書評 「不倫」

 
本書はデータを元にした日本の不倫事情についての解説書だ.著者は社会学者の五十嵐彰と経済学者の迫田さやか.この2人は必ずしも不倫の専門家というわけではないが(五十嵐は移民政策について,迫田は所得格差についての研究をしてきたとある),社会学のさまざまな面から不倫について解説してくれている.不倫は進化心理学的にも興味が持たれるトピックだが,定量的なデータは(特に日本についてのもの)はあまり目にすることがなく,基礎的な情報源として読んでみたものだ.
 

第1章 不倫とは何か

 
第1章では不倫について概説される.法的な扱い,言語面からの分析,社会科学的位置づけがまとめられている.(以降の小見出しは私が適当につけているものになる)
 

法的な扱い
  • 日本の民法に「不倫」の定義はないが,民法707条には離婚理由の1つとして「不貞行為」がある.判例では「(1)性交または性交類似行為(2)同棲(3)通常人の婚姻を破綻に至らせる蓋然性のある異性との交流・接触」がそれにあたるとされる.(1)はなお夫婦関係が破綻していない時期にされることが離婚要件にあたるとされる.また風俗店で口淫や手淫を受けただけでは「不貞行為」にあたらないとする見解が有力であるようだ.なお同性の相手でも不貞行為を認めた判決が最近出ている.
  • 不貞行為をされた配偶者は,不貞行為をした配偶者とその相手に慰謝料を請求できる(相手を訴えることができるのは国際的には例外的とされている).裁判例では相手方のみ訴えるケースが多い.2015〜2019年の東京地裁のデータから見ると慰謝料の金額は30〜300万円程度で,平均162万円,最頻値は200万円だった.

 

  • 戦前には姦通罪の定めがあり,女性にのみ適用される犯罪とされていた.また民事では妻の姦通のみが離婚理由とされていた.この男女間の差別的な取り扱いの立法理由は(1)妻の姦通の方が共同生活に与える影響が大きい(2)妻の姦通の場合には夫が第3者の子を自己の嫡出子として受け入れるという悲劇が生じる(3)妻の姦通の場合には夫への愛情を失っていることが通常だが,夫の姦通の場合には一時の気の迷いから立ち直り,妻への愛情を回復することが少なくないからだとされている.立法当時(明治初期)民間で妾を持つことが蔓延していたという事情が考慮されたという指摘もある.
  • ただし姦通罪は親告罪とされており,実際に姦通罪で裁かれる女性は少なかった.大正時代には民事において夫も貞操義務を持つ(慰謝料の対象になる)という判例が現れている.
  • 戦後,姦通罪,離婚原因の性差別,相姦者の婚姻の禁止はすべて廃止された.当時国会では姦通罪存続派(男女問わず姦通罪を成立させる)と廃止派で激論があったが,最終的には社会秩序は個人の自律をもって維持すべきという議論が勝ったようだ.

 

言葉の変遷
  • 江戸時代には婚姻相手以外との性交渉は「不義密通」と呼ばれていた.その後これは「姦通」に代わり20世紀中ごろまで使われた.1957年発表の三島由紀夫の「美徳のよろめき」がベストセラーになり,女性の婚外性交渉を「よろめき」と呼ぶことが流行った.現在では婚外性交渉は「不倫」と呼ばれることが多い.
  • 現在の用法が定着するまで「不倫」は多義的に用いられてきた.これはもともとは性的関係に限定せずに「倫理・人倫」に反するもの一般を指す用語だった.また「相応しくない」という用法もあった.広辞苑に婚外性交渉の意味が追加されるのは1983年の第3版から,2008年の第6版で「特に男女の関係をいう」が加わった.用法の変化には1980年代のテレビドラマ「金妻」シリーズの影響もあると思われる.

 

社会科学的位置づけ
  • 日本では不倫は(法学や文学を除くと)長らく研究対象ではなかった.テーマが俗的として避けられていたからかもしれない.しかし国外,特にアメリカでは不倫の研究は非常に盛んで学問的意義も確立している.ここでは不倫と関連があると思われる社会学の近代家族論とロマンティック・ラブ・イデオロギー,および経済学のサーチ理論と不確実性を紹介する.

 

  • 近代家族論は,公共領域との分離,構成員相互の情緒的関係,子ども中心,性役割分離などを特徴とする「近代家族」が普遍的なものではなく,ある時期以降見られるようになったことを主張する.
  • ロマンティック・ラブ・イデオロギーは結婚と愛と性を一体化して考える.これは結婚は愛に基づくもので,結婚までは純潔を保ち,夫婦間でのみ愛情を注ぎ性交するべきだとするものだ.しかしこの価値観は揺れ動いており.現在では婚前交渉はかなり一般化している.アンソニー・ギデンズは関係について掘り下げ,コンフルエント・ラブという概念を提唱した.これによれば結婚は継続する価値がある愛情関係かどうかだけが問題になる(性的排他性は2人の取り決めに基づいて決まることになる).

 

  • 経済学では余暇時間の決定要因として不倫が注目され,実証研究が行われるようになった.不倫に対してどれだけ投資するかはさまざまな要因で決まるが,ここでは不確実性とサーチコストを取り上げる.
  • ここでいう不確実性とは,相手が性的対象と思えなくなることやもっといい人がいることに気づくなどの不確実性をいう.不倫とはこの不確実性の1つの結果ということになる.また結婚が何らかの理由で破綻し,将来の配偶相手を探すにはサーチコストがかかると考えられる.不倫はこの情報収集のサーチ過程にあると捉えることができる.

 

  • これらの社会学や経済学の理論からはさまざまな予測が生まれるが,それは実証的に検証可能だ.本書では不倫を「結婚後に配偶者以外とセックスすること(ただし風俗営業を利用するものは含まない)」と定義し,実証研究の試みを紹介していく.

 
(男女の差別的な扱いをめぐる)法的な議論には家父長制イデオロギーの影響が色濃く窺えるが,ところどころに進化心理学的な背景が伺える論点もあり,なかなか興味深い.本当に妻の不倫の方が家庭破綻に至りやすいのか,夫の不倫の方が立ち直りやすいのかは実際に調べてみると面白いかもしれない.
 

第2章  どれぐらいの人がしているのか

 
第2章からが本書の中心となる実際のデータを使った不倫状況の分析になる.まず不倫規範の状況と実際の不倫割合のデータが示される.
 

人々の不倫観
  • ISSPの国政比較調査データによると日本で不倫に対して「絶対に間違っている」「まあ間違っている」と答える人は20年以上にわたりおおむね90%という高水準にある.婚外性交渉に対する規範は一貫して高水準で共有されている.国際比較すると日本は全体平均よりやや緩いぐらいとなる.(アメリカ,タイなどの国が平均より高く,フランス,ロシアなどの国が平均より低い)

 

不倫者の割合
  • 不倫を経験した割合:日本人研究者のデータによると1982年で既婚男性21%,既婚女性4%程度,2009年で同35%,6%,2013年で同25%,14%という数字が報告されている(それぞれ全く別の調査).
  • 著者も2020年にオンライン調査を行った.結果は,「過去にしていたが今はしていない」割合が既婚男性40%,既婚女性13%,「現在行っている」割合で同7%,2%だった.(先行研究より男性でやや多くなっているが,調査タイミング,調査モードのためだと考えられる)
  • 国際比較では,(乱暴にまとめると)イギリスやドイツは日本と同程度,フランスは多く,中国は少ないようだ.アメリカでは男性20〜25%,女性15〜20%と男女の差が小さい(そして近年差がなくなりつつある)のが特徴だ.

 
ここまで読むと当然ながら,「あなたは不倫をしていますか」みたいなオンライン質問に人々が正直に答えると考えるのはナイーブではないかという疑問が生じるだろう.著者は当然そこを認識していて,そのような問題をどのように取り扱うのかが解説されている.

  • アンケート調査では質問項目に「社会的望ましさ」がからむと,より社会的に望ましいと思われている方向に回答が歪むことが知られている.これを補正するためによく行われるのがリスト実験になる.
  • リスト実験とは回答者をランダムに2群に分け,片方(実験群)には社会的望ましさ問題のある(本来知りたい)yes/no質問と複数のニュートラルなyes/no質問を提示しyesの数だけ答えてもらう,もう片方(コントロール群)には同じニュートラル質問のみを提示し,やはりyesの数だけ答えてもらう.そしてこのyesの数の平均を実験群とコントロール群で比較し,その差が本来知りたい質問へのyes回答割合を示すものと考えるものだ.
  • オンラインアンケート調査で不倫経験についてこのリスト実験と直接質問を両方行ってみた.男女ともその差は3%程度と小さく,統計的に有意ではなかった.オンラインで匿名で聞いた場合には人は不倫について割りと正直に答えるらしい.以降は直接質問の結果を額面通り解釈していくことにする.

 

性差と進化心理学

最後にこの不倫者の割合の性差と進化心理学の問題が簡単に解説されている.
 

  • 男性の方が女性より不倫経験が高いことは日本だけでなく国際的に見られる一般的な傾向だ.一部の研究者はこの現象を進化心理学的な観点から「男性は多くの女性とセックスすることで子孫を残す確率を上げることができるが,女性は生存のために必要な資源を与えてくれる男性と長く続く関係を持った方が有利だ」として説明する.
  • アメリカの社会学者クリスティン・マンチは以下のように反論している.(1)進化心理学では男性でも女性でも不倫をする人としない人がいることを説明できない(2)アメリカでは不倫割合の男女差が縮小しているので不倫が男性特有とは言えない(3)不倫割合には文化差があるが,進化心理学では説明できない.
  • 進化心理学が不倫研究に足して与えた学術的な貢献は大きいが,男性内,女性内の個人差についてはより社会的・経済的な説明が求められるだろう.

 
不倫割合については実データということでいかにも興味深い.アメリカで男女差がなくなりつつある理由にも興味が持たれる.
なお最後の部分については進化心理学についての誤解があからさまで本当に残念な部分だ.(最初の進化心理学的議論のまとめがかなり乱暴なのは置いておくとしても)進化心理学はヒトのユニバーサル性を議論するが,当たり前だが個人差や文化差ががないと主張するわけではない.一般的な傾向としての性差の上にさまざまな個人差や文化の影響があるのは当然だ.マンチの批判は全くの誤解に基づくものだし,著者の最後のまとめも(そして「進化心理学か,社会システムか」という著者による節題も)進化心理学が社会的経済的影響を否定しているかのように受け取られかねず,適切とは言いがたいだろう.
 

第3章 誰が,しているのか

 
第3章では不倫をするのはどのような人かが扱われている.ここでは第2章でも紹介されているオンラインアンケートデータを用いて機会,価値観.夫婦関係の視点から検討されている.
 

機会とコスト
  • 日本では(そして諸外国でも)多くの不倫相手は職場の同僚だ.それは長い時間職場にいて,機会が多いからだと考えられる.また収入が多いと不倫しやすい.それは相手から見た魅力とコストに関係すると考えられる.
  • 不倫のしやすさをさまざまな要因で回帰分析した.

 
<機会>

  • 女性:専業主婦かどうかは関係ない.自由になる時間が多いと不倫しやすい.
  • 男性:職場の女性割合が多いと不倫しやすい(男性はあまり選り好みしない,女性割合の高い職場の男性は高い地位にあることが多いことが影響していると考えられる).出張日数は関係ない.

 
<コスト>

  • 収入:収入が高いと男性は不倫しやすくなるが,女性は関係ない.収入と社会的評価をわけて分析すると社会的評価は男性の不倫を減少させる.これは評判コストが上がるからだと考えられる.

 
基本的に人は機会とインセンティブとコストに影響されるという印象だが,男女それぞれ微妙に異なっているのが興味深い(収入の影響の性差は進化心理学の知見と整合的だろう).男性の出張は関係ないということだが,単身赴任はどうなのかには興味が持たれる.
 

価値観
  • 不倫研究ではしばしば「性に対する寛容さ」が研究対象になる.性に対して寛容であれば不倫しやすくなるのはある意味当たり前であり,ここではそれ以外の考察対象としてシュワルツの価値観理論とパーソナリティを採り上げる.

 
<シュワルツの価値観理論>

  • ホフステードは国家間の文化差を調べ,文化のコアの要素として「権力格差」「不確実性の回避」「個人主義ー集団主義」「男らしさー女らしさ」「儒教的ダイナミズム」を挙げた.これには多くの批判があった.
  • この批判を背景にシュワルツは価値観理論を提示した.シュワルツは価値観を10の次元で説明した(普遍主義,善行,伝統,協調・調和,安全,パワー・権勢,達成,快楽主義,刺激指向,自己決定).
  • このうち不倫と関係しそうな「刺激指向」と「快楽主義」が不倫と関係するかを調べてみた.結果は刺激指向は男性の不倫とのみ関連し,快楽主義は男女とも関連しなかった.男性は不倫にスリルを感じ楽しんでいるようだ.

 
<パーソナリティ>

  • シュミットはビッグファイブと不倫の関係を調べた.結果各国で共通して協調性と誠実性の低さが不倫と関係し,神経症,開放性,外向性は関係していなかった.シュミットはこの結果を衝動的な欲求と関連付けている.
  • 他方,神経症が不倫と関連している報告もある.また開放性と外向性が高い方が不倫しやすいという報告もある.
  • 日本で調べてみたところ,男性は高い外向性が不倫と関連し,女性は高い協調性と不倫が関連していた.女性についての結果は先行研究と異なっている.協調性の高い女性は相手の誘いを断れずに不倫をはじめてしまうということがあるのかもしれない.

 
刺激指向との関連が男性のみに見られることについて著者は「男性は不倫にスリルを感じて楽しんでいる」と解釈しているが,これは不倫を誘うのが男性側の方が多いから(第4章で扱われる)ということではないだろうか.パーソナリティとの関連はなおよくわからないということだろう.
 

夫婦関係
  • 夫婦間の軋轢も不倫の要因となると考えられる.ここでは「コミットメント」と「社会経済的な関係」を考察する.

 
<コミットメント>

  • コミットメントには相手への満足,これまでの投資量*1,代替選択肢の魅力が関係すると考えられる.
  • 先行研究を見ると,満足度についてはよく調べられており,不倫の関係が一貫して見られる.
  • 子どもの有無と数は夫婦関係の重要な要素となっており,不倫と関連することが予想される.結婚年数は過去の累積投資量を増加させるが,飽きが来て満足感が下がるかもしれず,単純な予測が難しい.
  • 調べてみると,配偶者に対する満足度と不倫の関係については顕著な性差が見つかった.女性は配偶者の人格に対する満足度が低ければ不倫をしやすい.男性においては人格への満足度は不倫とは関係せず,セックスへの不満が不倫を増加させていた*2.他方子どもの数や結婚年数は不倫と関連していなかった.

 
<社会経済的な関係>

  • これについてはいくつかの理論的な可能性がある.社会交換理論(女性の外見と男性の金銭がセックスを通して交換されている)からは資源を持つ側(より若く美しい女性,金持ちの男性)が不倫しやすいと予測される.アイデンティティ理論からは,男性が自己のアイデンティティを脅かされると不倫しやすくなる(収入が下がれば不倫しやすくなる)と予測される.アメリカの研究では男女とも配偶者の収入の高さが不倫と関係していた(男性についてはアイデンティティ理論から説明できるが,女性の説明は難しい).
  • 日本で学歴差,収入差を用いて調べてみた.学歴差が大きいと不倫しやすくなるという関係は見られなかった.女性が自己の収入が夫より高ければ不倫するという関係も見られなかった.しかし男性は妻の収入の方が高いと不倫しやすくなる.この結果はアメリカの結果よりアイデンティティ理論と整合的だ.日本の方が性別役割の意識が強いからかもしれない.

 
配偶者への満足度と不倫の関係についての性差はまさに進化心理学的な知見と整合的だ.(第5章でも扱われるが)子どもの有無が不倫のしやすさや終了原因と関連しないというのは意外な結果で興味深い.
 

その他の要因
  • 調査からは以下のことがわかった.
  • 結婚前の浮気経験は男女とも不倫促進効果を持った.(結婚してまじめになるわけではない)
  • 性に関してより開放的なネットワークに埋め込まれていると浮気しやすい.
  • 年齢と学歴は不倫とは関係がない.(女性に関しては40代の方が60代70代より少ないという効果はある)
  • 男性は結婚前の交際人数が多い方が不倫しやすかった.(誘うスキルが上がるためかもしれない)

 

第4章 誰と,しているのか

 
第4章では不倫の相手に焦点が当てられる.
 

出会い
  • 出会いについて調べてみると,結婚相手との出会いより有意にインターネットアプリ経由で出会う場合が多い.
  • アプリ以外の出会いには性差がある.既婚女性の出会いは友人・知人の紹介,元交際相手,職場,趣味や習い事の場と広い.しかし町中や旅先のナンパからというのは少ない.既婚男性は職場での出会いの比率が高い.またナンパ経由の出会いもある程度ある.
  • どちらが誘ったかについての回答は,男性から誘った(44〜50%),どちらからともなく(44〜45%)で,女性から誘う場合は少ないようだ.半数近くが「どちらからともなく」と答えるのは規範意識から責任の所在を明らかにしたくないという背景があるのかも知らない.この回答傾向は不倫相手が既婚かどうかで差がない.

 

相手
  • どのような相手と不倫するかについて関連しそうなテーマには,同類婚傾向と社会交換理論がある.
  • 相手が既婚かどうか:既婚,未婚,不明の回答割合は男性で74:21:2,女性で40:56:5程度になる.女性の場合はダブル不倫が多く,男性は相手の未婚の方が多い.(同性不倫を除いて)全体の比率を計算すると,ダブル不倫48%,女性のみ既婚6%,男性のみ既婚42%,不明4%という割合になる.
  • なぜダブル不倫が多いのかについては,同類婚傾向,機会の多さ,公平性(同じ程度のリスクを持つ)から説明可能と思われる.既婚女性-未婚男性のケースが少ないのは,社会交換理論から既婚女性が自分の不利を打ち消せる資源がないからと説明できる.

 

  • 年齢差:既婚男性の不倫相手の平均年齢差は7.5歳,既婚女性は同2.8歳(いずれも女性が年下)だった.この差については男性の方が不倫しているときの平均年齢が高いことからの効果が出ているのかもしれない.この性差は再婚相手のパターンにも見られる.
  • 年齢差と男性の収入を分析すると,男性の収入が高いほど年齢差が大きい.これは男性の収入の高さと女性の若さが交換されていると解釈可能だ.

 

  • 学歴:男女とも自分と同じ程度の学歴の相手と不倫しやすい.社会交換理論より同類婚傾向からの方がうまく説明できる.なお女性は相手の学歴の方が高いという弱い傾向がある.これは結婚市場における女性の選好と類似している.
  • 就業上の地位:正規職の男性は正規職の女性と不倫しやすい.非正規,無職の男性にはあまり相手についての傾向がない.女性にはこの面での傾向はない.
  • 学歴や就業上の地位については結婚相手よりも同類好み傾向が強い.出会う機会の影響*3,社会交換の影響が結婚より弱くなり,よりストレートに好みが反映されるといった要因によるのかもしれない.

 
さまざまな結果は興味深い.著者は社会交換理論と同類好みを対立仮説として扱っているが,やや整理しきれてない感じは否めない.進化心理学的な配偶者選好として統一的に考察する*4方がわかりやすいだろう.
 

  • 性別:2019年の大阪のデータでは,同性パートナーを持った経験があるという回答が5.8%,性的に惹かれたり恋愛感情を持ったりセックスしたことがあるあるいは自分を同性愛者と自認するという回答が男性6%,女性10%となっている.
  • 日本の同性愛者対象のリサーチによると,不倫をしたことがある人の中で相手が同性だった割合は男性で1.1%,女性で2.9%だった.

 
同性愛に関するこのデータも興味深い.一般的な調査ではゲイの方がレズビアンより多いとされることが多いので,本調査との違いは注目される.特に解説されていないのが残念だ.
 

相手に求めるもの

  • 配偶者と不倫相手に求めるものはどう異なるのだろうか.
  • 満足感を比較すると,男性は,学歴,家事,自分の仕事への理解について配偶者により満足しており,見た目とセックスについて不倫相手により満足している.女性は,配偶者の方により満足している項目がなく,人格,見た目,趣味,セックスについて不倫相手により満足している.男女とも不倫相手に性的なものを求めているが,女性はそれに加えて精神的なつながりをも求めていることがわかる.

 
不倫女性の回答には配偶者に満足している項目がないというデータは面白い(進化心理学的には夫の収入や社会的地位には満足しているが,人格や感情面で不満だという回答がいかにもありそうなところだろう).
 

第5章 なぜ終わるのか,なぜ終わらないのか

 
第5章では不倫の継続期間や終了要因が扱われる.
 

期間,継続/終了の判断
  • 調査によると.不倫相手とのセックスの頻度の中央値は年12回ほどだった.また8割以上の不倫関係は1人の相手と年2回以上セックスをする継続的な関係にある.
  • 継続期間の平均期間は4年ほどで,中央値は2年程度だった.期間は相手に対する満足度と相関し,不倫相手も既婚であればより長くなる.不倫相手が未婚であれば関係性がより不安定になるからかもしれない.
  • 不倫の終了要因については,「なんとなく」という回答が31%,「家族や子どものため」が15%,性格の不一致,当事者の結婚,遠距離,飽きたなどのさまざまな要因はいずれも10%未満だった.「家族や子どものため」という回答はそこそこ多いが,子どもの有無や満足・罪悪感などの家族に関する変数と相関がなく,不倫の継続/終了判断には家族の影響はそれ程ないのかもしれない.「不倫が発覚したため」という回答は意外にも少なかった.

 
第3章でも触れたが,不倫と子どもの有無や数があまり関係しないというのは意外な結果で興味深い.不倫が発覚したためという回答が少ないのも意外だ.
 

家族関係への影響
  • 調査によると,不倫している人はより離婚したいと思っているが,その効果の大きさは配偶者への満足度に影響されない.結婚相手を代える意図のもとで不倫が行われるケースは少ないのだと思われる.これはサーチコストの議論とは相反する.
  • 多くの研究で不倫と離婚の間に関連があるとされている.片方で不倫により離婚率が上がり,もう片方で離婚の予兆が不倫率を高めている.双方向的な関係にあるといえる.
  • 不倫が離婚率に与える影響には個人差があまりなく,性別,結婚への満足度,子どもの有無なども影響を与えない.ただし妻が働いているかどうかは夫の不倫による離婚率の上昇に影響している.働いていない場合は生計をどう立てるかという面から離婚しにくいのだろう.
  • 子どもへの不倫の影響:両親の不倫を知った子どもは両親に対する信頼や愛着の度合いが低く,自分のパートナーへの信頼や愛着も低くなり,自分自身も不倫しやすくなる傾向がある.
  • 両親の不倫を知った子どもは,不倫から時間が経つにつれ親を許すようだ.許す効果への影響は親への共感,やむを得ない事情があったという認識が関わっている.
  • 欧米の研究からは平均して3.7%の子どもの実の父親が法的な父親ではないと報告されている.ただし研究によってばらつきは大きく(0.8〜30%),父親の経済水準に関わっている(法的な父親の収入が低いとこの比率が上がる)ことも明らかになっている.日本についての研究結果はない.今後リスト実験などを使った研究が望まれる.

 

発覚後の心理とその後の関係
  • オルソンによる調査では,不倫を知った後に許すまでの感情変化はジェットコースター(激しい感情の揺れ動き),モラトリアム(1人で考え,不倫を意味付ける期間),信頼形成の3ステージになるとされている.
  • 不倫について内面より状況に原因帰属する方が許しやすくなるが,それには困難が伴うようだ.

 

第6章 誰が誰を非難するのか

 
第6章では不倫に対する第三者の非難を扱う.冒頭で第3者罰についてのさまざまな視点からの総説的な説明*5,規範についての解説*6があり,その後に調査結果が解説される.
 

誰が誰を責めるのか
  • 誰が誰を責めるのかに関連しそうな理論としては,社会的アイデンティティ理論と期待違反理論がある.社会的アイデンティティ理論からは内集団メンバーをひいきして,外集団メンバーをより責めると予想される.期待違反理論からはステレオタイプに違反するような規範逸脱をより強く責めると予想される.
  • 不倫に関していえば,社会的アイデンティティ理論からは男性はより不倫女性を責め,女性はより不倫男性を責めると予想される.期待違反理論からは男女とも(より性的に貞操とされる)女性をより責めると予想される.
  • コンジョイント分析(さまざまな要因について複数の異なった組み合わせで回答してもらい,それに基づいて要因分析をする手法)の結果,男性は不倫女性と不倫男性を同じ程度非難し,女性は不倫男性をより強く非難することがわかった.これは社会的アイデンティティ理論の予想に近い.
  • 回答者の婚姻状態や学歴などは非難の程度に関連しなかった.しかし年齢には,若いほど不倫を非難するという効果があった.
  • 不倫者の配偶者との会話時間やセックスの頻度は非難と関連がなかった.結婚後ある程度の年数が経っていると非難されにくいようだ.不倫相手の属性や出会い方は関連がなかった.不倫相手の家庭環境は男性回答者のみにダブル不倫をより非難するという効果があった.不倫者の職業では,芸能人より政治家への非難が高かった.
  • まとめると不倫が非難されにくい条件をそろえるのは難しいということになるだろう.

 
誰を非難するかについての性差(特に女性が不倫男性の方をより非難すること)は興味深い.進化心理的な視点から考えると,男性も女性もライバルに配偶者を寝取られることを最も警戒し,非難しそうな気がするので意外な結果だ.既婚の不倫者への非難だけでなく,その相手方への非難もあわせて調べると面白いかもしれない.若い方が不倫をより非難することも興味深い.これは年代効果なのか,道徳規範が変容している効果なのかあたりも興味深い,
 
 
以上が本書の内容になる.不倫は社会規範に反する行いなので,そこには非常に強くヒトの本性が現れることが予想される.そういう意味から不倫は進化心理学的にはとても興味深い題材で,本書には日本の不倫状況についての生のデータが豊富に示されていて大変貴重な一冊だといえる.著者は(本書内でも断りがあるように)進化心理学的なスタンスをとらずに著述しているが,フラットな立場から記述されたという意味で中立的なデータとして捉えることができる.さらに研究が進んでデータや知見が積み重なることが期待される.

*1:コミットメントが過去の投資量と関係するというのは典型的なコンコルド誤謬(サンクコスト誤謬)だが,ヒトにはそういう認知バイアスがあるのでこの要因が効いてくるということになるだろう.ただし実際に調べられている中には子どもの数もあり,これは将来的な要因でもあると思われる

*2:著者は触れていないが,これは進化心理学的な知見と整合的だろう

*3:著者はここで職場や友人.知人からの紹介でそうなりやすいと論じているが,冒頭のどのように出会うかの結婚との違いの説明とは整合的ではないように思う

*4:男性の収入と女性の若さが交換されているというのはまさに進化心理学的な選好そのものだし,関心について同類好みがあるのも説明できるだろう.社会的地位については同類好みというよりも(望み方に性差があったとしても)互いにより高い相手を望んだ結果(市場的決定)ということかもしれない

*5:重要な機能として「社会における規範の維持」をあげ,そのような意図があるのかどうかの議論が紹介されている.予防効果的な期待,不利益者への同情,信頼されるものとしてのディスプレイなどに触れられているが,深い解説はない.

*6:規範がどう決まるかについて帰結主義と関係性論理が説明されており,なぜ人が規範を守るかについて罰による効果から説明され,罰についてフォーマルな罰とインフォーマルな罰,さらに自己制裁があることに触れられているが,なぜ罰のコストを払っても罰する人がいるのかという問題には踏み込んでおらず,やや浅い印象だ.

書評 「社会正義」はいつも正しい

 
 
本書はアメリカのアカデミアで吹き荒れる行き過ぎたポリコレ,アイデンティティ・ポリティクス,社会正義運動,キャンセルカルチャーがどのような思想的な流れの上に発生したものか,代表的な議論はどのようなものか,そしてこれに対抗するにはどうすればいいのかを語る本になる.著者たちはこれらの運動の基礎にあるのは1970年代に一世を風靡し,その後その非生産性とシニカルさから衰退していったと思われていたポストモダニズムにあるのだと喝破し,詳しく解説してくれている.著者は第2のソーカル事件(不満スタディーズ事件)の首謀者でもある数学者のジェームズ・リンゼイと評論家のヘレン・プラックローズ.原題は「Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity ― and Why This Harms Everybody」になる.
 
本書の構成は序章で問題の見取り図を提示し,第1~2章で1960年代に勃興したもともとのポストモダニズムと1980~90年代のその応用的展開を概説.第3~7章でポストコロニアル理論からファット・スタディーズまでの各種の社会正義運動の思想的解説(それぞれがどのように応用ポストモダニズムになっているか)が詳しく説明されている(この部分が本書の中心になる).第8章で2010年ごろからの応用ポストモダニズムの展開,第9章でこの新しい社会正義運動が社会にどのような影響を与えているか,第10章でそれに対抗するにはどうすればいいのかが書かれている.
 

序章

 
ここでは問題の見取り図が提示されている.

  • 西洋ではここ200年「リベラリズム」と呼ばれる政治哲学が幅広く支持され,民主主義,権力の抑制,普遍的人権,法的平等,表現の自由,多様な価値観と率直な議論の尊重,理性の尊重,政教分離,信教の自由が理想とされ,権威主義的な動きを抑制してきた.しかし現在,これが極右ポピュリストたちと極左社会改革者たちにより大きな脅威に晒されている.本書ではこの極左の問題を扱う.
  • 極左は自分たちが唯一の道徳的進歩の擁護者と見立て,リベラリズムを抑圧の一種として公然と否定する.彼等は理性と啓蒙主義ではなくポストモダニズムに同調し,客観的事実を啓蒙主義思想家の妄想だと否定する.ポストモダニズムは今や最も非寛容で最も権威主義的なイデオロギーの1つになった.
  • ポストモダニズムはもともと共産主義への幻滅から始まった知的文化的な反動であり,批判理論(critical theory:隠れたバイアスや見過ごされがちな前提を明らかにしようとするもの)の流れを汲むものだが,1980年代に社会正義活動家が採用するようになり,学術界に広まり,2020年にかけて支配的な存在になってきた.
  • 私たちは社会正義を目指す本質的にリベラルな目標がこの非リベラルなイデオロギー運動に敗北したように見えることを認めざるを得ない(本書では後者の非リベラル運動には<社会正義>とか<理論>というカギ括弧表記を用いている).
  • なぜこんなことになったのか.その理由の1つはそれが非常に特殊な世界観から生じており,その専門的な言葉遣いが人々を混乱させることだ(例えば「人種差別」は人種に根ざした偏見のことではなく,社会のあらゆる相互作用に充満している人種化した制度のことになる).それは普通の人に(実は)異様な主張に対して賛成させかねない.彼等は全く別の知的世界にいるのでコミュニケーションが難しい.彼等は権力,言語,知識,言葉遣い,それらの関係性に取り憑かれていてすべてを各種アイデンティティマーカーをめぐるゼロサム的政治闘争にしてしまう.
  • 今日では多くの人がこの問題を認識しているが,うまい対応は難しい.彼等への反対論は真の社会正義への反対論として誤解されるリスクがあることに加え,<社会正義>運動の根本価値があまりに直感に反しているからだ.
  • 本書は彼等とまともなやり取りをするために,この異星人の世界を案内し,その思想の変遷を示そうとするものだ.

 

第1章 ポストモダニズム

 
第1章ではポストモダニズムの勃興とそのオリジナルな思想が解説される.

  • 1960年代何人かのフランス人たち(フーコー,デリダ,リオタールなど)が,世界とそれが人々と持つ関係について全く新しい見方を採用した.ポストモダニズムの定義は難しいが,モダニズムと近代性の両方を否定するものと考えるのが有益だ.それは客観的な知識獲得の可能性への過激な懐疑主義として私たちの社会的文化的政治的思考に異議を申し立てた.彼等は啓蒙時代の確信についての懐疑を極端に推し進め,究極的には一種のシニシズム(冷笑主義)となってしまった.
  • 2つの世界大戦はヨーロッパの左派知識人にリベラリズムと西洋文明に対する懐疑を生みだした.彼等は人種的,文化的不平等とその権力構造への寄与に関心を持つようになり,同時にマルクス主義に幻滅するようになった.彼等の反応は広範なペシミズムの形をとり,ある主張を「真実」として正当化する科学的手法やその包括的な説明(メタナラティブ)をことさらに疑問視した.これは人類進歩の歴史すべてに対するシニシズムと見ることができる.当初のポストモダニズムは深い絶望を持つ現状の記述であり,そこに処方箋はなかった.
  • ポストモダニズムは2つの原理と4つの主題として理解できる.
  • 知の原理:客観的な知識や真実の獲得に関する急進的懐疑主義,文化構築主義への傾倒
  • 政治原理:社会は権力とヒエラルキーで形成され,何をどのように知るのかはそれによって決まる.
  • 4つの主題:境界の曖昧化,言語の権力,文化相対主義,個人と普遍性の喪失

 

第2章 応用ポストモダニズムへの展開

 
もともとのポストモダニズムはすべての客観的事実について懐疑主義をとった.そのようなスタンスからは懐疑以外のどのような主張もできないはずであり実際に衰退していったが,その後それは驚くべき変容を遂げる.ここではその変容が解説される.

  • ポストモダニズムは西洋近代に属するすべての知識と知識獲得方法を批判し,「脱構築」した.このすべてを焼き尽くすような脱構築は1980年代には燃え尽きた.しかし1990年代に高度に政治性を持つ実践可能な<理論>が派生的に生じた.ここではそれを応用ポストモダニズムと呼ぶ.それはポストコロニアリズム,クィア<理論>,批判的人種<理論>(critical race theory)などのいくつかの<理論群>ヘと変異し,社会的不公正を脱構築するために活用された.それはおおまかに「<社会正義>研究」と呼ばれるようになり,急速に拡大し,新しい学術分野をもたらし,その後大きな影響力を持つようになった.それは急速に進化する一種のウイルスとみなすことができる*1
  • <理論>は,客観的事実は知りえず,「事実」は言語と言語ゲームを通じて社会的に構築され,知識は特権階級のためにあると想定する.そして<理論>は言説を批判的に検討すること(言説を思いっきり深読みして検討し,そこに焼き込まれているはずの権力力学を暴き転覆させること)を目指す.
  • この新<理論家>たちは,アクティビズムは極端な懐疑主義と相いれないことに気づいた(何かを実践するには何かが現実でなければならない).そして先行者たちの特権性(白人,男性,金持ち,西洋人・・・)を批判し,一部のアイデンティティはほかより特権的でこの不正は客観的事実だとした.そして社会的不公正の原因が悪い言説の正当化にあるなら,それを不当なものとして良いものに置き換えれば社会正義が達成できると主張した.彼等は学術集団ではなく左翼道徳集団となったのだ.
  • 彼等は「権力と特権は狡猾に人を堕落させ,自らを永続化させるように機能する」ということを客観的事実とみなしたが,一方で初期ポストモダン<理論家>たちからの引用は続けた.ポストモダニズムは<社会正義>研究の基盤となったが,片方で<理論>は内面化され,多くの研究者はそれを自覚できなくなっている.
  • 彼等の認める客観的現実は「我抑圧を経験せり,故に我と支配と抑圧は存在する」という哲学的基盤にあるといえる.この基盤から,ポストコロニアル研究,ジェンダー・スタディーズ,批判的人種<理論>などの多くの小さな学術分野が現れた.彼等は人種やジェンダーは社会的構築物であると主張し,交差性を重視し,アイデンティティ・ポリティクスを用いて差別の問題に取り組もうとした.
  • 応用ポストモダニズムにおいても2つの原理は中核に残っている.(1)知の原理:急進的懐疑主義と文化構築主義は維持されているが,アイデンティティとそれに基づく抑圧は客観的事実の特徴として扱われるという留保条件がついた.(2)政治原理も維持され,アイデンティティ・ポリティクス支持の核心となった.
  • 4つの主題もなお温存されている:(1)境界の曖昧性はポストコロニアル<理論>とクィア<理論>で明確だ.(2)言語の権力はすべての応用ポストモダン<理論>の最前面にあり,表現上の暴力,セーフスペース,マイクロアグレション,トリガー警告などの基盤になっている.(3)交差性の重視と西洋こそが抑圧権力という理解から,文化相対主義は当然とされるものになった.(4)個人と普遍性の価値は大幅に低下し,アイデンティティ・ポリティクスへの強烈な注目がある.
  • <理論>が目標追求型になるにつれ,言説を異様につつき回し,アイデンティティに関する厳格な規則(ポリコレ)を作り出す動きが1990年代以降加速した.アイデンティティ・ポリティクスの攻撃性は高まり,学者は女性やマイノリティの著作を優先的に参照すべきだと主張するようになった.これらの<理論>とポストモダニズム的認識論が組み合わさり「<社会正義>研究」と呼ばれるものができ上がった.
  • 学術研究はアクティビズムに乗っ取られ,今や教育は政治行為と見なされ,容認される政治はアイデンティティ・ポリティクスだけという状況になった.

 

第3~7章

 
第3章から第7章は,応用ポストモダニズムの社会<正義>研究の各分野がどれほど異様で奇矯な主張を行っているかの個別解説になっている.扱われる分野はポストコロニアル<理論>,クィア<理論>,批判的人種<理論>(および交差性),フェミニズム,ジェンダー・スタディーズ,障害学,ファット・スタディーズになる.それぞれどのような主張か,それがどのようにポストモダニズムの2つの原理と4つの主題を扱っているかが詳しく解説されている.これらをすべて紹介するのは私の手に余るので,進化心理学批判の急先鋒の1つであるフェミニズムおよびジェンダー・スタディーズと,私から見て最も異様な<理論>だと思われるファット・スタディーズの解説だけ紹介しておこう.
 

フェミニズムとジェンダー・スタディーズ

  

  • フェミニズムとアクティビズムは昔からずっとイデオロギー的で理論的だった.彼女たちは多くの党派に分かれ,その中の支配的なイデオロギーは党派間の壮絶な内紛を伴いながら大きく変容した.ここでは単純化した4潮流(リベラルフェミニズム,ラディカルフェミニズム,唯物論的フェミニズム,交差性フェミニズム)だけを取り扱う.21世紀にはこのうち交差性アプローチが圧倒的に優勢になっている.
  • 1960年代のフェミニスト運動第2波の時期にはリベラル,唯物論,ラディカルが主流の学派だった.リベラルは漸進的な考えでリベラルな社会のすべての権利と自由を女性に広げようとした.これは現場では人気があり,社会,特に職場の状況を一変させることに成功した.
  • 唯物論とラディカルは学術研究で支配的だった.唯物論フェミニストは家父長制と資本主義による女性の束縛に関心を持った.ラディカルフェミニストは家父長制を前面に置き,女性を被抑圧階級と捉えた.

 

  • 状況は1980年代に変化し始めた.応用ポストモダニズムの<理論家>たちが批判的人種<理論>の見方と交差性*2の概念を通じてポストモダニズムをフェミニズムに取り入れた.このフェミニズム運動第3波は,階級問題を無視し,アイデンティティに着目した.交差性フェミニストは,ジェンダーが文化的に構築されたものだと主張し,女性に共通の体験があることを否定し,女性であることの意味を複雑化させた.
  • 2000年代初めにはフェミニズムの交差性転回は否定しがたいものになった.焦点は法,経済,政治から言説の抑圧性に変わった.交差性フェミニストはジェンダーは生物学的性ではなく社会的構築物だとし,その構築物の中に権力を読み取った.知識は「位置づけられて」おり,つまりそれぞれの交差的アイデンティティ集団の帰属で生じ,客観的事実は獲得不能になる.そして知と権力が言説に結びつき,抑圧と支配を維持正当化するものになる.
  • 交差性は活動家たちに新たな問題と新たな批判を大量に提供した.例えばブラックフェミニストは(白人女性により進められた)フェミニズムが白人特権の悪しき影響により「白く」なったと非難し,クィアフェミニストはフェミニズムがレズビアンを排除すると非難した.彼女たちは<理論>をこねまわし罪悪感を引きだす手法を発見したのだ.これはジェンダー・スタディーズに引き継がれていく.彼女たちは「男性」「女性」は現実の実在物ではなく,言説や行為による構築物や表象だと主張した.そして交差性を<社会権力と社会的不公正の大統一理論>として採用した.

 

  • フェミニズムは,初期には法的に強制された役割と制限,ジェンダーロール遵守の性差別的期待を問題にしていたが,応用ポストモダニズム転回後はもっと繊細で相互作用的な,学習され,遂行され,内在化され,永続化された期待を問題にするようになった.交差性は<理論>をより曖昧で反証不可能なものへ焼き直した.
  • ジェンダー・スタディーズは「ジェンダー化する」ことはすべて抑圧と捉える.ジェンダー化は社会的なプロセスだが5歳時点で十分に進行していると彼女たちは主張する.それは学習され再生されて現実になる.さらにそれは人種,階級などとの交差性を取り込み,立場性は肥大し,ややこしくなっていった.
  • リベラルフェミニストはポストモダンフェミニストに圧倒されてしまった.法や社会的要請を普遍的にしようとする彼女たちの試みは,応用ポストモダニストたちからアイデンティティをないがしろにするものだと怒りの反論を浴びた.リベラルフェミニストは平等を求めたが,交差性フェミニストはそれを周縁化された集団に対し白人男性至上主義的なやり方に従えとするものだと批判する.応用ポストモダン<理論>のすべてで,リベラリズムへの反対は中心的な信条となっている.
  • 交差性フェミニストは(個人間ではなく集団間の)「相互の尊重」と「差異肯定」を求める.彼女たちは個人主義や女性の個人的選択を中核にするアプローチをすべて許さない.結果として交差性アプローチはそれぞれの集団に特定の価値観を割り振り,それが権威あるかどうかを決めつけ,集団内の多様性を無視する.このためそれは矛盾だらけのものになってしまっている.
  • そして高度化する新<理論>に従えば,結局「あらゆるものが何らかの形で問題であり,それはアイデンティティに基づく権力力学のせいだ」ということになる.<理論>に従うなら,<白人>フェミニストは,有色女性の体験を包摂し(しかし盗用してはいけない),それらが聞かれる場を提供しその声を広めなければならないが,その抑圧を収奪したりのぞき魔的な消費者になってはいけないという狭い道を通らなければならない.このような無理難題の矛盾した身動きとれない要求が<理論>の一貫した特徴であり,<社会正義>研究を蝕み続けている.
  • この交差性アプローチの副作用の1つは女性が直面する問題において最も重要な変数である経済的階級を無視することだ.<理論>は「階級」に代えて「特権」という概念をもてあそぶ.ある人の特権的地位は<理論>により交差的に評価される.差別や権利剥奪がないことが不公正であり特権だとするのだ.これは全く話をひっくり返そうとする試みだ.彼女たちは「ストレートでシスジェンダーの白人男性」こそが問題だと声高に叫ぶ.これは労働階級の有権者(特に貧しい白人男性)をポピュリスト右翼に追い込む.
  • ジェンダー・スタディーズでは「男性と男らしさ」に対する批判的研究が一分野になっている.これは「覇権的男性性」そして「有毒な男らしさ」という概念を生んだ.いまや彼女たちは「伝統的な男らしさ」を精神疾患として扱うべきだと主張する.

 

  • まとめると,交差性フェミニズムは「ジェンダーは社会的な構築物で,権力構築にとって重要であり,ジェンダー化された権力構造は男性を特権化し,ジェンダーは他のアイデンティティと組み合わさっておりそれを認識しなければならない」と考えている.
  • そして交差性転回以降のジェンダー・スタディーズは大きな問題を抱えている.ジェンダー不均衡があらゆる相互関係の根底にあり常に男性に好都合だという想定のために,男性にとっての不都合な状況があることを認めることができない.また心理的特徴,関心,行動の性差についての生物学的な説明は一切受け入れられない.このために厳密な学術研究を行うことが困難になっているのだ.
  • すべてのジェンダー分析を交差的にして(経済でなく)アイデンティティに根ざした特権に執拗に注目する態度は極度に混乱した<理論>的抽象的な分析を生み出す.しかし結局「異性愛の白人男性は不当な特権を持つから悔い改めろ」という過度に単純化された主張以外の結論に至るのは実質的に不可能になっている.立場の重要性への注目により,学者たちは自分が研究する範囲を極度に制約される.その結果この分野の学術論文の大きな割合は「パフォーマティブに自分たちの立場性を認知してみせ,自分自身の研究をも問題化する」ことに終始している.<理論>の枠組み自体が有益な学術研究の妨げになっているのだ.

 

ファット・スタディーズ

 

  • ファット・スタディーズはもともと1960年代のアメリカでファット・アクティビズムとして始まった.その後いろいろな形をとったがが,ごく最近になって,クィア<理論>とフェミニズムを援用したアイデンティティ・スタディーズの一派として確立された.
  • この分野は肥満についての否定的な認知を人種差別などと同等なものとして扱い,科学(医学)をはっきり拒絶する.彼等は肥満者が医療支援を拒否して肥満に肯定的な「知識」を受け入れる力を与えようとする.彼等は自分たちへの批判は社会にある「ファットフォビア」のせいだと主張し,肥満が危険で治療可能だとする研究すべてをファットフォビアだとして否定する.
  • ファット・スタディーズは急速に発展し,全面的に交差的になり,「体重/サイズ抑圧を解体するためのはあらゆる抑圧の交差性に取り組まなければならない」と主張するようになった(典型的な言説として「肥満言説は全体主義的だ.というのはつまり,それはデブについての唯一の権威として己を提示し,ほかの何者も考慮に値しないとするという意味だ」「ファット憎悪文化の中に暮らす者はすべて,どうしても反ファット信念や想定,ステレオタイプを吸収し,したがってどうしても体重に基づく権力配置との関連である立場を占めるようになる.どんな人物であれ,そうした訓練から完全に自由になれるはずもないし,その権力グリッドから完全に身をふりほどけるはずもない」という言説が紹介されている).
  • 彼等はしばしば「ファット憎悪は資本主義によって後押しされる,こうした企業は太った人を痩せさせるためだけの製品を作りだすから」などと主張する.これが被害妄想に聞こえるのは,それがまさに被害妄想のおとぎ話だからだ.生物学と栄養学はフーコー的「生権力」の一形態だとされ,肥満医療は抑圧的で規律的ナラティブを人々に押し付けるものとされ,健康の価値を強調するのは,健康優位主義と呼ばれる問題あるイデオロギーだとされる.
  • 彼等は栄養学や医学を否定し,「実践指向的文化」を編み出すために詩を用い,肥満への食餌療法的態度が科学を正当化するのに貢献することを考え直すように促す.これは誰かを一時的な優越感に浸らせる以外に誰にとっても有益ではないだろう.

 

  • ファット・スタディーズは,アイデンティティ・スタディーズの中でも,最もわけのわからないイデオロギーまみれの学術研究アクティビズムとなってしまっている.批判的人種<理論>からフェミニスト<理論>を経てクィア<理論>を右往左往しつつ,障害学から拝借した反資本主義レトリックや思想を組み込んでいる.彼等は肥満を人種,性別,セクシャリティと同じような不変の特性に見立てて,その偏見に取り組むアクティビズムの形をとろうとしているが,肥満は食べ過ぎの結果だという証拠があるためにこの試みの説得力は低い.そして何よりこうしたファット・アクティビズムは医学的なコンセンサスを無視しており,人々の健康に対して危険だ.それなのにファット・スタディーズは<社会正義>研究分野の中に居場所を見つけてしまっているのだ.

 

第8章 社会正義研究と思想

 
第8章では2010年以降の新しい展開が解説されている.

  • 「物象化(reified)」は「本当のものにされる」という意味であり,2010年ごろ始まったポストモダンの第3フェーズの中で形作られていった.
  • 第3~7章で見た応用ポストモダニズムの各思想は,2010年以降統合された交差性<社会正義>研究およびアクティビズムの中で完全に具体化され,(学術分野や活動を越えて)知識,権力,社会の事実としての記述だと称して,世間の意識にも根付き始めた.
  • <社会正義>研究系の学者や活動家は「世界がアイデンティティに基づく権力のシステムで構築されており,そのシステムが言説を通じて知を構築する」という信念を客観的な事実だと信じている.これは当初のポストモダニズムの急進的な懐疑論が変容して,完全な確信を生み出したということだ.彼等は家父長制,白人至上主義,帝国主義,シスノーマティビティ,ヘテロノーマティビティ,健常主義,ファットフォビアが普遍的に存在し,言説に潜在していると信じている(ポストモダンの知の原理の物象化).そしてあらゆる白人は人種差別主義者で,あらゆる男は性差別主義者で,人種差別と性差別はそうした意図を持つ人が1人もいなくても存在し抑圧でき,言語は文字通りの暴力で,すべてが脱植民地化されるべきだと断言する(ポストモダンの政治原理の物象化).彼等は普遍的な原理や個人の知的多様性を全く顧みない.主張は単純になり,断言されるようになった.
  • これはポストモダニズムの第3段階,物象ポストモダニズムと呼ぶことができる.第1段階で急進的懐疑と絶望,第2段階で絶望からの回復と実践の試みをみせたポストモダニズムは第3段階で確信と活動家としての熱意を完全に回復したのだ.彼等の主張は信仰教義となった.

 

  • 彼等の主張する細分化された交差性アイデンティティには驚くべきことに経済的階級についての言及が欠落している.マルクス主義者たちは,(正当にも)アイデンティティ・ポリティクス系の活動が極めてブルジョワ的な問題にばかり取り組んでいると指摘している.

 

  • <社会正義>研究はアイデンティティとアイデンティティ・ポリティクスに深く肩入れしている.その結果彼等は知の方法として理性と証拠を打ちだすものすべてに突っかかり,代わりに「認識的正義」「研究正義」に頼れ(つまりマイノリティの体験,気持ち,文化を知識と考え,理性と証拠より優先せよ)と要求する.彼等は「研究正義」に従い,ポストモダン創建者たち(つまり白人男性たち)の貢献を黙殺するようになり,彼等自身の思想の由来を遡ることが難しくなっている.交差的に正しい唯一の研究方法は黒人フェミニスト<理論家>の著作を参照することだけというわけだ.
  • また彼等は知識や知識生産を<理論的>に導出された正義と不公正の概念につなぐことにこだわり,「認識的不公正」「認識的抑圧」「認識的暴力」「認識的収奪」「解釈的死」などの概念をもてあそぶようになった.
  • また彼等は科学や理性に強い不信感を抱き,それらを公然と攻撃する.そして「他の知のあり方(深い体験を<理論的>に解釈したもの)」に肩入れする.このアプローチは,(そもそも信頼性の低い)経験知を解釈によって歪ませるもので,恐ろしく尊大で潜在的に危険だ.
  • さらに彼等は抑圧された人々は支配的立場と抑圧される体験の両方を理解するから,一種の二重視野を持ち,より権威ある十全な世界像を得られると主張する(立場理論).

 

  • <社会正義>研究で最も恐ろしいのは,彼等の想定が物象化されてしまったので異論がほぼ容認されないということだ.異論はよくてもその分野に正しく取り組めていない証拠,悪くするとその主張者が非道徳的であることの証拠と受け取られる.彼等は自分たちの原理を批判的に検討することを拒絶し,そういう試みが不道徳的で不誠実でそれこそが自分たちの主張の正しさを証明していると主張する(いくつかの具体例が紹介されている).彼等は異論は一切容認せず,皆が同意するか,さもなければ「キャンセル」されろと主張するのだ.
  • <社会正義>研究家が現実に行っているのは,周縁化された人々の体験の中で<理論>に都合の良いものをチェリーピックして,それを「正統」とし,その他のものを支配的イデオロギーの残念な内面化や利己性の発露としてごまかすということだ.そして<社会正義理論>は完全に無謬で反論不能になる.それは実質的に終末論カルトとあまり違わない存在になっているのだ.

 

第9章 行動する社会主義

 
第9章ではこの<社会正義>研究がアカデミアの外の社会に与える悪影響が解説される.

  • <理論>は学術界の外の文化にも深い影響を与えている.
  • それは<社会正義>研究が学生たちに教えられ,学生たちが社会に出るということから生じる.アメリカのほとんどの大学は一般教養課程で「多様性」を全員に教える.そして学生たちは信念を社会に持ち込む.
  • 実際に何十億ドルもの価値を持つ<社会正義>産業が生まれつつある.多くの企業や機関には組織文化を<社会正義>イデオロギーに変えようとする「多様性・平等性・包摂性担当」という新しい仕事が生まれている.「担当者」はしばしば高給で,組織内で権力を持つ.
  • 大学には「偏向対応チーム」が存在するとされ,キャンパスから上がってくる偏向の報告に対応している.この偏向検出の感度は高く,多くの教員や学生は(不名誉を避けるべく)自己検閲を強いられる.さらに一部の見方を黙らせようとする公然たる試みも行われている.活動家が気に入らない学術思想に対する強烈な糾弾,論文取り消し要求,解雇要求が生じ,それが受け入れられる.これは実質的な検閲として機能している.
  • こうした問題は人文学において顕著だが,STEM分野でさえ影響を受ける.「工学教育において最も本質的に必要な変化は,真実が客観的で絶対的なものだという見方を克服することである」とか「数学は本質的に性差別的で人種差別的だ」などと主張される.
  • <社会正義>のためのアクティビズムはさまざまな形をとる.ハイテク,放送,小売りなどの大企業はアクティビズムの要求にしばしば屈する.大企業はますます製品についての弁解を迫られるようになっている.これらは収益にあまり大きな影響を与えないものについてはクレーマーに従うという広報戦略として理解可能だし,同じことは大学当局についても当てはまるのだろう.
  • 気に入らない発言を(しばしば意図せずに)行った有名人を処罰せよという「キャンセルカルチャー」は猛威を振るっている.セレブ,アーティスト,スポーツ選手は何十年も前の発言やティーンの時の発言のためにキャリアや評判を完全に破壊されることがある.
  • <社会正義>が言語と思想を検閲するやり方は芸術にも影響する.芸術は一方では「マイノリティ集団を代表していない」と非難され,もう一方で「文化的盗用」だと非難される.これらは相互に矛盾し,明らかに芸術創造を阻害する.フェミニストは映画の男女のセリフの単語数を数え,女性キャラクターの役割にけちをつける.これは製作コストを上昇させ,女性キャラクターの幅を狭め,映画をつまらなくさせるだけだ.
  • <社会正義>が医療に与える影響は深刻だ.障害学アプローチは基本的に医療を否定するように働く.それは自閉症アクティビズムにも精神健康アクティビズムにもファットアクティビズムにも見られる.そして<社会正義>ルールは自閉症者にはことさら遵守が難しい.
  • アメリカ社会は,名誉の文化から尊厳の文化に移り変わってきたが,今や被害者文化が台頭してきている.この新しい被害者文化は名誉の文化と同じような侮辱に対する敏感さを持ち,それに対して弱さをひけらかす.

 
ここから著者たちによる<社会正義>研究に対する評価がまとめられる.当然ながら非常に辛辣だ.
 

  • <社会正義>研究は人種差別,性差別などの言説に注目して大騒ぎするが,それが興隆したのは,まさにそうした態度や言説が激減した時期だった.1980年代にリベラリズム(公民権運動,リベラルフェミニズム,ゲイプライドなど)のお陰で急速に人種,ジェンダー.LGBTの平等性が法および政治面で進んだ.そしてもはや取り組み対象として残っていたのは差別的言説だけだった.ポストモダニストたちは権力の言説に注目していたのでそれに飛びついた.しかし差別は減少を続けたので,差別的言説を検出するには状況やテキストの深読みとややこしい<理論>が必要になった.<社会正義>研究に見られるこじつけめいた<理論>分析は社会的不公正減少の直接的な反映なのだ.

 

  • <社会正義>研究はダメな理論の典型例だ.ポストモダニズムは前近代的信仰,近代に属する大理論のすべて,そして共産主義を拒絶した.それは進歩の可能性自体を疑問視した.それは<社会正義>研究に進化し,偏見,抑圧,周縁化,不公正の根底を見極めて世界を癒やそうとする試みになった.それは一見見た目はよさげだが,しかし実践したら失敗し,その過程ですさまじい被害を引き起こす代物だ.それが失敗するのは現実に対応せず,公正と互恵性についての人間性の直感に反し,理想論のメタナラティブに過ぎないからだ.
  • ポストモダニストが失敗するのはメタナラティブが有効で適応性のある仕組みになれると勘違いしているからだ.宗教やイデオロギーはメタナラティブだが,リベラリズムと科学は違う.リベラリズムと科学は自己懐疑的になるように設計されている仕組みだ.それは実証を優先し,自己修正が可能なのだ.

 

第10章 社会正義イデオロギーに代わるもの

 
最終章ではどうすべきなのかが説かれる.

  • ポストモダン<理論>とリベラリズムは真っ向から衝突する.リベラリズムは客観的現実,客観的知識を認め適切な分類や明晰な理解を受け入れ,個人と普遍的な価値を認める.<理論>は知識は全くの人工物(地位や権力を維持するために語っているおとぎ話)だと考え,境界を曖昧にして分類を消し去り,でっち上げた曖昧さに大喜びし,個人や普遍的価値を否定してアイデンティティ・ポリティクスを支持し,被害者意識に注目する.そして何よりリベラリズムは批判を受け入れ自己修正的だが,<理論>は批判を受け入れない.
  • リベラリズムは自己批判を受け入れ自己修正的だが,それは<理論>に利用されてリベラリズム潰しに使われてしまうことにもつながる.しかし言論の自由と公開の議論こそが仕組みの有効性を担保するのだ.本来言論の自由は<理論>にとっても有益なはずだが,彼等は自分たちの正しさについての理性的な信頼ではなく単なる主観的な確信の気分だけを求めているのでそうは考えない.
  • リベラリズムが成功してきたのは,それが本質的に目標指向で,問題解決型で,自己修正的で,本当に進歩的だからだ.ポストモダニストは進歩を信じない.それは懐疑論を歪めてシニシズムにしてしまった.
  • 知識の生成にリベラルや科学のアプローチを拒否すれば,非リベラルなやり方しか残らず,原理主義的になる.これがポストモダン政治原理の本質だ.それは見解の相違を解決する客観的な手段をなくしてしまう.

 

  • 私たちは「真理」カルトを作るよりもっとましなことができるはずだ.それはポストモダニズムの2原理と4主題をすべて捨て去り普遍的リベラリズムを採用することだ.
  • ポストモダンの知の原理の正体を見極めて拒絶しよう.それはただの言葉遊びなのだ.科学が機能する証拠は歴然で,それは信頼に値する.当たり前だが,科学は人種差別的でも,性差別的でも,帝国主義的でもない.ポストモダニズムの懐疑論にも一理はあるが,誰にも「黙って一方的に聞け」とか「認識論的な厳密さを捨てろ」という要求に従う義務はない.
  • ポストモダンの政治原理は,世界をゼロサムの権力ゲームとみなし,すべてを陰謀論の枠組みで捉えるものだ.こんなものには消えてもらわねばならない.反論しよう.反対しよう.
  • 境界の曖昧化は,分類の改善手法なしに分類原理を信用しないだけで,根本的に役立たずだ(統計学を理解すれば分類をなくせという主張がどれほど見当外れかわかる).カテゴリーや分類自体が抑圧的だという主張は正当化できない.
  • 言説を制限し,使える用語を強制することが社会的正義を実現する最もよい方法だという発想は,歴史的にも証拠の面からも理性からも支持できない.
  • 文化相対主義に真実があるとすれば文化によりやり方に違いがあるということだけだ.それを学んで共有するのは面白いが,知識生産は個別の文化を超越するものだ.誰もがまず人間であり,そこには普遍的な人間性があり,私たちの真実のほとんどは人間としての真実だ.自分自身の文化以外の慣行について一切判断を下せないとするのは馬鹿げているだけでなく危険だ.ある特定文化や下位文化のマイノリティだけが自分の集団への抑圧を批判できるという主張は共感の面でも倫理的な一貫性の面でも破綻している
  • 個人主義と普遍主義だけでは人間体験をすべて表現できないという指摘には一理ある.その視点だけでは一部アイデンティティ集団への抑圧を見逃すかもしれない.しかしそのために他のすべてを排除すべきではない.<社会正義>アプローチは,人々はまず個人であり共通の人間性を持つという単純な理由により,確実に失敗する.アイデンティティ・ポリティクスは集団間の共感を難しくし,部族主義と復讐心を煽りかねない.社会を改善しようとする試みにおいては人間性の理解が不可欠だ.

 

  • <理論>は人間性,科学,リベラリズムを否定するために,しばしば問題を悪化させる.人種分類に重要性を与えて人種主義を煽る,東洋と西洋を真逆と描くことでオリエンタリズムそのものを永続化させる.
  • アイデンティティ・ポリティクスの最大の問題の1つは,それが右派のアイデンティティ・ポリティクス(西洋,白人,男性が支配的な役割を追うべきだ.同性愛は逸脱で悪いものだ)を強化してしまうことだ.
  • リベラリズムは,人々は人種,性,セクシャリティで判断されるべきでないと主張し,実際に人々の認識と社会を変え,右派に対し説得力のある道徳的な高みを維持した.しかし,<社会正義>はこうした進歩を逆転させかねない.
  • 奇妙な<理論>は女性と人種・性的マイノリティへの否定的なステレオタイプを復活させてしまう.人々がジェンダーやセクシャリティについてどんな信念を持つべきかを強制する専制的な試みが,特にトランス者への受容に対する激しい抵抗を急激に作り出している.
  • また<社会正義>アプローチは部族主義と敵対を奨励してしまう.それは支配集団に集合的な罪状を負わせようとする(白人は人種差別,男は性差別,ストレートはホモフォビア).これは人を人種やジェンダーで判断しないというリベラル的価値観にはっきり対立する.これが古くさい右派のアイデンティティ・ポリティクスの退行的な復活を生み出さないと思っているならおめでたいにもほどがある.相手が白人なら,男性なら,ストレートなら偏見を抱いても構わないという議論は人々の互恵性の直感にそぐわないのだ.
  • 現在の右傾化にはさまざまな原因がある.しかし<社会正義>はそれを押しとどめる力にならない.<社会正義>の原理主義的専制的なやり方はまともで穏健な人々に反対論を表明したがらなくさせている.その結果反対論を表明するのは最も極端な右派だけになり,その人々が広い支持を受けてしまう.<社会正義>は,専制主義的な極右のバックラッシュに対して最も危険な形で私たちの社会を開いてしまったのだ.

 

  • 自分だけが正しいとする物象化された哲学体系への対処について,リベラル社会には「世俗主義」という解決法がある.それは自分が真理をつかんだとどれほど確信を持ってもその信念を社会全体に押し付ける権利はないという哲学思想に基づく.これは特定宗教やイデオロギーのご託宣を受け入れなくても何も罰を受けないという不可侵の権利を伴う.
  • 物象化された後の応用ポストモダニズムは記述的であるより指図するものに,つまり信仰体系になってしまっている.これに対抗するために2つのアプローチを提案する.
  • 1つはこの信念体系が制度機関に埋め込まれるのに反対するというものだ.人々には<社会正義>を信じない権利があるのだ.義務づけにはすべて反対しよう.
  • もう1つは<社会正義>の考えに対して(弾圧ではなく)自由市場で対決するというものだ.まともな検証を避けようとする彼等の企ての正体を暴き,思想についてきちんとした基準で評価するのだ.

 

  • <理論>にはリベラリズムで対決するのだ.彼等の主張には単に「いいえ,それはあなたがイデオロギー的にそう思っているだけですよね,私がそれに従う必要はありません」というだけですむことも多いのだ.(最後に拒絶の具体的な戦術(彼等の主張のどこを認めてどこを認めないかを含む)について詳しく解説がある)

 
以上が本書の内容になる.これまで社会正義運動がどのような主張を行い,どのような弊害を生み出しているかについて解説している本は何冊かあったが,その思想がどこから来たのかについての説明はなかった.本書は社会正義運動家の思想の源流と基本原則を解きほぐし,彼等がいったい何を言っているのか(まさに異星人の言語)をある程度分かりやすく解説してくれる貴重な本ということになるだろう.
私はキャンセルカルチャーや行き過ぎたポリコレの問題については,ある意味「差別をなくそう」という善意の試みの暴走という風に捉えていた.ルキアノフとハイトはそれは若い人への過度の保護感情から生じたと見ていたし,差別をなくそうという自分たちの道徳的立場の正しさの確信と,学者として成果を出すための競争が主張をどんどん過激にさせ,受け入れる側も自分の道徳性のディスプレイ(そしてこれも競争によりどんどん過激になる)としてそれを受け入れているのだろうという風に考えていた.しかしそれにしてもなぜ「文化的盗用」や「トランスジェンダー女性は自らの認識に従ってスポーツ競技の女性部門に参加する権利がある」などというあまりに奇矯な主張が声高に叫ばれ,受け入れられるのかは本当によくわからなかった.しかし本書を読んでその疑問の一部は解消した.それは理性と科学を否定するポストモダニズムの成れの果てだったというわけだ.そして<社会正義>戦士たちが理性と啓蒙主義を敵視するポストモダニストならピンカーがキャンセルカルチャーの標的になったのもむしろ必然だったのかもしれないと納得できる.
本書の描写が誇張されたものなのかどうかはよく見極める必要があるだろうが,ある程度正しいとするならこれは本当に憂慮すべき動きということになるだろう.日本のアカデミアはいまのところアメリカほど深くこの動きに侵食されているわけではなさそうだが(日本人は西洋の白人ではないからということもあるのだろうか),警戒すべきものだと捉えるべきだろう.この問題に関心がある人には大変有益な情報源となると思う.

 
関連書籍
 
原書

 

ハイトとルキアノフによるキャンセルカルチャーについての本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/04/04/172150

  
同邦訳 
進化心理学者サードによるすがすがしいまでのキャンセルカルチャー徹底批判の本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2022/06/20/134413
 
  
英国人ジャーナリストマレーによる糾弾書 
 
同邦訳 
 
スティーヴン・ピンカーへの糾弾事件についての私の記事
shorebird.hatenablog.com

*1:本書ではこのウイルス性についての詳しい解説はなく,一種の比喩として表現しているようだが,実際にはこれはまさにミーム複合体なのだと考えることができるだろう

*2:交差性は批判的人種<理論>の章で詳しく解説されている.私の理解では,それはカテゴリーの効果の非相加性を意味するもので,例えば,黒人であることへの抑圧と,女性であることへの抑圧を考察しても黒人女性であることへの抑圧は理解できない,だから黒人女性としての交差的アイデンティティを考察しなければならないという主張の基礎になる.

書評 「植物の行動生態学」

 
本書は種生物学会シリーズの最新刊.テーマは植物の行動生態学.これまで植物の行動生態学的な取り組みとして紹介されるものとしては性投資配分や生活史戦略にかかるものが多かったように思うが,本書は条件付き戦略(環境応答),血縁認識,自他認識,植物間コミュニケーション,情報伝達,感覚入力の処理,記憶あたりが扱われている.行動生態学の本丸(適応形質)というよりその周辺の適応を成り立たせている至近メカニズムに焦点が当たった一冊という印象だ.また血縁認識の議論があることを踏まえて血縁淘汰(包括適応度理論)についての理論的な解説(第5章)があるのも特徴になっている.
 

第1章 環境応答する種子:生物的環境に応じた可塑的な種子発芽 向井裕美 山尾僚

 
第1章では植物の種子の発芽戦略が扱われている.種子は休眠状態から吸水の刺激を受けて呼吸,エネルギー生産,発芽ヘと進むが,その際に周りの環境に応じて発芽タイミングを調整する.よくあるのは周囲の密度状況に応じた調整(高密度だと発芽を早める)だ.
ここではオオバコを用いた実験が紹介され,その種子が近隣に他種(シロツメグサ)が存在するか,同種(オオバコ)が存在するか,その同種個体が血縁かどうか(同じ親個体から分散した種子は近くにあることが多い)を認識して発芽タイミングを調整(他種と血縁個体がともに近隣にいるときに発芽タイミングを早める*1),さらに血縁種子間で情報をやり取り(胚間コミュニケーション)しながら発芽タイミングを同期していること,そしてそのような認識やコミュニケーションの仕組み(水分に含まれる化学物質を利用する)が解説されている.
かなり複雑な条件依存戦略となっており,神経系がないなかで微妙な調整がなされているのには驚かされる.

章末のコラムでは動物における環境刺激に応答した孵化タイミングの調整や胚間コミュニケーションの事例*2が解説されている.
 

第2章 植物における血縁認識:多様な隣接植物に応じた柔軟な対応 山尾僚

 
第2章では発芽以外の植物の血縁認識,およびその認識に応じた戦略が概説されている.基本的には血縁個体では土壌養分,水,光をめぐる競争を避け,そのリソースを非血縁同種個体や他種個体との競争に回すことが多くの植物で見つかっている*3.具体的には根の伸長の方向性や葉の展開の方向性が調整されることになる.
ここでは葉縁部にクローン株を多数形成するコダカラベンケイソウで,血縁個体ペアと非血縁個体ペアをそれぞれ同じ植木鉢に植える実験が紹介され,非血縁ペアの場合,根の伸長が抑えられ*4,葉縁部のクローン株による繁殖量が減少すること,血縁認識には根圏の化学物質が使われていることが説明されている.
さらにオオバコの実験に戻り,シロツメグサと血縁個体をともに植えたケースでは葉の展開がシロツメグサ方向へより伸びて,シロツメグサの成長を抑制していること(血縁個体間で協力して他種と競争していると解釈できる)が示されている.
 
章末コラムでは植物が競争相手を認識する手がかりが総説されている.
 

第3章 植物の自他認識:自己への巻き付きを回避する“つる植物” 深野祐也 山尾僚

 
第3章のテーマは自他認識.つる植物は他の植物や構造物に巻き付いて(自分で自重を支える構造をつくることなく)伸長展開するので,巻き付く対象の自他認識が重要になる(自分に巻き付いても支えられない).
著者はまずヤブカラシで実験し,確かに他種(セイタカアワダチソウ)や同種他株には巻き付くが,自株には巻き付かない(いったん巻き付いたものが巻き戻る)ことを確かめる.さらに自株でも生理的に接続していない株には巻き付くし,その接続が地下茎である(地下茎で分岐)よりも地上部である(地上部の茎で分岐)方が巻き付きにくいことがわかる.著者は,このような距離依存的な自己認識は1株からよく枝分かれして一面を覆うようなヤブカラシにとって適応的なのだろうと示唆している.なお同じ巻きひげで巻き付くキュウリで実験したところ自他認識は確認されなかった.著者は栽培化や人為淘汰によって失われた可能性を示唆している.
そしてヤブカラシの自他認識のメカニズムを調べ,他種認識と自種内の自他認識が異なるメカニズムによっていること,そのうち他種認識はシュウ酸化合物をキューとする接触に基づく化学的認識(揮発性物質の認識ではない)であることを突き止める.そして自種内の自他認識はシュウ酸化合物の認識ではなく,(詳細は分かっていないが)生理的な接続が関与する(おそらく植物が古くから持つ)ものではないかと推測されている.
この古くからある自他認識のシステムは興味深い.根の伸長の方向(自株の根との競争を避ける)などを考えるといかにも適応的な機能で,植物に古くからあるという推測は説得的だが,どのような至近的なメカニズムになっているのだろうか.
 
章末にはコラムが4本も収録されている.このうち「つる植物の登り方の分類」(この分野の草わけもダーウィンであり,巻き付き型,巻きひげ型,付着根型,とげ型,葉巻き付き型と分類したそうだ)では,つる植物の分類とそれに伴う興味深い問題*5が解説されている.続いてつる植物の巻き付きにどのような刺激が影響を与えるか,巻きひげの認識についての実践的実験法が紹介され,最後に植物の自他認識の総説的なコラム(自家不和合性,根の伸長の調整が解説されている)がおかれている.
 

第4章 植物間コミュニケーション:植物の匂いを介した情報伝達 塩尻かおり

 
第4章は植物の誘導防御とそこで生じる植物間のコミュニケーションが扱われる.最初に植物の防御戦略の概説がおかれている.植物は昆虫などからの食害をさまざまな方法で防御するが,そこには当然コストとのトレードオフがあり,食害リスクに応じて防衛を可変にする戦略(誘導的防衛)が有利になる場合がある.そしてそのような条件付き防衛戦略の1つが食害を受けている植物体が発する匂いを受容*6して(被害を受けていない植物体が)防御を発動するというものになり,ここには匂いを介した植物間コミュニケーションがあることになる.
ここで,匂いを受容した植物自体が防衛遺伝子を発現させたことを示した実験,タバコとセージブラシを使ってコミュニケーションがあることを示した野外実験(切られたセージブラシに隣接する野生タバコで食害が低下することを示したもの)がまず紹介される.そして続いて著者によるセージブラシ同種間での野外実験(切られた植物個体が発した匂いを受容したセージブラシで食害が低下する)が詳しく解説されている.さらにリサーチを広げると同じヨモギ属植物でも同種個体間コミュニケーションがある種とない種があること,セージブラシの匂いで誘導防御が発動する種としない種があること(トマトは発動,ルピナスでは発動しないなど)がわかってくる.(どのような種で生じるのか,どのような進化過程が考えられるのかについてはまだよくわかっていない)
著者はセージブラシの匂い成分を分析しようとして,そこに大きな個体差があることを見つける.そして自分と同じ遺伝子型個体の匂いでより大きな誘導防御が生じること,血縁度が大きいほど匂いが似ていること,血縁個体の匂いで誘導防御が大きくなること(つまり血縁認識ができること)を次々に明らかにする.またこの個体差にはクラスター(ケモタイプ)があり,地域差(方言)があることも見つけている.
著者は最後にこの知見の農業的な応用に進む.ダイズ畑にセイタカアワダチソウを刈り取って畝間にまいたりネットでぶら下げると誘導防御が生じて食害が減り,収穫量が上昇することを確認した(ただし若干苦味が増える).またミントを近傍に植えると栽培植物の誘導防御を生じさせることも見つけている.
 
匂い成分に大きな個体差があり,植物がそれを感知して血縁個体からのシグナルにより敏感に反応しているというのは驚きだ.また農業的な応用が可能かもしれないというのも面白い.野生植物だと防御にもコストがかかるから近隣に枯れ草があったからといって必ずしも繁殖成功が上がるわけではないだろうが,栽培植物だと昆虫の食害に対して常に防御不足状態にあって,この誘導防御が効果的なのかもしれない.興味深いところだ.
 

第5章 血縁淘汰概論:植物への応用 入谷亮介

 
第5章には数理生物学者による包括適応度(血縁淘汰)理論の解説が収められている.本書の中ではやや異色な章になっているが,これは本書を読み研究を進めるであろう植物研究者は必ずしも包括適応度理論に詳しくない場合もあり,しかも近年マルチレベル淘汰推しで血縁淘汰を貶める怪しげな言説が多いことから,無用な混乱や誤解が広がらないようにという配慮から収録されているのだろう.
 
まず最初に植物では親株の周囲に子孫株が定着することが多いため粘着的な(viscous)集団になりやすく,これは包括適応度理論がうまく扱える状況であることが押さえられている.
続いて近年の包括適応度理論をめぐる論争状況に触れ,著者の立場が整理されている.ここはさらっと書かれているが,(上記のような混乱や誤解を避けるためには)とても重要なところなので詳しく紹介しておこう.

  • 論争の争点は(1)数学的な正当性,理論の有用性(2)マルチレベルで淘汰が生じている場面で用いることの正当性,一般性(3)検証可能性である.
  • 上記3点について私はいずれも肯定的な立場に立つ.包括適応度理論は(1)集団遺伝学を礎とする数学的に正当で確立された理論であり,これまでに多くの問題解決に貢献してきており,(2)多くの生物現象に当てはまる前提条件の元で,数学的に裏付けられた示唆を豊富に与え,進化現象の理解に資するものであり,(3)量的遺伝学モデルへの拡張による検証可能な予測を提供する,からである.
  • 以下の状況は好ましくないと考える.(1)直感的な説明のみが流布すること(2)理論的定式化を経ずに,研究者の「賛同」の立場の決定や分断が生じること(3)セマンティックな問題として側目におく態度(このような態度は建設的とは言えない)
  • (包括適応度理論に対して)非常に偏向的ないし攻撃的な論文を目にした場合は,慎重に接し,幅広く文献比較し,(理想的には)集団遺伝学,量的遺伝学という(高校数学で理解可能な)数理解析に取り組み,理解を進めることを勧める.

非常に抑制的な書き振りだが,要するに,巷にある包括適応度理論への批判や攻撃に対しては,(ほとんどの場合)高校数学程度の理解で数理的に詰めればナンセンスであることがわかるだろうということだろう.なおここでは包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論の数理的な等価性についても触れていた方がさらに誤解や混乱を防ぐ効果があったのではないかと思う.
 
ここから社会行動(同種他個体との相互作用)の分類(相利,利己,利他,スパイト),植物における社会行動,適応度,血縁度,ハミルトン則が解説されている.適応度は相対的な概念であること,ハミルトン則に現れるB, Cは適応度の変化量であること(種子生産量(繁殖成功)や生存率ではないこと)が強調されている.(なおここでは適応度の定義に関して,一般的な説明としてよく出てくるアクター目線で計算される「包括適応度」とレシピアント目線で計算される「隣調適応度」が一致することについてのややマニアックな解説があって楽しい).
続いて血縁認識が血縁淘汰が作用するため*7の必要条件ではないことが強調され,作用するための十分条件*8が,集団の粘着性,血縁認識機構(必要条件ではないが,十分条件ではあるということになる),緑ひげ効果*9の3つであるとまとめられ,解説がなされている.
 
最後に包括適応度理論を植物に適用することの展望が語られている.包括適応度理論の動物への適用において最も成功した分野は性比理論であり,植物の性配分や繁殖様式の進化の解明に大きな役割を果たすことが期待できること,動物行動の研究においては人の価値判断が紛れ込む誤謬が起こりがちだが,植物ではその懸念が低く,逆に動物行動研究におけるこの問題の克服に役立つのではないかということが指摘されている.
 

第6章 環境情報の受容と処理様式:植物の組織特異的な環境センシング 遠藤求

 
第6章では植物がどの組織でどのような感覚受容と情報統合を行っているかという問題が扱われる.冒頭で植物の概日時計が概説され(遺伝子の転写・翻訳を伴うフィードバックループを利用したものであるところは動物の概日時計と同じだが,動物のそれとは全く構成因子が異なり,相同性はない),そこから本題に入る.
最初に植物はどこで光刺激を受容しているかが扱われる.シロイヌナズナではフィトクロムAとクリプトクロム2という赤色/遠赤色光,青色/紫外線領域の受容体を身体中で作っている.そして実験により長日条件での花芽形成を行うには維管束におけるクリプトクロム2のみが重要であること,日陰を感知して葉や茎を伸ばして避けようとする(避陰反応)には葉肉のフィトクロムAが重要であることが示されている.つまり身体のあちこちに用途の限られた「目」があるということになる.
次に概日時計がどのように働くのか(どのように情報を統合するのか)が扱われる.時計遺伝子の発現状況を調べると,葉肉や葉全体で発現量の多い遺伝子は維管束で発現が低く,葉肉や葉全体で発現量が少ない遺伝子は維管束で発現が多いことがわかった.またこの逆相関は発現時間や発現リズムの位相にも見られ,これは植物が維管束で情報統合を行っていることを示唆している.そしてさまざまな操作実験により,葉肉の概日時計は主に葉肉の遺伝子発現だけを制御し,維管束の概日時計は維管束だけでなく葉肉の遺伝子発現をも制御していることが示された.
では本当に維管束は植物の「脳」なのか.上記の実験は長日条件での花芽形成の結果であるが,温度刺激に対する茎の伸長反応に関して調べると表皮の概日時計が重要であるという結果になった.著者はこれは植物の概日時計は非集中型のネットワークになっていることを意味しており,日長と気温は関連が深いが独立の環境刺激として捉えた方が適応的になるために独立した制御中枢が進化したのだろうと説明している.
 

第7章 植物体内の情報伝達:長距離移行ペプチドを介した植物の変動窒素環境への適応 松林嘉克

 
第7章は第6章に引き続いて植物の情報統合の仕組みを扱う.ここでは特に情報伝達がテーマになる.
植物が窒素栄養を得るためにどの方向に根を伸長させるかという問題に関しては,分岐した根の周囲の窒素栄養状況(硝酸イオンの多さ)を判断できた方が効率的になるが,そのためには情報を交換しなければならない.植物がどのように窒素要求情報を伝達しているかが問題になる.
著者は20年以上前に植物の細胞増殖の密度依存性を研究していて,密度依存型の5アミノ酸から成る分泌型ペプチドホルモン(PSK)を発見した.3年後にそれをコードする遺伝子ファミリー(CEPファミリー)が見つかり,それらが根で発現し,根の成長に関与することもわかった.さらにCEP(CEPファミリーにエンコードされるペプチド)と直接結合する受容体CEPR1(および非感受性の変異体CEPR2)を見つけた.CEPR2の表現型解析によりCEPが窒素応答に関連していることもわかった.さらにその過程をマイクロアレイ解析し,CEPR2を持つ個体の根において主要硝酸イオン輸送体(NRT)の発現量が大きく低下し,硝酸の取り込み活性が半減していることを突き止めた.
ではなぜ根からの窒素吸収に根で発現するペプチドホルモンが必要になるのだろうか.著者は先行論文で(根が窒素欠乏に陥ったときに誘導される)全身的窒素要求シグナリングに関連するとして特定された遺伝子群がCEPR2の存在で発現が低下する遺伝子群にすべて含まれていることを知り,CEPが全身的窒素要求シグナリングに関与していることに気づき,実験によりそれを確かめる.著者はこのシグナリングの経路をさらに探り,窒素欠乏になった根でCEPが生産され,それが道管によって地上部に移動し,葉の維管束で受容され,篩管で窒素欠乏シグナルCEPDが生産され,それが根に移動し,周囲に窒素が十分にある根において硝酸イオン輸送体の発現量が上昇することを見いだした.
ではなぜ窒素欠乏の根から窒素豊富な根までの交信にわざわざ地上部の葉が使われているだろうか.著者は根由来のシグナルは道管を伝って吸い上げられる過剰な水によって希釈されるので,そのままで根から根への交信ができず,いったん蒸散作用のある葉で濃縮してから受容するしかないからだと推測している.
 
本章は植物組織間の情報伝達の謎が少しずつ明かされる探求物語になっていてとても面白い.そして神経系のような情報伝達に特化している組織を持たない植物においては,情報伝達に物質循環に使っている維管束を利用するしかなく,そこで篩管が非常に受容な役割を果たすという一見意外な結果が説得力を持って提示されている.この第6章,第7章で解説される維管束の役割については,進化はすでにあるものを利用して何とか機能を果たす「鋳掛けや」的な仕事の進め方をすることに思いをはせれば,極めて当然なのかもしれないと改めて感じさせてくれるものでもあると思う.章末のコラムでは植物における遺伝子名,タンパク質名の表記慣行が解説されている.
 

第8章 植物の記憶:誘導防御とプライミング 本庄三恵 工藤洋

 
第8章では植物の記憶がテーマとされている.記憶の例としてまず「冬の記憶」と春化が紹介される.本章では別の記憶現象としてプライミング(先行する経験が後のストレスに対する抵抗性や耐性を高める)を扱うということになる.
まず第4章でも紹介された植物の誘導防御がより詳しく解説される.そしてこの誘導の条件が自身の食害や病害の経験であるならプライミングを利用した防御ということになる.実例としてはウリ類炭疽病菌に攻撃されたことのあるキュウリは2回目の菌の侵入に対して細胞壁に物理的障壁を構築する例が紹介されている.
またここではプライミングの至近的なメカニズムも詳しく解説されている.メカニズムは実に多様で,誘導防御のシグナル受容,シグナル伝達,防御物質の蓄積,防御遺伝子の発現それぞれの段階でその過程を強化するメカニズムが知られていて,ここではそれぞれ詳しい説明がある.
さらにウイルスに対するRNAサイレンシングによる防御,ウイルスと植物の相互作用の季節性(増殖速度や病原性の変化)とそれに対する防御戦略,その1つとしての季節プライミングが解説されている.
 
本章の記述は詳しく圧倒的で,植物のさまざまな条件付き防御戦略とその細部の面白さにあふれている.また章末のコラムではプライミングの1つの仕組みとしてのエピジェネティックスティック制御が説明されている.
 
以上が本書の内容になる.伝統的な行動生態学よりも至近メカニズムや遺伝子にも踏み込んだ内容になっている,いかにも最新の研究動向が反映されている感じだ.情報統合に維管束が重要な役割を持っているとか(考えてみれば当然だが)食害や病害への防御が極めて多様で巧妙な仕組みになっていることなどはとても印象的だった.装幀も凝っていて,各ページの上部に各執筆者のマーク(多くは植物組織の模式図)があしらわれていてとてもおしゃれだ.行動生態学,植物学に興味がある人にはとても楽しい一冊に仕上がっていると思う.

 

*1:このことの適応的な意義は興味深いがここではあまり解説されていない.適応的な意義は発芽後の競争状況に関することとして第2章で解説されることになる.基本的には血縁個体が近隣にいるときには血縁個体と協力しながら他種と競争することができ,より早期に発芽した方が有利になるということかもしれないと示唆されている

*2:(樹木の葉の裏に卵塊がある)アカメアマガエルの胚はヘビの振動を感じると孵化を早め,捕食率を下げる.またヘビやカメや昆虫で.ひとかたまりになっている卵の孵化が(成長が遅れている胚がコミュニケーションを通じて代謝を上げるなどにより)同調する現象が観察されている

*3:リソース競争以外では誘導防御における協力の増加が見つかっている

*4:競争が激しいためにそうなると考えられている.何らかの成長抑制物質を互いに放出し合っている可能性が示唆されている

*5:巻き付き型は北半球でも南半球でも右巻きが大半だが,その理由はわかっていないそうだ.巻きひげは様々な植物で独立に進化した代表的な収斂形質で,元となる組織も茎,葉,花と多岐にわたる.

*6:植物では感知といわずに受容という用語を用いるようだ

*7:血縁淘汰が作用する」というのはここではアクターがレシピアントとの血縁度に応じて可塑的な戦略をとることを指している(基本的にはハミルトン則が成り立てばその遺伝子頻度は増加するので,それだけなら特に十分条件を考える必要はない)

*8:血縁度に応じて可塑的に反応するには血縁度と相関する何らかの手がかりが必要で,それが粘着性(距離が手がかりになる),血縁認識,緑ひげマーカーということになる.これを十分条件と表現するのがいかにも数理学者らしくて楽しい.なお著者は「充分条件」の表記を用いている.深い意味があるのかもしれないが通常は「十分条件」と表記されることが多いのではないだろうか.

*9:ここで,緑ひげ効果は性淘汰理論のセクシーサン仮説に相当すると解説があるが,どこがどう相当するのかの解説がなく,理解が難しい.緑ひげ効果は遺伝子のマーカーにより利他行動をするべきレシピアントとそうでないレシピアントを区別できるというもので,セクシーサン仮説はメスが(コストがある)派手なオスを好むのは,(そのような好みがあるなら)そのようなオスとの間にできた息子は派手な形質を受け継ぎモテるというメリットがあり,それが派手な形質のコストを上回るからという説明(そして判別にコストがあるなら長期的には保たれないとされるもの)で,ぴったり相当するようには思えない.いかにも面白そうな視点なので詳しい解説がほしかったところだ.

書評 「暴力と紛争の“集団心理”」

 
本書は社会心理学者縄田健悟によるヒトの暴力についての社会心理学的知見,特に集団モードで生じる暴力についての知見を丁寧にまとめた本になる.私としてはヒトの暴力についての進化心理学的な取り組み(そのような行動傾向はどのように進化したのか,どのような適応的機能があるのか,あるいはないのか)についてはいろいろ読んできたものの,社会心理学的な取り組み(そのような行動はどのような状況で生じるのか)についてはその時々に断片的な知識を読んできただけであり,一度きちんとまとめて読もうと思って手に取った一冊になる.
 

序章 暴力と紛争の“集団心理”

 
本書ではヒトの本性としての「集団心理」を取り扱う旨が最初に宣言される.ここでは進化心理的な側面も含めて「集団心理」について整理されている.また社会心理学は基本的に「ヒトの行動は状況次第だ」と考える学問であり,本書を読む上で,読者がこれまで暴力を振るわずにすんだのは単に運が良かったからだけかもしれない(だれしも状況によっては暴力を振るうかもしれない)と感じながら読んでほしいと書かれている.

  • ヒトを理解するには「集団」が大きな鍵を握っている.それはヒトは狩猟採集時代を通じて「群れ」を作って生活してきたのであり,そこでは集団として協力することが,その当人が生き延びる上で有効な戦略であった.しかしそこには戦争,虐殺,差別,いじめ,集団飛行,テロ,暴動などの影の側面もある.
  • 議論の出発点は「実はヒトは暴力を基本的に嫌う」ということだ(クッシュマンの実験,トロッコ実験の突き落としバージョン,グロスマンによる「戦争における人殺しの心理学」,ハイトの道徳基盤のケア/危険回避原理などの解説がある).
  • にもかかわらずヒトの社会に争いごとや暴力がある理由の1つが集団の存在になる.暴力を産み出す集団の心理学はしばしば「集団心理(群集心理)」と呼ばれる.曖昧な概念なので学術研究場面ではあまり使われないが,その理解は重要だ.
  • ヒトは集団の中で個人が抱く日常の心理状態と異なる心理状態に陥ることがある.本書ではこれを「集団モード」と呼ぶ.
  • 集団モードにはコミット型と生存戦略型がある(ただしこれらは完全に排他的なものではない).コミット型は自らを集団の一員として捉え,集団中心に集団のために行動するモードであり,生存戦略型は集団の中での自分の見られ方や立ち位置を調整(排除されない,より名声を得るなど)するモードになる.本書ではどのような状況でどのようなモードが生じ,暴力につながっていくのかを考察する.

 

第1部 内集団過程と集団モード

 

第1章 集団への愛は暴力を生み出すか?

 
第1章では個人の所属集団への愛(内集団びいき)が対外的な暴力(外集団への暴力)を生むかが論じられる.現代社会と戦争に引き直せば,愛国心が外国や外国人への攻撃性や差別心に結びつくかという問題になる.

  • 「国を愛する人ほど外国への攻撃心が高まるか」という問いに対する社会心理学的な答えは「単純にはNO.しかし条件付きでYESとなる」というものになる.
  • 社会心理学では集団に所属する心理を「集団アイデンティティ」あるいは「社会的アイデンティティ」と呼ぶ.これが顕在化したものがコミット型集団モードになる.「社会的アイデンティティ理論」では,アイデンティティは個人的アイデンティティから集団アイデンティティまで連続的なグラデーションがあり,状況次第で状態が変わると考える.
  • 状態が集団モードに変わる状況要因としては外集団からの危害や脅威が典型的なものになる.単なる集団間比較状況でも集団アイデンティティが強まりやすい.
  • 実証研究からは,集団アイデンティティが強いほど外集団に否定的になるとは限らないことが示されている.しかし特定の2つの条件の元ではそれが観察される.

 

  • 条件の1つ目は「集団間紛争・競争状態であること」だ.これを説明するのが「集団間感情理論」になる.集団間感情理論は,内集団アイデンティティを持つと内集団,内集団メンバーに起きた出来事を自分自身に起きたことの様に認識し,その出来事の評価により感情的反応が生じると説明する.出来事をどのようにフレームするか(どのような集団とどのような集団の間の出来事と捉えるか)により反応は大きく変わる.
  • 出来事が危害であれば特に強い怒り感情が引き起こされる.怒りと侮蔑と嫌悪は暴力と関係しやすいことが示されている(暴力のANCODI説).
  • このような状況で生じる究極の攻撃行動は命を捨てても攻撃しようとするもので,アイデンティティ融合(自集団と自分自身が重なってしまう状態)から説明される(実証研究も紹介されている).共有経験,そして特に暴力的戦闘的集団での共有経験がアイデンティティ融合を促進することが示されている(テロリズムについての研究が紹介されている).
  • アイデンティティ融合があれば必ず暴力的になるわけではない.紛争・競争状態であるという条件が加わることが暴力に結びつく.平和的な状況ではアイデンティティ融合は博愛的な利他心に結びつきうる.

 

  • 条件の2つ目は「集団アイデンティティの下位側面(集団愛着と支配・優越)のうち支配・優越が前面に出ること」だ.支配・優越の側面とは自集団が他集団より優越したいと考えるアイデンティティの側面だ(実証研究が紹介されている).
  • これは「社会的アイデンティティ理論」から説明される.自分と自集団を同一視しているときには,自分が良い人だと思われたい心情が自集団に拡大され,自集団を優越させる手っ取り早い方法として外集団をおとしめる手法を採用することになる.
  • また支配・優越側面が前面に出ているときには「集合的ナルシシズム」に陥りやすい.これは自集団についての特権意識を生み,それに伴い外集団への否定的態度が生じる.そして相手のささいな行為にも過敏に反応し,妄想めいた陰謀論に陥りがちになる.自尊心の低い個人がこの集団ナルシシズムに陥りやすいことがわかっている.

 

第2章 集団への埋没と暴力

 
第2章では「群集による暴力」が取り扱われる.

  • 「群れて暴れる」現象はしばしば観察され,現代日本においても社会的課題の1つである.この現象は心理学では集団への埋没と匿名性による没個性化で説明されている.
  • フランスの社会学者ル・ボンは「群集心理」を著し,群集はひとかたまりの集団となることで,個人と異なる集合的な心理的性質(衝動的,興奮しやすい,暗示を受けやすい,感情が単純で誇張的,偏狭で横暴,道徳水準の低下)を持つようになると主張した.この主張は後の社会心理学者たちにより「没個性化理論」として体系化された.ジンバルドは集合的な心理性質の根源を匿名性による没個性化という心理現象だと理論的に整理した(没個性化が暴力性を上げることについての実験が紹介されている).
  • 没個性化が暴力性を上げるメカニズムが2つ提唱されている.
  • 1つ目は「客体的自己意識」が低くなること(自己意識の低下)により道徳水準が下がるというものだ.これは匿名性が反社会的行動を促進することを説明するが,そうでない状況もあり,単純には当てはまらない.(KKKの服を着て匿名性を高めると暴力性が上がるが,ナース服だと下がる.また攻撃を支持している観衆に見られていると暴力性が高まる(観衆効果)という匿名性による説明とは逆の現象もある.メタ分析では匿名性が必ずしも社会的行動を促進するわけではないとされている)
  • 2つ目の提唱されたメカニズムは(コミット型)集団モードヘの切り替えによる集団規範への同調だ.上記の複雑な状況は状況的規範が暴力を肯定しているかどうかで結果が分かれていると説明できる.これは没個性化の社会的アイデンティティモデル(SIDEモデル)と呼ばれ,広範な状況を説明することができる.(実際の群集暴力のケースがこのモデルに沿って解釈されている)
  • インターネット上での炎上やバッシングの問題も匿名性と没個性化,状況的規範への同調という視点から理解できる部分が多い.

 

第3章 「空気」が生み出す集団暴力

 
第3章では第2章で群集の暴力性を説明するメカニズムとして登場した(コミット型)集団モードヘの切り替えによる「状況的規範への同調」というメカニズムを深堀する.ここではこの状況的規範を「空気」と呼んで説明がなされている.

  • ヒトは集団の空気と権威に服従する生きもので,それらに逆らうのを苦手としている.特に日本は「雰囲気」や「空気」が重視される社会だということが評論家の山本七平により指摘されている.この山本の「空気」は社会心理学で「集団規範」とされるものとおおむね同義である.
  • この集団の状況的規範については社会心理学でよく調べられており,ミルグラムの服従実験とスタンフォード監獄実験が有名である.(この2つの実験について詳細に説明がある)

 

  • ミルグラムの服従実験の追試は多くの国でなされていて,どこの国でもおおむね類似した服従率が報告されている.2000年以降もややマイルドな形で追試されて同様の結果が報告されている*1
  • 服従率を左右する重要な変数が知られている.被害者との物理的近接性,加害の直接性,(加害を命じる)権威の正統性,そして仲間集団がどう振る舞うか(同じように参加しているように振る舞うサクラが「僕はおりる」といって拒否するかどうか,それが1人か複数いるかなど)だ.(権威の影響力の大きさについて,フランスのテレビ番組を装った実験の結果が印象的に解説されている)
  • このような服従が生じるのはなぜか.ミルグラムは代理人状態で説明しようとしたが,現在では(コミット型)「集団モード」の影響だとされている.実験を行う人々を自分もふくめて内集団と捉え,その内集団の規範に従う形で服従が生じると考えるのだ.実際に彼等は内心では苦しみながら,科学研究のためだというような正当化,自己弁護を行い,集団規範に従う形でボタンを押していることが多い.

 

  • スタンフォード監獄実験は「心理学の実験という前提が示されていても,監獄という状況を与えると,被験者はその状況の影響力により看守役は看守らしく,囚人役は囚人らしく考え,感じ,振る舞うようになる」ことを示したものとして有名だが,近年では再解釈の必要性が主張されている.
  • この実験はオリジナルが1970年代になされ,その後しばらく誰も追試を行わなかったが,2001年に英国で追試された(BBC監獄実験).しかしこの追試ではオリジナルの現象が再現されなかったばかりか,心理学の実験であることを盾に終始反抗的に振る舞う囚人役とそれに振り回される看守役という権威の逆転現象まで観察された.
  • 両実験の違いはその社会的状況(集団認識状況と集団規範)にあった.BBC監獄実験では実験者側が看守役に対しての指示的役割を担っておらず,暴力への促しもなかった.だから看守役は実験者側へ取り込まれず,暴力的規範へ従う形での集団モードにスイッチが入らなかった(そして囚人役には囚人集団としての認識が発生した)のだと思われる.これらの監獄実験も(コミット型)集団モードと状況的規範への服従で理解できる.(ここでアブグレイブ刑務所での虐待事件の解釈がなされている)

 

  • 現代日本の「いじめ」問題も状況的規範による暴力という枠組みで解釈可能だ.学校(や一部の職場)はいわば特殊空間になっており,治外法権的な集団規範が成立し,それに従わないものは排除される.いじめはそこで集団モードのスイッチが入り,集団規範への服従が生じた結果生じるものと解釈できる.
  • 実験結果が教えてくれるのは,このような集団モードと状況的規範による暴力を抑制するには,2人以上の抵抗するサブグループの存在が重要だということだ.

 

第4章 賞賛を獲得するための暴力

 
第2章,第3章は集団の暴力のうちコミット型集団モードから説明できるものを扱ってきたが,第4章と第5章では生存戦略型集団モードから説明できる暴力を取り扱う.このうち第4章では「仲間からよい評判を得るため」に攻撃が生じる現象を取り扱う.

  • ヒトの攻撃行動には衝動的攻撃と戦略的攻撃がある.集団の暴力にも何らかの目的のための戦略的攻撃がある.本章ではよい評判を得るための戦略的攻撃を考察する.
  • 集団モードにはコミット型と生存戦略型がある.生存戦略型集団モードは集団の中で生き抜くために自分の集団での立ち位置を気にかけてスイッチが入るモードになる.この集団内の生存戦略はさらに賞賛獲得(集団メンバーから高く評価されたい)と拒否回避(嫌われたくない,排除されたくない)に分けて考えることができる.これらが引き起こす暴力は前者が英雄型集団暴力,後者は村八分回避型集団暴力と呼ぶことができる.(この二側面がともに現れたケースとして熊谷市のホームレス殺人事件の顛末が解釈されている)

 

  • 英雄型集団暴力はどのように働くのか.まず様々な場面で攻撃者が賞賛されることがあるという事実がある.ヒトは暴力を嫌うが,集団間紛争の場合には外敵への攻撃者が賞賛される.(ウサマ・ビンラディン,日本の特攻隊員,狩猟採集民の戦士の例が紹介されている)これは賞賛されたいメンバーは戦士として闘うことにメリットを得ることができることを意味する.(賞賛獲得心理と集団間暴力が関連することを示すリサーチが紹介されている)
  • 片方で集団間紛争に参加することにはリスクも伴う.これは進化心理学的には重要な問題になり,賞賛メリットが怪我や死のリスクより大きかったかどうかについて論争がある.狩猟採集民のデータ(および第二次世界大戦後のアメリカ軍人のデータ,現代の都会のギャングのデータ)によると少なくとも賞賛が性的資源や経済的資源というメリットと直接結びついていることは確かにあるようであり,そのような攻撃が適応的になる可能性が示唆されている.
  • さらに暴力が賞賛されるような集団文化があれば,暴力の賞賛が生じるのは集団間紛争時の暴力だけに限られない.(非行少年のリサーチが紹介されている)
  • 暴力に肯定的な文化としては名誉の文化が知られている(名誉の文化について詳しく解説がある).名誉の文化は個人の暴力傾向だけでなく社会・文化レベルの攻撃性を高めるというリサーチもある.
  • これらの知見からわかることは,暴力が賞賛されない社会では暴力はあまり生じないということだ.これは文明化と共に人々の暴力への拒否感が強まり,暴力が減少していることを説明する.ただし「賞賛獲得を求めて攻撃する」心理基盤自体は残っているので,現代日本人でも暴力肯定的な状況的規範に放り込まれると集団暴力を振るうことがありうることに注意が必要だ.

 

第5章 拒否を回避するための暴力

 
第5章では「村八分を回避するため」の集団暴力が取り扱われる.

  • 集団暴力状況で,それに参加しないメンバーは非協力者として罰を受ける可能性がある(戦時中に戦争に否定的な市民が「非国民」とされて迫害を受けた「はだしのゲン」の場面が紹介されている).そしてヒトにはそのような集団からの拒否を避けるための生存戦略型集団モードのスイッチがはいることがある.
  • 生存戦略型集団モードによる暴力についても様々な実証研究がある.
  • 本心ではない差別行動が生存戦略型集団モードにより引き起こされることがある(実証研究が紹介されている).集団の「空気」を読んで自分の行動を調整することを皆が行っていると「空気の読み違い(社会心理学用語では多元的無知)」が集団全体で誰も望まない行動を引き起こす可能性がある.そして暴力的・差別的な空気は自己成就的に維持されてしまう.
  • 生存戦略型集団モードは自集団の他メンバーから拒否されないために身内をひいきする(内集団ひいき)という形をとることがあるこれにはポジティブな面もあるが集団暴力にもつながる危険がある.(実証リサーチが紹介されている)
  • ただし内集団ひいきが外集団への攻撃に必然的に結びつくわけではないことに注意する必要がある.内集団ひいきと外集団攻撃は別物だが,内集団協力と外集団攻撃がセットになっているとこの2つが結びついてしまう(実証リサーチが紹介されている)
  • 生存戦略型集団モードは集団暴行殺人,ジェノサイドにまで及ぶこともある.(少年グループによる集団殺人事件,フツ族によるツチ族のジェノサイドの事例が解説されている)また女性差別イデオロギーそのもののような名誉殺人,テロリストグループへの参加についてもこの生存戦略型の側面がある.(いくつかの事例が説明されている)
  • この村八分回避型心理は日本文化に強く見られることが指摘されている.日本で生存戦略型集団暴力が多いかどうかについての直接的な実証研究はないが,その傾向が他国より高い可能性がある.
  • 戦略にも関わらず実際に拒否されてしまったら何が生じるのか.多くの研究は排斥されると利他行動が減り,暴力的傾向が高まることを示している(アメリカの学校での銃乱射事件,日本の通り魔事件が解説されている).これは排斥されたことへの報復の側面があると考えられる.

 

  • ここまで2章かけて生存戦略型集団モードを,賞賛獲得と拒否回避に分けて説明してきたが,現実の場面ではその両者が混在していることも多いことには注意が必要である.

 

第2部外集団の認知と集団間相互作用過程

 

第6章 人間はヨソ者をどう見ているのか?

 
第1部(第1章〜第5章)までは「内集団過程と集団モード」から暴力を考察してきた.第2部では「外集団の認知」と暴力の関係を考察していくことになる.冒頭の第6章では自分たちとは異なると感じられる人々を「外集団」と認識し,外集団の認知が差別や攻撃につながりやすくなる状況を扱う.

  • ヒトは自分たちと異なると感じられる人々を外集団(ヨソ者,やつら)として認識する本性を持っている*2(きのこの山派とたけのこの里派による論争が例として取り上げられている).このような認識に至る心理過程は「社会的カテゴリー化」と呼ばれる.
  • いったん外集団認識が生じると,内集団と外集団の間に線引きがなされ,両集団に異なった評価がなされるようになる.基本的には内集団=good,外集団=badという認識になることが多い.線引きの過程では同化効果(同じ集団カテゴリー内でメンバーの類似性が強調される)と対比効果(集団間の違いが強調される)が生じる.
  • ここで注意すべきなのは誰を内集団にして,誰を外集団とするのかは主観や状況に依存するという点だ(線引きの状況依存性についての実証実験が紹介されている).
  • 同化効果は,特に外集団メンバーに強く働き(外集団均質化効果;奴らについては十把一絡げで認識する),ステレオタイプが生じる.ステレオタイプは他者の考えや行動の予測に役立つ面もあるが,基本的に否定的評価感情と結びついているのでしばしば偏見や差別の温床となる.(恣意的なカテゴリー分けによる線引きでも外集団に否定的ステレオタイプが付与されることについての実証実験が紹介されている)
  • いったん偏見が生じると確証バイアスとサブタイプ化(彼は特別な例外だ)により是正は困難になる.(ここでしぶとく残る偏見の例として「すでに時代は変化して差別はなくなったのに,奴らは過剰な優遇を求め不当な恩恵を受けている」という現代的差別主義の概念が紹介されている)
  • 現代においては偏見の表明は社会的に望ましくないとされているが,一部の人々はしばしば(現代的差別主義のような)偏見を表明する.クランドールとエシェルマンはこれを「偏見の正当化―抑制モデル」として理論的に整理した.(詳しい説明がある)
  • では外集団ヘの否定的評価はどのようにして生じるのか.それは内集団へのコミット型集団モードが「自集団中心的な判断」を推進することによって生じると考えられる.
  • 自集団中心主義は基本的帰属のエラー(あいつがそうするのは状況によるものではなく,内的な性格のためだ),究極的帰属エラー(帰属エラーが外集団に適用される)を通じて,内集団奉仕的かつ外集団蔑視的な原因帰属を生む.(北アイルランドのカトリックとプロテスタントの対立を背景にした実証実験が紹介される)
  • また自集団中心主義は反発的低評価バイアス(紛争相手の意見や提案を低く評価する),敵味方分断思考(内集団メンバーは自分の味方で外集団メンバーは自分の敵だとみなす)も生む.(それぞれ実証リサーチが紹介されている)

 

第7章 「敵」だと認定されるヨソ者

 
第7章では外集団への基本的心理過程(低評価,偏見)がどのように暴力につながっていくかが扱われる.

  • 外集団の認知が暴力につながっていく大きな要素になるのが「脅威」と「非人間化」だ.

 

  • 外集団への低評価は外集団を自分たちに危害を加える脅威としてみなすことにつながる.これはヒトの基礎的認知に根付いていることがわかっている(同じような恐怖条件付けで生じる恐怖は外集団からのものの方が長期間保たれることを示した実験,外集団=脅威認知に関する神経科学研究が紹介されている).
  • 国家・民族間関係の脅威研究では,脅威には現実的脅威(実際的な被害の脅威)と象徴的脅威(価値観,信念,道徳に関する脅威)という2つの側面があることが示されている.これらの2側面はどちらも外集団に対する否定的な態度を引き起こす(脅威の2側面と集団暴力の関連性のパス解析が紹介されている).
  • 社会心理学,政治心理学の研究では保守主義と脅威過敏性に相関があることが示されている.ヒトは脅威が高まると防衛反応として保守主義的心理傾向を高めるようだ.そして防衛反応は時に先制攻撃の形をとる.(相手が外集団だからといって必ず先制攻撃が生じるわけではないが,集団間脅威が高い場合に先制攻撃が見られやすくなることを示すリサーチが紹介されている)
  • また外集団の脅威認識は狙撃手バイアス(悪人を見分けて銃を撃つゲームにおいて,対象が外集団メンバーらしいとより素早く,より誤って悪人認定するするバイアス)を引き起こすことが知られている.

 

  • 外集団の低評価がもたらす最も深刻な結果が非人間化(相手を他の動物や物体のような人間以下のものとして見てしまう心理現象)だ.そして非人間化は残虐行為の心理的ハードルを下げ,ジェノサイドのような過激な暴力の原因となる.(戦争時のプロバガンダの実例が示され,非人間化が攻撃を促進させることを示す実験結果が解説されている)
  • 非人間化は,道徳的抑制を解放し(彼等は道徳の対象外である),攻撃を正当化する(彼等の存在自体が悪である)ことにより危害を促進すると考えられる.いったん道徳的抑制が外れて暴力が振るわれると,抑制はさらに低下して暴力の慢性化が生じる.
  • 非人間化には,人間性希薄化(やつらは複雑で高次の感情をあまり持っていない),直接的な形の非人間化(やつらは進化が十分ではない)などの様々なパターンがある.
  • 相手集団から非人間化されると,逆方向の非人間化が起こりやすく,非人間化の応酬という形になることがある.

 

第8章 報復が引き起こす紛争の激化

 
第8章では集団間の暴力について,特に「報復」が果たす役割を考察する.

  • 1:1の個人間関係では被害者が加害者に報復を行うことがあるが,それはその2者間で閉じている.しかし両者が異なる集団に属していると他の集団メンバーから,他の集団メンバーへの代理報復(集団間代理報復)が生じやすく,連鎖的に拡大する集団間紛争に発展することがある.2者間では報復は必ず加害者に向けられ一種の抑止力になるが,集団間だと必ずしも加害者に報復がなされるわけではないので報復リスクによる抑止が働きにくい.
  • このような集団間代理報復は初対面同士で集まった一時的な集団でも生じる(実験結果が紹介されている).
  • 代理報復が生じるメカニズムにはコミット型集団モードに関係するものと,生存戦略型集団モードに関係するものがある.

 

  • コミット型集団モードのスイッチが入ると,内集団同一視と外集団実体性知覚が生じる.これにより自集団メンバーへの被害を自分への被害と感じることにより怒りが生じ,また加害者が属する集団メンバーを加害者と(そのネガティブイメージと共に)同一視し報復対象だと感じ,さらに外集団全体を責任帰属対象と知覚するようになる.(実証研究が紹介されている)
  • 集団間紛争状況においては報復者は賞賛の対象になる.このような賞賛を求めて生存戦略型集団モードのスイッチが入って集団間攻撃を行うことがある.(実証研究が紹介されている)

 

  • 集団間報復においては,実際の被害出来事自体よりも,主観的心理としての被害者意識の方が重要な役割を果たすと考えることができる.集合的被害感は集団間紛争を持続させる効果がある.
  • 被害者集団と加害者集団では集合的暴力に対する捉え方(誰が被害者で誰が加害者か,暴力の責任はどこにあるか,なぜ加害行為が生じたのか,危害の大きさはどの程度か,いつ出来事が生じたのか)が基本的に異なる.被害者は危害を大きく見積もり,加害者は小さく見積もる.このような認識ギャップは被害者側の怒りをさらに強め,集団間報復が「倍返し」になりやすくなる.

 

第3部 暴力と紛争の解消を目指して

 

第9章 どうやって関わり合えばよいのか?

 
第9章では集団間暴力をいかに解消していくかが扱われる.ここで集団間アプローチと集団内アプローチに分けて整理される.

  • 集団間暴力に対してどうすればよいのか.本書では原因を悪人に帰属させる考え方は採用しない(基本的に社会・集団の状況要因の方が重要だという考え方に沿う).

 

  • 集団間アプローチ:外集団嫌いをいかに解消するか
  • (1)集団間接触を増やす:2つの集団間のメンバーが物理的に繰り返し会い,交流することは偏見や紛争を低減させることが知られている.ただしそこにはより効果的になるための条件がある.オルポートは,両集団の地位が対等であること,共通の目標があること,目標へ至るために協力が役に立つこと,公的的な集団接触が公的に推奨されていることの4つを提示した(だから単純な旅行には効果があまりない).これらに加えて接触が個人的友情を持つ形であることの重要性もよく指摘される.
  • なぜ接触に効果があるのか.1つは「脅威と不安の低減」であり,もう1つが「相手の視点取得と共感」だ.
  • (2)視点取得と共感:集団間紛争を解消するためには「相手の立場に立って考えてみること」が重要要因になる.(実験結果が紹介されている)
  • なぜ視点取得に効果があるのか:それは並行的共感(自分も相手と同じ痛みを感じる),反応的共感(相手が痛みを感じることに関心を持ち配慮しようとする)が生じるからだ.(ここで歴史的に生じた共感の輪の拡大とフリン効果が論じられている)
  • (3)共通目標と共通上位集団アイデンティティ:2つの集団が同じ目標を持ち,その結果包括的な上位集団のとしてアイデンティティを持つことが紛争解消に重要であることが指摘されている.(シェリフのサマーキャンプ実験が紹介されている)そもそも内集団/外集団の線引きは恣意的であり,再カテゴリー化により偏見が低減される.(上位集団アイデンティティによるバイアス低減効果を示す実験が紹介されている)
  • 集団間に力の不均衡がある場合は共通上位集団アイデンティティが形成されにくい.劣勢集団メンバーは共通上位集団を好まない.また安易な上位集団化は集団間の不平等を覆い隠す効果を持つことにも注意が必要だ.この問題を避けるために二重アイデンティティ方略(2つの元の集団を残しながら,上位集団アイデンティティと元の集団アイデンティティを同時に持つようにする)が提唱されている.

 

  • 集団内アプローチ:集団内の相互作用の中でいかに偏見・暴力を低減させるか
  • (1)反暴力的規範の醸成・風土の変革:集団メンバーの行動は集団規範に大きく左右される.そして集団規範は歴史的時間軸に添って変化可能であることが知られている(ここ20年の日本社会の飲酒運転に関する社会規範の変化が例にとられ,規範の変化が偏見の強さと相関することを示す実証実験,(ジェノサイドがあった)ルワンダにおけるフィールド介入実験が紹介されている).
  • (2)多様性と包摂性:社会の中で多様性が増すと(それ自体は望ましいとしても)様々な外集団との関わりが増え,集団間紛争が発生しやすい状況になる.これを防ぐには社会の中の多様性のマネジメントが重要になる.
  • 多様性の研究(ダイバーシティ研究)においては,集団暴力や紛争を低減させるためには包摂性(インクルージョン:集団が,個人に所属感を与え,個人が自分らしく振る舞うことをよしとすること)が重要であることが指摘されている.これはある意味共通上位集団を形成しようとする試みであるし,包摂性を高めるには社会規範が重要になる.

 

今から紛争と暴力がより減少した未来をいかにつくっていくか? ーあとがきにかえて

 
著者は「あとがきにかえて」と称して,本書の知見とピンカーが示した人間社会の暴力の低下傾向との関連,そして未来に向けて取り組むべき方向を提示し,本書を終えている.

  • ピンカーは「暴力の人類史」において人間社会の暴力性が一貫して低下していることを示した.ピンカーは様々な要因を挙げているが,本書の議論に沿っている点としては,社会の中で外集団への共感が重視されるようになり,多様性と包摂性を重視する社会規範に移り変わってきたということがある.
  • 暴力に対する社会の規範や価値観は実際に大きく変化してきた.それは現代日本の一世代程度の期間においても観察できる.社会規範は暴力を許容しないものに変化し,それが心理的に内在化され,実際に暴力は減少している.ここには社会の個人主義かも関わっているだろう.そして社会規範の変化は「きれいごと」を唱え続けてきた結果なのかもしれない.理念と正義に向き合った「きれいごと」を唱えることは実はとても大事なことなのだろう.
  • しかし本来集団は状況次第でよい方にも悪い方にも転がりうる.この潮流を維持するためには不断の努力が必要なのだ.そこでは社会・集団・組織レベルにどう働き掛けるかが重要であり,それには「集団心理」の特徴を知ることが必ず重要になると確信している.

 
以上が本書の概要になる.内容的には集団心理と暴力に関する社会心理学的知見が中心になっているが,特に集団モードで何が生じるかについて詳しい.どのような状況で暴力が生じやすいのか,それをどう心理的な至近メカニズムとして説明するか(各種理論),どのような実証がされてきたのかが簡潔でわかりやすくまとめられていて,大変勉強になった.暴力の心理学に興味がある人にはとても役立つ一冊だと思う.

*1:日本における追試では,標本数は少ないもののアメリカと比べてやや高い服従率が報告されているようだ.分水嶺とされる150V(サクラの被験者が「出してください,心臓がおかしい」と訴える水準)までの服従率で日本は90%超え,オリジナルのミルグラム実験では83%,アメリカの追試では70%.

*2:これが進化の過程で植え付けられた根源的な本性だと説明があるが,どのような適応なのかについては触れられていない

書評 「哺乳類前史」

 
本書は古生物学者エルサ・パンチローリによる哺乳類の祖先たちを語る本だ.哺乳類については恐竜絶滅後の大放散の物語が有名だが,それ以前の古生代,中生代の祖先たち(単弓類,盤竜類,獣弓類,キノドン類)の歴史は同時代の恐竜の物語に比べて一般的にはそれほど知られていない.彼等は時に様々なニッチに進出して栄え,時に衰退する歴史を刻んでいる.著者は発掘物語などを横軸に絡めながらこの大いなる歴史を語ってくれている.原題は「Beasts Before Us: The Untold Story of Mammal Origins and Evolution」.
 

序章

 
序章では,化石が過去の進化のパターンや絶滅した動物の様々な特徴を教えてくれること,古生物学がビッグデータ解析とCTスキャンにより大きく変容していることが語られ,本書の大きなテーマは巷にある誤解「哺乳類は爬虫類から進化したが,恐竜時代には怯えきって恐竜の足下を走り回っているだけだったのであり,その歴史は恐竜絶滅とともに始まった」を正すことだと宣言されている.
 

第1章 霧とラグーンの島

 
第1章はスコットランドのスカイ島のジュラ紀中期の地層発掘のフィールドワークの様子が淡々と描写されている.発掘調査可能なジュラ紀中期の地層は限られていて,スコットランドはその貴重な産地の1つなのだ.ここではジュラ紀中期は主要な脊椎動物分類群の多くが分岐した時代(恐竜,哺乳類,海生爬虫類,翼竜の多様性が爆発的に増大した時代)であること,生態系やその機能を本当に理解するためには巨大な動物だけでなく小さな動物の化石も重要であり中生代の哺乳類はそのような最重要グループの1つだということが強調されている.
 

第2章 カモノハシは原始的じゃない

 
第2章は哺乳類の祖先系列が古生物学に認識される学説史が描かれている.冒頭は1824年のバックランドによる恐竜が存在することの地質学会報告のエピソードから始まっている. 

  • バックランドが見つけたメガロサウルスが発見されたのは英国のストーンフィールズの地層だった.それはジュラ紀の地層であり,同時に哺乳類と思われる小さな化石も発掘されていたが,注目を集めることはなかった.
  • 当時中生代は第二紀と呼ばれており,世界のほとんどは海に水没していた爬虫類の時代だと考えられていた.小さな哺乳類が水と爬虫類の世界で発見されたことに困惑したバックランドはキュビエの意見を求めた.キュビエはそれを有袋類のオポッサムの化石だと判断し,地層は第三紀のもので英国の地質学者たちが間違っていると考えた.
  • ライエルは英国の地質学者の見解を擁護し,また中生代が水の世界であったわけではないことを示した.彼にとって中生代にオポッサムがいたことは(当時転成説と呼ばれた)進化のアイデアが間違いであることの証拠となった
  • オーウェンは有袋類と有胎盤類の解剖学的特性を詳しく比較し,有袋類が有胎盤類と爬虫類の中間的な特徴を持つと指摘した.バックランドはこれを読み,有袋類が爬虫類の時代から産出された説明(それは哺乳類の時代への原始的な前触れだった)として受け入れた.
  • 有袋類や単孔類が有胎盤類より劣っているというのは全くの誤解だ*1.単孔類にはいくつかの驚異的な特徴(カモノハシの吻の感覚受容器,歯の消失と吻の角質の表面構造,ハリモグラの頭骨の吸虫管としての完成度など)があり,それは最先端とも呼べるものだ.
  • キュビエは後にこの化石を再検討し,現生のオポッサムの絶滅した近縁種と結論づけた.この他にも中生代の哺乳類の化石がいくつか見つかり,オーウェンはそれらをモノグラフにまとめ「中生代の哺乳類は例外なく下等だ」とした.この段階で中生代の哺乳類は20属を数えるようになっていた.
  • 19世紀末,恐竜化石をめぐる化石戦争で有名なコープとマーシュは哺乳類化石も集め,発掘されたジュラ紀の哺乳類化石は一気に増大した.中生代哺乳類に関する古生物学は,咬頭と歯の数と食性推定の学問となった.オズボーンはそれらを肉食性,雑食性,昆虫食性,植物食性に分類しようとしたが,納得のいく分類体系には達しなかった.これらが有袋類であるという前提にも疑問がつけられるようになった.
  • 20世紀になり,進化と系統樹の考えが普及するにつれ,中生代哺乳類は現生哺乳類の祖先であると認識されるようになった.彼等は生態学的パイオニアであり,解剖学的魔術師であり,食性の改革者であり,恐竜以前の陸上を支配したことがだんだんわかってきたのだ.

 

第3章 頭にあいた穴1つ

 
第3章から哺乳類前史が始まる.それは石炭紀(359〜299百万年前)の脊椎動物の陸上進出イベントから始まる.

  • 石炭紀は酸素濃度が高く温暖でシダ,コケ,トクサの巨大な親戚たちが大森林を形成していた.この時代に最初の四肢動物が陸上に進出した.それはシーラカンス,肺魚とともに肉鰭類を構成し,両生類,爬虫類,鳥類,哺乳類の共通祖先だ.
  • 初期四肢動物がどのような動物であったのかはデボン紀の終わりから石炭紀初期にかけてのローマーのギャップと呼ばれる化石記録の欠乏期があり,あまりよくわかっていなかった.しかし最近四肢動物の初期進化と多様化を探求するプロジェクトによりいくつかの化石が発見されて,解明が進みつつある.
  • 石炭紀の後期に,石炭紀雨林崩壊と呼ばれる小絶滅イベントが起こり,森林構成が裸子植物中心に変化した.四肢動物は現生の両生類に続く無羊膜類と,爬虫類,哺乳類に続く有羊膜類に大きく分岐した.無羊膜類は口腔の上げ下げにより呼吸する方式を採用し,幅広く平たい頭部を持っていた.有羊膜類は胸の筋肉を使った呼吸方式を採用し,直立した姿勢と長い首という体型を可能にした.これは植物を顎の先端で齧りとる採食行動を可能にした.
  • その後石炭紀末期の3億年前頃,有羊膜類は単弓類と竜弓類に分岐した.竜弓類はカメ,翼竜,トカゲ,ムカシトカゲ,魚竜,ワニ,恐竜(鳥を含む)を含む多様化し非常に成功した系統となった.本書では後の哺乳類につながる単弓類の歴史を追っていく.
  • 単弓類の最も古い化石はカナダのノバスコシア州の石炭紀の地層から発見された.アサフェステラ,プロトクレプシドロプス,アルカエオティリスなどだ.
  • 単弓類の特徴は頭骨の両側に側頭窓と呼ばれる穴が左右1つずつ開いていることだ.この穴に口を開閉する筋肉の付着部分がある.初期四肢動物における穴の配置は咀嚼や採食に方法の違いに結びついているのかもしれない.なお竜弓類のほとんどは穴が2つずつ開いている双弓類だが,穴の獲得と喪失が複数のグループで生じており,従来考えられていたより複雑であることがわかってきている.
  • 単弓類はかつて「哺乳類型爬虫類」と呼ばれたこともあったが,これは哺乳類と爬虫類の系統についての根本的な誤解に基づいた呼び名だ.初期単弓類の体型が爬虫類っぽいのは共通祖先である初期有羊膜類のボディプランの名残に過ぎない.

 

第4章 最初の哺乳類時代

 
第4章からペルム紀(299〜252百万年前)に入る.最初に栄えた単弓類は盤竜類と呼ばれる.ここではスコットランドの採石場のフィールドワークの様子も詳しく語られながら描写されている.

  • 人々は生物の歴史にも「支配者」を見いだし,例えば新生代を哺乳類の時代と呼ぶ.新生代の最大の動物が哺乳類だからだろうが,それは視野が狭い見方だ.本当の「哺乳類の時代」は実はずっと昔にあった.
  • ペルム紀は石炭紀より乾燥化した.森林は針葉樹とシダ種子植物に入れ替わった.そして単弓類も拡散をはじめ,カセア類,オフィアコドン類,エダフォサウルス類,スフェナコドン類に分かれた.これらの動物たちは総じて盤竜類(pelycosaur)と呼ばれる.これはラテン語で骨盤トカゲという意味だが,彼等は断じて爬虫類ではなかった
  • 最も有名な盤竜類はディメトロドンだろう.ディメトロドンとエダフォサウルス(この両者は近縁ではなく,盤竜類の離れた系統に由来する)の背中の帆を形成する神経棘の役割については今も議論が続いている.最も有力な説は体温調節に用いたというものだが,血管の経路まで調べて体温調節機能をシミュレートした研究によるとディメトロドンの帆には体温を日中に3〜6度ほど上昇させる効果しかなかったことがわかった.エダフォサウルスの帆はさらにその半分程度の効果しかなく,その神経棘にある奇妙な水平突起はむしろ放熱性能を高める特徴があるとされた.この仮説は彼等が外温性であることを前提にしたものだが,現生の外温性生物で背中に帆を持つものはいない.
  • 脂肪の塊の支柱だったのではという仮説も提出されたが,その後の研究はこの説に対する反証を積み重ねている.帆などなく防御用の棘だったという仮説もあるが,ディメトロドンは頂点捕食者であり,防御の必要性はなかっただろう.カモフラージュ仮説もあるが,現生生物で帆によるカモフラージュを行うものはいない.性淘汰産物だというのが最もありそうな説明だと思われるが,性的二型性があったかどうかを判断できるほどの化石が見つかっていない.
  • 盤竜類の主要系統の1つがカセア類だ.彼等は植物食に特化した最初期の動物の1つになる.カセア類(そしてエダフォサウルス類)は幅と厚みのある胴体を持っており,おそらく共生細菌による発酵槽を持っていたのだろう.

 

第5章 血気盛んなハンターたち

 
第5章は引き続きペルム紀に栄えた単弓類.盤竜類と入れ替わるように現れた獣弓類だ.冒頭には生物層序の解説もおかれ,様々な獣弓類の解説の合間にロシアやスコットランドのフィールドの様子も語られている.

  • 盤竜類の中のスフェナコドン類から革新的な新グループが現れた.彼等は獣弓類と呼ばれる.彼等は異歯性を持ち始め,犬歯と切歯の形状がそれより奥の歯の形状と異なるようになった.歯骨が大きくなり,顎のまわりの様々な形質が咬む力が強くなるように変化した.また四肢が胴体の下に位置するようになった.
  • 獣弓類の最も祖先的な動物はビアルモスクス類だ.彼等は前のめりに見える骨格を持ち,大地を走り回っていただろう.
  • そしていかめしい顔つきの恐頭類が現れる.恐頭類には肉食,雑食,植物食の全てがいた.このうち有名なのは植物食のモスコプスで英国のアニメにも登場した.雑食性のエステメノスクスは特に奇抜な頭を持っていた.おそらく求愛ディスプレイに関連した特徴だろう.
  • また最初の剣歯獣(剣歯トラのような大きな牙を持つ動物)も現れた.ゴルゴノプス類とアノモドン類だ.ゴルゴノプスはペルム紀後期に出現すると短期間に主要捕食者としてアフリカ,ロシア,インドにあたる地域を席巻した.剣歯トラがどのように剣歯を使ったのかについては論争が続いている(剣歯を折ってしまうリスクをどう捉えるかの議論が紹介されている)が,ゴルゴノプスの剣歯は生え変わることができたので,待ち伏せして獲物に深い咬み傷を与えるように使ったのだと思われる.
  • アノモドン類は長くて低い胴体に寸詰まりで高さのある頭,太く短い足という体型を持ち,歯とクチバシを組み合わせて使っていた.この仲間には植物食のティアラジュデンス(彼等の牙は間違いなくディスプレイ用だっただろう),樹上性のスミニアが含まれる.そして後に多様化して繁栄するディキノドン類の祖先でもある.
  • 獣弓類はペルム紀最大のイノベーターだった.彼等は繁栄し,様々な新たな適応を進化させた.彼等の大半はペルム紀末の大絶滅を生き残れなかったが,ペルム紀最終盤に現れたキノドン類はその例外となった.
  • キノドン類の側頭窓は大きく,より複雑で大きな顎を持っていた.門歯,犬歯,臼歯は完全に機能分化し,現生の哺乳類によく似たものになった.四肢,腰,肩もより軽快に動けるように変化した.そして呼吸鼻甲介を持つようになった.
  • これらの特徴は内温性と結びつけて議論され,骨の成長率や骨の歯の燐酸塩鉱物の比率などから獣弓類段階での内温性の獲得の主張がなされている.様々な証拠から考えると内温性は獣弓類の様々な系統で様々な程度で進行したのだろう.トム・ケンプはこの状況を相関進行と呼んでいる.

 

第6章 大災害

 
第6章はペルム紀末の史上最大の大量絶滅イベント,そして三畳紀初期の適応放散が扱われる.ここでは大量絶滅について解説があり,代表的な三畳紀初期の化石産地である南アフリカのカルー盆地のフィールドの様子も語られている.

  • ペルム紀末の大量絶滅により,ペルム紀に繁栄し放散した獣弓類たちはそのほとんどの系統が絶滅し,ほぼ完全に爬虫類に取って代わられた.この大絶命の原因はシベリアトラップを作った洪水玄武岩の大量噴出だと考えられている.このイベントは大気中に大量の硫黄,メタン,二酸化炭素を放出し気候が激変した.急速に温暖化が進み,硫酸の雨が降り注いだのだ.海は酸性化し,広範囲に無酸素化した.森林は大規模に枯れ果て菌類が繁栄した.生命世界が回復するまでに1000万年を要した.
  • ペルム紀の大量絶滅を生き延びた四肢動物のグループはわずかで,彼等にとっても状況は容易ではなかった.大量絶滅を乗り越えて短期的に大繁栄する動物はディザスター動物群と呼ばれる.典型例はこの大量絶滅を生き延びて短期的に大繁栄したリストロサウルスだ.リストロサウルスはディキノドン類に属しており,三畳紀の幕開け直後には脊椎動物の90%がリストロサウルス属という異常事態になっていたと考えられている.
  • この他獣弓類ではテロケファルス類とキノドン類が生き延びた.両生類の一部も生き延びて急速に回復して水中の捕食者となった.爬虫類系統(竜弓類)にもぽつぽつと生存者がおり,パレイアサウルス類,主竜様類*2などの一部が生き延びた.
  • リストロサウルス類のモノカルチャーは長続きしなかったが,1500万年を経ても生態学的多様性は回復せず,大型の植物食動物や肉食動物,魚や昆虫を食べるネコより小さな小動物も存在しなかった.
  • 2000万年を経る頃には生態系の再編成が進んだが,チャンスに先に手を伸ばしたのは爬虫類系統だった.恐竜,海生爬虫類(魚竜と首長竜),カメ,ワニ,翼竜が誕生した.彼等はニッチの再獲得競争で獣弓類に勝利した.そして三畳紀の陸上で最初に勝利したのは恐竜ではなくワニの系統だった(これが逆転するのは三畳紀末の大量絶滅の後になる).
  • その傍らで哺乳類系統の後継者もまた革命の火種を保っていた.リストロサウルス類はまもなくディキノドン類の新たなグループに入れ替わり,しばらく地上で最も多い植物食動物の地位を保ったが,三畳紀が進むにつれて衰退していった.ディキノドン類は最後にリソウィシアというゾウのような巨獣を産み出した後絶滅した.生き残った系統はキノドン類だけになった.

 

第7章 乳歯

 
第7章と第8章は三畳紀(252~201百万年前)のキノドン類の物語.ここでは南アフリカの三畳紀のキノドン類の化石を数多く発見し,この分野,特に哺乳類に至る系統学を牽引した古生物学者ロバート・ブルームの逸話が詳しく語られている.

  • キノドン類はペルム紀後期に出現し,大量絶滅をくぐり抜けた.彼等の側頭窓は広がり頬骨の幅と奥行きが増した.これは咬む動作がより正確になったことを意味する.そして口の中には二次口蓋が完全な形で形成された.また肩の可動息が増し,四肢は胴体の下に延びて直立に近づいた.さらに重要なこととして椎骨の部位ごとの分化が生じた.
  • 初期の単弓類には胴体全体に肋骨があった.獣弓類では後方の肋骨が縮小し,三畳紀の最初期のキノドン類であるトリナクソドンでは後方の肋骨が完全になくなり,腰が形成された.これにより彼等は身体を大きく曲げることができるようになり,高速走行,木登りのような運動が可能になり,また横隔膜を用いた呼吸を行うようになった.この単弓類からキノドン類にかけての椎骨の分化の進化は漸進的に生じたのではなく,ステップワイズパターンで生じたことが明らかになっている.
  • キノドン類は大量絶滅を乗り越えたときにペルム紀の祖先たちより小型化していたが,三畳紀が進むにつれてさらに小型化し,複数の系統に分岐した.肉食性のグループにはキノグナトゥス類,プロバイグノグナトゥス類,トリテロドン類が,雑食,植物食のグループにはディアデモドン類,トリティロドン類がいた(これらの系統関係については議論が継続中だ).これらはさらに後に現れて哺乳類の祖先となったグループと区別して非哺乳類キノドン類と呼ばれる.
  • 非哺乳類キノドン類と哺乳類につながるキノドン類を区別する特徴は顎関節になる.後者は顎の後端の関節が歯骨と鱗状骨で構成されている.彼等は三畳紀後期からジュラ紀の初期に現れたと考えられている.そして三畳紀末の大量絶滅により,恐竜が陸上生態系の主役となり,非哺乳類キノドン類は皆絶滅した.絶滅を免れた哺乳類につながる系統はしばしば恐竜の陰に隠れていたと負け犬的に描写される.しかし小型哺乳類はある意味で成功者なのだ.彼等は小型化し,祖先から受け継いだ内温性の特徴を生かして夜行性生物としての多くのニッチを開拓した.彼等の触覚と聴覚は鋭敏化し,咬合力を高めた噛みつき屋になった.歯の形態分化はさらに進み,二生歯性を獲得した(離乳とともに食性が大きく変わることへの対応と,生え変わりを一度限りにすることで精密な咬合を可能にする利点がある).
  • 彼等の中には毒性を持っていたものがいた可能性がある.白亜紀前期の哺乳類ゴビコノドン,ジャンゲオテリウムには蹴爪があった(非哺乳類キノドンでこのような構造は見つかっていない).現生の単孔類であるカモノハシにも毒があり,共通祖先には共有祖先形質として毒があった可能性もある.
  • 歯の石灰化パターンの研究から三畳紀後期とジュラ紀の初期哺乳類が10年以上生きていたことがわかっている.姿はよく似ていても彼等は現生のネズミやトガリネズミとは全く異なる生きものだった.まだ完全に直立しておらず,おそらく卵生でミルクは与えていても乳首はなかった.そして成長パターンもずっとゆっくりだったのだ.

 

第8章 デジタルな骨

 
冒頭ではスコットランドで1971年に発見された中生代哺乳類化石*3をめぐる発掘物語と,その化石を著者たちがグルノーブルの欧州シンクロトロン放射光研究所の強力なX線CTスキャンにかけて分析する話が詳しく語られている.

  • CTスキャン技術は小さな哺乳類の頭骨化石の分析に革命をもたらした.頭骨にある神経の経路,頭頂孔の有無などから三畳紀中期のキノドン類に毛包と乳腺があったこと*4が推測される.
  • 単弓類は内温性を進める中でどのように卵の水分を保つかという問題に直面した.彼等は皮膚からの分泌物により卵を保湿し,感染からも保護するようになった.さらにキノドン類において小型化が進み,卵が小さくなる中で,幼獣の世話の必要性が高まり,ついに皮膚から分泌されるミルクを与えるようになったのだろう.そして乳首が出現し,そこからミルクを吸うための硬口蓋と喉と舌の筋肉が発達した.そして220百万年前(三畳紀後期)頃,彼等は離乳のタイミングで一度だけ歯を新しく交換するようになった.

 

第9章 中国初の大発見

 
第8章はジュラ紀を扱う.その主役は中国で発見された素晴らしい中生代哺乳類化石だ.冒頭では著者たちがはじめて中国の化石の現物を見る印象的な逸話が詳しく語られている.

  • ジュラ紀(201〜145百万年前)は超大陸分裂の時代だ.大陸とともに生物のグループも分断され,サンショウウオ,鳥,哺乳類系統の最初期のメンバーが現れた.この時代ヨーロッパは海に沈んでいたが,中国が赤道付近に点在していた島々が3つのプレートに乗り合流する形で形成され,イチョウなどの裸子植物の森林と淡水の湖が広がった.そして現在中国で素晴らしい中生代哺乳類の化石が次々に発見されている.
  • ペルム紀末の大量絶滅の後に繁栄した多くのキノドン類の中で,ジュラ紀中期まで生き残ったのは哺乳類(哺乳形類)とトリティロドン類だけだった.主竜類が多様化して繁栄する中で哺乳類は一見劣勢にあったように見えるが,彼等は彼等で多様化し,様々な形質を進化させていた.
  • 哺乳類化石はしばしば歯だけに基づいて記載され命名される(そのため彼等の名前は「〜ドン」とされることが多い).現生哺乳類の歯の最も有名な構造はトリボスフェニック(臼歯に3つの咬頭と隆起があってかみ合う構造)だ.しかし三畳紀後期からジュラ紀前期に現れた最初期の哺乳類(哺乳形類)の歯は別の構造を持っていた.
  • 三畳紀後期の最初期哺乳類(哺乳形類)であるモルガヌコドンとキューネオテリウムはともに3〜4個の山が並ぶ単純な構造の歯を持っていたが,詳しく分析すると顕著に異なる咀嚼パターンを持っていることがわかった.前者は硬い外骨格を持つ昆虫,後者はやわらかい昆虫を食べていたようだ.
  • そのすぐ後に現れたドコドン類は複雑な咬頭や隆起のある臼歯を持っており,それは真の哺乳類(現生の哺乳綱)のトリボスフェニックの上下逆の構造だった.そして中国でドコドン類の全身骨格が次々に発見され,中生代古生物学の最重要クレードとして認識されるようになる.
  • 中国のドコドン類化石からは,モグラによく似たドコフォソル,樹上生活を送るアジロドコドン,カモノハシによく似た水中生活に適応したカストロカウダ,史上初の滑空性哺乳類ヴォラティコテリウム,滑空性の哺乳類を多く含むハラミヤ類などの存在が明らかになった.彼等は驚くべき適応放散を遂げた動物群だったのだ.
  • このような適応放散の鍵になったのは複雑な歯だっただろう.最初期のドコドン類は他の動物には利用できなかった新しいニッチ空間の開拓に成功したのだ.トリボスフェニックの鏡像構造の歯を持つドコドン類は将来の真の哺乳類の可能性を試すリハーサルに参加していたように見える.
  • これらの化石は中生代哺乳類の多様性を明らかにし,研究者たちは生態を重視するようになった.現在中生代哺乳類を対象に幾何学的形態測定が行われ,生態学的多様性の解明が進んでいる.

  • ジュラ紀は現生の哺乳類の系統が出現した直後の時代だ.後獣類(有袋類と近縁の絶滅系統を合わせた分類群)と真獣類(有胎盤類と近縁の絶滅系統を合わせた分類群)の分岐がいつ起こったかについては諸説あるが,両者(あわせて獣類と呼ばれる)の共通祖先(でかつ単孔類とは分岐後の祖先)がジュラ紀に生きていたのは間違いない.バックランドが見つけたジュラ紀の「オポッサム」はこの獣類の系統樹の根本近くに位置するものだ.
  • 中国のジュラ紀の地層で見つかったジュラマイアは最初期の真獣類の候補ではないかと議論されている.しかし確実に真獣類と後獣類が分岐したといえるのは白亜紀になってからだ.
  • 中生代哺乳類のイノベーションは歯だけではない.現代の哺乳類はほかの四肢動物をはるかに上回る可聴域を持つ(コウモリは200キロヘルツ,イルカは275キロヘルツまで聞き取る).この優れた聴覚は内耳にある3つの耳小骨により可能になっている.最初の単弓類の顎関節は頭骨が下顎の関節骨と接し,下顎は歯骨,角骨,上角骨,前関節骨,筋突起などの複数の骨で構成されていた.しかしキノドン類では下顎の大部分は歯骨に占められ,残りの骨は縮んで後方に追いやられた.これらの骨は下顎の振動を耳に伝える役割を果たしていた.
  • キノドン類の段階(下顎中骨:MMEC)では角骨がプレート状になり振動し,鐙骨を介して蝸牛に音を伝達していた.方形骨と方形頬骨も音を伝えていたが,両者は強固につながっていて顎関節を補強する一方で可動域を制限していた.
  • このキノドン類の下顎中骨から現生哺乳類の耳(DMME)への転換は進化史の中の奇跡の1つだ.咀嚼のメカニズムが改良され,下顎は筋肉を支える役目から解放され,ますます小さくなった.方形頬骨が退化し,方形骨の可動域が広がった.下顎後方の骨も縮小したが音を伝える役目があったので消失しなかった.そしてサイズの縮小によりこれらの骨は顎関節から完全に解放され,内耳に収まった.
  • しかしこの進化の道筋は複雑だ.見つかっている最古の単孔類化石はジュラ紀後期の160百万年前のものだ.彼等の耳はまだDMMEではなかったが,現生の単孔類の耳はDMMEとなっている.初期獣類(単孔類の分岐後,真獣類と後獣類の分岐前)の耳はDMMEではなかったが,獣類の近縁グループの多丘歯類はDMMEを持っていた.どうやらDMMEは独立に複数回進化したらしい.
  • 哺乳類の耳は左右が実質的に独立している点でユニークだ.そして身体が小型化していて左右の耳の距離が短い場合,音源を定位するためには高周波の音が聞こえることが必要になる.これを可能にしたのがDMMEだと考えられる.そしてDMMEで音源定位できるようになってはじめて耳介を持つことが有利になる.化石に残る最初の耳介は白亜紀前期のスピノレステスのものだ.
  • ジュラ紀が終わりに近づくにつれドコドン類は衰退していった,そして単孔類の祖先や獣類の祖先という哺乳綱の初期メンバーがそれに取って代わって白亜紀の繁栄を迎えることになる.

 

第10章 反乱の時代

 
第10章は白亜紀を扱う.ここでは戦時下の英国で政府監視の元活躍したドイツ人古生物学者ウォルター・キューネや最も偉大な中生代哺乳類研究者であるポーランド生まれのゾフィア・キエラン=ヤウォロウスカの業績が詳しく語られている.

  • トリティロドン類は非哺乳類キノドン類の中で白亜紀まで残った唯一の系統だ.その1つであるオリゴキフスはキューネ夫妻によって詳細なモノグラフが出されており,哺乳形類および哺乳類の系統関係を検討する上での重要な外群としての参照点になっている.トリティロドン類は草食性で,2つの山脈が前後方向に平行に走るような形の奥歯で葉っぱをすりつぶして食べることに特化して恐竜の時代を生きた.彼等は歯の摩耗の問題を奥歯をエスカレーター式に継続的に生え変わらせることで解決した.現生の哺乳類ではゾウが同じ問題に対してベルトコンベア式に入れ替える方式で解決している.また齧歯類は,前歯の摩耗の問題をそれを伸び続けさせることにより解決している.そしてトリティロドン類の中にも齧歯類型の頭骨を進化させたものがいた.巨大な門歯とその後ろの(犬歯を失った後の)歯隙を持ち奥歯はゾウのようなベルトコンベア式で生え変わった.
  • 彼等は一度の産仔数がとても多く,また乳歯と永久歯という二生歯性を持たなかったことから新生児にミルクを与えていなかったと推測される.
  • ジュラ紀中期から白亜紀前期にかけてついに真の哺乳類の系統が台頭する.彼等は齧歯類に似たペンチ型の頭骨とすりつぶしに適した臼歯を持ち,被子植物のある世界に適応した.そしてトリティロドン類を主要な植物食者の地位から追いやった.
  • 白亜紀には太平洋東縁のプレートが別のプレートの下に潜り込み始め,ロッキー,アンデスの大山脈が形成された.空気の流れが変わり気温は温暖化した.被子植物は裸子植物が支配するジュラ紀の間マイナーな構成要素に過ぎなかったが,白亜紀に入ると主役となった.化石記録のスーパーブルーム(大規模な適応放散)は白亜紀中期に突然生じている.昆虫,哺乳類,爬虫類は皆花蜜や果実に適応して多様化した.この被子植物の突然の多様化については,これまで送粉者との共生進化の点から議論されてきたが,最近は葉の物質交換の効率向上を主因とする可能性が注目されている.
  • トリティロドン類の絶滅は哺乳類に比べて競争上劣っていたという説明がよくなされるが,タイミングを考えると植物相の変化にうまく適応できなかった(ある意味運)の問題だと考えられる.
  • トリティロドン類に入れ替わって台頭した最初の真の哺乳類は植物食の多丘歯類だ.彼等は獣類(有胎盤類と有袋類の系統)とは別の系統に属する哺乳類で北半球の様々な植物食のニッチで繁栄した.
  • また複数の系統の哺乳類は超肉食になった.その中で中国で発見されたゴビコノドン類のレペノマムスは化石の上腹部に残る塊から恐竜を捕食していたことがわかり,一躍有名になった.
  • これまでに発見された化石から,白亜紀の北半球では多丘歯類,ゴビコノドン類,獣類がいたことがわかっているが,南半球の様子はまだよくわかっていない.そのなかでゴンドワナ獣類(その位置づけについては多丘歯類との関係を含めまだ議論の最中でよくわかっていない)と呼ばれるグループがアルゼンチン,マダガスカル,タンザニア,インドで発見され,彼等が古第三紀まで生き延びたことがわかっている.

 

第10章 故郷への旅

 
第10章はこの哺乳類前史の実質的なエピローグにあたり,白亜紀末の大量絶滅とその後の哺乳類の適応放散が描かれる.冒頭ではこの大量絶滅についての小惑星衝突説が解説されている.また最後には「エピローグ」として現在進行中の気候変動についても解説がある.

  • 白亜紀末の大量絶滅で非鳥類恐竜は絶滅した.鳥類の中ではカモ類,キジ類,走鳥類,一部の小型の飛翔性鳥類が生き残った.翼竜はすでに極くわずかの系統しか生き残っていなかったが,ここで絶滅した.海生爬虫類も絶滅した.トカゲ類,両生類は複数の系統が生き残った.
  • 哺乳類も多くが絶滅した.繁栄していた多丘歯類,後獣類は旧大陸で衰退した.そしてその中で台頭したのが真獣類の哺乳類だった.
  • 中生代と新生代を通した哺乳類の体重変化の速度とパターンの分析によると,中生代を通じて哺乳類の進化パターンは最適値のまわりを揺れているもの(オルンシュタイン・ウェーレンベック・モデル)だったが,大量絶滅後突如ブラウン運動パターン(ランダムパターン)に切り替わったことを示している.これは大量絶滅により何らかの制約が取り払われて大規模な適応放散が生じたということの裏付けになる.
  • この制約はこれまで恐竜の存在による抑圧と考えられてきた.しかしこの考えは単純すぎるのではないかと思っている.哺乳類系統は隅っこに追いやられたのではなく,見事に夜行性に適応し,脳と感覚系を作り替え,中生代においても様々な適応放散を見せている.
  • 私たちは分析対象を3つに分けた.初期の哺乳形類(ドコドン類など),最初期の真の哺乳類(多丘歯類,ゴビコノドン類など),獣類だ.そして中生代を通じての表現型の変化を分析した.
  • その結果以下のことがわかった.哺乳形類と初期哺乳類は中生代の大半に渡って獣類より多様性が高かった.そして彼等は白亜紀に入っても新たなニッチへの適応を続けていた.これに対して獣類はたいした放散を見せなかった.獣類が受けていた制約は恐竜よりも哺乳類の別の系統群からのものだった可能性が示唆される.恐竜の体サイズ進化を分析すると彼等の最適値はかなり大きいことがわかる(鳥類系統は例外になる).
  • そして小型化,高温化して活動性が上昇していた哺乳類と鳥類だけが大量絶滅を生き延びた.これらの特徴は穴居性,半水生,昆虫食などに結びついており,生き延びるのに役立った可能性がある.
  • 大量絶滅直後に哺乳類に何があったのかはよくわかっていない.マダガスカルのゴンドワナ獣類は一掃され,新たに流れ着いた有胎盤類による独自の動物相が形成された.多丘歯類はしばらく順調だったが,やがて衰退する.これまでは齧歯類との競争に敗れたと説明されてきたが,この両グループの相互関係の全貌は明らかではない.多丘歯類は始新世後期までに絶滅した.
  • 古第三紀に最初に繁栄したのは,かつて顆節目と呼ばれていた動物群だ.顆節目は今では雑多なゴミ箱分類群だと考えられている.みな有胎盤類であることは明らかだが,身体的特徴の詳細や他グループとの関係は化石が少なく互いに似ていることによりはっきりしていない.
  • 確かなのは現生の哺乳類の全ての初期グループが古第三紀の開始から10〜20百万年前の間に大いに繁栄したことだ.有袋類は北米で新たなグループへと放散し,その後南米に渡りパタゴニア,そして南極大陸に到達した.そこではゴンドワナ獣類もしばらく生き続けたが,始新世前期の化石を最後に絶滅した.有袋類は南極全域に広がり,分裂直前にオーストラリアに渡った.単孔類はゆっくりとした歩みを続けたようだ.6100万年前のパタゴニアで単孔類の化石が発見されている.またカモノハシそっくりの2800万年前の化石がオーストラリアで見つかっている.
  • そして有胎盤類がほぼ全ての大陸でいくつもの系統に急速に多様化した.彼等はアフリカ獣類とローラシア獣類に分岐し,コウモリやクジラ偶蹄目の祖先が出現した.さらに齧歯類や霊長類を含む真主齧上目が形成され,多丘歯類に取って代わった.58〜55百万年前にプレシアビダスが現れ,ここからキツネザル,サル,類人猿が出現し,そしてヒトにつながった.

  
以上が本書の内容になる.古生代に哺乳類の祖先系統である盤竜類や獣弓類などが後の恐竜につながる主竜類系統より栄えていたというのはある程度知られているところだが,恐竜の陰に隠れていたキノドン類,そしてそこから派生したドコドン類,トリティロドン類などの物語はこれまで一般向けにはあまり紹介されていない部分で,本書で解説される古生物史は大変興味深いものだ.そして盤竜類,獣弓類,非哺乳類キノドン類,ドコドン類において大規模な適応放散が繰り返されているのが特に印象的だ.また謎めいた多丘歯類やゴンドワナ獣類の物語にも興味が持たれ,今後も解明が進んでいくことを期待される.なおこれだけ複雑な古生物の歴史であり,文中で系統について詳しく語られているにも関わらず,(そして化石や復元図,歯や頭骨の図はいろいろ掲載されているにも関わらず)系統樹が一切図示されていないのはとても残念だ*5.ともあれ語られる物語はとても魅力的で,古生物や恐竜が好きな人にはとても面白い一冊だと思う.
 
 
関連書籍
 
原書

 
単弓類系統の栄枯盛衰についてはこの本が印象的だった.

 
最近ではペルム紀限定でこのような本も出ているようだ.

*1:ここで著者はこの誤解には当時のヨーロッパの帝国主義的世界観が影響していると主張している.本書にはこのようなポリコレ的な記述が随所にあり,1つの特徴になっている

*2:竜弓類の中の系統分類にはいくつかの仮説があるようだ.初期に分岐したいくつかの系統を無視すると竜弓類は大きく鱗竜様類(トカゲ,ヘビの系統)と主竜様類(恐竜,翼竜の系統)に分かれ,主竜様類の中で初期に分岐したいくつかの系統を除くものが主竜類と考えておけばいいようだ

*3:これがドコドン類であることは第8章で語られている

*4:これはマウスにあるMsx2遺伝子が頭頂孔,毛包,乳腺の形成に関わっていることからそう推測されるそうだ

*5:というわけで私は分類群が出てくるたびにそれを系統樹の形にしてノートしながら読むことになったが,やってみるとその作業含めて大変楽しかった