書評 「利己的遺伝子の小革命」

利己的遺伝子の小革命:1970-90年代 日本生態学事情

利己的遺伝子の小革命:1970-90年代 日本生態学事情

  • 作者:岸 由二
  • 出版社/メーカー: 八坂書房
  • 発売日: 2019/11/09
  • メディア: 単行本

 
本書は生態学者で「利己的な遺伝子」の翻訳で知られる岸由二による一冊.岸はそれまでイデオロギーが幅を利かせ,(集団遺伝学を全く無視し)ルイセンコや今西進化論が跋扈していた日本の生態学界において社会生物学,行動生態学を最も初期に受容していた1人になる.そして岸は受容の時代に社会生物学や行動生態学について様々な解説を書き,受容に大きな役割を果たしたが,一方でイデオロギー的な攻撃を受け,90年代に生態学から撤退し都市自然環境再生の仕事に進んでいる.本書は書き下ろしの回顧録ではなく,当時発表された様々な解説や論文を集めたものになっている.
構成としては社会生物学や行動生態学の紹介解説,今西進化論について,受容後の学説史的総説,関連書籍の書評 岸自身が書いた行動生態学の論文という順序で収められている..
 

第1部 社会生物学上陸

第1部では,ハミルトン以降の行動生態学(本書では社会生物学あるいは進化生態学という用語の方が主に使われている)の基礎的な解説が基本になっている.またここでは社会生物学という用語の背景にあるややこしい問題,英米の社会生物学論争の解説,包括適応度概念の数理的解説,行動生態学理論フレームの位置づけと評価(集団遺伝学の厳密理論に対しては近似理論ということになるが取り回しの良さから進化条件の見通し,仮説発想,発見への刺激効果が得られ,生態学分野のフィールドで有用であること)などについても扱われている.これらは70年代後半から80年代初頭という時代背景を考えると日本語で書かれた非常に貴重な解説だったと思われる.
また今日的に興味深いのは,この英米で60年代後半から70年代にかけての動きが日本に入ってくるのになぜ10年以上かかったのかという分析部分だ.岸によると第二次大戦後の日本の生態学は(正統的な進化の現代的総合説に依拠している)集合遺伝学と没交渉であった.そして60年代後半までは強い左翼的イデオロギーの影響下にあり,ルイセンコ的な進化論が持ち上げられ,総合説的な進化学説は帝国主義的還元主義でありいずれ弁証法的進化論に取って変わられるはずだと声高に主張する人々が跳梁跋扈していた.さらにルイセンコが失墜した後の空白地帯に今西進化論が入り込んだ.そしてそれらの結果総合説の受容が大きく遅れたということになる.
 

第2部 今西進化論退場へ

第2部は今西進化論についての小文がいくつか収録されている.私もどのように進化が進むのかのメカニズム的説明が荒唐無稽で全く説得力に欠ける今西進化論がなぜ大きな影響力を持つことになったのかかねがね不思議に思っていたところ(そして現在も当時の関係者の口は重く,内部的な総括がされていない状況)なので興味深く読めた.岸の整理を少し詳しく紹介しよう.

  • 今西は社会のたとえで自然の構造を捉え,「種社会」をキーワードに「すみわけ論」と呼ばれる自然観を提示した.この自然観では種社会が主体的に生物個体の生活の場を統制することになる.
  • 今西進化論においても「すみわけの密度化」として分岐を繰り返して系統樹を形成する態様を認めており,この点ではダーウィン進化学説と同じと見ることができる.大きく異なるのは種の変化や分化のメカニズムの説明になる.今西は個体の遺伝的変異の方向が種社会や生物全体社会の統制下にある(種自体が変わるときにはすべての個体が一緒に同じ方向に変わる)と考えた.今西進化論のポイントはこの全体論(ホーリズム)にある.これはダーウィン進化論の還元主義に対する弁証法的説明と解釈された.
  • 今西自身も考えが変化している.初期には適応的な方向に変化するとしていたが,後には定向的な進化を強調するようになった.さらに1980年以降は種社会の統合・分離をもたらす「プロトアイデンティティ(原帰属性)」概念にこだわるようになり,思想的哲学的な主張に変容していった.
  • 今西進化論は正統派ダーウィン進化学への科学的対立理論にはなり得ていないとしか評価できない.つまり今西進化論の要点は思想的哲学的主張でありその人気は社会現象として理解すべきものになる.
  • 社会現象として今西進化論が人気を持った原因は(1)ルイセンコが失墜したあとの日本の生態学における「正統派」の不在(なお左派イデオロギーの影響が強い生態学界には西欧流の進化理論への心理的反発があった),(2)戦後の平和主義的心情が「競争原理」を忌避する方向に働いたこと,(3)同じく戦後のナショナリズム的心情が「日本独自」の理論への期待につながり,専門の生態学者が批判しにくい土壌があったこと,に求められる.

 
要するに生態学界内での今西進化論の影響力についての岸の説明は,左派的な生態学者はイデオロギー的に弁証法的全体論を支持し,そうでない生態学者もナショナリズム的な今西進化論応援の「空気」の中で表だって批判しにくい土壌があったからということになる.ここでは今西の直弟子筋の京大の霊長類研究者たちのことはほとんど触れられていない.彼等にとっては単にイデオロギー的好意というよりももっと深い心情があったようにも思える.実際にはどうだったのだろうか.
 

第3部 一つの総括

第3部は,日本の生態学の社会生物学,行動生態学の受容についての総説論文(1991年の講座進化2「進化思想と社会」東京大学出版会に収録されたもの)が収められている.当時の行動生態学の理解(90年代の血縁淘汰の理解ぶりなどはかなりなつかしい),ルイセンコと今西による鎖国状況(還元論,機械論,個人主義,競争原理 vs 弁証法,全体論,非西欧,集団主義の対立が強調されている),行動生態学のフレーム,その有用性とリスク,社会生物学論争,特定研究「生物の適応戦略と社会構造」の意義などが,「開国」後10年の視点から整理されている.
 

第4部 ブックガイド

第4部は1992年,1988年に書かれた行動生態学関連のブックレビュー.私が行動生態学を勉強し始めた時期と重なり,利己的な遺伝子の初版とかクレブスとデイビスの教科書とかいろいろなつかしい本が紹介されている.
 

第5部 進化生態学の方法

第5部では,岸による1980年頃の論文が3本収められている.冒頭が行動生態学のフレームについて(集団遺伝学との関連,数理的解説),あとの2本が個別のトピックを扱ったもので,最適卵サイズについての数理的モデル,ハゼ類の性淘汰の多様性(性役割逆転)についてのもの.いずれも行動生態学受容初期の熱気が感じられる論文になっている.
 
 
本書は日本の生態学の行動生態学の受容に大きな役割を果たし,その後様々なイデオロギー的軋轢から学界を退出していった岸による当時の解説や論文を収めたもので,学説史的に大変興味深い本になっている.私自身にとっても行動生態学を学習し始める直前の状況が描かれており,いろいろと感慨深いところがある.なお当時の生態学界のイデオロギーが吹き荒れるなかでパワハラ,モラハラが跋扈するすさまじい様子については伊藤嘉昭伝「もっとも基礎的なことがもっとも役に立つ」に収録された岸によるエッセイ「嘉昭さん,応答せよ」が詳しい.興味がある方はあわせて読むと良いだろう.
 

関連書籍

伊藤嘉昭を偲ぶ弟子たちの寄稿集.戦後の日本の生態学がいかにイデオロギーと個人的確執に満ちあふれたものだったかについての同時代的証言「嘉昭さん,応答せよ」が収められている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170509/1494292695

生態学者・伊藤嘉昭伝 もっとも基礎的なことがもっとも役に立つ: 生態学者・伊藤嘉昭伝

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 海游舎
  • 発売日: 2017/03/15
  • メディア: 単行本