書評 「Why the Law Is So Perverse」

 

本書は法学者レオ・カッツによる「なぜ法律はあんなにヘンテコなのか」を意思決定論の視点から説明する本になる.カッツは少し前に刑法の原則にかかる様々に難しい論点を認知科学,分析哲学,実験心理学的視点を取り入れて説明する興味深い本を書いている.そこでは大きな論点は「ヒトの処罰感情を明文化することの困難さ」と「連続する状況に対して有罪無罪という離散的な結論を与えなければならない」という2点が主に取り扱われていた.カッツはこれらの問題について思索を続け,なぜ法律はそもそもああいう構造になっているのかを意思決定論の視点を取り入れて説明しようとする.私がそもそもカッツの前著を読もうとしたのはピンカーの本で紹介されていたからだが,読んでみれば大変面白い.そしてその続編ともいうべき本書が刊行されているのを知り手に取ってみたものだ.
ここでカッツが扱う法律のヘンテコさは4つだ.「なぜ法律はWin-Win解決を拒絶するのか」「なぜ法律は抜け穴だらけなのか」「なぜ法律は1か0かの体系なのか」そして「なぜ法は時に非難すべき行為への処罰をためらうのか」になる.
 

導入

 
冒頭でなぜ法は「懲役囚に鞭打ちなどの苦痛に耐える代わりに刑期を短くするというオプションを与える自発的拷問」の制度を認めないのかという謎が提示される.囚人は自ら比較考量してその方がいいと考えるし,国家側も経費の節約になる.Win-Winではないかというわけだ.しかし我々はそのような制度を考えようともしない.カッツはこれは拷問を良しとしない政治的心理的な問題だけではないと主張する.そこには意思決定論に絡む論理的な必然があり,これはアローの不可能性定理が絡むのだと予告される.
 

第1部 なぜ法律はWin-Win解決を拒絶するのか


冒頭では導入で紹介された自発的拷問の問題が取り上げられる.一般に被害者の同意の効力が認められないのは,それが真の同意と見做されない場合,そしてすべての関係者がWin-Winになっていない場合(第3者に被害が出るような場合)だが.自発的拷問はどちらにも当てはまらない.カッツは,自発的奴隷契約や薬物取引や売春の違法性,排出権売買(への感情的反発),不動産取引契約の付随条項をどこまで第3譲受者に対抗できるかという問題*1などにはこれと同じ問題があるのだと言う.
 
ここからカッツは面白い例を持ち出して議論を進めていく.

  • アルとクロエは夫婦でドライブをしていて交通事故に遭う.アルは両足を失いかねない大怪我をし,クロエは右手の人差し指に怪我を負い,病院に担ぎ込まれる.そこには外科医が1人しかいなかった.トリアージの原則からはアルから治療を行うことになるが,アルはピアニストである妻のクロエの人差し指を優先してほしいという.外科医はこの希望を聞くことにする.
  • しかしここに別のけが人であるビーが現れる.ビーは片足を失いかねない大怪我を負っている.トリアージの原則はアル>ビー>クロエとなる.だからビーは自分の治療はクロエより優先されるべきだと主張する.しかしアルは自分がいる限りビーに優先権はなく,自分が希望してクロエを優先させているのだからビーには何も失うべきものは無いはずだと反論する(1種のWin-Win議論).これはどう扱われるべきか.
  • 1つの見方は権利は要望より強いというものだ.この場合Win-Win解決は拒絶され,ビーが勝つことになる.
  • Win-Win解決的な視点から見ると,アルは優先権者,クロエは同意によるその権利の受取者であり,ビーは同意の妨害者ということになる.そしてこのフレームは違法薬物や売春や排出権取引にも当てはめることができる.例えば売春の場合,売春婦が優先権者,客が受取人で一般大衆が妨害者とみることができる.そして自発的拷問の場合,本来拷問されないという人権を持つ囚人が別の目的のためにそれを放棄しようとしている.そして一般大衆はそんな目的のために人権を雑に扱ってほしくないという意味で妨害者ということになる.

 

  • なぜ法は時に個別契約によるWin-Win関係(つまり同意の効力)を認めないのだろうか.これまで執行の難しさや奴隷契約との類似性という説明はなされてきているが,いずれも説得力はない.片方で法はスポーツなどにおける暴力を受けることの同意は認めている.売春や自発的拷問と何が違うというのだろうか.
  • 上記のトリアージケースから眺めると,法は奴隷や拷問などについては一般大衆について妨害者であることを認めるからだということになる.
  • そしてこの問題はWin-Win関係(同意の効力)をどこまで認めるかより広く生じうる.例えばアルがクロエを襲い,クロエが正当防衛を行った結果,このような怪我の状況になったとしよう,我々は原因を作ったアルよりもクロエの治療を優先すべきだと感じる.しかしここにビーが現れた場合には同じようなジレンマに陥る.

 
そしてカッツはこの問題の根本には集合的意思決定の問題があると主張する.ここで「センのパラドクス」と「カプローとシャベルの不公平定理」が解説され,それはそれぞれ「権利と同意の効力は両立しない」「法の有用性と公平性は両立しない」ということを意味していることが詳しく説明される.

  • アマルティア・センは社会的意思決定は選挙のようなプロセスであると示唆する.自分がエロ本*2を読みたいが誰かがそれはいやだというとき,最終的な社会的決定は選挙のようなプロセスによって決めるほかない.センは他の誰かが反対しても自分が望むことを行えるという資格を「権利」と呼んだ.
  • ここでルードは自分が自由にエロ本を読みたいだけでなくさらに大きな熱情をもって自分以外の人がエロ本を読むことを望む人々で,プルードはエロ本など見たくないだけでなくさらに大きな熱情をもって自分以外の誰かがエロ本を読んでいることをなくしたいと望む人々だとする.
  • それぞれ自分がしたいことに権利を認めるなら,ルードにはエロ本を読む権利を与え,プルードにはエロ本が目に入らないようにする権利を与えればいい.しかしWin-Win的に考えるとルードにエロ本を禁止して,プルードにエロ本を読ませる方が両者の効用は上がることになる.だから個人の権利とWin-Win解決は両立しないことがあるというのがセンの議論になる.

 

  • しばしば「法の目的は有用性と公平性であり,立法においてはそのバランスをうまくとるのが重要だ」ということがいわれる.カプローとシャベルは有用性と公平性のバランスをうまくとる方法は公平性を全く無視する方法だけだと主張した.彼等は以下のように議論した.
  • 法の評価は様々な選択肢についての社会の構成メンバーのランキングを集計することにより行うほかない.
  • ここで個人個人が有用性だけでなく公平性も評価の対象にするならランキングの結果は不可避的に循環してしまうことが証明される.(法を社会の効用を増すものとして成立させながら)循環を避ける唯一の方法は公平性を無視して有用性のみからランキングを作ることだ.

カッツはセンの主張やカプローとシャベルの主張の是非をめぐる議論も詳しく紹介していて読みどころになっている.これらは「2つの基準があるときには,それは両立しないことがある」ということを意味している.そしてこのトリアージケースはその一例なのであり,法は個別の同意を常に優先させることができないということになるのだ.
 

第2部 なぜ法は抜け穴だらけなのか

 
最初にカッツがあげる抜け穴の例は面白い.子どもたちが何かの順番を決めるために行列をしているときに「自分の前に誰かを入れることはできるが,自分の後に誰かを入れることはできない」というルールがしばしば観察される.このルールには誰もコストなしで他人の順番を後ろ倒しにはできないという含意があるのだが,これをかいくぐるのは簡単で,「まず誰かを自分の前に入れ,その人に自分を前にしてもらう」という形を採ればいいことになる.そして実際の法律もこのような抜け穴だらけだ*3.なぜそうなっているのだろうか.そして法律家は(依頼人のために)そのような抜け穴を積極的に利用すべきだろうか.
 
カッツはスポーツなどに見られるインテンショナルファウル的な違法行為の例から議論を始めている.

  • あえて違法行為をした方が結果的に有利になるという法的な状況がある.医者が臓器移植の相手を重過失により間違えて,すぐに移植しなければ死んでしまう患者Aの代わりに何ヶ月か後でいい患者Bに移植してしまったとする.そのままAが死んだならこれは故殺罪(manslaughter)になり得る*4.間違いに気づいた医者はBから移植した臓器を摘出して(Bには元の臓器を戻して),Aに移植しなおすべきだろうか.ほとんどの人はすべきでないと答えるだろう.しかしやれば医者の責任は軽くなる.誰も死なないからせいぜい加重暴行罪に問われるだけだ*5.これも1種の法の抜け穴だ.
  • 裁判所はこのような抜け道封じのために3つのアプローチを採ってきた.形式ではなく実質,逃れようとする意思重視,文字でなく法の精神アプローチだ.
  • しかしいずれもうまくいかない.形質実質アプローチは行為者が真のねらいとは別の法形式を採っているときにしか使えない(抜け穴はそれよりはるかに多くの形態をとる).逃れようとする意思アプローチは適法に行動しようとするすべての行為に当てはまってしまう.法の精神アプローチは極端な拡張解釈を可能にしてしまうだけでなく裁判管轄を無意味化してしまう.

 
ここからそもそも法の抜け穴はなぜあるのかの議論が始まる.
 

  • 抜け穴についてのよくある説明は「立法者は将来のすべての状況を予測できないし,予測できたとして,それをどのように規定すべきかを知ることは難しい.だから法の抜け穴は塞ぎきれない」というものだ(これをカッツは「ミスマッチ理論」と呼んでいる).この視点からは法律家は抜け穴探しをすべきではないことになる.
  • しかしこの理論には反例がいくつかある.宗教的な戒律の回避方法が認められていること(利息の禁止についての例があげられている)など,立法者が予見しながら抜け穴を放置しているような例があるのだ(いくつか紹介されている).

 
カッツはここでミスマッチ理論のさらに大きな問題は意思決定問題に関連すると主張し,投票ルールの抜け穴問題を解説する.冒頭で典型的な「戦略的な行動により結論が循環する」3派閥のすくみあい状況が実在することを説明した後でこう議論する.
 

  • ボルダ,コンドルセはそれぞれ投票ルールの問題を考察し,アローは単純な前提を認めると客観的に合理的な投票システムは存在しないことを証明した.(ここはかなり詳しく解説されている.フィギアスケートの投票システムが示した驚くべき現象も紹介されていて面白い)
  • アローの定理は(一件無関係に思えるような選択肢の追加や変更などの)戦略的な行動により投票システムを操作することが可能なことを示している.このような形の法の抜け穴があるなら,それはミスマッチ理論とは何の関係もないことになる.そしてこの考え方に立てばこのような抜け穴は不可避であり,戦略的な利用を禁止すべき倫理的な理由もないことになる.

 

  • では本当にこのような形の法の抜け穴があるのだろうか.実はアローの定理は単に投票だけの問題ではなく,複数の選好基準をもつ個別メンバーのランキングを集計する形で意思決定を行う場合全般に当てはまることを示すことができる.
  • 例として悪漢に襲われた際の正当防衛の例を考えよう.選択肢が「身を守るために相手を撃ち殺す」と「そうせずに殺される」しかないなら正当防衛は認められる.しかしそこに「うまく逃げる」があればそうではなくなる.これは法が,「不均衡な重罰は認めない」と「人には自分を守る権利がある」という2つの基準を持っていることにより生じる.すると(正当防衛を盾に暴力をふるいたい人は)前もって逃げ道をなくすように仕組むことによって(悪漢に襲われやすく逃げ道のない場所に行って実際に襲われたときに相手を撃ち殺して)正当防衛を主張できることになる*6.これは論理的には投票における戦略的な行動と同じだ.(このほかの様々な法の抜け穴も二重基準の問題として解釈できることが説明されている)

 
要するにここでも法が複数の基準を満たそうとすることが抜け穴だらけになる根本にあるということになる.カッツはさらにこの問題と心理学のフレーミングの関連,インテンショナルファウル的な行動をどう捉えるべきかなども議論している.
 

第3部 なぜ法は1か0かなのか

 
冒頭でカッツは「自分はシリウス星人だとガールフレンドに信じ込ませ,保険金をかけたうえで死後にシリウスに転生して幸福になれること確信させて自殺するようにうまくいいくるめたケース」を取り上げて,これが殺人(謀殺)なのかそうでないのかという問題を提示する.これは英米法では極めて判断の難しい殺人(謀殺)かそうでないかの境界事例ということになる*7.なぜ法はある犯罪に該当するかどうかが1か0かで決まるような体系なのだろうか.半分ぐらい当てはまるなら半分有罪ではいいではないかという問題がここで議論される.
 

  • よくなされる説明は「明確なラインとともにある法の支配の有用性」だ.しかし明確なラインを引くことが必然的に離散的二値制に結びつくわけではない.社会学者ゼルバベルはそれを境界線のどちらかに決めずにはいられないヒトの本性に帰そうとしている.
  • 実際に法を連続的なものにしようとする多くの試みがあった.例えば同意の効力(自発的なものから強制や欺瞞によるものまで),盗品の善意の第三譲受人の立場(所有権を認めないとしてもなんらかの補償を認めてはどうか),デットとエクイティ(負債と資本の中間的なものを認めてはどうか)などについての提案がなされた.しかしそれは実行されていない.
  • 哲学者は脳の移植手術やテレポーテーションで脳のニューロンのすべてが移されなかった場合についてのアイデンティティの問題を議論しているが,問題の本質はよく似ている.

 
ここからカッツは法の離散性について,それはヒトの物事の判断の性質からみて受け入れるほかないと主張する.

  • 法は「死」をはっきり離散的なものとして取り扱う.しかし実際には人の死は(機能不全の進行から肉体の完全な消滅まで)連続的な現象として捉えることも可能だ.ここで完全に健康な状態から肉体の消滅までをH1からH1000までの1000段階で表現したとする.もしこれが本当に法的な価値としても連続的にとりあつかうなら,(1人のH1状態の人を1H1と表記するとして)価値命題1H1<2H2<3H3・・・・<999H999<1000H1000が成り立つことになる.しかし1H1<1000H1000という結論は馬鹿げている.私たちはどこかで生きているか死んでいるかで価値が全く異なる状態になることを認めざるを得ないのだ.
  • 同様な議論は同意の効力についても成り立つ.なんらかの脅しによって同意をしたケースを考えても,その脅しが違法なものから合法的なものになるどこかの時点で不連続的に同意の瑕疵が消えてしまうことを認めざるを得ない.(さらに緊急避難要件や堕胎の成立などのいくつかのケースが同様に分析されている)
  • これは道徳判断などのいくつかの判断においてヒトは連続的に判断しないことを意味している.要するに我々はある種の法概念について連続性か離散性かのどちらかを選ぶしかないのだ.(ヒトの本性に沿う形で)離散性を選べば我々は合理的な物事の見方を捨てざるを得なくなり,法の世界は奇妙なものになる.しかし実際の法は驚くほど離散性を選んでいるということになる.

 
引き続いてカッツはこの状況と社会的意思決定理論との関係について解説している.ここでも問題は複数基準を満たそうとする法の目的のところにあるということになる.

  • 数理経済学者のチチリンスキーはアローの定理の前提に「すべての投票者の影響力がほぼ同じである」という条件を付け加え,個別メンバーのランキングを集合的に扱うとある種の不連続性(1人のメンバーのごくわずかなランキングの変更が集団の最終決定に大きく影響することがある)が不可避であることを証明した(チチリンスキーの定理).これは異なるランキングを集合的に扱おうとする場合の問題であり,ある意味複数基準を持つ意思決定に不可避の現象ということになる.上記の例でいうと人が生きているか死んでいるかを峻別する判断基準と死を連続的なプロセスで捉える基準をスムーズに集合的に扱うことはできないのだ.

 

第4部 なぜ我々はすべての非難すべき行為を罰しようとはしないのか

 
カッツは冒頭でガリヴァー旅行記にある「忘恩は死罪」というリリパット国の話を引いている.我々は過剰に人を罰する社会を好ましく感じない.しかし逆に過小にしか罰しないのはなぜか,我々が忘恩を罰すべきではないと考えるのはなぜか*8というのは興味深い問題になる.
 

  • 刑罰の根拠の説明には功利主義からのもの,加害理論からのもの,法倫理主義からのものがある.しかしこれらはこの問題にうまく答えられない.
  • 功利主義は社会の効用を下げるものは犯罪として罰を与えるべきだと考える.すると非難すべき悪行に罰を与えない理由はないことになる.加害理論は罰は他者に害を与える行為を抑止するためにあると考える.この考え方は(功利主義と異なり)加害者のない犯罪(売春,賭博など)を認めない.しかしやはり皆が非難するような悪行を罰しない理由はないことになる.法倫理主義は法はすべての非道徳的行為を罰するべきだと考える.やはり非難すべき悪行を罰しない理由にはならない*9

 

  • 実際の刑法はしばしば抑制的で過小刑罰的だ.明確な犯罪意図があっても実行行為がなければ罰しない.重過失や無謀*10による犯罪には寛大だ.不作為による犯罪は限定的にしか認めない.「重罪でない犯罪」*11という類型を持っている.
  • 過小刑罰現象には罪を重ねた場合の刑罰ディスカウントもある.犯罪の量に対して刑罰はヴォリュームディスカウントされる.5発殴ったからといって1発の場合の5倍罰されはしないし,異なる犯罪を一度に行った場合刑期は単純に加算されない.
  • これらは刑罰の重さと我々が道徳的に感じる非難の度合いが一致しない例のように思える.

 

  • しかし見方を変えるとそう単純でもないことがわかる.
  • 無謀を軽く罰するのはおかしいように感じられるかもしれないが,注意義務を払っていたと認められる態様との差を良く吟味するとそれはそれほど離れているわけでは無い.
  • ボリュームディスカウントを論理的に説明するのは難しいかもしれないが,私たちは実際に物事が緊密に関連しているとそれを心理的に一体視しボリュームディスカウントしてしまう*12.これは感受性の限界逓減を説明するウェーバーの法則と関連している.
  • 忘恩行為は許しがたく感じるかもしれないが,ではそれに対して反撃したときにどこまでその反撃が正当化されるかを考えると,それは普通の犯罪のように認められるべきではないと感じる.

 

  • そしてここでも集合的意思決定が関連する.これは私たちの非難の基準が単一ではないことに起因しているのだ.結局過小刑罰も複数基準のランキング集計問題から生じていると考えられる.犯罪への非難には生じた害という基準と行為者の心的状態という2つの基準がある.そして無謀の過小刑罰問題は非一意性,ボリュームディスカウントは非単調性,非重罪類型はメニュー効果がそれぞれ関連していると考えることができる.

 
最後にカッツはまとめの章を置き,本書の議論を振り返る.そしてこれは投票や法律だけではなくもっと普遍的に現れる現象だとコメントし,自分の子供の頃の逸話を紹介している.カッツは子供の頃豆が大嫌いで,母親も食べさせるのをあきらめていたが,あるとき祖母と3人で食事したときに「豆を食べろ」と祖母から皿を突き出される.母親はかばおうとしたが,そこで祖母は「食べたら5ドルあげるよ」と取引を持ちかける.5ドルに目がくらんでカッツ少年は豆を食べるが,その日以降母親は許してくれなくなった.「あなたは5ドルのためなら豆を食べられるのよね,じゃあ愛のためなら食べられるでしょ」というわけだ.そしてこの話は,片脚の怪我は両脚の怪我より軽いからといって手術の順番を取り上げられたビーから見ると,アルがそれをクロエに譲るのは許せないという話と論理的な構造が似ているのだ.私たちは日常生活で常に1つ以上の基準と共に生きている.だから社会的な物事は単純には収まらないというわけだ.
 
本書は法律の理解しにくい特徴をより根本的な原因から説明しようという面白い本だ.議論が進むにつれて,その理由は同意の効力は権利と相反するものであること,法益が2種類あるときに抜け穴塞ぎが困難になること,ヒトの認知はどこか根本的に離散性を認めているものであること,ある行為を非難する理由には害と(行為者の)心理状態の2つがあることであったりするとされるが,さらにその根本には判断基準が複数ある場合の社会的意思決定の問題があるのだいうことがわかってくる.アローの不可能性定理は単に投票の問題だけでなくすべての社会的決定に該当し,そしてもちろん法も不可能性定理から逃れられないのだ.知的に啓発的な議論が詰まっている本だと思う.
 
関連書籍
 
カッツの前著.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20091110/1257860625

 
アローの不可能性定理と投票のパラドクスについてはこの本が面白かった.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20080726/1217059041
 

*1:これに関しては英米法と日本法を含む大陸法では相当異なる.英米法ではtouch and concernがあるものは対抗できるという形になっていて,ここにカッツのいう議論が当てはまる.しかし大陸法では対抗できるかどうかに関して債権と物権が峻別されて法に規定されており,これは取引の安定性のためと説明される

*2:セン自身の議論がエロ本を扱っているので,このパラドクスはエロ本の例を使って解説されるのが伝統であるようだ.

*3:離婚裁判の管轄裁判所ショッピングのための転居(有利な州で裁判を受けようとする),州による別除権規定の違いを利用した債権者からの財産追及逃れ,正当防衛を利用した暴力行使,借金を利用した贈与税逃れなどが例としてあげられている.

*4:日本法だとこれは業務上過失致死傷だが,英米法では重過失と無謀による殺人行為は故殺罪になる

*5:日本法だとこれは傷害罪であり業務上過失致死傷罪より重くなるから,カッツが説明しようとしている状況にはならないと思われる

*6:この奇妙に不自然な例は1974年の映画の「Death Wish(邦題:狼よさらば)」から採られている.そこではチンピラに妻子を殺された主人公(チャールズ・ブロンソンが演じる)が夜の街をうろついて強盗に襲われるのを待ち,強盗を撃ち殺す.

*7:カッツの書きぶりでは英米法には自殺教唆という犯罪類型がないようだ.日本法では単純に自殺教唆罪が成立すると思われる

*8:カッツはここで我々がひどく憤激するが罰すべきではないと考える悪行をいくつか挙げている.その中にはカール・マルクスの友人や娘や使用人に対する搾取的態度というのがあってちょっと面白い.

*9:カッツはこの点を基礎的自由主義を加味することにより克服しようとするムーアの議論とその問題点も紹介している.

*10:英米法独特の責任類型で違法行為の認識はあるが,激情などのために行為の結果について気にかけていない態度をいう

*11:英米法には日本法にない「重罪:felony」という概念がある.ここで指しているのは日本法の軽犯罪よりは重い犯罪類型を含んでいる

*12:「誰かに襲われたので,その場で正当防衛の結果撃ち殺す」場合と「襲われて心臓に大きな障害を負い心臓移植以外で助からない状態となり,1年後に犯人を殺してその心臓を移植させる」場合では評価が異なるという例,「銀行強盗が金庫に押し入り金を手に取ったがその場で元に戻した」場合と「金庫から金を取って銀行を出た後で金を返した」場合で評価が異なる例を挙げている