書評 「The Ape that Understood the Universe」

The Ape that Understood the Universe: How the Mind and Culture Evolve (English Edition)

The Ape that Understood the Universe: How the Mind and Culture Evolve (English Edition)



本書はスティーヴ・スチュワート=ウィリアムズによる一般向けの進化心理学の解説書だ.スチュワート=ウィリアムズはマーチン・デイリーとマーゴ・ウィルソンの元でポスドクを務めた経験を持つ進化心理学者だ.ここでは進化心理学の基礎,性淘汰が形作るヒトの行動傾向,利他性の謎,そしてミーム学の枠組みに沿った文化との共進化を扱っている.初学者向けのわかりやすさ,最新の知見の盛り込み,ミーム学アプローチによる遺伝子と文化の共進化の解説が本書の特徴ということになるだろう.

第1章 エイリアンの挑戦

 
スチュワート=ウィリアムズはヒトの行動傾向を解説するにあたって,エイリアン(異星人)の視点から考えるように促している.自分たちのことを客観的に考えるにはいい方法だということだろう.自分が,銀河間航海を行う「ビーグル号」に乗船したジェンダーニュートラルで無性の生物であり,道徳も宗教も音楽も持たないが,超知性を持つ博物学者だとしてヒトのことを虚心坦懐に観察しようということだ.そしてこの仮想的エイリアン博物学者によるヒトについての母星*1の評議会に向けた報告書(ユーモアたっぷりに書かれていて傑作だ)が掲載されている.
特に強調されている特徴は,自然淘汰産物であるにもかかわらず,しばしば不適応な行動を行っていること,有性生物であってオスとメスが存在し性差が存在するが,その他多くの陸上脊椎動物と性差のパターンが異なっていること,子育てのパターンや生活史も独特であること,複雑な利他的行動パターンがあること,アイデアに取り憑かれて文化を持つことだ.そして本書はこれらの謎について進化的視点から解説が行われることになる.
 
ここで進化心理学の持つ進化的視点についての説明がある.そしてこの視点を持つことにより,過去の宗教やイデオロギーやフロイトなどの心理学では説明できない問題が扱えることが強調されると共に,文化についてはさらにもう一歩進化的視点を進めて,ミーム学的アプローチによる文化進化を考察することが有用であることが指摘されている.これらが本書における方法論になる.
 
 

第2章 ダーウィン,心に迫る

 
エイリアンから見るとヒトは非常に変わった生物であることがわかる.では何故このような生物が存在するのか.それはかなり複雑な問題になる.ここではまず進化と自然淘汰の解説が置かれている.なかなかくだけた解説で楽しいところだ.そして最も重要な帰結は自然淘汰はインテリジェントデザインのイリュージョン,つまりデザイナーなきデザインを作るということだと強調している.
  
最初にスチュワート=ウィリアムズが扱うのは自然淘汰がどのような働きをするかという問題だ.初学者が誤解しやすいところであり,ヒトの進化を考えるにはその基本法則がまずわかっていなければならないということこらこの行動生態学の基本を抑えるところから始めている.順番に様々な仮説を並べる体裁をとり,初学者向けの工夫が面白いので少し丁寧に見て見よう.
まず最初に吟味されるのが種淘汰説と個体淘汰説になる.そして理論的に生存にかかる個体淘汰説が遙かに真実に近いことを説明している.

  • (仮説1)自然淘汰は種がよりうまく生存できるように働く
  • (仮説2)自然淘汰は個体がよりうまく生存できるように働く

 
しかし淘汰は生存だけにかかるのだろうか.スチュワート=ウィリアムズはここから性淘汰の解説に進む.クジャクの羽のような選り好み型性淘汰形質についてフェイクできないハンディキャップシグナルからの説明を行い,ヒトの芸術,音楽,ユーモアについてこのような議論があることに触れる.またオスオス競争的な性淘汰形質にも触れている.他種と比較した場合のポイントはヒトの性差はそれほど大きくなく,両性ともに選り好み,競争する傾向があることだ.ここで次の仮説が提示される.

  • (仮説3)自然淘汰は個体がよりうまく繁殖できるように働く

しかし何千も産んだ子どもがすぐに死んでしまってはうまくいかない.そこでこの修正版が提示される.

  • (仮説4)自然淘汰は個体がより多くの孫をもてるように働く

 
多くの場合はこの考え方でうまく扱える(孫の数はフィールドリサーチで適応度の近似値としてしばしば用いられるものだ).しかし扱えない場合もある.スチュワート=ウィリアムズはここから包括適応度革命を熱く語る.血縁度についても,「偶然レベルより遺伝子共有確率が高い」ことが重要であることをきちんと踏まえていて,簡潔ながら要点を押さえた解説になっている,またこれをよりクリアに説明できるドーキンスによる遺伝子視点からの見方もここで扱われている.

  • (仮説5)自然淘汰は個体がより包括適応度を上げるように働く
  • (仮説6)自然淘汰は遺伝子がライバルのアレル(対立遺伝子)より頻度を上げるように働く

 
スチュワート=ウィリアムズはここでグループ淘汰に関する解説も置いている.初学者には混乱を招きやすいところだからだろう.ダーウィンの「由来」における記述,ウィン=エドワーズによるナイーブグループ淘汰,G. C. ウィリアムズによる否定,D. S. ウィルソンによるマルチレベル淘汰からの復活の試みという学説史が簡単になぞられ,利己的遺伝子とグループ淘汰は排他的ではないこと,つまり遺伝子がグループをヴィークルとしてその利益のために淘汰が働くことはあり得ると整理する.スチュワート=ウィリアムズは,それはおそらくあまり生じなかったと考えているが,ドアはオープンにしておくとコメントして仮説6.2を載せている.*2

  • (仮説6.2)自然淘汰は遺伝子が頻度を上げるように働く,それは多くの場合その個体の利益に沿うように働くが,場合によってはその属するグループの利益になるように働くこともあり得る.

 
 
これで進化に関する考え方は整理できた.スチュワート=ウィリアムズはこれから心理学に進むと宣言し,進化心理学の枠組みを簡単に解説する.普通によくある説明ではなく,進化心理学が機能解析であり,心理的な構成要素をどのように進化的に説明していくのかについて簡単なものから難しいものまで具体的に一問一答式で説明しており,わかりやすい説明振りだ.重要な注意点としては,ヒトには学習能力があり多くの心理機能が条件付きで調整できるようになっていること.至近要因と究極要因は異なるレベルの問題であること,ヒトの心理は,直接「自分の遺伝子を広めよう」という動機を意識的に持つようになっているわけではないことを指摘している.またここでは進化心理学の興隆初期に「心が空白の石版である」とする社会学者たちからの激しい批判があり,特に性差や配偶の好みや嫉妬や身内びいきなどについて激しく争われたことにふれている.しかし実際には「ヒトの本性」は存在しているのだと主張し,その根拠を3つ挙げている.これは今後も繰り返されるテーマになる.

  1. このような傾向はそれを矯正しようとする社会的な努力によってもほとんど変更されない.
  2. このような傾向が個別の文化を越えてユニバーサルに見られる
  3. 似たような傾向が(同様な淘汰圧を受けたであろう)ほかの動物にも見られる

 
 
本章の最後でスチュワート=ウィリアムズは進化心理学についてのいくつかの補足解説を置いている,一般の読者にとって興味深い論点についての整理ということだろう.

  • 進化心理学も主流のリサーチは適応度について生存にいかに有利かをまず考えるものになっている.これに対してジェフリー・ミラーは多くのヒトの心理的特性が双方向の配偶者選択にかかる性的ディスプレーに関連していると主張している.議論は続いているが,十分考慮に値する考察だろう.
  • 進化的ミスマッチの概念は重要だ.ヒトが多くの進化的時間を狩猟採集者として過ごして来た後,わずか1万年ほど前からライフスタイルが大きく変わっていることは間違いない.農業革命後も進化は継続しているが,それほど大きく進化するほどの時間は経過していない*3.当初のEEA概念はアフリカのサバンナを強調しすぎていたことは確かだが,現在では狩猟採集生活における淘汰圧の束をEEAと捉えるようになってきている.進化医学のエリアではミスマッチは非常に重要な概念として利用されている.(肥満,乳癌,ADHDなど,いくつか具体例が挙げられている)
  • ヒトの心理的性質のすべてが適応であるとは限らない.それは別の適応の副産物かも知れないことには注意を止めておくべきだ.(ここで女性のオーガズムが副産物だというサイモンズの説明にグールドが乗っかって混乱した経緯,動物の赤ちゃんの画像への中毒症状,音楽についてのピンカーのチーズケーキ説などの話題が楽しく解説されている)

 
 

第3章 セクシー・アニマル*4


性淘汰が形作るヒトの行動傾向については,第3章で性差自体が扱われ,第4章で配偶者選択が扱われる.まずフェミニズムや社会学から批判が集中している性差を整理し,そこから進化心理学で興味深い知見が得られている配偶者選択について解説するという趣旨だろう.
 
性差についてはこう始めている.「一般的に男女の心理や行動傾向に差があるというのは常識だし,それが完全に文化的なものではなく生得的な基礎もあるだろうというのもほとんどの人がそう思っているだろう.しかしことがアカデミアや社会学のフィールドに上がると,全くそうではなくなるのだ.」
ここからスチュワート=ウィリアムズは,これに関する様々な社会学者の立場を順番に取り上げ,解説していく.性差などないと頑張る派,性差はすべて差別が作りだしたものだと主張する派,性差は社会的に構築されたものだとする派になる.スチュワート=ウィリアムズはしかしこれらの主張にはエビデンスはなく,根拠なき生物学嫌い,あるいは政治的なアジェンダに近いと指摘する.進化心理学はこの文脈で「父権的社会を擁護しようとする右派の政治的アジェンダだ」とよく攻撃されるので,ここは力が入っている.「進化心理学がもし何かを(政治的に)擁護しようとしているとするなら,その主張はむしろ女性の方がより好ましい性だと主張しているように見えるだろう.男性は(平均して)より暴力的で,より浮気を試み,より馬鹿げたリスクをとりたがると主張しているのだから」あたりのコメントはなかなか秀逸だ.
 
続いてスチュワート=ウィリアムズは動物界に見られる性差のパターンを解説している.サイズ,性的衝動の強さ,配偶相手の選り好みの強さ,派手なディスプレイ,交尾への対価の支払い,攻撃性,武器,成熟の時期,寿命,子育て役割などがオスメスでどう異なるパターンが多いかを整理し,それはなぜかを解説する.ここではトリヴァースの親の子育て投資量の差からの説明が用いられ,その単一要因から様々な結果が生まれること,性役割逆転種もこれで説明できることなどが流れるように解説されている.*5
 
ではヒトのパターンはどう見ればいいのだろうか.先ほど挙げた性差のパターンの多くがヒトにも当てはまるが,典型的なものとは異なっている.

  • ヒトで観察される性差はその他の動物に比べて概して小さい.
  • 男性,女性共に配偶相手を惹き付けようと競争し,どちらも相手を選り好む.
  • 男性,女性共に性的な装飾ディスプレイを持つが,相対的にはメスの方が装飾的だ.(多くの動物とは逆のパターンになる)

 
スチュワート=ウィリアムズは,ヒトは子育てに大きなコストがかかることから両親ともに子育て投資するようになったとする.これによりヒトはゴリラのようなハレム型の配偶システムではなく,両親が子育てに参加する鳥に近い配偶システムを持つ種ということになり,だから双方向の配偶者選択圧が生じ,男性も選り好みをし,女性も競争するようになり,男女の長期的な関係性には恋愛という絆が生じるようになったのだ.ここから個別のテーマが扱われる.
 
<カジュアルセックス>
ヒトは時に短期的カジュアルな性的関係も持つことがある.この場合男性は,より強いカジュアルセックスへの衝動,より新奇な相手への好みを持つ.この性差の存在は,アンケート調査だけでなく実験*6においても,ゲイとレズビアンについての調査においても.歴史的な文献も含めた文化差調査においても,さらに消費者の好みの分析*7からも確認されている.
では何故そのような性差があるのか.スチュワート=ウィリアムズはまずここで標準的な進化心理学的な説明を置く.そこから様々な誤解に満ちた批判に反論していくという構成を取っている.

  • 批判1:(もし進化心理学的な説明が正しいなら)男性はカジュアルセックスにしか,女性は長期的な相手にしか興味がないはずだ:それは進化心理学的な説明の誤解だ.進化心理学は,両性とも絆を持つ長期的な関係を構築でき,女性にとっても時にカジュアルセックスが適応的である場合があることをうまく説明できる.
  • 批判2:性差は文化と合理的判断由来だ.西洋社会では女性にとって妊娠のコストが大きく,見知らぬ男性は危険だ.だから合理的判断としてカジュアルセックスを避けるだけだし,西洋文化は男性にカジュアルセックスの旨味をすり込んでいるのだ:進化心理学は文化や意識的判断が性差に関係することを否定するわけではなく,遺伝的な性差もあると主張するに過ぎない.この批判は,ピルの普及が女性の態度に影響をほとんど与えていないこと,レズビアンのカジュアルセックスについての態度を説明できない.
  • 批判者の反論:ピルを手にした女性もレズビアンも「女性はこうあるべき」という文化ジェンダー規範に従っているだけだ:そもそもこのような文化のみ論者が主張するようなジェンダー二重基準自体実証的に示されたことはほとんどなく,文化的に逆を教示しようとして失敗している例がいくつもある.さらにこれらは通文化的に観察でき,動物においても同様の性差がある.

 
<見た目の良さ>
多くの動物はオスが性的な装飾を持ち,メスが選り好む.ヒトにおいては双方向に選り好みがあり,特に長期的な関係では選好性の強さについて性差は小さい.しかし何を選り好むかにはいくつかの性差がある.男性は若さに惹かれ,女性は富と地位に惹かれる.ここからスチュワート=ウィリアムズはこの性差の実在についての証拠を挙げ,進化心理学的な説明を解説する.このあたりは知見の集積している部分で詳しい.

  • 批判1:「性差などない派」進化心理学の主張に反してポルノには人気ジャンルの1つとして「MILF:熟女ジャンル」がある:しかしポルノにおいては一般的に若い女優の方がはるかに人気があるし,「MILF女優」自体も通常は30代までで比較的若い.50代の魅力的な女性がいるということが,男性が若い女性をより好む一般的な傾向を否定できるわけではない.男性が真に選り好んでいるのは若さと相関する指標であり,現代のアンチエイジング技術はそれを不鮮明にしているとして説明可能だ.
  • 批判2:「社会的構築派」進化心理学が主張する配偶者選好心理の性差はすべて社会的に構築された好みだ:もしそうなら男性たちを老齢の女性を好むように洗脳することも,女性たちを「老けて見える化粧法こそがいけてる」と思わせる様に洗脳することも可能なはずだが,それはありそうもない.男性の配偶者選好心理における若さの様々な指標は繁殖力に結びついていることが明らかになっているが,それが単なる偶然ということもありそうにない.この好みは通文化的なユニバーサルだ.好みは単なる若さではなく(生涯)繁殖力ピーク指標であり,実際にティーンエイジの若者は(批判者のいう文化的刷り込みにもかかわらず)自分より少し年上の女性を好む.さらにゲイの男性が相手の若さを気にし,レズビアンの女性が相手の若さをあまり気にしないことは,魅力的な男性や女性に関する文化刷り込みでは説明できない.

 
<富と地位>
女性が男性の富と地位に引かれるという傾向も進化心理学の初期の知見だ.

  • 批判:それは女性が単に意識的に効用を計算しているだけであり.男性が富と権力を持つ文化の反映だ:進化心理学はそれらの影響を否定しているわけではない.しかし文化だけでは説明できない.まずよりジェンダーイコールになってきている社会でもこの性差は縮小しない.また西洋社会において,女性は裕福になるとむしろより相手に富と地位を求めるようになることが観察されている.

 
ここからスチュワート=ウィリアムズは面白い議論をしている.確かに配偶者選好心理の性差は進化的に説明できる.そしてそのような選好は相手の性への淘汰圧として働く.つまり男女はそれぞれ相手を「育種」してきたのだ.こう考えるといくつかのヒトの特徴が説明できるようになる.まずヒトにおいては(多くの動物と異なり)女性がより装飾的だ.これは男性が若さの指標形質について淘汰圧をかけてきた結果だ.そして女性は男性をより権力志向に変えた.それが社会における富の配分にも大きな影響を与えたのだ.
 
<暴力>
男性の方が明らかに暴力的だ.この証拠は豊富に存在する.スチュワート=ウィリアムズはオスオス競争から来るこのような性差の行動生態的な説明を置き,この競争の強さにより性差の程度も変わってくること,ヒトはその中でどのような位置にあるのかを解説する.ヒトはモノガミー的で,絆を持ち,両親が子育て投資を行うので,オスの攻撃性は相対的に小さくなっている.しかし性差がなくなっているわけではないのだ.

  • 批判1:それは文化(特に西洋文化)により学習されたものだ:しかしこの男性がより暴力的である傾向はユニバーサルだ.
  • 批判2:それは身体の性差からの間接的効果だ:「自然淘汰が身体の性差だけ作って行動傾向に影響を与えない」という前提自体がおかしい.またそれでは社会が男性により暴力的にならないように教示に努めているにもかかわらず暴力傾向の性差があることを全く説明できない*8.さらに暴力傾向の性差は極めて早期(1歳未満)に現れる.他の霊長類にも同じ傾向がある.男性の暴力傾向は思春期に急に増加し成熟後に減少するが,それはユニバーサルであり.それを促すような文化的な教示はない.

 
<子育て投資の性差>
これらの現象の背後にあるのは両親の子育て投資の非対称だ.では何故そうなっているのだろうか.スチュワート=ウィリアムズは子育て投資決定の行動生態学的解説(基本要因は父性の不確実性と配偶機会コスト*9)をここで行っている.
これはジェンダーロールに絡むのでフェミニストたちとのバトルの主戦場になる.

  • 批判1:子どもを世話したいという欲求が女性により強いのは,進化や生物学的な要因によるものではなく,少女が陰に陽にそうすり込まれているからだ:進化心理学者は文化の影響がないといっているのではなく,生得的なものもあるのだと主張している.またこのような傾向はユニバーサルだ.
  • 批判者の反論:それは身体的な性差の間接的な影響だ:自然淘汰が身体だけに働くと考えることがナイーブだ,キブツなどの文化的に男女をイコールに扱おうとした環境でもこの性差は消えなかった.フェミニズムを教え込まれた世代も前の世代と変わっていない.
  • 批判者の再反論:それは社会的慣性が残っているからだ:この性差は発達のごく早期から観察される.他の霊長類でも観察される.

なおスチュワート=ウィリアムズは最後に,行動傾向に性差があるからといって,女性がどう振る舞うべきかを規定するわけではなく,人がどう生きるかは自由に決めていいのだとコメントしている.この点について進化心理学者がいかに激烈にののしられてきたかが何となくわかるところだ.
 
<真実の敵>
最後にまとめがおかれている.エイリアン生物学者から見るとヒトの性差はどう見えるだろうか.観察によれば特定の心理的な性差が通文化的に見られ,それは他の動物に見られるものと似ている.彼等は容易にこれが自然淘汰産物だと結論するだろう.
そしてそれを全力で否定しようとする心理学者や社会学者について,超人的な知的逆立ちゲームをして常識的な知見を否定しようとしているのだと批判し,性差が自然淘汰産物であるという事実が女性差別につながると考える前提がおかしいことを強調している.
 
 

第4章 デートして配偶して赤ちゃんを作る動物

 
冒頭はエイリアン博物学者から見ると,ヒトは何をするようにデザインされているように見えるだろうかという設問から始まる.それは様々なことに適応しているが,最も重大なゴールは子どもを作ることだろう.ここで有名なダーウィンの結婚についてのメリットデメリットの整理ノートを紹介し,しかし多くの人々にとってはそもそもここにオプションはなく,それは配偶者選択が非常に重要であることを示しているのだとコメントしている.
 
<美しさ>
ではわれわれはどのような配偶者選択を行っているのか.それはヒトの本性に組み込まれた好みによっている.ここでスチュワート=ウィリアムズはまず広く見られる誤解を整理する.

  • 美は客観的な性質ではない.どんな美人やイケメンもエイリアン博物学はから見ると「ほとんど水でできた醜い袋」にしか見えないだろう.
  • 美はヒトの本性に埋め込まれているのではなく,文化によってどのようにでも変わるというのも正しくない.確かに文化の影響がないわけではない.しかし通文化的な分析を行うと,その文化差はどちらかといえば皮相的であることがわかっている.誰が魅力的かについては文化が違ってもかなり意見が一致する.

 
要するに美は自然淘汰によってヒトの心に埋め込まれているということだ.では何故そうなっているのだろうか.スチュワート=ウィリアムズはここで進化心理学的な解説を簡潔にまとめている.基本的にはよりうまく繁殖できる相手を選ぶことになる.さらにいくつかのトピックを詳しく解説する.

  • 左右対称性が男女ともに美しさの要因になっていることはかなりはっきりしている.それが本当に健康を結びついているかについては議論が続いているが,私はありそうだと考えている.
  • 女性的な顔立ち(大きな目,アーチ型の眉,小鼻,ふくよかな唇.細い顎,スムーズで柔らかい皮膚)は女性の美しさに関わる.これは若さのシグナルだと考えられる.
  • ウエストヒップレシオも女性の魅力に関わる.リサーチでは通文化的に0.7近辺が好まれることがわかっている.それは若さと繁殖能力のシグナルだと考えられる.
  • 男性的な顔立ち(はっきりした眉,角張った顎など)はどうか.これはテストステロン量と関連するので健康のハンディキャップシグナルである可能性がある.また多くのリサーチは上半身がVシェイプで筋肉質で声の低い男性が好まれることを示している.
  • しかし男性らしさには美の要素として難しい点もある.髭面や低い声は好みが分かれる.特に多くの女性は超男性らしさを好まない.1つの可能性は男性らしさは女色漁りと暴力と相関するので,配偶後の子育てとの間でトレードオフになっているというものだ.もう1つの可能性は男性間競争のシグナルを兼ねていて複雑になっているというものだ.

これらの性差についても学習のみによるのではないかとフェミニストたちは主張する.スチュワート=ウィリアムズは,これらは通文化的で,進化的に重要だと考えられる性質と緊密に連結しており,一部は動物にも見られるものだと指摘している.
 
<近交回避>
標準的な心理学的説明だと,対人関係の魅力は,近接性,親しみ,同類性で決まるとする.スチュワート=ウィリアムズはしかしこれは全く皮相的だと指摘する.我々はこれらのすべてを満たしている相手のごく一部としか恋には落ちないし,さらにこの説明では近しい血縁者との性的忌避を全く説明できないからだ.

  • 近親者との配偶は血縁淘汰的には一見有利に見えるが,実際には近交弱勢のために避ける方が適応的になる.動物世界においても何らかのキューを用いた近交回避傾向は一般的だ.
  • 近交回避傾向はヒトにも見られる.キューとして用いられているのは幼児期の同居生活だ.これらについてはキブツや台湾のシンプアなどいくつか実証的な証拠がある.
  • さらに同類性も使われているだろう.ヒトは自分に似ている相手を取引相手や友人として好むが,性的対象としては好まない傾向があるのだ.標準的な心理学理論ではこれは説明できない.

もちろん批判者は,近親者への性的忌避も学習によると主張する.そのような規範がある方が集団間競争で有利になるという主張を行う批判者もある.スチュワート=ウィリアムズは「その他すべての性的抑制の教示が失敗する中で.近交回避教示だけがうまくいったということが,そして本当に妹とのセックスを想像したときの気持ちが学習によるものだということがあるだろうか」と問いかけ,これが広く動物界に見られる現象と同じであることを繰り返し主張している.そして古代エジプトなど文化によっては近交回避をしないものもあるという主張については,それはごく上層階級に見られる(権力の継承のための)例外である(そしてほとんどの場合実質的な配偶関係には至っていない)とコメントしている.

<恋愛>
恋愛感情は極めて強く,ペアの絆を形成すると共にサイドエフェクトも多い.複雑で多面的な現象なのだ.ここはかなり詳しく説明がある.

  • ロマンチックラブは侵襲的で,相手を理想化し,証拠を求め,著しくエネルギーを消費する.ムードは揺れ動き,性的欲望を生じさせ,自己抑制が効きにくい.さらに恋愛感情はしばしば急速に醒める.友愛的な愛情に変わっていくこともある.
  • しばしばよく知らない相手に激しく恋に落ちる.そのような幻覚的な時期は短く,醒めてしまうこともあるし,永く続く愛情に変わることもある.
  • それは単純にセックスへの動機だけでは説明できない.恋愛は子育てのためのペアボンド創出の機能を持つのだ.しかし謎は多い.なぜあれほど激しく恋に落ちるのか,時に急速に醒めるのか,時に振り捨てられないのか.

 

  • なぜ長続きしないのか:そもそも恋が続いている間は常に配偶者選択が継続している.女性は配偶相手をより選り好むが,別れを切り出すのも女性からが多い.別れの理由にも配偶者選好と同じ性差がある.女性は相手の失業を,男性は相手が老け込んだことを理由に挙げる傾向がある.
  • そもそもなぜあれほど激しいのか:進化環境では出会う相手が少なく,絆を固めることは適応的だったのだろう.病的な執着はある意味現代環境とのミスマッチだ.

 
批判者はロマンティックな恋愛は西洋文化の産物であると主張し,一部は父権主義者や資本主義者の陰謀だとまで主張する.スチュワート=ウィリアムズはそれはあまりに馬鹿げた主張であると反論している.一般的に初めて恋に落ちたときは当事者たちはそのフィーリングが期待と異なることにしばしば当惑するし,恋愛はユニバーサルに見られる(詳しくリサーチの解説がある)のだ.
 
<嫉妬>
文化決定主義者は「嫉妬は文化的産物だ」と主張することになる.彼等は文化によっては嫉妬が見られないと指摘し,「イヌイットの部族長は歓待の印として客に対して妻の一人による性的サービスの提供を行う」という慣習を引き合いに出すそうだ.スチュワート=ウィリアムズは「嫉妬のない文化」の主張はより詳しく調査するとすべて覆されているし,イヌイットの慣習については,それが歓待の印になるのはそもそもそれは極めて寛大な行為と認識されているからだと指摘し,イヌイットの間にも嫉妬はありふれているとしている.
では嫉妬とは何か.スチュワート=ウィリアムズはそれは配偶者防衛にかかる心理的適応だという標準的な説明をここで丁寧に行っている.ポイントはヒトは(男性は父性の確保という視点から,女性は子育てリソースの確保という視点から)双方向に配偶者防衛があるというところだ.
 
<子育て>
ヒトは哺乳類としては例外的に,母親も父親も子育てを行い,子どもに愛情を注ぐ.スチュワート=ウィリアムズは赤ちゃんを可愛いと感じること自体が適応的な心理であり,ペットへの愛情はそれの副産物だろうとコメントしている.
ここでスチュワート=ウィリアムズはちょっと面白い問題を扱っている.子どもを持つとヒトは幸福になるのか.リサーチは,確かに子どもと触れあっているときには両親はそれを楽しんでいるが,全体として特に幸福にはなっていないことを示している.スチュワート=ウィリアムズは,自然淘汰は両親に子育てをする動機を与えるが,幸福にする必要はないこと,心配にさせることは子育てをより促進することを理由としてあげている.
次にスチュワート=ウィリアムズはデイリーとウィルソンの発見したシンデレラ効果(実の両親に比べると継母や継父は虐待しやすい)を紹介し,しかしエイリアン博物学者から見ると,ヒトの特徴はまず我が子でもない子どもにも世話をすることであり,シンデレラ効果は例外的な虐待の場合の相対差に過ぎないことを指摘する.そしてそもそも継子を可愛がる傾向自体も(新しい配偶相手を見つけるという)適応的な性質である可能性を指摘している.

<どの子を可愛がるべきか>
スチュワート=ウィリアムズは次に複数の子がいるときに両親はどうするべきかを解説する.適応的な観点から考えると,その子の将来的な期待繁殖ポテンシャル(繁殖価)に応じてひいきする方が有利になる.年齢や健康は重要なファクターだ.
では実際にはどうなっているのか.データがはっきり取れるのは子殺しのデータになる.予測通り両親はより嬰児を*10,より病弱な子を殺しやすい.スチュワート=ウィリアムズはこれは悲しいことだが,自然淘汰は無慈悲なのだとコメントしている.
 
<ヒトの配偶システム>
ヒトの配偶システムはどういうものかについても,激烈な議論が存在する.スチュワート=ウィリアムズは「ヒトは基本的にモノガミー的で両親が共同で子育てする」という本書での説明への批判を順番に取り上げている.

  • 批判1:要するにヒトの配偶システムはモノガミーだというんだろ,しかしそれは違う.ロマンチック恋愛は生涯続かないし,浮気はありふれている:進化心理学者はヒトが厳密なモノガミーだとは主張していない.いろいろな見方があるが,私は「ペアボンドはヒトの配偶システムの重要な部分だ」と考えている.
  • 批判2:ヒトは一夫多妻的だ.自然なシステムはハレム的ポリジニーだ:確かにヒトはマイルドなポリジニーだという主張には聞くべきところがある.身体の大きさには性的二型がある.また世界の多くの文化で一夫多妻制が見られるし,西洋のそれを禁止する法の存在自体が自然的な傾向を示している.しかしヒトをポリジニーだとするのは誤解の元だ.身体の性的二型はそれほど大きくなく決定的ではないし,一夫多妻を認める社会でもほとんどの人はペアで配偶している.
  • 批判3:我々は乱婚制だ.結婚制度は農業以降の文化的発明だ:これは農業革命以前のヒトの配偶システムはボノボに似ていただろうという考え方だ.確かに短期的な配偶戦略に乱婚的な要素はある.しかしそれがヒトの基本的なシステムだということはあり得ない.ヒトの精巣の相対的な大きさは乱婚制のチンパンジーに比較して非常に小さく,ハレム制のゴリラに比べれば大きく,モノガミーのテナガザルに近いのだ.
  • 批判4:ヒトは両親の共同子育て種だというが,文化によっては父親は全く子育て投資しない.父親の子育ては文化的なものだ:確かに男性の子育て投資には文化差がある.しかしまず父親にも子育て投資を促すホルモン的な調整がみられる.またほとんどの文化での男性の子育て投資は一般的な哺乳類水準より大幅に高いし,いくつかの文化差は(父性の確実性などの)条件付き投資調整で進化的にも説明可能だ.

 
その上でスチュワート=ウィリアムズはどう考えるべきかについてこうまとめている.

  • ヒトの配偶システムと子育てシステムは,直接自然淘汰で固定されているわけではない.淘汰は我々に様々な欲望と動機を形作った.それが社会的な様々なシステムと共存しているのだ.
  • 両性とも恋愛で絆を作り,子どもを可愛く思う.そのためよくあるシステムはペアボンドと共同子育てになる.しかしその他の欲望や動機もあるのでほかのシステムにも対応可能なのだ.
  • モノガミーは我々のプライマリーな配偶システムだ.しかしポリジニーや乱婚が逸脱というわけではない.
  • どのような配偶システムも我々の欲望をすべて満たすことはできない.それはヒトが互いに矛盾する欲望を持つからだ.ヒトは永遠にコンフリクトに悩まされる.自然淘汰は我々をそう形作っているのだ.

 
 

第5章 利他的な動物

 
最初にダーウィズムにとって利他的行動には説明が必要であることが簡単に解説されている.動物では鳥のヘルパー,警戒音,社会性昆虫の行動などが知られている.ここからスチュワート=ウィリアムズはまず批判者の思考から解説する.ちょっと面白いやり方だ.

  • では文化的決定主義者はこれをどう考えているのか.それは文化で決まるからなんの問題もないというのが彼等によく見られる反応になる.しかしこれには重大な問題がある.しかし本当に心が空白の石版なら,完全に利他的になるように教え込むことも容易なはずだし,実際に我々は常に利他的であるように教示しているが,それはうまくいっていない.自然淘汰が,利己的にも利他的にも学習できる動物を作ること自体ありそうもない.

 
<血縁淘汰>
ここからスチュワート=ウィリアムズはハミルトンの血縁淘汰(包括適度理論)とそれを遺伝子視点から説明してみせたドーキンスの利己的な遺伝子を紹介し,血縁度について,そのポイントは遺伝子共有確率が平均より高い相手には利他的な行為が進化しやすくなることだと説明し,続いてハミルトン則,血縁認識の問題(血縁自体を認識している必要はなく,それと相関する何らかの手がかりが認識できればいい)を解説している.ここも誤解しやすいところの丁寧な解説がわかりやすくなされている.
そこからヒトについての解説になる.ヒトの血縁認識は近交回避のところと同じ原理になる.そして認識したあとの利他行動傾向の証拠(腎臓移植のリサーチ,遺産相続のリサーチはかなり強い血縁者への利他行動傾向を示している)も提示する.そして血縁者に対する利他行為の文化決定主義者からの批判に対しては,キブツにおける証拠,他の動物にも見られることを挙げて反論している.
 
<互恵性>
続いて非血縁者に対する利他行動が取り上げられる.これは他の動物にはあまり見られず,ヒトの特徴になる.ここからトリヴァースの直接互恵的な説明が解説される.これは相利的な協力の時点のずれ問題の解決だと解釈できることを先に説明してから,裏切りの問題を取り上げ,トリヴァースはヒトの感謝,罪,恥,同情の感情はこの問題への解決のための適応として理解できると主張したことを紹介する.スチュワート=ウィリアムズは,この直接互恵の説明は,親の投資理論や血縁淘汰理論ほど確実ではないが,ヒトに対しても働いている可能性が高いと評価し,その根拠として,アクセルロッドの繰り返し囚人ジレンマ実験の結果,感謝,罪,恥,同情という感情の存在,通文化的に血縁者から受けた恩より非血縁者から受けた恩について関心を持つこと,動物においてもいくつかの例が見られることを挙げている.
 
<性淘汰>
スチュワート=ウィリアムズはジェフリー・ミラーが道徳的行為がコストリーシグナルとしての性淘汰産物である可能性を指摘したことを紹介する.そのもっとも良い証拠として,狩猟採集民に見られる顕示的な利他行為(特に大型動物の肉)が女性にもてることに結びついていることを挙げている.スチュワート=ウィリアムズはこのアイデアにはまだ異論があるが,可能性があると評価している.
 
<グループ淘汰>
ヒトは異常に協力好きでグループ的だ.歴史を通じて何百万もの人が宗教や国家やその他の聖なる理由のために命を落としている.スチュワート=ウィリアムズは,これに対してしばしばナイーブグループ淘汰的な説明がなされるが,実際にマルチレベル淘汰でグループ間淘汰が優越する条件は厳しく,それが妥当する可能性は低いとコメントしている.またそもそも協力的な行動は利他的とは限らず,言語や累積的文化環境の中で多くの場合相利的になり,それは個体利益から説明できること,実際には人々はフリーライダーに搾取されることに敏感で,グループのためと何かしてもらうにはことさらに動機付けが必要であることを指摘している.
スチュワート=ウィリアムズはここではマルチレベル淘汰と包括適応度理論の数理的な等価性にも触れ,グループ淘汰論者はグループ淘汰による説明が血縁淘汰より優れていると主張できないはずであること,問題はどちらがよりリサーチプログラムとして有用であるかであり,包括適応度理論の方がはるかに直感的でたどりやすい説明だと主張している.
 
最後にスチュワート=ウィリアムズは「ではヒトの利他的行動を直接互恵性や間接互恵性で説明するなら,それは結局利己的だということになるのか」というやや哲学的な問題も扱っている.これは一部の進化心理学批判者が「進化心理学はヒトの利他性を否定する」と主張することへの反論が含まれている.スチュワート=ウィリアムズは「自然淘汰はヒトを心理的にも利己的に作るはずだ」ということが誤解であることを強く主張する.これは「ヒトが心理的に利他的であっても遺伝子のレベルでは利己的であること」に関連するところであり,さらにここでは「利他的であれという道徳律はしばしば利己的な動機付け(良いことをしておくと後に報われる)を隠し持っている」とか利他性の定義の問題とかにも踏み込んでいてなかなか読んでいて楽しいところだ,初学者がつまずきやすいところという趣旨もあるのだろう.
 
 

第6章 文化的動物

 
ここまでスチュワート=ウィリアムズは性淘汰,配偶者選択,利他性と協力というトピックでスタンダードな進化心理学的な解説を行ってきた.ここからは文化進化をミーム学のフレームで捉えるというちょっととんがった章になる.文化進化については一時興隆したミーム学はその後停滞し,リチャーソンとボイドたちによる文化と遺伝子の共進化のフレームが主流になりつつあるが,最近デネットによる擁護論も読んだばかりであり,興味深いところだ.
 
スチュワート=ウィリアムズはまずチェーンレターを紹介し,それがある面では生物進化とパラレルな現象であることを指摘し,それがミーム学(memetics)の取り組みであるとし,以下のように概説する.

  • ミーム学のコアのアイデアは遺伝子と同じくミームも自然淘汰の対象になるというものだ.そして自然淘汰は「利己的なミーム」を有利にする.
  • 文化進化に対するその他のアプローチとしては「生得的学習バイアス」にフォーカスするもの,「文化アトラクター」にフォーカスするもの,「遺伝子と文化の共進化」のアイデアを用いるものがある.これらは文化がどのようにヒト個体やヒトのグループに有利な点をもたらすかを考察する.しかしミーム学は「ミームにとっての有利さ」を考察するところが根本的に異なる.
  • ミーム学は文化進化に対して統一的なフレームワークをもたらすことができる.このコンセプトはドーキンスに由来するが,本書で扱う現象やアイデアはボイドやリチャーソンやヘンリッチが考察したものにも由来する.
  • (進化生物学者を含めた)多くの人はデザインがある人工物は結局自然淘汰産物であるヒトの脳がデザインしたものであり,究極的には自然淘汰産物だと考えているだろう.しかしこれは正しくない.人工物は純粋にインテリジェントデザインだとは限らないのだ.
  • これを論じた有名な例はフランスの哲学者シャルティエによるグロワ島の漁船のデザインの考察だ.それは純粋なデザインというよりも試行錯誤による様々な船のデザインの中で転覆しなかった船の形が選ばれてきたと考えられる.
  • スキナーによるオペラント条件付けをよく考えてみよう.報酬を受けた行動がより洗練されていくのはある意味で淘汰を受けたのと同じだ.あなたの冗談が洗練されているのは,友人のリアクションのためかも知れない.
  • 言語は誰かがデザインしたものではない.それは進化的な過程を経て現れたものだ.様々な言語の用法は,学習しやすさ,表現のしやすさに応じて淘汰を受けただろう.
  • 資本主義社会における消費者向けプロダクツはまさに競争し,売れたものの特徴が次の製品に継承されていく.メーカーはそれが何故売れるのかを知っている必要はないのだ.テディベアは時代を経るにつれてどんどん可愛く消費者受けが良いものに変遷しているが,おもちゃメーカーがネオテニー顔がウケる真の進化的な理由を知っていたわけではないだろう.競争による淘汰を受けた結果の変遷という現象は資本主義におけるビジネス形態や会社そのものにも当てはまる.
  • 科学という営みにもその要素がある.学説は事実をうまく説明できるものが勝ち残っていくのだ.
  • もちろんミームが遺伝子と異なっているところもある.ミームは友人から友人へ水平移動する.別の文化に飛び移ることもある.しかし類似点にも驚くべきものがある.文化要素はしばしば系統樹を形作るのだ.

 

  • 動物にも文化があるという報告は多い.チンパンジーの文化は特に有名だが,その他オランウータン,クジラ,鳴鳥類等にも報告がある.しかし彼等の文化とヒトの文化の間にはその豊穣さにおいて埋めがたい差がある.
  • 何がこの差を作っているのだろうか.しばしば指摘されるのは知性の差だ.しかし個体としてみると,多くの動物の中でヒトが飛び抜けた特異点というわけではない.重要なのは集合的知性と累積的な文化だ.
  • では何が累積的文化蓄積を可能にしたのか.よく指摘されるのは,言語,心の理論,メンタルタイムトラベル,超協力性,教育,トレード,共有注意,模倣などだ.
  • トマセロはこれを文化的なラチェットと呼んでいる.累積的文化は我々を利口にし,様々な認知的ツールを利用可能にした.単語やフレーズ,十進法,確率論,コストベネフィット分析,タイムマネジメント理論,フィナンシャルプランニングなどなどだ.これは少しずつ積み重なってきた進化産物だ.ニュートンが相対論や量子論にまでたどりつかなかったのは,彼の認知能力の限界ではなく,その時代における累積が不足していたからに過ぎない.多くの文化的な偉業は,単一の天才によるものではなく,累積の力によるものなのだ.

 
ではこの文化産物は何をするためにデザインされているのだろうか.ここからスチュワート=ウィリアムズはいくつかの仮説を吟味しながら読者をミーム学に誘導する,

  • (仮説1)文化はヒトの模倣能力の上にある.それはヒトの適応度にかかる淘汰産物であり,適応度が増すものをより模倣するように働くだろう.ミームはツールに過ぎず,ヒトの持つリードにつながれている.だから文化進化はヒトの適応度に資するように生じる.

この論者は,文化のバイアスを強調する.スチュワート=ウィリアムズは学習バイアスから初めて.内容バイアス,文脈バイアス,モデルベーストバイアス,頻度依存バイアスなどの考え方を様々に紹介している.スチュワート=ウィリアムズはこの考え方で多くの文化現象が説明できることを認め,例として道徳,宗教,芸術についての獲得適応仮説(これらの文化現象をヒトにとってより適応的な文化要素が獲得されてきた結果と解釈する)を紹介した上で次のように反論する.

  • しかし片方でヒトの適応度を上げないような文化現象にも注目すべきだ.まず適応度上は中立としか思えないような文化現象は多い.右側通行か左側通行可の選択やファッションの流行などがそうだ.そして適応度を下げる文化現象も存在する.喫煙,ジャンクフード,ポルノ,避妊.模倣自殺などだ.先ほどのモデルベーストバイアスのうちの権威バイアスは模倣者にとって非適応的なことも模倣することにつながるだろう.広告はまさにこれを利用することがある.
  • 模倣能力が適応産物だとしても,それは「平均して」有利だったことしか意味しない.非適応的なミームは存在しうるのだ.これはリチャーソンとボイドも認めている.さらに自然淘汰は将来の結果を予測しない.いったんその時点で有利になるために文化能力が現れたなら,それが非適応的な方向に進むことを阻止できるメカニズムはないのだ.

 
次の吟味は文化グループ淘汰理論だ.

  • (仮説2)文化進化は多くの場合個体利益に沿うが,時にグループにとっての善に向かって進む.農業のようにグループによって良いミームは保持されやすい.時に個人にとって不利でもグループにとって有利なミームが選ばれる.一夫一妻制はそのようにして説明できる.多くの規範や法律もそう考察できるだろう.

ここでスチュワート=ウィリアムズは,子どもの数を何人にするか(グループ淘汰が効いているならリソースが限られるなら抑え気味に,リソースは調達可能で他グループとの競争が激しいと増やし気味になるだろう.だから狩猟採集時代は少なく,農業以降は多くなった)という議論,D. S. ウィルソンの宗教の議論(農業以降になって初めてビッグゴッドが大規模社会の団結のために有用になり,大規模組織宗教が生じた)を紹介している.スチュワート=ウィリアムズのコメントは以下の通り.

  • ウィルソンたちは大規模宗教などがグループ淘汰産物であり,それは良いものだという論じ方をしているが,グループ間淘汰は他グループへの敵意のような醜悪な性質も創り出すだろう.さらに嘘や専制政治や暴力も団結に資すならグループ間淘汰産物になり得るだろう.いずれにせよ文化的グループ淘汰がどの程度働いたのかは論争の最中にある.

 
次の吟味は真打ちたるミーム学になる.

  • (仮説3)文化進化は最適ミームの生存として理解できる. 

スチュワート=ウィリアムズは続いて,文化要素の中にはヒト個人にとってもグループにとっても特段有利をもたらさないものがあることを指摘し,ミーム学の有用性を主張する.そしてドーキンスの提唱,「利己的ミーム」というミームの広がり,言語と語についてのデネットの議論を紹介し,ミームはそれ自身の適応度に沿って淘汰を受けるというアイデアの秀逸性を強調する.

  • ミーム概念は深遠な帰結につながる.1つ目はミーム自体は淘汰を受け続けて素晴らしく生存拡散しやすくなっていくこと,2つ目はミームは相利的な同盟クラスター(ミーム複合体:memeplex)を作りがちになること,そして3つ目はミームとミーム複合体はあたかもインテリジェントデザインされたように見えるようになることだ.
  • ミーム学アプローチはしばしば文化と遺伝子の共進化や文化グループ淘汰理論と排他的な関係にあるとされる.しかしそうではない.ミーム学アプローチはこれらの理論を含んだより広い枠組みなのだ.そして他の枠組みでは説明できないことまで説明できる包括的な理論になる.

 
ここからスチュワート=ウィリアムズによるミーム学の解説になる.

  • ミームは浮動によっても進化するだろう,しかし基本的には淘汰の影響の方が大きいだろう.ミームは(成功するためには)まずヒトの心に入り込まなければならないし,ヒトの行動を(当該ミームを拡散する方向に)変化させなければならない.ヒトの心の構造に適合したミームだけが生き残れるのだ.(色概念ミームと色覚の関係,性や血縁に関するミームがヒトの心にフィットしやすい例などが解説される)
  • 片方で遺伝子は残した方が有利になるようなミームを残しやすくなるように進化するだろう.ミームから見ると,宿主の包括適応度を上げるような内容を持つ方が有利になることになる.(長寿に資するようなミーム.子だくさんに資するようなミームの例が取り上げられている)
  • 成功した宗教ミーム複合体には,子だくさんを奨励するミーム,子どもに宗教的な教育を受けさせるように働きかけるミーム,他宗教を信じるものへの布教を奨励するミームなどがみられる.またその宗教の教えが他宗教のそれより優越する理由,宗教的権威を認めることにかかるミームも観察される.
  • ミーム学への批判には,それは心が空白の石版だとする見方に乗っているというものがある.しかしこれは誤解に基づいた批判だ.ミームの成功は宿主の心の本性に強く依存する.ミームはヒトの心の構造に適応し,さらにそれをよりミームに有利になるように再構築しようとするのだ.
  • ヒトの本性はミームの適応環境そのものであり淘汰圧を生みだす.神ミームはヒトの本性(死や不幸に対する恐れなど)に非常にうまく適応している.音楽ミームは,集団団結のため,あるいは異性へのアピールのための適応だという議論があるが,もともとはヒトの本性に非常に適応したミームだと考える方が良いだろう.
  • 遺伝子と共進化しているようなミームもあるだろう.言語はその例だ.
  • 一部のミームは寄生的だ.一部の論者は宗教もこれで説明しようとする.私はそれはやや言い過ぎだと思う.宗教は時に私たちのためになり,時に寄生的なのだろう.音楽の一部も同じだろう.これはそれが必然的に悪いことを意味するわけではない.読み書きや数学は私たちの脳の構造を一部書き換えるが,それは悪いわけではない.
  • ミーム学アプローチが真に威力を発揮するのは複雑で累積的なミーム複合体を考察するときだ.組織的な宗教はこのアプローチによって最もよく理解できる.心理学者ダレル・レイは宗教が性的なタブーを作るのは,それが人々に罪の意識を植え付ける(そしてより宗教に帰依させる)のに好都合だからだと分析している.戒律はミーム複合体のためにあるのだ.また懐疑主義に対する様々な防衛(信仰という概念そのもの,神は不可思議な行動を行う,神は我々の信仰を試すために(あるいは悪魔は我々を迷わすために)偽りの証拠を顕現させる.不信心者は地獄に落ちる・・・)もそのアプローチから理解できる.
  • ここからはある程度推測混じりになるが,ミームは社会組織や信念システムを通じて我々の心の構造を書き換えている可能性もある.もしそうなら世界はそれまでと全く異なって知覚されるだろう.大学やインターネットは人々にミームを埋め込むための陰謀に見えてくる.ヒトの歴史は異なるミーム複合体間の争いの歴史に見えてくる.
  • 宿主にもこのような操作に対する抵抗力があるはずだ.我々は重要だと思うミームを広めるように意識的に介入できる.その良い例は微積分だ.微積分は何らキャッチーなミーム複合体ではないが,我々はそれを教育し続けている.また科学の発展は内容が真実ではないミームの信憑性を落とすことができる.

 
ここでスチュワート=ウィリアムズは遺伝子とミームが相互作用する問題を取り上げる.これについては遺伝子と文化の共進化理論によるリサーチが拡大中だが,スチュワート=ウィリアムズはそれはミーム学と進化心理学のハイブリッドとして見ることもできるとコメントしている.これは次の仮説につながる.

  • (仮説4)文化進化はミーム淘汰の結果だ.文化的な競争を通じてミームは進化し,人々を操作しようとする.しかしながらミームは宿主の淘汰圧も創り出す.その結果長期的にはミームはヒトの心に進化的な変化を生じさせるだろう.

スチュワート=ウィリアムズはここで遺伝子と文化の共進化の例として,牧畜文化と乳糖耐性,農業とヒトおよびイヌの澱粉分解能力の例を詳しく解説する.そしてそれは単に文化と遺伝子の多様性を説明するだけでなく,一部のユニバーサル(器用な手,投擲能力,料理と歯の形状など)の説明にも帰するのだと指摘する.ここまでは身体能力の進化だが,さらにスチュワート=ウィリアムズは認知能力に進む.

  • ヒトの認知能力も文化と共進化した可能性がある.より優れた認知能力はより優れているが使いこなしが難しい道具を可能にし,そのような道具はより優れた認知能力の淘汰圧になっただろう.言語もそうだ.一旦言語が成立すれば,それをよりうまく使いこなせるような能力への淘汰圧になっただろう.
  • より不確かなケースには宗教がある.宗教が広まると,より信心深く懐疑的でないことへの淘汰圧が生じたかも知れない.芸術,音楽,ユーモアも文化的な副産物から始まり,どこかで性淘汰的な淘汰圧になり,そこからは共進化したのかも知れない.
  • また文化は既存の淘汰圧を弱めることもあるだろう.筋力や視力に対しては文化により淘汰圧が下がっている可能性がある.

 
スチュワート=ウィリアムズは最後に進化的アプローチの有用性をもう一度強調し,そしてヒトが文化的な動物である以上,ヒトを理解するにはミーム学アプローチも重要であることを指摘し,累積的文化を手にした人類は自らの存在と世界を理解したこと,それにより地球の将来についても責任があると主張して本書を終えている.
 
 

本書は初学者向けの進化心理学解説本として素晴らしくよく書けている.誤解されやすいところを丁寧にカバーし,かつポップな語り口で読みやすい.自然淘汰や進化心理学のフレームをきちんと押さえ,ありがちな誤解や社会構築派からの激烈な進化心理学批判について徹底的に反論しているのは特に実践的だ.(さらに本書には巻末に付録として,「ブランクスレート派との議論に勝つ方法」が収められている)ヒトの配偶者選択心理の性差についてまず性差の存在自体におけるバトルを扱ってから,その内容に進んでいるのもそういう工夫の1つだろう.
次に性差や利他性については様々な主張を紹介して,単に正しいか間違っているかということではなく,その確からしさについて個人的な見解をおいているのも秀逸だ.ある意味総説論文的な優れた解説になっている.初学者にとってもヒトの配偶システムや利他性について混乱した論争の中でどう判断すべきかの良いガイドになるだろう.
そして最後のミーム学アプローチに沿った文化進化の章が斬新だ.デネットの分厚い本の主張と重なるところもあるが,独自の考察になっている部分もある.ミーム学はドーキンスの提唱以来一時非常に盛り上がったが,今はボイドやリチャーソンなどの「文化と遺伝子の共進化」フレームに押されて劣勢になっている.しかし本書でも触れられているが,ミーム学はミーム自体の適応度を考察する点で原理的にはより俯瞰的なフレームであるはずで,この興亡振りには私も常々残念に思っていた.何故うまくいかなくなっていたのかはデネット本にも触れられていたが,デネットだけでなくほかのミーム学推しの新しい世代の論者も現れているというのは嬉しいところだ.(なおやはり付録として「反ミーム学派との議論に勝つ方法」が巻末に収められている)議論されているミーム学の中身もいろいろと楽しく,深い.デネット本とあわせて読んで私自身いろいろ啓発されるものがあった.
全体として進化心理学と文化進化に興味のある人には強く推薦できる良書だと思う.
 
 
関連書籍

 
デネットのミーム本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2018/11/06/104020

心の進化を解明する――バクテリアからバッハへ

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同原書
From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (English Edition)

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*1:ベテルギウスの第3惑星ということになっている

*2:なおスチュワート=ウィリアムズは包括適応度理論とマルチレベル淘汰の数理的等価性についてここでは触れずに第5章で説明している.ここではっきりさせていた方がわかりやすかっただろう.

*3:農業革命後の進化の事実だけをもって進化心理学を論破できるとする(誤解に基づく)批判者が存在するので,実際にどのような進化が観測されているかについては丁寧に解説がある

*4:原章題は「The SeXX/XY Animal」というしゃれたものになっている.

*5:ただし,現在ではこの説明にはコンコルド誤謬やフィッシャー条件の見落としなどの問題があることが知られており,父性の確実性や繁殖個体性比なども見渡した慎重な説明の方がよかっただろう.

*6:キャンパスで,見知らぬ異性から,今晩ベッドを共にしましょうと誘われた際の反応を見るという古典的な実験が詳しく紹介されている

*7:男性向けポルノと女性向けロマンス小説の分析,売春の実態調査

*8:「私たちは男の子に『静かにしなさい』と言い続けてるでしょ」というわけだ

*9:ここもやや単純に解説しており,フィッシャー条件についてきちんと考慮した説明にはなっていないようだ.

*10:単に小さい方が殺しやすいからだという批判に対しては,親以外による殺人には逆の傾向があることを示して,その説明は成り立たないと指摘している