War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その54

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その15

 
ターチンは本章でここまでフランク帝国のカロリング朝時代の4つの辺境に後のヨーロッパ列強につながる強国,つまり,スペイン,イングランド,フランス,ドイツ,オーストリアが興ってきたことを説明してきた.最後に冒頭の疑問に戻っている
 

なぜヨーロッパは再統一されなかったのか その1

 

  • さて本章の始めで提示した問題に戻ろう.なぜヨーロッパはカロリング帝国の後統一されなかったのか.
  • ジャレド・ダイアモンドはこの問題に対して「銃・病原菌・鉄」において複雑な海岸線による地理的分断を理由とした.彼はこう書いている「ヨーロッパには入り組んだ海岸線があり,5つの大きな半島がある.そこには異なる言語を話す異なるエスニックグループが存在した.ギリシア,イタリア,イベリア,デンマーク,ノルウェイ/スウェーデンだ.」ダイアモンドはヨーロッパと中国を対比する.「中国の海岸線はずっと単調だ.東アジアは地理的に単一であったために世界で最も長く続く帝国期を生み出した.秦は紀元前221年に中国を統一し,統一は現在まで継続している」

 
たしかにダイアモンドは「銃・病原菌・鉄」のエピローグにおいて「なぜ近世において中国はヨーロッパに後れを取ったのか」を問題にし,その前段で,中国の統一の継続とヨーロッパが中世以降統一されなかったことを対比している.
そしてその説明の最初で5つの半島を持ち出しているのは確かだが,そのすぐ後で,ヨーロッパにおけるアルプス,ピレネー,カルパチア,スカンジナビアの山脈の存在による民族や言語の分断の継続,黄河と揚子江とその間を結ぶ運河の存在(ラインやドナウはそこまでの規模の水運はなかった)による中心地域の形成なども理由としてあげている.この引用はかなり不誠実な印象だ.

 

  • しかしこの説明が正しいはずがない.海は両側を隔てる濠として機能するだけではない.それは統合のための道としても機能する.ローマ帝国はダイアモンドが挙げた5つのうち3つの半島,さらにブリテン島,アナトリア,地中海沿岸全域,そしてヨーロッパの半分を統一した.地中海は各地方を分断させたのではなく,ローマ帝国を1つの織物に編み込んだのだ.
  • 人々はむしろ山脈によって分断される.そして中国にはヨーロッパより多くの山脈がある.これに対してヨーロッパの平原はアキテーヌからドイツ,ポーランド,ウクライナ,ロシアまでつながっているのだ.この巨大な平原に重大な障壁はない.歴史はそこが危険で不安定な地形であることを示唆している.平原に置かれた数多くの首都が敵に征服されてきた.モスクワはモンゴルに征服され,ポーランドに占領され,タタールとナポレオンに焼かれ,1941年にはもう少しでナチスに侵略されるところだった.パリはナポレオン戦争の最後にロシアに占領され,その後ドイツに2度占領された.ベルリンは7年戦争時にロシアに焼かれ,1945年にも陥落した.しかし最もそれをよく示すのはポーランドの歴史だ.それは18世紀にプロイセン,ロシア,オーストリアに分割占領され,1939年にはドイツとソ連に分割占領された.ヨーロッパの平原がシャルルマーニュ以降統一されなかったのには地形以外の理由があるはずだ.

 
ヨーロッパの平原がフランス北部からロシアまでつながっているのはたしかで,歴史的にもモンゴル,ナポレオン,ナチスなどの大軍勢が東西に侵攻を繰り返している.しかしアルプス,ピレネー,カルパチアという山脈がないわけではない.そして中国の秦漢の統一帝国領域内では,たしかに四川盆地は山脈で隔てられており,南部にはいくつかの山地が広がっているが,華北から揚子江中下流域は平原でつながっている.このターチンの議論もやや誇張されたものという気がする.
ともあれターチンの議論は「統一されるかどうかは,地形でなく,アサビーヤの有無,辺境がどういう配置になったかで決まる」というものだ.ここからその説明が始まる.

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その53

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その14

 
カロリング帝国の南東部辺境.遊牧民がハンガリー平原に何度も侵入し,それに隣接するドナウ川中流域がフランクのオーストリア辺境となる.そしてターチン理論によりそこに強国が興る.それがウィーンを首都とするハプスブルグ帝国(後のオーストリア=ハンガリー二重帝国)ということになる.
 

カロリング朝の南東部辺境 その2

 

  • 3世紀の間オーストリアはステップから来る侵略者に対するフランクの辺境だった(そこはローマ時代にはノリクムの辺境属州だった).このメタエスニック断層の3世紀はオーストリアを独自のアイデンティティを持つ団結した国家に変えた.これは現在もオーストリアがドイツとは別の国家になっている理由の1つでもある.
  • 強国としてのオーストリアの興隆はゆっくりだったが確実に進んだ.それは独立した公国の地位を1156年に得た.そして1282年に後にハプスブルグ帝国を打ち立てるハプスブルグ家の根拠地となった.ハプスブルグ家は1335年にケルンテンとカルニオラ(現在のスロベニア)を獲得し,1368年にチロルを獲得した.1438年には神聖ローマ帝国の皇帝位を得,それを1806年まで保持した.

 
東フランク王国から神聖ローマ帝国ヘの移り変わり,およびカロリング朝(〜911)→ザクセン朝(919〜1024)→ザーリアー朝(1024〜1125)→ホーエンシュタウフェン朝(1138〜1254)辺りの歴史は世界史でもあまり詳しく触れられないところだ.いずれにせよターチンによるとこの時期にオーストリアは辺境としての一体感を強めていったということになる.そしてそもそもはカール大帝に由来する神聖ローマ皇帝位はホーエンシュタウフェン朝の後大空位時代に突入し,権力の空白の中,神聖ローマ帝国内部はばらばらになる.帝位は選帝侯諸侯による複雑な権力闘争の末の妥協として1273年に(当時としては弱小勢力の1つであった)ハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝となる.しかしこの後も帝位は様々な弱小君主の間を移り変わる時代が続く.その後ハプスブルグ家は着々と実力を蓄え,1438年にアルブレヒト2世が即位した後は帝位を世襲することに成功し,それが第一次世界大戦で敗北する1918年まで続くことになる.
 

 
ターチンはこのハプスブルグ帝国の興隆を語る. 
 

  • もちろん神聖ローマ帝国は不安定な構造物だったが,それでも皇帝にはソフトパワーがあった.1526年に大きな版図拡張が生じた.オスマントルコがハンガリー軍をモハーチの戦いで打ち負かし,ハンガリーの2/3を征服した.ハプスブルグは占領されなかったハンガリーの版図であったクロアチア,ボヘミア,モラヴィア,スロヴァキア,シレジアを得たのだ(シレジアは1742年にプロイセンに奪われる)
  • ハンガリー平原にトルコが現れたことにより,オーストリアは再びメタエスニック断層に面することになった.ウィーンは辺境の要塞都市になり,1529年,1683年と2度にわたりトルコ軍に包囲された.この期間には拡張は止まり,オーストリアは低く身構えてイスラムの侵略の波をいくつもやり過ごした.そして1683年の包囲を耐えた後,オーストリアは攻勢に出た.1699年にはトルコ領だったハンガリー平原とトランシルヴァニアを征服し,領土は倍増した.これによりオーストリアはヨーロッパにおける第一級の強国となった.18世紀にはイタリア,オランダ,ポーランドの一部を獲得し,さらにトルコ領を簒奪し続けた.

 
続いてターチンはハプスブルグ帝国の弱点を語る.いかにもターチンらしくそれは団結力に関するものだと説明される.
 

  • 19世紀にはオーストリアは疑いなくヨーロッパ列強の1つだった.ただその中では最弱だっただろう.それは人口や領土面積の問題ではなく,帝国内に多くの民族を抱えて求心力が不足していたためだ.特に問題なのがハンガリーだった.2つの帝権国家を内に抱える政治組織は不安定になる.融合して1つの民族国家になるか,分裂するしかないのだ.
  • カール5世治下(1519〜58)においてハプスブルグ帝国には2つのコアがあった.カスティリアとオーストリアだ.これはうまく運営できず,カールの死後帝国は平和的に分裂した.スペインはフェリペ2世が,ドイツはフェルディナンド1世が治めることになった.
  • 1699年にハンガリーを得た時に帝国はまたも2つのコアを持つことになった.ハンガリー人はオーストリアに服することになったが,不満だった.オーストリアはハンガリー人を懐柔するためにオーストリア=ハンガリー二重帝国の形をつくり,スラブ人の領域にはスロヴァキアとクロアチアを建ててハンガリーの王権下に置いた.しかしそれでもハンガリーの支配層はかつての帝国の夢をあきらめきれず満足しなかった.
  • さらにオーストリアとハンガリーがかつてのメタエスニック断層の両側に分かれていたことも事態を悪化させた.ハンガリー人たちは帝国の共通語としてドイツ語を使うことを拒む一方でスラブ人たちにハンガリー語を強要した.
  • このオーストリアとハンガリーの間の緊張により,帝国の様々な小さな民族集団には遠心力が働いた.例えばハンガリーのスラブ系住民への扱いは,彼らの民族的アイデンティティを生み出し,そのイデオロギーはハプスブルグ帝国のすべての民族,すなわち,イタリア人,チェコ人,南スラブ人に影響を与え,帝国の団結に破滅的な結果をもたらした.終焉は帝国が過剰拡張し19世紀末にボスニアを得たことにより生じた.そこは正式には1908年に併合され,6年後にサラエボで皇太子銃撃事件が引き起こされ,第一次世界大戦が生じ,オーストリアは敗北し,帝国は分割された.

 
最後の部分は第一次世界大戦のきっかけとして非常に有名なところだ.
 

 
ここからターチンは強国としてのオーストリアを総括する.最弱とはいえ列強になれた要因として,当然ながら団結の要素を強調することになる.
 

  • たしかに1918年にハプスブルグ帝国は崩壊したが,しかしそれに至る世紀でのオーストリアの達成を軽くみるべきではない.どのような帝国も遅かれ早かれ衰退するのだ.オーストリアについて注目すべき点は彼らが人口の10%しか占めていなかったのにもかかわらずかなり長期間多民族国家を保ったことだ.
  • なぜそれが可能だったのか.1つには彼らは帝国内でより多く負担した.ドイツ人はより税を払ったのだ.2つ目に,そしてこれはより重要だが,1529年にトルコがウィーンの玄関口まで迫ったことだ.そこから3世紀の間は,オスマントルコへの抵抗こそがハプスブルグ帝国の存在意義となった.オスマントルコの圧迫は,オーストリアがアヴァールやマジャールと対した時の民族的記憶に埋め込まれていた防衛メカニズムを呼び覚ました.そしてそれは帝国内他民族の団結も促した.イスラムの脅威に直面する時,ドイツ人,チェコ人,イタリア人,ハンガリー人は同じサイドに立つ味方であることを理解していたのだ.

 
以上がカロリング帝国南東辺境の物語だ.東側ではメタエスニック断層を挟んでスラブやトルコに相対し,プロイセンとオーストリアが辺境の強国として興り,ドイツとハプスブルグ帝国というヨーロッパ列強として名を成したということになる.
 

書評 「生き物の「居場所」はどう決まるか」

 

本書は生態学者大崎直太による,生物の「ニッチ」がどのように決まるのかの学説史についての一冊.生物にはそれぞれの生息場所あるいはニッチがあり,同じようなニッチを持つ生物は互いに排除しているように見える.かつてその理由は資源をめぐる競争だと考えられてきたが,それが覆されていく歴史が語られている.
 

第1章 「種」とは何か

 
第1章では生物のニッチを語る前の整理として「種」とその名前の問題が取り上げられている.
まずアリストテレスとその「存在の大いなる連鎖」,古代ローマ時代のディオスコリデスの「薬物誌」*1,17世紀スイスのギャスパール・ボアンの「植物対象図表」(同種の植物の異名を整理し,属(1〜2語)と種(1〜数語)を表すラテン語で標記した),種(species)を造語した17世紀英国のジョン・レイ*2,属の概念を成立させた17世紀フランスのトゥルヌフォールがまず紹介される.
そこからリンネによる二名法と雄しべと雌しべに注目した植物の分類法*3,ラマルクの分類と進化論,キュビエの比較解剖学,ダーウィンの種(明確に定義できないものと扱う)と分類(共通祖先から分岐した系統を元にすべきだ)についての考え方,メンデル,モーガン,ド・フリースに至る遺伝学の流れ,集団遺伝学の勃興と進化の総合説,マイアの生物学的種概念と異所的種分化,DNAの解明,木村の中立説,ヘニッヒの分岐分類学が簡単に解説されている.
よく知られている話とそれほど知られていないと思われる話がつながって語られていて,蘊蓄を楽しそうに語る雰囲気が楽しい.
 

第2章 生き物の居場所ニッチ

 
第2章からは本題のニッチの学説史.まず最初に描かれるのはリンネからダーウィンへの流れ,そして生物の個体数の上限を決めるのは資源競争だという考えの歴史だ.

  • リンネの時代にその母国スウェーデン・バルト帝国はロシアを盟主とする北方同盟に破れ(大北方戦争),ロシアへの報復のための経済力を得ることが最大の課題になっていた.リンネはスウェーデン王立アカデミーの初代会長としてその影響を受け,自然界は神が生き物の最大幸福を図るための「神の経済」「自然の経済」があると主張した.
  • ダーウィンはこのリンネの「自然の経済」とマルサスの「人口論」に影響を受けて,居場所をめぐる競争と自然淘汰の考えに行き着いた.(有名なウォレス*4との共同発表の経緯,ベイツによる南米のチョウの擬態の発見が自然淘汰の支持証拠とされるようになった経緯が書かれている)
  • マルサスの議論を生物に当てはめれば,生物は常に資源や居場所をめぐって競争していることになる.これを数理的に表すとロジスティック方程式となる.この数理モデルを1838年に最初に示したのはフェルスフェルトだった.これは1921年にパールにより再発見される.
  • パールによるショウジョウバエの実験では,個体数は実際にロジスティック方程式が描くロジスティック曲線に従い,最終的に一定になった.しかし話はそれほど単純ではなかった.一定になるには,競争に負けた個体が死亡するだけでなく,密度が高くなると1メス当たりの産卵数が減ることという現象も要因となっていた.これはその後様々な昆虫でも発見され密度依存要因と呼ばれる.その後密度依存要因には相変異を起こすものもあることもわかってきた.

 
ここからは群集生態学とニッチ概念の学説史が語られていく.

  • 1917年,グリンネルはカリフォルニア・スラッシャー(マネシツグミ科の鳥)の3亜種の分布を調べ,生き物の居場所を定義し,ニッチと表現した.この3亜種は(餌をとるためならそこである必要はなさそうにもかかわらず)常緑低木の茂みの中にのみ生息し,3種に分布の重なりはなかった.
  • 1927年,エルトンは「動物の生態学」を著し,動物群集を独自の構造を持つシステムとして特徴づけようとした.彼は草食,肉食,さらにその中の役割を重視し,「食物連鎖*5」「生態ピラミッド」の概念を示した.
  • 1931年,ロトカとヴォルテラは,それぞれ独自に,2種の生物がロジスティック方程式に従う場合の数理的挙動を確かめた.それはロトカ-ヴォルテラ競争方程式と呼ばれる.その挙動は2種の環境収容力や競争係数の値に依存して共存したり片方が排除されたりするというものだった.排除が生じうるという結果はグリンネルやエルトンの「2種の生物が同じニッチを持つことはない」という指摘を検証するものとされた.
  • ガウゼは2種のゾウリムシを用いてこれを実験的に検証した.これは「ガウゼの競争排除則」と呼ばれる.
  • 1957年,ハッチンソンは競争がない場合のニッチを「基本ニッチ」,ある場合のニッチを「実現ニッチ」として区分した.彼は小さな池での様々なミズムシの共存条件を詳しく調べ,大きさが1.3以上異なることが共存条件になることを見つけた.1.3は「ハッチンソンの比」として知られる.

 

第3章 ニッチと種間競争

 
第3章では引き続き群集生態学史が描かれる.

  • 具体的な群集の研究は島の生物群集から始まった.(ガラパゴス諸島とダーウィンフィンチ,ラックの研究,グラント夫妻の研究が簡単に紹介されている.ラックは各島のダーウィンフィンチの形態差について当初は異所的種分化の後の浮動から説明していたが,ガウゼの競争排除則を知り,それぞれの島の環境に応じた自然淘汰によると主張を改めたと解説されている)
  • 1950年代にロバート・マッカーサーは5種のアメリカムシクイが森林の中でニッチ分割していることを見いだし,圧縮仮説を提唱し,競争緩和の条件として環境の複雑さと天敵の存在を重視した.
  • マッカーサーは1960年代にはEOウィルソンと共同研究し,「島の生物地理学理論」を提唱した.理論は島の生物種数を(島の面積と大陸からの距離をパラメータとし)大陸からの移入率と絶滅率で定まる動的平衡として説明した.彼らはまた移住定着のための理論を(種間競争を前提にした)ロトカ-ヴォルテラ競争方程式を発展させて提唱している.これによると最初の不安定な一時的生息場所を利用するのはr戦略者,安定した永続的な生息場所を利用するのはK戦略者ということになる.彼らはフロリダの島で種数平衡を実験的に検証することも行った*6
  • 彼らはこの島の生物理論は,島だけでなく周囲と異なる島的な環境に広く当てはまると指摘した.ジャレド・ダイアモンドはこれをニューギニアの高山の鳥の分布で検証した.
  • このマッカーサーとウィルソンの種数・面積関係は保全生態学において大きな議論を呼び込んだ.それは同じ合計面積の保護区を設ける場合に単一の大面積保護区の設定と複数の小面積保護区の設定のどちらがよいかという問題だった.ダイアモンドは理論を当てはめれば単一大面積保護区の方が望ましいはずだと主張し,シンバーロフは真っ向から反対した(SLOSS論争).
  • ラブジョイはブラジルで大規模な実験を行ってSLOSS論争に決着をつけようとした.実験の結果,保護区の大きさが種に与える影響はケースバイケースであることがわかった.そしてどの種を保全しようとするのかの目的に応じて保護区を設定すべきだということになった.ケースバイケースになる要因としてはエッジ効果,大きな保護区で一気に絶滅するリスクなどがある.
  • 生物群集の多様性が数多く調べられると,個体数と種数の関係には一山型の分布があるというパターンが現れてきた.ハベルは個々の生物は生態的に中立であるという前提の元で「統一中立理論」を立ててこれを説明し,実際の野外データやシミュレーションで検証した.中立理論は説明範囲が広いが,中立前提が崩れている場合があることも知られており,現在ではそのような群集内での相互作用がある場合の数理モデルも組み立てられている.

 

第4章 競争は存在しない

 
第4章ではこれまでの生物の個体数上限やニッチを種間の資源競争から捉える見方が大転換する歴史が描かれる.

  • 1960年にヘアーストーン,スミス,スロボドキンによるHSS仮説,あるいは緑の世界仮説を提唱する論文が発表された.その論文は世界は緑で満たされており,これは植物をめぐる資源競争が植食者の数の制限となっていないことを示していると主張するものだった.彼らは植食者を制限しているのは上位栄養段階の捕食者や寄生者などの天敵だと主張した.
  • この仮説は多くの研究者により検証された.1984年にはストロング,ロートン,サウスウッドが「植物を食べる昆虫」で植食性昆虫に資源競争はないと断定し,以後定説になった.植食性昆虫が植物を利用するためには乾燥,付着の困難さ,貧栄養や防御化学物質により栄養をとり出すことが難しいというハードルがあり,様々な利用のための戦略が必要になるが,それは簡単ではない.このため通常の状況では資源競争は制限要因にならないのだ.彼らはすべての大陸ですべての戦略セットが見られないことを示し,様々な資源利用戦略が進化するのが難しいことを説明した.
  • ではある地域に分布する植食性昆虫の種数はどう決まるのか.マッカーサーとウィルソンの島の生物地理学の理論を応用し,ある地域におけるある戦略で利用できる植物の量を島の大きさと考えると,短期的にはそこへの移入率と絶滅率で決まり,長期的には戦略の進化適応の可能性が影響することになる.
  • 実際の野外データを見ると軽い密度調節はあるが,資源をめぐる競争が生じるような高密度になることはほとんどないことがわかった.植食性昆虫は植物の防衛戦略と天敵によって極めて低い密度に抑えられていたのだ.(ここで様々な植物の物理的防衛,化学的防衛,それに対する昆虫の戦略の具体例が解説されている)
  • 私(大崎)は1990年ごろにアブラナ科植物がモンシロチョウの幼虫に食われた際に生成する化学物質は植物がコマユバチを誘引するためのものではないかという仮説を立てて実験してみた.私の集めたデータでは規制された幼虫の方が摂食量が多くなるために仮説は棄却せざるを得なかった.後に塩尻かおりがコナガで同じ研究をしたら寄生された幼虫の摂食量が減った.彼女は食害された植物が化学物質を放出して天敵を誘引する防衛を行っているという主張を行っている.
  • ジョン・ターボーをリーダーとする国際研究チームはベネズエラのダム湖に出現した様々な島を使って哺乳類や鳥類を含む大規模なリサーチを行った.10年以上にわたる調査の結果,イタチ,ジャガー,オウギワシのような捕食者のいる島では生態系は周囲と変わらなかったが,そのような捕食者のいない島ではハキリアリ,ホエザル,イグアナなどの食物網の中間段階の生物の密度が非常に高くなり,植性は大きなダメージを負った.これは緑の世界仮説のより広い意味での検証となった.

 
ここまでで植食性生物の個体数上限やニッチを決めているのは資源競争ではなく,植物の防御戦略や天敵であると理解されるようになった流れが説明されている.少し残念なのは,では天敵のいない頂点捕食者の場合にはどう理解されるようになったのかについてなんら言及がないことだ.基本的には餌生物の防衛や寄生者によるということになると思われるが,その辺りの説明があればわかりやすかっただろう.ここから個体数が資源競争による安定平衡で決まるという考えヘのもう1つのアンチテーゼである中規模撹乱仮説が紹介される.
 

  • 1978年コネルは「熱帯降雨林とサンゴ礁の多様性」という論文を発表し,多様性の維持には中規模の撹乱が継続的に生じることが重要だと指摘した(内容が詳しく解説されている).これは多様性を持つ生態系は,マッカーサーが想定したような安定平衡状態ではなく,非平衡状態であるという主張であり,それまでの(密度依存性と種間競争から分析する)正統的な群集生態学理論を真っ向から否定していた.それは通常状態では環境変化が速く,生物は種間競争が生じるような高密度にはならないと主張する.
  • 批判者は競争が目前にないように見えても過去にはあり,勝者が敗者を排除しているだけだと反論した.コネルはこの反論を「過去の競争の亡霊」と呼び,中規模撹乱の継続する環境での実際の群集内では異なる場所で適応進化した様々な種が集まっているのであり,競争の結果の排除は生じていないと主張した.ストロングは1984年にコネルを全面的に支持する論文を書いている.

 

第5章 天敵不在空間というニッチ

 
第5章では生物種のニッチの制限要因としての種間資源競争が否定された後の学説史が描かれる.ここではニッチの1つの例となるベイツ型擬態が(大崎の研究エリアであったこともあり)詳しく取り扱われている.

  • ではニッチはどのように決まると考えられるようになったのか.1984年にロートンとジェフリーズは「天敵不在空間と生態的群集の構造」という論文で生物のニッチは「天敵からの被害を少しでも軽減できる空間:天敵不在空間」として決まるのだと主張した.そこではそのように決まるニッチの例として,ベイツ型擬態が挙げられている.(ここでベイツ型擬態について詳しい解説がある)*7
  • チョウのベイツ型擬態において,なぜメスだけが擬態するのかは大きな謎だった.ベルトは1874年にそれを性淘汰から(メスはより厳しくオスを選り好むので,原型から離れたオスが不利になるためだと)説明した.
  • 110年後の1984年シルバーグリードはメスが原型から離れたオスを容易に受け入れることを実験的に示し,性淘汰説を否定した.*8
  • 私(大崎)は1995年からベイツ型擬態を調べ始めた.そしてモデル種と擬態種のビークマーク率から擬態のベネフィットを推定する手法を編み出し,メスの方が鳥からの捕食圧が高く,擬態による利益が大きいことを示した.擬態にも(おそらくカロチノイド色素を免疫のために使わないことによる)コストがあり,メスは擬態しても割りが合うが,オスは割りが合わないと考えるとこの現象をうまく説明できる.*9
  • 好蟻性昆虫も天敵不在空間ニッチの良い例だ(様々なアリとの共生の例が示されている).
  • 1996年にウィリアムソンとフィッターが「外来種10分の1法則」仮説を提唱した.それは持ち込まれた外来種のうちおおむね1/10が野外に逸出し,さらにそのおおむね1/10が定着し,さらにそのおおむね1/10が害獣,害虫,害草になるというものだ.この仮説は野外に侵入した外来種の9/10は定着できないことを意味している.これは天敵不在空間を見いだせないためだと解釈できる*10
  • 実際の天敵不在空間がどのようになっているのかはきちんと調べないとわからないような微妙なものであることも多い.(日本の3種のモンシロチョウのニッチがどうなっているか,それぞれが天敵にどう対処しているのか,また長距離渡りを行い,時に日本にも現れるオオモンシロチョウのニッチはどう理解できるのかについての著者自身のリサーチを含めた詳しい解説がある)

 

第6章 繁殖干渉という競争

 
第6章のテーマは繁殖干渉.種のニッチの決定要因の学説史としては,まず種間資源競争と考えられ,それが(特に植食者について)否定され,さらに後に別の形の競争が要因として浮かび上がったということになる.

  • 繁殖干渉はオスが他種のメスに配偶行為を行い,それがメスに対して不利益を及ぼす現象とされる.配偶,交尾,受精,交雑個体出生のすべての段階で不利益が生じうる.
  • 私(大崎)が最初にこれを知ったのは,桐谷の1960年ごろの研究によるアオクサカメムシとミナミアオカメムシの事例だった.桐谷は和歌山県における両種の分布を繁殖をめぐる種間関係(両種間に交尾が容易に生じ,どちらがメスでも卵が不妊になるので,多数派有利の境界が生じる)にあると考えた.当時は繁殖干渉という用語はなかった.
  • 繁殖干渉という用語を提唱したのは久野で,1990年ごろのことだ.彼はそれを数理モデルとして表し,ギフチョウとヒメギフチョウ,ウスバシロチョウとヒメウスバシロチョウの分布が重ならない理由は繁殖干渉ではないかと示唆した.私は当時それを交雑の結果不妊となる場合のみの現象として理解してしまった.
  • 1997年から私は札幌近辺のスジグロシロチョウとエゾスジグロシロチョウのニッチを決める要因に興味を持った.(複雑な状況について詳しい説明がある)より良い餌資源と思われるキレハイヌガラシの侵入(1960年ごろ)の後,エゾは産卵植物をコンロンソウからキレハに変更していた.スジグロはキレハ侵入当初はそうしていたが,10年も経つとコンロンに戻していた.私はこれは繁殖干渉によるものではないかと考えたが,実際に観察すると種間交尾はなく,(上記早とちりのために)行き詰まった.
  • 2009年ごろ西田と雑談しているうちに繁殖干渉はもっと広い状況で生じうるものであることを知った.(ここから西田グループがリサーチしたマメゾウムシ,テントウムシ,タンポポなどの様々な繁殖干渉の事例が紹介される)
  • シロチョウのオスは他種のメスにも交尾を試み,メスの交尾拒否で終わる.キレハにいるとエゾのオスからのしつこい交尾強要があるためにスジグロのメスの産卵数が減るとするなら,その繁殖干渉によりスジグロのメスはコンロンに産卵場所を変える方が有利になるだろう.そしてそれを実験で示し,2020年に論文を発表することができた.(それぞれ大変な苦労*11があったことが詳しく語られている)これは求愛段階で生じた競争排除を初めて検証したものになった.(ここで東京近辺でモンシロチョウが減り,スジグロが増えている理由についても繁殖干渉で説明できるのではないかという考察がなされている)

 

終章 たどり来し道

 
最終章では,本書の議論の要約と,日本で進化論が欧米圏のような抵抗なく受け入れられた思想的要因,今西の棲み分け理論の今日的感想*12が書かれ,最後に生物の多様性を語る時の繁殖干渉という視座の重要性が強調されている.
 
 
以上が本書の内容になる.ロジスティック曲線,ロトカ-ヴォルテラ競争方程式,ガウゼの排除則,マッカーサーの島の生物地理理論,保護区の設置をめぐる論争,緑の世界仮説,中規模撹乱仮説,ベイツ擬態,繁殖干渉などの(それぞれ別にどこかで聞いたような)様々な生態学的なトピックが,ニッチの決定要因という軸とともに語られており,読みごたえのある物語として仕上がっている.著者自身の研究やそれをめぐるエピソードが所々で詳しく取り上げられていて自叙伝の味わいもある.生態学に興味のある人にはとても楽しい上質な読み物だと思う.
 
 
  
関連書籍
 
大崎自身によるチョウのベイツ擬態の探求物語.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20090531/1243733875

 
繁殖干渉についてはこの本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2018/12/31/103323
 
スジグロシロチョウをめぐる繁殖干渉についてはこの本が詳しい.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2023/04/18/182622https://shorebird.hatenablog.com/entry/2022/06/29/102442
  

*1:ローマ時代の博物学者としてよく取り上げられるのは大プリニウスと「博物誌」だが,ここではほぼ同時代のペダニウス・ディオスコリデスが取り上げられる,これはかなり渋いチョイスという印象だ.「薬物誌」では薬物になる植物,動物,鉱物の記述がなされているそうだ

*2:有用薬物のための本草学・医学から自然の秩序を探究する博物学を独立させた学者だと評価されている

*3:この分類体系は現在では放棄され,植物すべての形質を考慮したアダンソンの体系が現在の体系のもとになっているそうだ

*4:著者は「ウォーレス」と表記している.たしかに昔はウォレスよりウォーレスと表記する方が一般的だった.

*5:実際の構造がチェインではなくネットワークなので,現在では「食物網」と呼ぶのが一般的だそうだ

*6:そこでは安定平衡になる直前に種数が最も多くなる不安定な時期が観測された.彼らはそれを「疑平衡」と呼んでいる

*7:第2章で登場したカリフォルニア・スラッシャーの常緑低木の下という居場所も天敵不在空間として解釈できることもコメントされている

*8:ここで一部のメスだけが擬態する現象が負の頻度依存淘汰から,ミュラー型擬態が正の頻度依存淘汰から説明できることが解説されている

*9:かなり詳しく語られてる.なおここではミュラー型擬態が成り立つための鳥のまずい味の学習問題.捕食される個体の犠牲を緑ひげ効果で説明可能なことの解説もなされている

*10:セイヨウミツバチがニホンミツバチのような熱殺蜂球を作れずオオスズメバチに対処できないために日本では野外定着できないことが例として挙げられている

*11:「Ecology」誌の当時の編集長は競争否定派の大御所ストロング博士であり,その影響を色濃く受けた編集者との様々なやり取りが書かれている.結局ストロング博士の壁は崩せずに論文は「American Naturalist」にやはり様々な経緯の末に掲載される

*12:理論としては破綻しているが,ナチュラリストとしての鋭い観察力が感じられるとしている.そしてしばしば最も問題視されている「種が変わるべき時に一斉に変わる」という記述については,エゾが各地で一斉にキレハに産卵場所を切り替えたような事例の表現としてわからなくもないという風な記述になっている

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その52

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その13

 
カロリング帝国の辺境.ここまで南西部辺境とスペインの興隆,北西部辺境とイギリス,フランスの興隆,北東部辺境のドイツとリトアニアの興隆をみてきた.最後に残るのは南東部辺境になる.
 

カロリング朝の南東部辺境 その1

 

  • 本章で議論した3つの辺境は,ある意味ローカルな問題だった.これらのダイナミクスはせいぜい数百キロ程度の範囲で生じた出来事に影響されていたに過ぎない.しかしラテンキリスト教世界の南東部の辺境は何千キロも離れたユーラシアの反対側の出来事に大きく影響された.そこにはモンゴルと北中国の接触面があり,世界最大規模のメタエスニック辺境となっていた.
  • このアジア内部の辺境は紀元前第1千年紀に形成され,中国の様々な王朝形成の要因となった.ステップサイドからは匈奴,突厥(トルコ),蒙古(モンゴル)が興った.

 
ここでターチンは中国とモンゴルの境目を世界最大のメタエスニック辺境としている.たしかにうねるように流れる中国史はこの辺境を抜きにしては語れないだろう.ここでターチンは言及をヨーロッパまで影響を与えた民族に限っているので,匈奴,突厥,蒙古のみを紹介しているが,中国史に大きな影響を与えた遊牧系民族としてはこれら以外に,契丹(遼を建国),女真(契丹とともに金を建国),満州(清を建国),鮮卑・拓跋(隋や唐のかなりの要素を占める)があり,その他にも多くの民族が知られている.
 

 

  • これらの遊牧国家はいずれも巨大な帝国となり,他の遊牧民を服従させたり全滅させたりした.圧迫を受けた遊牧民は戦士を集結させ,女子供や家畜とともに西に向かった.そしてその圧力を受けた遊牧民がさらに西に向かうというドミノ効果を引き起こした.この結果中国発の帝国興隆パルスが圧力波となってステップを伝わった.この波はユーラシアステップの最西端であるハンガリー平原に達した.

 
ターチンはまるでハンガリー平原が中央アジアのステップと直接つながっていてその西端であるかのように書いているが,実際には中央アジアステップが直接つながっている平原はウクライナ,ポーランドにあり,ハンガリー平原はカルパティア山脈で隔てられている.ちょっと微妙な描き振りだが,波がハンガリー平原に何度も到達したのは歴史的事実ということになる.
 

  • 最初にハンガリーに到達した波は(匈奴の末裔とも言われている)フン族によるものだった.次の波はアヴァールによるものだ.アヴァールは突厥(トルコ)の一派だと言われている.そして次にマジャールが現れた.最後の波はバトゥーによるモンゴルの襲撃だった.モンゴルは1241年にハンガリーの軍隊を壊滅させた.しかしバトゥーはモンゴルの後継者選抜に参加するためにそこを去った.
  • ハンガリーに遊牧民が達するたびに隣接するドナウ川中流域(現在のオーストリア,チロル)は恐るべき隣人を迎えることになった.これがラテンキリスト教世界の南東部辺境を形成した.カロリング期の788年,シャルルマーニュはババリアをフランク帝国に組み入れた.その当時,後にオーストリアとなる地域はアヴァール帝国の支配下にあった.そこから8年かけてフランクはアヴァールを打ち負かし,東辺境(Ostmark:後のオーストリアの語源)を置いた.そこはババリアからの植民によりほぼ完全にゲルマン化した.
  • その後100年ほどハンガリー平原は権力の空白地だった.アヴァールは瓦解したが,フランク帝国に植民を進める余裕はなかったのだ.どのみち9世紀にはカロリング朝は停滞期に入った.その地の人々はダキア,ゲルマン,フン,アヴァール,スラブの寄せ集めであり,国家として組織化されていなかった.
  • この空白にマジャール(ハンガリー)が入り込んだ.マジャールの謎の1つはその言語だ.ハンガリー語はフィン・ウゴル語族に属しており,それは北方ユーラシアのもの(フィンランド語,エストニア語などが含まれる)だからだ.一部の学者は彼らは北欧に起源を持つのではと主張しているが,おそらく,彼らはウゴル語を話す森の人々と遊牧民であるトルコの何らかの相互作用の結果形成されたのだろう.言語以外のすべての特徴は彼らがフンやトルコと同じ遊牧民の部族連合であることを強く示唆している.実際に中世ヨーロッパ人は彼らのことを単純にトルコと呼んでいる.
  • マジャールはハンガリー平原に定着した後すぐにカロリング朝の土地を襲撃し始めた.襲撃の一部はフランスまで達した.オーストリアはその襲撃の通り道となり,荒廃した.
  • 924年ザクセン朝の初代皇帝(ハインリヒ1世)はマジャールに襲撃をやめてもらう代わりに貢納することを承諾した.しかしながらザクセン朝ドイツが統合されその力が増すとともに(それにはマジャールからの圧力も要因となっていただろう),ドイツは攻撃的になっていった.955年,オットー大帝はレヒフェルトの戦いでマジャールを打ち負かした.東辺境が再設置され,ババリアからのオーストリアへの植民が再開した.同時に襲撃がうまくいかなくなったハンガリー人たちも落ち着いた.彼らは遊牧民から農耕民に転換し,キリスト教ヘの改宗にも関心を向けるようになった.最初の改宗の試みは(ハンガリー初代国王の)イシュトバーンによるものだった.しかし1046年には反動が起こった.異教の部族長たちがイシュトバーンの後継者を殺し,キリスト教徒を殺害したのだ.ハンガリーが本当にキリスト教化したのは12世紀になってからだ.
  • それでもハンガリーの改宗は重要な転換点となった.ハンガリーはラテンキリスト教世界の一部になった.ドイツとの対立感情は19世紀まで続き,時々戦っていたとしても,ハンガリーとドイツの間にメタエスニックな分断はなかったのだ.

 
ハンガリーの歴史は世界史ではあまり詳しく取り上げられないところでもあり,ターチンの語り口はいろいろと楽しい.
ハンガリー平原はしばしば遊牧民の脅威に晒された最前線ということになる.ターチン流に考えるなら,ここに強国が興ってもよさそうなものだが,パルスが2〜3百年に一度ぐらいの頻度で,来た時には壊滅してしまうので強国にはつながらなかったということだろうか.いずれにせよターチンはその隣のオーストリアに注目している.
 

War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その51

  

第7章 中世のブラックホール:カロリング辺境におけるヨーロッパ強国の勃興 その12

 
カロリング帝国の北東部にはエルベ川東岸にゲルマン(ドイツ)とスラブの間のメタエスニック辺境が出現した.ドイツはエルベ川を超えて侵攻し,さらに東への侵攻拠点としての軍事組織社会としてのブランデンブルグ・プロイセンが興隆した.この地域は近代ドイツの中核となる.ターチンは続いて辺境のスラブ側,リトアニアの興隆を語る.
 

カロリング朝の北東部辺境 その3

 

  • 改宗と植民地化の結果,13世紀の末にはデンマークからエストニアまでのバルト海沿岸はラテンキリスト教世界の一部になった.この動きにより多くのバルト海沿岸の民族は征服された.その1つは(今や征服者プロイセンの名前としてのみ残る)プロシア人だ.エストニア人やラトビア人も一旦征服され,ドイツ支配下で生き延び,20世紀になってようやく小国として復活を果たすことになる.しかしある民族だけは団結して対抗し,独自の帝国を興した.それがリトアニアだ.

 
現在,バルト民族はラトビアとリトアニアを構成する民族集団とされる.(エストニア語はバルト語族ではないので,エストニアはバルト民族とはされないようだ).12世紀ごろまで似たような境遇にあったバルト海沿岸の様々な民族のうちリトアニアだけは数百年続く大帝国を形成している.これはリトアニア大公国として知られており,現在のリトアニア地域(この領域はリトアニア民族の故郷とされているようだ)に加えて東スラブのベラルーシおよび西ウクライナ地域および現在のポーランドの東側を包摂する国家だった.ターチンはこの大公国の勃興を詳しく語る.
 

  • 1203年にリガの刀剣兄弟団(the Sword-Brothers of Riga)が後のリトアニアとなる領域に侵入した時にそこにリトアニア人というべき人々がいたわけではない.そこには戦士階級が統べる様々なバルトの農民たちの部族がいた.2世紀前にロシア人がキリスト教に改宗し,これらのバルトの異教徒たちはメタエスニック辺境に接することになった.彼らはポロツク公国からの襲撃圧力を受け,時に貢納を強いられた.キエフ大公国が12世紀に分裂した時,バルト人たちは部族単位で要塞を持ち,武装した部隊を組み,ポロツク公国を含む周囲への襲撃を始め,家畜,奴隷,銀を収奪した.彼らの人口密度は低く,深い森に囲まれて分散していたので,襲撃圧力自体がそれほど大きかったわけではない.
  • 状況はドイツ騎士団と刀剣兄弟団の組織された略奪騎士が現れて大きく変化した.13〜14世紀を通じて「プロトリトアニア人」は西と北から同時に圧力を受けたのだ.彼らは同胞部族がドイツの圧倒的な力に殺戮され,支配されるのを目の当たりにした.1240年代からはさらにモンゴルによる殺戮が加わった.彼らは抵抗するか服従するかの選択を迫られ,前者をとった.リトアニア人たちは団結し,ヨーロッパで最大の帝国の1つを作るに至った.

 
ターチンはリトアニアも辺境における襲撃からの防衛で形作られたという説明を行う.ターチンのスタンスからは当然の議論ということになるだろう.ここで物足りないのは,ではリトアニアとエストニア,ラトビアの違いは何だったのかが全く説明されていないことだ.もちろんターチンは辺境の民族すべてが強国を形成すると入っていないが,何らかのコメントはほしかったところだ.あるいはそれは単なる歴史の偶然という風に考えているのかもしれない.
 

  • 1219年にはリトアニアの王子は20人いた.しかしその40年後にはそのうちの1人であったミンダウガス(初代リトアニア大公)が全国民に従軍命令を出せるようになっていた.これが統一に向けての最初の試みだったが,ミンダウガスは1263年には義理の弟に暗殺されてしまう.
  • その後もドイツ騎士団からの圧力は継続した.14世紀の初めには次の統一に向けての試みが始まった.大公ゲディミナスの元,リトアニアはかつてのキエフ大公国(その時点ではモンゴルのキプチャクハン国(ジョチウルス)の支配下にあった)の地域に拡大を始めた.拡大は次の大公であったアルギルダスの時代にも続き,リトアニアは黒海に達した.次の大公ヨガイラはポーランドのヤドヴィガ女王と婚姻した.
  • 15世紀を通じてリトアニア=ポーランドはヨーロッパにおける最大領域国となった.1410年,ヨガイラはグリューンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を打ち負かした.1466年,ドイツ騎士団はポーランドの王冠に従うものとなり,そのメンバーの半数はポーランド人となった.このスラブ・バルトのドイツ十字軍に対する勝利は歴史の中の大きな転換点の1つだ.
  • しかしいかなる勝利も永続しない.18世紀の末には,もともとはポーランド王臣下だったプロイセンのホーエンツォレルン家の王たちは,ハプスブルグ家やロマノフ家と競い合いながらポーランドの地を削り取り始めたのだ.

 

  • 14世紀の末までリトアニアは異教信仰だった.なぜなら,それは対立する十字軍のカトリック信仰に対抗するものであり,彼らのナショナルアイデンティティの一部だったからだ.しかしながらドイツからの圧力が減じるにつれて,リトアニア人たちは異教を捨てることができることに気づいた.ヨガイラはポーランドの王権を得るための取引として,1386年に洗礼を受け入れた.当初には抵抗もあったが15世紀を通じてリトアニア人たちは徐々に改宗した.彼らはキリスト教に改宗した最後のヨーロッパ人となった.

 
ここにポーランドから西ウクライナまではリトアニア=ポーランド(さらに大公国衰退後ハプスブルグ帝国領)のもとでのカトリック,東ウクライナからロシアにかけてはロシア正教という境界が形成され,様々な文化的な影響を残すことになる.現在では境界は緩やかなグラデーションのようになっているとされるが,なお違いは残っている.ウクライナの西側の人々と東側の人々の間には親欧州か親ロシアかの心情的な違いがあるといわれるが,これはその遠因となっているとされる.これは現在のウクライナ戦争にも大きく影響しているだろう.