- 作者: スティーブンスローマン,フィリップファーンバック
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2018/04/15
- メディア: Kindle版
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本書はスティーヴン・スローマンとフィリップ・ファーンバックという認知学者2人によって書かれた「無知」についての本だ.原題は「The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone」.
本書の中心的なテーマは,「ヒトは自分が何かを知っていると思いこんでいるが,ほとんどの場合には断片的で不完全な知識しか持っていないし,そのことについて自覚していない.そしてそれはヒトが集団生活をする中で,お互いを外部記憶として使っていることに由来している」というものになる.私はこの二人の学者の業績については何も知らなかったが,スティーヴン・ピンカーが推薦文を寄せているということで手にとったものだ.認知のゆがみについて自分自身で把握できていないというのはしばしばみられるもので,適応的なバイアスだったり,自己欺瞞だったりするわけだが,「無知」についての認知のゆがみというのはこれまであまり読んだことがなかった.そういう意味で本書は私にとってなかなか興味深い一冊となった.
序章 個人の無知と知識のコミュニティ
冒頭ではビキニ環礁での水爆実験の爆発規模の科学者たちによる見通しが3倍もずれていたという事故事例が採り上げられている.それは科学者がリチウム同位体の性質について不活性だと誤解していたためだ.なぜ水爆を完成させることができる科学者チームがその主要構成物質の性質を理解できていなかったのか.著者たちはそれは個人の知識は驚くほど浅いにも関わらず,それを自覚できていないために生じたのだと説明する.進化の過程でヒトは意思決定に際して最も役立つ情報だけを抽出するようになった.(ここではそういう用語は使っていないが)これは適応的なデザインだという説明になる.
そして著者たちはさらに「ヒトはその自己の無知について驚くほど自覚がなく,自信過剰だ」と指摘する.そしてそれを読者に実感してもらうために水洗トイレの仕組みを画に描いて説明するように促している.ほとんどの人はこれができない.さらに真にトイレを理解するには製造方法,設置方法,経済的な採算性,消費者心理,人体の排泄の仕組み,その他様々な詳細の理解が必要になるが,誰もそれをすべて理解してはいないし,理解していないことに無自覚だ.著者たちはこれを「知識の錯覚」と呼ぶ.
ではなぜこうも無自覚なのか.著者たちはそれは思考は行動のためにあるのであり,物事の真の理解よりも,ある行動とその効果の予測つまり因果関係の推論に特化しているからだとする.正しい行動の意思決定をするための知識ベースは個人個人がみな持っている必要はなく,適宜参照できればいい.つまり社会的集団の中で志向性のみを共有し,知識については「認知的分業」ができていればいい.そしてそのような分業を行うためには自分の内と外の知識の間に明確な線引きがない方がいい.だから無知について無自覚になる.
ここまでは認知の適応的デザインの説明だ.これでうまくいくなら別にそれでいいということになる.しかし(進化環境とは大きくミスマッチになっている)現代環境の元では,認知の錯覚は弊害も大きいと著者たちは指摘する.現代における重要な社会問題の多くは原因が複雑で結果も予測できない.この複雑さを受け入れられないと,そこから逃げようと特定のドグマに染まりがちになる.しかし認知的分業と知識の公共性を受け入れれば,何が自分の信念や価値観を形作っているのかを現実的に理解できるようになるし,すべてを特定個人に帰するような英雄思考も是正できる.インターネットに対する姿勢も変わり,知識量よりも他者と協力する能力の方が重要であることも理解できるというのだ.
導入において本書のアウトラインを大まかに示すということだが,単なる錯覚の指摘ではなく,非常に深い内容が展開される期待を膨らませる序章になっている.
第1章 「知っている」のウソ
まずは自分がどのぐらい物事を知っているかについての過大評価「説明深度の錯覚」から.またも核物理学者のエピソードにふれた後,この錯覚の検証方法が示される.それはまずある物事について自分がどれだけ知っていると思うかを7段階スケールで答えさせ,実際に説明させてみて,その後もう一度自分の理解度を7段階スケールで答えさせるというものだ.実際に被験者は説明を試みると自分の錯覚に気づいて自己評価を修正する.
認知科学者はこの問題についてどう考えてきたのか.最初はヒトの知識はコンピュータのメモリのようなものだと考えていた.しかしリサーチが進むにつれてヒトの脳とコンピュータの動作が異なることが理解されていった.熟慮するときにはそれに近い動作になることもあるが,認知の大部分を占める直感的思考はそういう風には働かない.
認知科学者のランドアーが平均的な大人の知識量からメモリサイズを推定するとそれは約0.5ギガバイトにすぎなかった.また学習時の記憶速度や忘却率から生涯獲得記憶を推定するとそれも約1ギガバイトにすぎなかった.要するに複雑系,組み合わせ爆発,フラクタル,カオスを含む外界は脳内ですべての情報を記憶して処理するには複雑すぎるのだ.そしてそのような外界の複雑さに我々が圧倒されないのは我々が「ウソ」を生きているからだというのが著者たちの主張になる.
適応論的アプローチからみれば,「圧倒されない」ためには単に鈍感になればいいだけだから過大評価する理由付けとしては弱いし,そもそも圧倒されないかどうかはそんなに適応的に重要かという疑問も残る.もちろん著者たちはここで議論を止めているわけではない.圧倒されないだけでなく,その中でうまくやれているのはなぜなのかこそ重要なのだ.それは認知的分業によるというのが次章以降で説明される著者たちの回答になる.
第2章 なぜ思考するのか
ここで著者たちは,別の角度からの疑問を提示する.(そういう言い方はしていないが)ではなぜより大きな記憶容量が進化しなかったのか.すべてを記憶する方が有利ではないのか.
著者たちの回答はそれは脳の機能的な目的にとって有利にならないからというものだ.そもそもヒトはなぜ思考するのか,それは有効な行動をするためだ.そして(超記憶症候群患者のエピソードを紹介し)超記憶はその役には立たないことを説明する.真に重要なのは,膨大に入ってくる情報の中から本質的で抽象的な情報を抽出する能力なのだ.
この議論は適応的でかつ説得的だ.リソースは有限で,記憶能力と計算能力,記憶情報量と有効な抽出計算の間にはトレードオフがある.そして進化は行動の最適性に向かって進む.だから記憶量は有限で,できるだけ有効な情報抽出ができるようになっているのだ.ただし行動の意思決定のためには単なる計算だけでは不十分で,どの選択肢が望ましいかという価値の決定が必要になる.ここについては(本書のテーマから遠いということだろうが)著者たちはふれていない.
第3章 どう思考するのか
では具体的にはどう思考するのか.著者たちはまず,結果より原因に焦点を絞る方がいいとする.そして実際にヒトを含む動物の脳には単純な関連学習ではない様々な領域特殊な原因推定のモジュールが実装されている.さらにヒトは最も因果的推論に長けた生物になる.それは単純な論理的推論とも異なる.つまり我々はそれに役立つ様々な世界に実装されているメカニズムを理解しているのだ.
これにより我々は様々な現実世界の問題を解決できる.たとえば未来を予測したり,他人の意図を推定することができる.原因がどのような結果をもたらすかの前向き推論(予測推論)も,結果から原因を推測する後ろ向き推論(診断推論)もできる*1.
また我々は因果推論に関する情報を互いに交換する.その際には「物語形式」が好まれる.それのヒトの意図が絡む際には特に有効であり,だから我々の周りにはこれほど物語があふれているのだと考えられる.そしてそのためには「目の前にある現実と全く異なる世界」を構築する能力が必要になる.これは「反事実的思考」と呼ばれ,別の行動シナリオの検討が可能になる.これも因果的推論能力があるからこそ可能になる.
そして物語は個別の因果情報の交換だけでなく,コミュニティに共有されることにより集団的記憶の形成を可能にする.
この部分の議論は因果推論と物語の連結が強調されていておもしろい.ただし物語は,因果全般というよりは,その中で特に意図を持つエージェントの行動予測に有効だということなのではないかと思われるし,そうなると心の理論にもふれてほしい部分ではあるが,著者たちは(おそらく本書のテーマからはずれすぎるということだろうと思われるが)そこには深入りしていない.
第4章 なぜ間違った考えを抱くのか
次はヒトの因果推論の特徴について.まず直感的素朴物理学が現実の物理学と乖離することが説明される.そしてそのほかにもヒトの思考には当てずっぽうや大まかなイメージにあふれている.
そしてそれは(そういう用語は使っていないが)進化環境における適応的推論は完全である必要はなく,実務上十分であればよく,だから表層的になっていると説明している.
ここは適応的アプローチとしては説明不足気味だ.十分かどうかではなく,様々なトレードオフの中でそうなっているということだろう.
ここから著者たちはカーネマンの二重過程論を説明する.そしてそれは因果的推論にもあると話を進める.直感的な因果推論と熟慮の上の因果推論が異なる結論になりうる.そして直感的推論は個人個人のものだが,熟慮的推論は集団で共有可能だという.だからコミュニティとともに議論し熟慮することで直感的因果モデルの弱点や誤りを克服することが可能になるのだ.これは説明深度の錯覚の克服にも使える.またどちらの過程により頼るかについては個人差がある.熟慮型の人の方がより説明深度の錯覚に陥りにくい*2.熟慮型の人はより詳細な情報を求め,ある意味知識のコミュニティの力を借りているのだ.
第5章 体と世界を使って考える
本章はAIの初期の試みの説明から始まる.初期の研究者たちはコンピュータに膨大な知識と高度な推論能力を与えてインテリジェントな機械を生み出そうとした.しかしこの方向は行き詰まった.著者たちはそれはソフトとハードを別にするデカルトの心身二元論的なアプローチだったからだと説明する.世界は複雑で,現実に何が起こるかをこのようなアプローチで判断するのは困難なのだ*3.さらにこのアプローチでは行動に移る前にすべての結果が計算できていることが前提になる(だからこそ最適行動を選べる).そしてやはりそれは膨大な計算量が必要になる.
ここで生まれたのが「知能の具現化」という新しいロボット工学のアプローチ(包摂アプローチ)になる.まず限られた情報の元に決断し,行動しながらリアルタイムで情報を収集してフィードバックすればいいのだ.
そしてヒトの知性のデザインもこの包摂アプローチに近いことがわかってきた.我々は文字を読んでいるときも運動してるときも視野のごく一部に注意を集中させている.それ以外は「世界はたいていは正常であるはずだ」という割り切りの元に捨象しているのだ.また様々な計算のショートカットを用いて行動を単純化している(例としては野球のフライの落下地点に達するためのボールへの視線方向を使った方法が解説されている).つまり我々は世界自体をリアルタイムで外部記憶として用いているのだ.
また様々な認知科学の知見が示しているのは,我々の認知は考えている対象や道具と結びついているということだ(ダマシオのソマティック・マーカーの議論が紹介されている)とも強調している.そして感情的反応は意思決定に影響する(ヘビへの生得的恐怖についての進化心理的説明などが紹介されている.ただし感情自体がよりよい意思決定のための適応的形質だという議論までは行っていない).ここでの著者たちの主張は,知性は脳の中だけにあるわけではなく,身体や外部環境と切り離せないし,情報処理のためにそれらを使う,つまり外部からの手助けまで勘案すると個人はそれほど無知というわけでもなくなるというところにある.
第6章 他者を使って考える
外部環境を使ってどのようにうまく情報を処理できるようになるのか.著者たちはまずミツバチの集団的意思決定の話を振ってから,先史時代のヒトの狩猟は認知的分業によって効率的になったのだろうとする.ここから社会脳仮説,ダンバー数,言語,相手の意図の推測,志向性の共有について次々に解説する.ここでの著者たちの主張の中心は「ヒトを特徴づけるのは他者とともに何かをし,関心を共有する能力と欲求であり,認知的進化は社会的なものだ」というものだ.
そして実際にヒトは無意識のうちに認知的分業を行おうとする傾向がある.共同で何かをしているときには個人の思考と集団の思考は密接に絡み合っており,自分のアイデアや知識とチームの他メンバーのアイデアや知識を区別することは難しい.だから知識の錯覚が生じる.著者たちは,このような集団での思考を考えると,知識を自分が持っているかどうかは重要ではなくそれにアクセスできるかどうかが重要なのだと強調している.
このような認知的分業によってヒトは多いに繁栄したが,デメリットもあると著者たちは指摘する.その一つは重要な体験をし損なってしまいやすいこと,もう一つはまさに「知識の錯覚」に陥ることだ.
第8章 テクノロジーを使って考える
ここからは各論になる.まずはテクノロジーの発達について.これまで技術と社会は互いに後押ししながら進歩してきた.そしてヒトは技術的変化を受け入れやすいようにできているようだ.その一つの現れは道具を体の一部として扱える能力にある.
では近年の驚異的な技術進歩の速度はヒトにどういう影響を与えるのか.技術は様々な面でヒトを追い越し始め複雑化している.個別の技術進展の帰結が予測しにくくなる一方,自ら問題を解決できる能力の付加も可能になりつつある.そしてヒトはテクノロジーを知識コミュニティの構成員として扱うようになってきている.これに伴いネットへの接続が「知識の錯覚」を強化する.
しかしテクノロジーには(まだ)志向性の共有はできない.目的設定はヒトが行う必要がある.これが世界征服をたくらむ邪悪な人工知能の誕生があまり恐れられていない理由になる.著者たちは志向性の共有は協力する能力が必要になるためにプログラミングが困難なのだろうとコメントしている.
するとテクノロジーへの過度な依存にはリスクもあることになる.引き続きヒトはプログラマーが想定していない事態に対処する必要があるのだ.
著者たちはこのちょっとエッセイ風のテクノロジーの章の最後にクラウドソーシングについてのコメントを置いている.クラウドソーシングは多くの人の知識や能力を統合可能で,うまくインセンティブを作れればコミュニティに存在する専門知識を活用する最適な手段になるというわけだ.そこでは専門知識が集まることの重要性,向いている問題と向いていない問題,分散型共有プラットフォームとしてのイーサリアムの将来性などが語られている.この部分は本書のほかの部分の一般的な議論に比べて,妙に特定のテクノロジーにこだわっていて浮いている印象だ.よほど気に入っている事情が何かあるのだろう.
第8章 科学について考える
次は反科学的思想について.著者たちはラッダイト運動を紹介し,このような反科学,反進歩的な思想は根強く,ヒトの心にある強い警戒感を象徴しているのだろうとし,これは人類の将来にとって重大なリスクだとする.
ここから,温暖化,遺伝子組み換え作物,ワクチンなどの個別の問題を紹介し,ではどうすればいいのかを考察する.
伝統的なアプローチはこのような反科学は無知からくるので教育啓蒙を行えばいいというもの(欠乏モデル)だ.しかし教育啓蒙は何十年も取り組まれているが,うまくいっていない.近年の反ワクチン運動の高まりは教育の敗北のよい例になる.
最近の新しい考え方は,科学に対する意識はエビデンスに対する合理的評価に基づくものではなく,他の信念や共有された文化的価値観,アイデンティティと深く関わるというものだ.ここでは原理主義コミュニティから合理的な科学的信念に向けて離脱するために人生の混乱と人間関係の喪失が不可避であった実例を挙げて説明している.著者たちは,これについて「私たちは新しい信念を受け入れるに際して,自力ですべての判断はできず信頼できる人に従うしかなく,周囲の意見と補強しあうように信念が形成されることをよく示している」とコメントしている.だから科学リテラシーを高める取り組みはコミュニティ全体を対象にしないとうまくいかないのだ.
もう一つの反科学的信念の源泉は,個々人の持つ誤った因果モデルになる.ここから著者たちは個別の反科学的信念の例として,遺伝子組み換え作物に対する忌避,反ワクチンを採り上げている.このような信念が形成される原因となる誤った因果モデル(組み替え=汚染,組換元の生物の本質が組換先の生物に導入される,放射と放射能の混同など)が具体的に解説されている.
そしていったん生じた反科学的信念は「知識の錯覚」により検証を受けずに定着してしまう.著者たちは,解決策の一つは,知識を直接教示しようとせずに,相手にその信念の内容,特に因果的な内容の説明を行うことを求める方がいい(それによって知識の錯覚から抜け出せる可能性がある)と示唆している.
第9章 政治について考える
ここまで述べてきたことは政治についてどのようなインプリケーションをもつのか.著者たちはオバマケアを巡る政治的状況を引き合いに出しながら,1つの問題は人々が政治的な問題についてその本質や詳細をほとんど理解していないのに(あるいは理解していないからこそ)極端な意見の相違,あるいは分断化が生じることだという.誰も自らの無知を理解していないが,コミュニティはメンバーに正しいという感覚を与え続ける.これが知識のコミュニティの危険性の現れだということになる.
これは歴史上宗教の異端排除やプロパガンダによる恐怖政治にみることができる.著者たちは特に20世紀のイデオロギーの「思想的純潔」は巨悪だと指弾している.
人々が(根拠を理解していないにも関わらず)強固な意見を持ち続けられる一つの要因は説明深度の錯覚にある.では被験者に問題を説明させることにより説明深度の錯覚を自覚できるようにするとどうなるだろうか.
著者たちは,温暖化や医療問題のような特定の価値観に基づかない効用的な問題については特に因果関係を説明させることによって自分の意見を考え直すようになることがあると説明する.(単に支持理由を説明させるとかえって自説に固執することもあるそうだ)
しかし(ハイトのいう)神聖な価値観にかかる道徳的な問題についてはこの方法はうまくいかない.そしてこの価値観は他者を説得することを生業とする政治家に利用されやすい.
ではどうすればいいのか.著者たちは以下のように示唆している.解決策というには遙かに遠い内容だが,ある程度の指針にはなるだろう.
- 私たちは知識のコミュニティに生きており,機能させるには認知的分業が必要だ.
- 分業を使ってうまく意思決定するには,問題を理解している人が指南役をつとめるべきだ.誰がそうなのかを見極めるのは(それが利害に直結するために)難しいが,解決不可能ではない.多数のレビューによる評価システムは(利害関係者に操作されるリスクはあるが)機能する可能性がある.
- 直接民主制は「知識の錯覚」を考慮していないので間接民主制よりリスクが大きい.
- リーダーは自らの無知を自覚して他の優れた意見を活用すべきであるし,また人々に自分は愚かだと感じさせずに無知を自覚する手助けをすることが望ましい.
この著者たちの政治問題の分析はやや浅い.というより説明深度の錯覚関連と道徳的価値観の部分のみを採り上げているとして読むべきものだろう.極端な政治的対立になる要因としては,そもそも特定政策が自分にとって有利かどうか,自分の属するコミュニティへの忠誠バッジになっているのかどうかの方が重要だと思われる.
第10章 賢さの定義が変わる
人々は歴史上の偉業,科学的な成果,スポーツの結果について,ある個人にすべてを帰す形で単純化して理解しがちだ(公民権運動とキング牧師の例が引かれている).しかし実際には皆多くの個人が絡み合いながら達成してきたことだ.単純化した英雄信仰は重要な個人とそれを支える知識コミュニティを混同しているのだ.
これはどのような個人がより成果を上げられるのかという理解に影響している.人々は目の前の個人の能力,特に知能に注目する.しかしここにも説明深度の錯覚があるのだ.
ここから著者たちは知能テストと一般的知能(g因子)を巡る心理学説史,そしてg因子がその個人の成功を予測できる最もよい指標であることが認められるに至った経緯を解説した上で,以下のようにコメントしている.
- 確かにg因子が知的能力の測定可能な差異を示すという強力なエビデンスが存在する.しかしそれは何を測っているのかははっきりしない.
- 標準的な理解は,それは知的な馬力を示すものだというものだ.
- しかし知識がコミュニティにあるのだとすると,知能とは個人がどれだけコミュニティに貢献するかを示すものだと考えるべきなのではないか.要するに個人の情報処理能力だけではなく,他者の立場や感情を理解する能力,効果的に役割を分担する能力,傾聴能力なども含まれるのだろう.
- 有能な集団に必要なのは異なる能力を持つ人がバランスよく含まれることだろう.そして測定テストはチームに対して行うべきだろう.
- 実際に集団知能仮説に基づいてチームの様々な作業の成績を調べたリサーチによると,実際にチームの成績を予測できるc因子が得られた.メンバーのg因子からはチームの成績は予測できなかった.予測に役立つ指標は,社会的感受性,メンバー同士の役割交代頻度,女性の割合などだった.
- 解決すべき問題は残っているし,c因子が何を測定しているのかもはっきりはしていない.しかしグループが成功するか否かは主に個人の能力で決まるのではないとするデータが集まりつつある.
- 成功はチームで決まるとするなら知能はチームの性質ということになる.そして個人を評価するにはチームへの貢献を測るべきだろう.
実際にインパクトのある業績はチームでなされることが大半だろうからこの章の主張には興味深いものがある.しかし一般的知能が個人の成功を予測できるなら,チームへの貢献への(弱められたとしてもある程度の)予測にもなっているという方がありそうな気がする.本当にメンバーのg因子がチームの成功を予測できないのだろうか.やや懐疑的に今後のリサーチを見極めたいところだ.
第11章 賢い人を育てる
次は教育.ヒトは実際に行動することによりより深く学ぶことができる.ブラジルで貧困のために学校に通えず路上で物売りをしている子供たちを対象にしたリサーチによると,彼等は学校に通っている子供より足し算や引き算については遙かに熟達していた.単に授業を聞き教科書を眺めて理解したつもりになっていても実際には深く理解できていない.これは「説明深度の錯覚」とよく似た「理解の錯覚」と呼ぶべきものだ.ヒトは「見たことがある」を「理解している」と混同する.文章を理解するには,意識的に丁寧に読み込む必要があるのだ.
ここから著者たちは教育についての自説を展開している.
- 教育は知識を身につけ知的独立性を高めるためにあるというのは完全には正しくない.本当の教育には自分の知らないことがたくさんあることを知ることが含まれる.知らないことに目を向けるためには思い上がりを捨てなければならない.そして自分の知識の限界の先を「なぜ」と考えてみるのだ.そしてさらに他の人の知識や能力を活用できる方法を身につけなければならない.
- 科学の研究はコミュニティで行われる.すべてを自分で立証するのはコストがかかりすぎる.だから信頼に基づいて行動する.宗教との違いは「真実」とされるものに疑問が生じたときに,立証により真偽を確認できるというところだ.しかし普段の活動は信頼の上にある.
- だから,学生向けの教育は,まず他者の知識に頼ること,そしてコミュニティの一員として活動する事で自らの知識の限界を超えることを教えなければならない.
- そして誰を信頼すべきかを教えることが重要だ.それには科学の本質,プロセス,不正行為の実例,ピアレビューの特徴を教え,誤った主張を行う主体の背後の利害関係を理解させることが必要だ.
- 学校教育においては「学習者のコミュニティ形成」への取り組みが有効だ.与えられたテーマについて,まずいくつかの調査グループが異なる要素を調べ,そののち各グループからそれぞれメンバーを組み入られたチームを作って認知的分業に取り組ませるというものだ.
なかなか面白い.まず「知識の錯覚」を自覚させ,知識コミュニティの上手な活用方法を教え,そして認知的分業のトレーニングをするということだろう.とはいえ,誤った信念を持つコミュニティにどう対処するか(特にそこに属してしまったときにどうするか)についてはふれられていない.ここは解決が困難な部分ということになるのだろう.
第12章 賢い判断をする
次は消費者教育.消費者はしばしば非常に不利なローン契約を結んでしまう.原因の一つは非線形的な複利を理解できないことにある.そしてもう一つの原因は意思決定において細部に関心を払おうとしない態度だ.ごく一部の説明マニア的な人以外は皆説明嫌いなのだ.そして説明マニア的な人も自分の興味対象以外の商品については説明嫌いであることが多い.さらにそれにつけ込むマーケティング手法がはびこっている.(例として薬品,スキンケア商品,「有機」「グルテンフリー」などをうたった食品があげられている)
この問題への標準的な対応は消費者教育ということになる.世界中の政府や団体が金融教育プログラムに巨費を投じてきたが,成果はほとんど上がっていない.
著者たちは,このような失敗は,意思決定を個人の問題ととらえたためだと指摘する.問題解決には意思決定をコミュニティの視点でとらえ直すべきなのだ.そもそも経済現象は基本的に集団的な信念に左右される(貨幣制度や好況不況が説明されている).そして家計はその中で認知的分業に参加する.だから使わないと金融リテラシーは低下するのだ.そしてこの問題の解決手法の一つとして行動経済学者セイラーと法学者サンスティーンの提唱する「ナッジ」手法を好意的に紹介している.これは個人を変えようとせずに環境を変えようとするからうまくいくのだ.その上でいくつかの教訓と示唆を並べている.
- 金融知識の大半はコミュニティにあり,個人は分業にほとんど参加していない.だから説明はかみ砕かなければ理解されない.
- さらに意思決定のための単純なルールを提示しなければ個人は対応できない.
- 情報は個人が必要とするタイミングで与えた方がいい(高校でいくら複利を教えてもローンを借りるときには忘れてしまっている).
- 消費者個人としては,自分がどこまで理解できているか確認しよう.
日本だと消費者金融問題ということになろうか.ただ確かにここには金融リテラシーの問題もあるところだが,片方では長期的意思決定における双曲割引率の問題もあって,真に難しいのは後者のような気もするところだ.
結び 無知と錯覚を評価する
著者たちは最後に本書の要点をまとめ,それが持つ意味についてコメントして本書を終えている.
- 本書の主張は,「個人は(ごくわずかしか知らないという意味で)無知である,しかし実際以上に知っていると思いこんでいる(知識の錯覚),思考は行動の一部であり,推論は因果を説明するためにある,そしてヒトは知識のコミュニティに生きている」というものだ.これらはみな特段驚くようなものではない.
- なぜこんな自明なことを本にしたのか.それは改めて考えてみるまでこうしたことを明らかだと思わないからだ.重要なのは自明な事実を知っているということだけではなく,それに対して自覚的であることだ.
- この「無知」「知識の錯覚」「知識コミュニティ」に対する単純な秘策はない.無知は必ずしも悪ではない,それに無自覚なのが問題を引き起こすのだ.そして意思決定はコミュニティを活用してなすようにした方が有効だ.また属しているコミュニティの知識が常に正しいとは限らない.だから一服の懐疑心と警戒心を持つ必要がある.
- 錯覚は微妙だ.錯覚をなくせば認識は正確になり悲劇を避けられるが,錯覚自体に効用もある.それは楽しいし自信をもてる.そして錯覚があるのはチームプレーヤーである証でもあるのだ.
著者たちも最後に書いているように,自分が多くのことを余りよく知っていないというのはある意味自明だ.しかしここに知識の錯覚があり,それが非常に大きいということについては,(「錯覚」であるのだから当然というべきか)あまり自覚できてはいないし,改めて指摘されて初めて感じ入るところだ.読書経験としてはそこがなかなか楽しい.そしてそれを(そういう用語は使っていないが)進化適応的にきちんと解説しているのも評価できる.
自分の知識のなさとその無自覚に驚いた後,よく考えてみると「知識の錯覚がなぜ生じるのか(なぜその方が適応的なのか)」は興味深い問題だ.著者たちはその方が因果推論がスムーズに進むから(圧倒されないというのはそういう意味だろう)という説明の仕方だが,本当にそういう領域特殊な適応的デザインなのだろうか.あるいはより一般的な自信過剰傾向(社会的相互作用や配偶選択の中でディスプレイ上有利になる)の現れであるようにも思われる.
知識のコミュニティの強調も新鮮な視点だ.ここもよく考えてみると信頼できる情報に多くを頼っているのは自明だ.私たちは認知的共同体の中で意思決定しているのだ.この点に関しては現代テクノロジーの進展に対してどのように情報リテラシーを構築していくかが過大ということになるのだろう.
本書はこのような新鮮な視点から私たちの認知と意思決定の背後にある真実に迫り,説得的に解説してくれる.多くの人にとって興味深い本となるだろう.
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原書
The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone (English Edition)
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本書は「知識の錯覚」の適応的デザインに関する議論が載せられているが,意識そのもの,その自己欺瞞的傾向の適応的議論についてはこの本が面白い.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20111001/1317477823
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同訳書 私の訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20141001/1412160200
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*1:ここでこの予測推論と診断推論は異なる思考プロセスによっており,予測推論は脳内シミュレーションによるために明示されていない要因を考慮しにくいという問題があるが診断推論にはそのような問題が生じにくいことが解説されている
*2:ここで熟慮型の人はミルクチョコよりダークチョコを好み(甘さへの誘惑に耐えるという意味らしい),神を信じない傾向にあるとも説明されている
*3:ここで著者たちは例として「ケイシー打席に立つ」という詩を理解するためにどれほどの知識ベースが必要なのかという話を持ってきている.これはアメリカでは相当有名だが,日本ではほとんど知られていない.だから(著者たちの意図とは異なるだろうが)日本人読者は必要な背景知識ベースの膨大さを身を持って感じることができる.個人的にはこの詩に最初に出会ったのはアンダーソンとディクソンの手になる抱腹絶倒SFホーカ・シリーズの中だったので,まさにその解釈に頭をひねった経験があって感慨深い