From Darwin to Derrida その3

 
プロローグ.アリストテレスの4原因説を登場させた後,このフレームに沿って本書の内容の概要が説明される.
 

プロローグ 最初に言葉ありき その2

 

  • 本書の主たる課題は物理的世界からいかにして目的と意味が生まれるのか(つまり質料因と作用因からいかにして目的因と形相因が生まれるか)を説明することだ.
  • 生命の歴史において鍵となる進展は,コピーされる確率に直接的間接的に影響を与える物質や書き込みの起源だ.このような遺伝物質はどこからともなく突然現れたわけではなく既にある物質が再配置されたものだ.連続したコピーはアイデアではなく物質的に生じるが,物質的遺伝子の系譜は分子的には入れ替わりながら構造を保持する.何が伝わるのか.それは情報と言っても形態と言ってもいいだろう.
  • すると遺伝物質は形相因と考えることができる.アリストテレスなら「我々がヒトであることの形相因は我々を構成する物質がヒトを作る原因となることである」と言っただろう.ヒトとチンパンジーとナメクジは同じ物質でできているが,異なった形態を持つ.
  • しかしコピーだけでは何も生まれない.ゴミからゴミが出るだけだ.我々はゴミから何か有用なもの(例えば卵とか)が生まれるのを見たいのだ.
  • スピノザは目的因を「目的因教義は自然を逆向きに捉えるものだ.それは効果を原因として捉えるものだ」と批判した.常識としては原因は効果に先立つことはない.しかし目的因は明らかに先立つものをあとに来るもの(つまり目的)で説明しようとするということになる.しかしこの常識は特定イベントの原因についての制限的な特徴を,あるタイプのイベント群について外挿してしまっている.私の好きな例はニワトリと卵の話だ.ある特定のニワトリがある特定の卵の原因か結果かを問うことには全く問題はない.しかしこれを一般的なニワトリと一般的な卵について考えると,それは問題含みになる.

 

  • 目的因は自然淘汰と呼ばれる複製の再帰から生まれる.遺伝子とその効果はニワトリと卵のようなものだ.遺伝子の効果はどの遺伝子がコピーされるかの原因になる.コピーの系譜としての遺伝子は生存と繁殖に常に関わっている.ある遺伝子があることが一貫して生存や繁殖に伴っているなら,その遺伝子の効果が因果的に遺伝子の存続に影響を与えたと推論できる.もしその遺伝子の(現在その遺伝子が栄えていることへの貢献という)過去の効果が,その遺伝子の現在の効果でもあると捉えるなら,その効果はその原因より先立っていることになり,それが遺伝子の存在理由(あるいは目的因)として見做されるだろう.複製効率の差の結果として成功した遺伝子は過去何が有効だったかの情報を蓄積する.この情報はそれを淘汰した環境から来るのだ.
  • このような視点に立てば自然淘汰は効果的なアクションについての帰納的推論になる.遺伝子の効果は世界がどのように働くかについての仮説であり,それは過去の有益な結果との関わりの強さによる信頼度を持つ.
  • しかし世界が不変である保証はない.ヒュームが言うように帰納的推論は「将来が過去に似ている」という前提の上に成り立つに過ぎない.
  • 確かに進化的な意図はまがいものの意図であり,ある種のメタファーで本物ではないという議論は可能だ.ヒトのような生物だけが真の意図を持つ,それはそういう生物だけが将来を予見できるからだ.そこには後ろ向きの因果はないのだ.私たちの意図は結果の予期にある.意図するとき私たちは結果を心に描いている.その考察は過去のものであって計画は失敗するかもしれない.しかしここで自然淘汰の非意図的な成果物は,同様に,その身体や本能的な行動が過去働いたように将来も働くだろうと「予期」しているエージェントだと見ることができる.

 

  • (ヒトを含む)すべての生物体は単に動いている物質に過ぎないという形而上学的な感覚(精密な構造の質料因は作用因の複雑な連鎖により形作られ,それは生命の誕生前からセットされていたという感覚)は残る.しかしこれは世界を理解するための実践的な過程ではなく,信念の表明に過ぎない.(これに対して)形相因や目的因はヒトのツール(発明のための炉とエンジン)であり,それは生命を理解するために実践的であり,かつ有用だ.これらを生物学の説明原理とすることを拒否するのは,胎児を胎盤と一緒にすててしまうようなものだ.私が学部生の頃の「汝,目的論的な言葉を使うべからず」というのは,儀式的清浄性のためのドグマティックなこだわりに過ぎないのだ.

 

  • 自然淘汰の意図性は後ろ向きだ.しかし過去に働いたものが現在観察され,将来を予見するのだ.生命体は世界のリアルタイム解釈者として進化する.世界の中で有効な行動をするために世界の情報を使うのだ.生命体はじっくり考え,決断する.
  • 本書の後半部分では「意味」を「解釈過程のアウトプット」として定義する.しかし今ここでそれを正当化することはできない.それは本書全体を使って正当化されるべきものだ.私は解釈には(初期生命のRNAの単一分子のような)単純なものから,今この文の意味をどうとるかを考えるようなタイプまであることを示していく.私の本書についての望みは意味の解釈の連続体を評価することが,人文科学と自然科学の知的探求をもう一度連帯させることに役立つことだ.

 

  • 最後に本書の形式についても触れておこう.
  • 本書は自然淘汰産物を鏡に映し出すことを,そしてそれ自体が創造過程を映し出すことを意図している.そしてこの意図は(自然淘汰のそれと同じく)部分的に後ろ向きだ.
  • 自然淘汰は新しい目的のために古い物質を使い回す.その生産物は古いものと新しいもののごちゃ混ぜだが一緒にうまく働かなければならない.結果的にゲノムは寄せ集めになる,そしてこれは本書も同じだ.本書内にはその場限りの大工仕事としての引用とパラフレーズにあふれている.うまくいったものは繰り返し使っている.ダーウィンはこのことを馬車の様々な仕組みが別の目的に転用されていることを例にあげて説明している.そして私はそのダーウィンの説明も使い回している.
  • 本書は最初から最後に向けて順序通りに執筆されたわけではない.だから読者も好きな部分から読んでいい本になっている.本書のある部分では複雑な生化学的詳細を延々と描いているし,そこは飛ばしてもかまわない.しかし内部的なメッセージが繰り返し再解釈されているというメッセージはしっかり理解してほしい.
  • また人文科学と自然科学が意思疎通してほしいという願いから,どちらにも読まれるような文体で表現しようとした.査読者のいないところでのこのような表現方法での自由な執筆活動は解放的であった.

 

  • 遺伝子について突き詰めて考えたことの意図せざる結果が意味についての考察だった.意味は読み手への入力の中にあるのではない.しかし(読み手からの)解釈の出力にあるのだ.読者の解釈が好意的で補完的であればと思う.しかし一旦テキストが書かれたなら解釈は読者の中にあるのだ.本書は「真実」を見つけたと主張する者ではない.しかし考え方の方法を示すものだ.それは世界について,そして単語の解釈について私が有用だと思ったものであり,読者もそう感じてくれることを願っている.

 
自然淘汰の目的論的な解釈がニワトリと卵の問題と似ているという指摘は面白い.なかなかこのあたりは「意味」をめぐって深そうな内容だ.
 
そして人文科学との橋渡しにもなれ,という願いから,人文科学者にとってもなじみある文体が選ばれたとあるが.古典からの引用にあふれて難解で晦渋な表現が随所に見られる.確かにそうなのかもしれないが,なかなか慣れていないものにとってはハードな文体だ.こうなるとドーキンスやピンカーのような明晰な「クラッシックスタイル」がとても恋しい気分になってしまう.
 
関連書籍
 
文体についてはこの本が面白かった.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20141116/1416098514