From Darwin to Derrida その41

 

第5章 しなやかなロボットとぎこちない遺伝子 その6

 
ヘイグは個体内で利害の異なる遺伝子がある場合に個体内の細胞間の信号がどのような影響を受けるのかという問題を提示した.同一個体内の細胞は(直近の突然変異を除き)同じゲノムを持つので伝統的に利害は一致していると見做されてきた.しかしその同じゲノム内に異なる利害を持つ遺伝子があるならこの前提は崩れる.そしてヘイグは(異なる利害が最も顕わになる例として)ゲノミックインプリンティングの世界に進む.

 

ゲノミックインプリンティングと血縁

 

  • ゲノム内コンフリクトには様々なものがあるが,ここでは父方由来要素と母方由来要素間のコンフリクトにフォーカスしよう.
  • このタイプのコンフリクトはホールデンが1955年に「Population genetics」において行った有名な思考実験を少し改変するとわかりやすくなる(池で溺れている子どもを自らの命の危険を顧みずに助けようとする行動を引き起こす遺伝子があり,それが稀なものであるとすると,その相手がどの程度近縁であるかによって淘汰されやすさが変わることについて血縁淘汰的に考察したものが紹介されている)
  • ホールデンの論理は単純だ.溺れている子どもが血縁者であればそこにこの稀な遺伝子のコピーがある可能性がある.そしてそのコピー存在確率と援助行動の生存確率と何人同時に助けるかによって遺伝子頻度が上昇するかどうかを予測できるというものだ.この計算はハミルトンによって包括適応度理論としてフォーマライズされた.

 
ハミルトンの伝記を書いたセーゲルストローレによるとこのホールデンの思考実験はパブにおける逸話に過ぎず,この逸話をもってホールデンがハミルトンの洞察に先立っているとほのめかしたメイナード=スミスとハミルトンの間には一時深刻な確執があったということだったので,これがしっかり書き物になっているというのはちょっとした驚きだ.
もっともここでヘイグがハミルトンではなくホールデンを先に持ち出しているのは,先取権というより,一般向けにわかりやすい説明という趣旨だろう.いずれにしてもホールデンの考察は「当該遺伝子が稀なものであるとき」にしか成り立たず,それが遺伝子頻度によらずに成り立つことを数理的に示したことこそハミルトンの独創的で革新的な業績ということになる.
 

  • ゲノミックインプリンティングとは遺伝子の分子がそれが父方由来か母方由来かによって異なる修飾を受けることを指す.ゲノム内コンフリクトはハミルトンの理論に隠されていたもので,インプリントされた遺伝子は自らの由来によって異なる影響を受けることを意味する.それはインプリントされた(溺れる子どもを助ける)遺伝子が母親のみ共通する兄弟を助けるかどうかをどう判断すべきかを考えるとわかる.それは自分がどちら由来かで変わってくるのだ.

 
インプリントされ(自分の出自を知っている)母方遺伝子から見ると,母親を共有する兄弟に自分の(同祖的)コピーがある確率が1/2だが,父親のみを共有する兄弟に(同祖的)コピーがある確率は0となる.だから母親共有兄弟をより助けようとすることが予想されるということになる.
 

  • つまりゲノミックインプリントのある世界では遺伝子は自分の由来を知ることができるので,自分がどちら由来かにかかる条件依存戦略を採ることができるのだ.これは私たちの血縁者との相互作用の多くの場面においてこのゲノム内コンフリクトの可能性があることを意味する.なぜなら血縁者の多くは母との血縁度と父との血縁度が異なるからだ.自分の子孫はこの例外になる.両親を同じくする兄弟も例外だが,祖先環境では「兄弟」は片親のみ共通するものと両親を共通したものが混ざっていただろう.だから兄弟間の相互作用は一定程度のゲノム内コンフリクト対象だったと思われる.
  • だからあなたの子どもや孫に対する感情にはこのコンフリクトの影響はないはずだ.しかし逆は成り立たない.子どもの母親に対する関係はゲノム内コンフリクトの影響を強く受けるだろう.子どもを持つ読者は自分が父母それぞれに対して持っていた関係性と子どもへ向ける関係性を比較してみると違いに気づくかもしれない.

 
私たちは,家族や親族などの血縁関係のある人々との関係において,様々なコンフリクトの大きな影響を受ける.そしてインプリントがあると,さらにそこに父方か母方かというもう一捻りが加わるということになる.ここまでが一般理論で,ここからヘイグはこの詳細に入っていく.
  
関連書籍
 
ハミルトンの伝記.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20130322/1363949965