完全にゲルマン化した.
  • その後100年ほどハンガリー平原は権力の空白地だった.アヴァールは瓦解したが,フランク帝国に植民を進める余裕はなかったのだ.どのみち9世紀にはカロリング朝は停滞期に入った.その地の人々はダキア,ゲルマン,フン,アヴァール,スラブの寄せ集めであり,国家として組織化されていなかった.
  • この空白にマジャール(ハンガリー)が入り込んだ.マジャールの謎の1つはその言語だ.ハンガリー語はフィン・ウゴル語族に属しており,それは北方ユーラシアのもの(フィンランド語,エストニア語などが含まれる)だからだ.一部の学者は彼らは北欧に起源を持つのではと主張しているが,おそらく,彼らはウゴル語を話す森の人々と遊牧民であるトルコの何らかの相互作用の結果形成されたのだろう.言語以外のすべての特徴は彼らがフンやトルコと同じ遊牧民の部族連合であることを強く示唆している.実際に中世ヨーロッパ人は彼らのことを単純にトルコと呼んでいる.
  • マジャールはハンガリー平原に定着した後すぐにカロリング朝の土地を襲撃し始めた.襲撃の一部はフランスまで達した.オーストリアはその襲撃の通り道となり,荒廃した.
  • 924年ザクセン朝の初代皇帝(ハインリヒ1世)はマジャールに襲撃をやめてもらう代わりに貢納することを承諾した.しかしながらザクセン朝ドイツが統合されその力が増すとともに(それにはマジャールからの圧力も要因となっていただろう),ドイツは攻撃的になっていった.955年,オットー大帝はレヒフェルトの戦いでマジャールを打ち負かした.東辺境が再設置され,ババリアからのオーストリアへの植民が再開した.同時に襲撃がうまくいかなくなったハンガリー人たちも落ち着いた.彼らは遊牧民から農耕民に転換し,キリスト教ヘの改宗にも関心を向けるようになった.最初の改宗の試みは(ハンガリー初代国王の)イシュトバーンによるものだった.しかし1046年には反動が起こった.異教の部族長たちがイシュトバーンの後継者を殺し,キリスト教徒を殺害したのだ.ハンガリーが本当にキリスト教化したのは12世紀になってからだ.
  • それでもハンガリーの改宗は重要な転換点となった.ハンガリーはラテンキリスト教世界の一部になった.ドイツとの対立感情は19世紀まで続き,時々戦っていたとしても,ハンガリーとドイツの間にメタエスニックな分断はなかったのだ.

 
ハンガリーの歴史は世界史ではあまり詳しく取り上げられないところでもあり,ターチンの語り口はいろいろと楽しい.
ハンガリー平原はしばしば遊牧民の脅威に晒された最前線ということになる.ターチン流に考えるなら,ここに強国が興ってもよさそうなものだが,パルスが2〜3百年に一度ぐらいの頻度で,来た時には壊滅してしまうので強国にはつながらなかったということだろうか.いずれにせよターチンはその隣のオーストリアに注目している.
 

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その51

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その12

 
カロリング帝国の北東部にはエルベ川東岸にゲルマン(ドイツ)とスラブの間のメタエスニック辺境が出現した.ドイツはエルベ川を超えて侵攻し,さらに東への侵攻拠点としての軍事組織社会としてのブランデンブルグ・プロイセンが興隆した.この地域は近代ドイツの中核となる.ターチンは続いて辺境のスラブ側,リトアニアの興隆を語る.
 

カロリング朝の北東部辺境 その3

 

  • 改宗と植民地化の結果,13世紀の末にはデンマークからエストニアまでのバルト海沿岸はラテンキリスト教世界の一部になった.この動きにより多くのバルト海沿岸の民族は征服された.その1つは(今や征服者プロイセンの名前としてのみ残る)プロシア人だ.エストニア人やラトビア人も一旦征服され,ドイツ支配下で生き延び,20世紀になってようやく小国として復活を果たすことになる.しかしある民族だけは団結して対抗し,独自の帝国を興した.それがリトアニアだ.

 
現在,バルト民族はラトビアとリトアニアを構成する民族集団とされる.(エストニア語はバルト語族ではないので,エストニアはバルト民族とはされないようだ).12世紀ごろまで似たような境遇にあったバルト海沿岸の様々な民族のうちリトアニアだけは数百年続く大帝国を形成している.これはリトアニア大公国として知られており,現在のリトアニア地域(この領域はリトアニア民族の故郷とされているようだ)に加えて東スラブのベラルーシおよび西ウクライナ地域および現在のポーランドの東側を包摂する国家だった.ターチンはこの大公国の勃興を詳しく語る.
 

  • 1203年にリガの刀剣兄弟団(the Sword-Brothers of Riga)が後のリトアニアとなる領域に侵入した時にそこにリトアニア人というべき人々がいたわけではない.そこには戦士階級が統べる様々なバルトの農民たちの部族がいた.2世紀前にロシア人がキリスト教に改宗し,これらのバルトの異教徒たちはメタエスニック辺境に接することになった.彼らはポロツク公国からの襲撃圧力を受け,時に貢納を強いられた.キエフ大公国が12世紀に分裂した時,バルト人たちは部族単位で要塞を持ち,武装した部隊を組み,ポロツク公国を含む周囲への襲撃を始め,家畜,奴隷,銀を収奪した.彼らの人口密度は低く,深い森に囲まれて分散していたので,襲撃圧力自体がそれほど大きかったわけではない.
  • 状況はドイツ騎士団と刀剣兄弟団の組織された略奪騎士が現れて大きく変化した.13〜14世紀を通じて「プロトリトアニア人」は西と北から同時に圧力を受けたのだ.彼らは同胞部族がドイツの圧倒的な力に殺戮され,支配されるのを目の当たりにした.1240年代からはさらにモンゴルによる殺戮が加わった.彼らは抵抗するか服従するかの選択を迫られ,前者をとった.リトアニア人たちは団結し,ヨーロッパで最大の帝国の1つを作るに至った.

 
ターチンはリトアニアも辺境における襲撃からの防衛で形作られたという説明を行う.ターチンのスタンスからは当然の議論ということになるだろう.ここで物足りないのは,ではリトアニアとエストニア,ラトビアの違いは何だったのかが全く説明されていないことだ.もちろんターチンは辺境の民族すべてが強国を形成すると入っていないが,何らかのコメントはほしかったところだ.あるいはそれは単なる歴史の偶然という風に考えているのかもしれない.
 

  • 1219年にはリトアニアの王子は20人いた.しかしその40年後にはそのうちの1人であったミンダウガス(初代リトアニア大公)が全国民に従軍命令を出せるようになっていた.これが統一に向けての最初の試みだったが,ミンダウガスは1263年には義理の弟に暗殺されてしまう.
  • その後もドイツ騎士団からの圧力は継続した.14世紀の初めには次の統一に向けての試みが始まった.大公ゲディミナスの元,リトアニアはかつてのキエフ大公国(その時点ではモンゴルのキプチャクハン国(ジョチウルス)の支配下にあった)の地域に拡大を始めた.拡大は次の大公であったアルギルダスの時代にも続き,リトアニアは黒海に達した.次の大公ヨガイラはポーランドのヤドヴィガ女王と婚姻した.
  • 15世紀を通じてリトアニア=ポーランドはヨーロッパにおける最大領域国となった.1410年,ヨガイラはグリューンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を打ち負かした.1466年,ドイツ騎士団はポーランドの王冠に従うものとなり,そのメンバーの半数はポーランド人となった.このスラブ・バルトのドイツ十字軍に対する勝利は歴史の中の大きな転換点の1つだ.
  • しかしいかなる勝利も永続しない.18世紀の末には,もともとはポーランド王臣下だったプロイセンのホーエンツォレルン家の王たちは,ハプスブルグ家やロマノフ家と競い合いながらポーランドの地を削り取り始めたのだ.

 

  • 14世紀の末までリトアニアは異教信仰だった.なぜなら,それは対立する十字軍のカトリック信仰に対抗するものであり,彼らのナショナルアイデンティティの一部だったからだ.しかしながらドイツからの圧力が減じるにつれて,リトアニア人たちは異教を捨てることができることに気づいた.ヨガイラはポーランドの王権を得るための取引として,1386年に洗礼を受け入れた.当初には抵抗もあったが15世紀を通じてリトアニア人たちは徐々に改宗した.彼らはキリスト教に改宗した最後のヨーロッパ人となった.

 
ここにポーランドから西ウクライナまではリトアニア=ポーランド(さらに大公国衰退後ハプスブルグ帝国領)のもとでのカトリック,東ウクライナからロシアにかけてはロシア正教という境界が形成され,様々な文化的な影響を残すことになる.現在では境界は緩やかなグラデーションのようになっているとされるが,なお違いは残っている.ウクライナの西側の人々と東側の人々の間には親欧州か親ロシアかの心情的な違いがあるといわれるが,これはその遠因となっているとされる.これは現在のウクライナ戦争にも大きく影響しているだろう.
 

書評 「ゴキブリ・マイウェイ」

 
本書はクチキゴキブリの翅の食い合いをリサーチしている若手研究者の自伝的研究物語.リサーチのテーマはゴキブリの配偶ペアの翅の食い合いという極めて興味深いものだ.4年ほど前にオンラインセミナーで聞いてとても印象的だったので迷わず購入した一冊になる.
  

はじめに

 
冒頭は飛行機のキャビンに持ち込んだリュックが実は採集したゴキブリでいっぱいであることをCAさんに隠した*1背徳的なエピソードから始まる.そして題材のクチキゴキブリの生活史が実に興味深いものであることが解説されている.彼らは生まれた朽ち木から分散後,オスメスでペアを形成して新たな朽ち木に定着,朽ち木を食べながらトンネルを造り,そこで一生を終える.生涯モノガミー(一切浮気しないと考えられている)であり,卵胎生で子を産み,両親ともに口移しで餌を与えて子育てを行う.そしてペアは翅を食い合うのだ.いかにも興味深い.これで読者をぐっと掴み,ここから物語が始まる.
 

第1章 やんばるの地に降り立つ

 
第1章は本書を読む上で役立つ様々な基礎知識解説章となっている.研究材料であるリュウキュウクチキゴキブリの採集とその翅の食い合いの様子,ゴキブリの定義(ゴキブリ目(Blattodea)昆虫でシロアリ以外のもの*2),生態的位置づけ(ゴキブリの99%は森林で朽ち木,落ち葉,昆虫の死骸などの分解の第一段階を担っている),著者とゴキブリの出会い(中学時代に教師に昆虫の研究をしたいと相談し,マダガスカルオオゴキブリを取り寄せてもらった時に始まる),クチキゴキブリの系統的位置づけ(ゴキブリ目,オオゴキブリ科,クチキゴキブリ属)とオオゴキブリの卵胎生のメカニズムと適応的意義,行動生態学の基本的考え方などが手早く説明されている.
 

第2章 謎の行動、翅の食い合い

 
第2章から研究物語が始まる.学部4年生の4月に九州大学の粕谷研に配属され,そこでクチキゴキブリの卒業研究を志望する.すると5~6月の新成虫シーズンまでに調査地を決めて実際に採集しなければデータが取れない.ここをくぐり抜けるドタバタと突進力が楽しい読み物になっている.
ここでテーマである「翅の食い合い」についての解説がある.

  • 新成虫のオスとメスは交尾前後に互いの翅を食い合う.最終的に付け根まできれいに食べられて,両者とも飛翔能力を失う
  • この行動はクチキゴキブリでしか見つかっていない.そして交尾前後に生じる行動であるので繁殖と密接に関連していると思われるが,その適応的意義は全く謎である(ここでこれまで知られている似た行動として「性的共食い」と「婚姻贈呈」が解説され,このどちらとも異なることが説明されている)
  • 著者が研究を始めた時点で,クチキゴキブリの翅の食い合いについては(成虫の翅が根元から無くなっていることから)そういう行動をするのだろうとされていたが,実は正式に論文として発表されている研究は皆無で.唯一未発表の修論があるだけだった.そしてそれもふくめて実際の食い合いを誰も見たことはなかった.

著者はこの修論の執筆者にも連絡をとり,まずは翅の食い合いがどう進行していくかを観察記載することにする.
 

第3章 三度の飯より研究

 
第3章では少し時間が遡り,研究が始まるまでの物語になる.
子供のころからの昆虫好き,図鑑の中で「生態」という言葉に出会い,生態学を志して九州大学理学部に進学する.最初の「生態学」の講義は矢原徹一によるもので(あとから考えると)個体群生態学よりの講義で動物の行動を扱う学問という感じではなくちょっと失望する.しかし図書館で調べて動物行動学に出会う.そしてファーブルの昆虫記のようなことがやりたいと感じ,最終的に行動生態学を目指し粕谷研の門をたたくことになるという顛末が率直に語られている.
 

第4章 クチキゴキブリ採集記

 
物語は大学4年時のやんばるでのゴキブリ採集時に戻る.資金獲得,採集道具(手鋤,ハブよけの鉄板の入った靴,収納容器,ウエストポーチなど),採集の様子(基本は朽ち木を手鋤でばこばこ割っていく)の様子が語られている.
 

第5章 実験セットを構築せよ

 
ゴキブリを無事採集してきたあとは飼育方法確立の苦労話だ.光源問題(ハンダ鏝片手に120個の赤色LEDライト自作),飼育場所の確保(研究室の片隅に物干し竿とハンガーラックをを使った暗室を作成),ビデオカメラの設置,飼育容器の選定と環境確保(セルロースパウダーの使用が決め手)をめぐる試行錯誤が語られている.
 

第6章 戦場でありフェス、それが学会

 
ここで研究物語から一旦脇道にそれて,学会について.
学会とはどんなところか(最も重要なことは実績や就職*3につながる人脈作りでいかに自分を売り込むかがポイントだが,しかし単純に楽しいところでもある),シロアリ研究の第一人者の松浦教授とつながれた*4こと,様々な学会賞と受賞経験,国際学会体験記などが語られている.
 

第7章 翅は本当に食われているのか?

 
話は翅の食い合いの観察に戻る.安定した飼育技術確立までの苦労(白色腐朽材を供給するためのクワガタ飼育用の菌糸ビンと飼育容器としての「ディッシュ」がブレークスルーになる),録画と再生の忍耐が語られている.そして著者はついに翅を食うところを観察することに成功する.
 

第8章 論文、それは我らの生きた証

 
そして著者は発見した知見を論文に書くことになる.ここでは論文とは何か,基本構成,初めての論文執筆*5,まず翅の食い合いの発見を報告する論文に書くことにしたこと,論文の投稿先の雑誌選び,英文論文を書くことの苦労*6,リジェクト,メジャーリビジョンを経てのアクセプト,思いがけない大きな反響(New York Timesにも取り上げられたそうだ)が語られている.
 

第9章 ゴキブリの不可思議

 
翅の食い合いの発見の報告論文は受理された.そしてもちろん「この行動の適応的意義は何か」が最も興味をそそるテーマとして残っている.第9章ではその謎へのチャレンジが描かれる.ここは本書の中でも読みどころだ.著者の探求の過程を少し詳しく紹介しよう.

  • 子育て投資は卵を作るメスの方が大きい.だから翅は栄養源としてオスがメスに与え,メスの翅もオスがとってあげてメスが食するのだろうか.しかし観察によるとオスはメスの翅を食べ,メスがオスの翅を食べるだけだった.そして翅はほとんど消費されずに排出されているので養分になっているわけではない.
  • 翅を食べられると飛翔できなくなる.ではこれは相手の翅を奪って自分のところに留まらせる手段なのか.しかし子育て投資のアンバランスから考えてメスにはそうするメリットがあるが,オスには考えにくい.またこの考えは性的対立があることが前提になっているが,オスが翅を食われるのに抵抗している様子はない.
  • そもそもこの性的対立は繁殖の律速段階がオスでは交尾相手の数,メスでは生産できる卵の数になっていることから生じるものだ.これはオスが交尾後にメスの元を去ったあと次の交尾相手を見つけることができることが前提となっている.しかしクチキゴキブリの場合一夫一妻で両親による子育てをする生物であり,この前提が成り立っているとは限らない.
  • クチキゴキブリの両親による子育ての進化過程を系統的に分析すると,メス親単独保護から進化したと思われる.この保護は半年ほど続くのでメスは一旦交尾すると繁殖プールには戻らないだろう.また性比はほぼ1:1なので,交尾後メスの元を離れたオスが新しい交尾相手と出会うのは難しいだろう.こういう状況下でオスは交尾後メスの元を去らずに子育てに参加した方が(給餌や衛生環境の維持など投資を増やすことにメリットがあり)適応度が上がったと思われる.これに次のシーズンの交尾相手も確保できるメリットが加わっただろう.つまりクチキゴキブリにおいては性的対立が非常に小さくなっている可能性があると思われる.
  • このような状況下ではオスとメスの間に協力が進化しやすいだろう.翅の食い合いは一種の協力行動と捉えることができるのではないか.
  • 翅の食い合いの実際の様子を見ると,ゆっくり休み休み交代で齧っている.これは急いで食べなくても相手も抵抗しないという協力状況と考えると理解しやすい.

すると「その協力によるメリットは何か」が次の問題になる.ここは現在著者が仮説をもって検証中ということで仮説の内容は本書では伏せられている.
 
ここからは「翅を齧れなくしたらどうなるか(何らかのデメリットが顕現するか)」という実験をめぐる苦労話(どんなに工夫してもゴキブリたちはそれをかいくぐって齧る),それをさらに何とかかいくぐってUVライト効果樹脂を使って成功したもののなんらデメリットが観察できなかったことが語られ,このことから(協力のメリットは)繁殖上の直接的なメリットではなく,衛生的なメリットかもしれないことが示唆されている.
 
この章は性的対立にかかる考察が秀逸だ.ここでは性的対立があまりないことがフィッシャー条件の吟味から語られていて理論的にも深い.なお(あたためている仮説については非開示としながら)協力のメリットについては衛生的なものが示唆されている.これに加えてコミットメント的なもの(翅を食べてもらうことにより,もはや裏切らないことをコミットし,相手により協力的になってもらう)があれば楽しいというのが私の印象だ.
 

第10章 研究者という生き物

 
最終章では著者が研究者としての矜持を語っている.研究者のキャリアルートの概要,大学教員をめぐる厳しい環境(雑務と資金獲得),博士課程で得られるもの(何を大切にするのかを考える時間),研究とは何か(マルチな能力を求められる総合格闘技),研究者の本質は何か(考えることと知的好奇心),現在の環境(学振CPDにより海外で研究中)が率直に語られている.
 
以上が本書の内容になる.ゴキブリの翅の食い合いという興味深い題材をめぐる研究物語が,昆虫好きの少女がゴキブリの研究者として一本立ちするまでの経緯とともに率直に語られている.そしてこれがどんなところにも超オプティミスティックに体当たりで突貫していく痛快物語として仕上がっていて,読んでいてとても楽しい.(粕谷門下だけあって)理論的な考察の部分も深く,科学書としてもいい仕上がりだと思う.このゴキブリ研究がさらに進展することを期待したい.また添えられている見事なイラストはすべて著者自身の手になるものだそうで,ゴキブリ愛があふれていて素晴らしい.ゴキブリ好きな人だけでなく行動生態学に興味のある人にとっても嬉しい一冊だと思う.
 
 
著者登場のオンラインセミナー
shorebird.hatenablog.com

*1:中身を問われて「土です」と答えたそうだ.隣の乗客のメンタルを慮ったのであり,土も入っているので嘘ではないという弁明がなされている.

*2:2007年にこれまでシロアリ目とされていたシロアリがゴキブリ目に完全に包含されることが明らかになったそうだ

*3:ここで学振制度の概要が説明されている

*4:京大の研究室を訪ね,シロアリの飼育法を教えてもらったり,論文の図を提供して共著者になったりというエピソードが語られている

*5:著者初めての論文は翅の食い合いの発見ではなく,クチキゴキブリのトンネルに居候しているカメムシの報告についての論文だったそうだ

*6:最も苦労するのはdiscussionではなく正確でわかりやすい説明が求められるmaterials & methodsなのだそうだ.

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その50

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その11

 
カロリング帝国の北東部にはエルベ川東岸にゲルマン(ドイツ)とスラブの間のメタエスニック辺境が出現した.まず9世紀にドイツが侵攻し,10世紀にスラブが押し戻したところまで語られた.ここから11世紀以降辺境がその両側にどういう影響を与えたかが語られていく
 

カロリング朝の北東部辺境 その2

 

  • 何世紀にもわたるゲルマンの東方への衝動はスラブ(そしてのちにバルト)の人々に大きな圧力となった.衝動が進むにつれて,それはチェコ,ポーランド,リトアニアという国家の形成のトリガーとなった.チェコとポーランドは11世紀の初めにキリスト教に改宗した.チェコは帝国内の従属的な地位を受け入れた.ポーランドはさらに東にあったので抵抗を組織化した.
  • 歴史を振り返るとチェコにとってもポーランドにとってもキリスト教への改宗はよい決断だった.改宗があったので,そのアイデンティティ,言語が生き残れたと考えられるからだ.
  • 異教にとどまったスラブ部族,例えばオボトリート族,ルティシア族,ラーン族はそれぞれ独自の戦闘的組織化された異教の形態を発達させた.(具体的な信仰の内容が説明されている)
  • ザクセンとポラート(オボトリート族の一派)の抗争はジェノサイドと形容できるものだった.スラブの襲撃部隊は男を皆殺しにし,女と子供を奴隷にした.ザクセンは残虐な大量殺戮で報復した.(それぞれがいかに残虐だったかが形容されている)

 
ターチンはキリスト教に改宗した民族は消滅を免れ,改宗しなかった民族は組織的抵抗の末にジェノサイドの憂き目に遭ったと言う風に語っている.改宗が決定的に重要だったのか,組織的抵抗の有無こそが問題だったのかはあまり深掘りされていないが,興味深いところだ.
 

  • (ドイツの)東方への衝動はコンラート3世時代(1138~52)に再開された.十字軍への圧力は皇帝からではなく草の根からだった.拡張の動きにコンラート自身はかかわっていない.それはハインリヒ獅子公,ザクセン公,アルブレヒト熊公などの辺境貴族たちにより組織化された.イデオロギーは教皇から提供され,東方十字軍として認められた.十字軍参加者の動機は(異教徒は邪悪だという)イデオロギーと(収奪により得られる)自己利益だった.

 
ドイツ騎士団による東方十字軍はドイツの東方拡張の要となった.この辺りの歴史はなかなか面白い.

 

  • この時期に東ドイツは恒久的に征服され.ハインリヒ獅子公はエルベ川を越えて侵攻した.1226年にはドイツ騎士団が結成された.ドイツ騎士団は異教プロイセンに攻められたマゾシェフ公コンラートからの救援要請に応えた.公は騎士団にクルムラント領を与え,今後征服する領土の所有権を保証した.1236年,ドイツ騎士団はラトヴィアにあったリヴォニア帯剣騎士団と合併し,プロイセンを征服し,現地人の大量虐殺,生存者の強制改宗,ドイツ化を行った.さらに新たに征服された土地にはウェストファリアの貴族,シトー派の修道士,フランドルやゲルマンの商人,ザクセン,オランダ,デンマークからの農民などの大量の植民が流れ込んだ.
  • 13世紀を通じて東ドイツは多様な人々の坩堝となり,最終的にみなドイツ人になった.特にドイツ化が進んだ地域にはベルリンを抱くブランデンブルグ,ポメラニア,プロイセン,シレジアがあった.この4つの地域は17世紀~19世紀に現代ドイツが統一される時の中心になる.

 
フランスの形成が,古代ローマガリアの要素を残すものだったのに対し,プロイセンなどのドイツ化はかなり異なるものだったというのがターチンの説明になる.この辺りの違いは興味深いところだ.
 

  • ブランデンブルグ・プロイセン・ドイツの興隆は急速だった.ウィリアム・マクニールは「The Rise of the West: A History of the Human Community」においてこう書いている:「1640年に選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム・ホーエンツォレルンがブランデンブルグで権力を握った時には,プロイセンは貧しい辺境州に過ぎず,その他の領地はドイツ中に散らばっていた.しかし1688年に彼が死んだ時にはブランデンブルグ・プロイセンはすべてのリソースを軍事力に注ぎ込む軍事国家となっていた.貴族,聖職者,ギルドなどが持っていた特権は,軍事目的に劣後するとされた.この結果プロイセンは単に防衛能力を持つだけでなく,新しい土地で膨張する能力を持つに至った.」つまり,プロイセンは戦争のために組織化された社会となった.

 

 

  • ブランデンブルグ,プロイセン,ポメラニア,シレジアはすべて東方への衝動の産物だ.そして17~18世紀を通じてこれらの辺境州は再興するドイツの核となった.現代のドイツのコアの大半がこれらの地域の外側になっているのは歴史のアイロニー,ヒトラーにとっては残念だろうが,第三帝国の敗北の結果だ.

 
ターチンによるドイツのコア地域の形成は東への侵略を目的にした軍事優先国家によるものだということになる.防衛というより一方的な侵略の様相が濃いので,ここではあまりアサビーヤは強調されていない.
 

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その49

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その10

 
ターチンのフランク帝国とその後継国家群興隆物語.北西部の辺境から英国とフランスが興ったところがまず語られた.次は北東部の辺境,そしてドイツの興隆がテーマになる.

カロリング朝の北東部辺境 その1

 

  • 北西部の偏狭の複雑な歴史に比べて,北東部の辺境の歴史は理解しやすい.その歴史はイベリアのそれに似ている.実際にゲルマンの「東方への衝動(Drang nach Osten)」はレコンキスタによく似ている.
  • 注目すべきなのはエルベ川とオーデル川に挟まれた地域(ほぼかつての東ドイツとされた地域)だ.ローマ時代にはここにはゲルマンが住んでいた.しかしながらローマ帝国崩壊後ゲルマンはこの地を放棄し,代わりに西スラブが住みついた.ゲルマンはこの西スラブをヴェンドと呼んだ.
  • この入れ替わりがなぜ起こったかについて完全に理解されているわけではない.おそらく,その地域のゲルマン部族は,その中のもっとも活動的な人々が収奪の機会や豊かな土地を求めて西に移動したために弱体化したのだろう.そして同時期にスラブ人たちも西に拡大し始めた.この残留ゲルマン部族たちはスラブからの収奪と圧迫を受けて,より豊かな地に移った同胞に加わることを選んだのだろう.
  • このスラブの西方への移動は5〜6世紀に始まった.8世紀の終わりにはゲルマンのサクソンとスラブのヴェンドの境界はおおむねエルベ川のところにあった.シャルルマーニュが785年にサクソンを征服し,キリスト教に改宗させた時,このエルベ辺境はメタエスニック断層となった.

 
この本来ゲルマンがいた現在の東ドイツ地方にスラブが入り込んだ経緯は(文字に書かれた歴史があまりないので)あまりよくわかってはいないようだ.スラブが初めて歴史に登場するのはビザンツ帝国の6世紀の記述(ヴェネティ,スクラヴィニ,アントと呼ばれる諸部族がドナウ川の北方にいることを伝えている)になるようだ.もともと(現在のポーランド中央部を流れる)ヴィスワ川東岸辺りにもいたのか,さらに東から来たのかについても諸説あるようだ.いずれにしてもヴィスワ川流域にいたゴート族の西方移動,さらにフン族やアヴァールの移動に伴って西方に移動したらしい.

いずれにせよ彼らはエルベ川東岸まで侵入し,そこにゲルマン(ドイツ)との辺境が形成されることになる.
 

  • ゲルマンの東方への衝動は間欠的なものとして始まり,完了するまでに数世紀を要した.シャルルマーニュは様子見のような攻撃を行ったが,大した成果は得られなかった.カロリング帝国が崩壊したのち,ザクセンの土地はヴェンドからの襲撃対象となった.これに対する効果的な防御が形成されたのは10世紀のザクセン朝の皇帝たちの治下になってからだ.ザクセンとチューリンゲンのエルベ川,ヴェーザー渓谷地域は要塞化された.その後ゲルマンは反撃に出た.928年にハーフェル川を超えてブランデンブルグに攻め入った.翌年皇帝ハインリヒ2世はレンツェンの戦いでスラブ軍を打ち破り,その後マグデブルクに大司教を置き,東ドイツをいくつかの教区に分割し,スラブをキリスト教を改宗させようとした.
  • しかしながら983年にはスラブは反撃し,エルベ川東岸の多くの地を取り戻した.問題は皇帝が東ドイツよりイタリアに興味を持っており,辺境領主たちの軍事力が不十分だったことだった.ここから1世紀半,東方への衝動は停滞する.

 
ゲルマン(ドイツ)は辺境をめぐる攻防戦の末,一旦放棄した土地を取り戻しにかかることになる.そしてこれはのちのドイツの東方拡大につながる.