書評 「進化政治学と平和」

 
本書は進化政治学者伊藤隆太による3冊目の進化政治学本になる.伊藤は1冊目の「進化政治学と国際政治理論」では国政政治理論の古典的リアリズムを進化心理学的知見を基礎に進化リアリズム*1として再構築し,(ネオリアリズムの立場から見ると不合理な)戦争開始決定を部族主義,過信,怒りなどの概念を用いて説明してみせた.2冊目の「進化政治学と戦争」においては進化リアリズムの基礎的知見を人間行動モデル*2として提示し,ヒトには戦争することに使われる人間本性が備わっているとする「戦争適応化説(個人レベル,集団レベルの抗争を可能にする心理メカニズムを奇襲と会戦に分けて説明するもの)」を提示した.2冊とも科学哲学的に実在論に立っていることを強調している.そして今回の「進化政治学と平和」においてはやはり実在論を強調しながら新しく進化リベラリズムを提唱することが目指されている.
 

序章 進化政治学に基づいたリベラリズム

 
冒頭ではピンカーに対する除名運動騒ぎを引き合いにして現代のリベラリズムが危機にあると論じられる.運動家たちは本来実証的に論じられるべき問題(警官の黒人射殺が多いのは制度的レイシズムがあるからか,それとも単に警察との接触機会が多いからか)に対して,差別の問題の矮小化だと決めつけてピンカーの社会的立場の抹消を企図した.伊藤はこのようなキャンセルカルチャーを推し進めるwoke progressiveはリベラリズムの仮面を被った不寛容で権威主義的な反自由主義者だと断罪する*3
そしてこのような問題の根底にはヒトの認知に進化に由来するバイアス(とそれを利用して大衆を操作しようとする試み)があるのであり,これに対処するには進化的な視点を持つコンシリエンスに基づいた啓蒙が重要だとする.そしてその中核としての進化リベラリズムと進化啓蒙仮説が本書のテーマとなる.
 

第1章 進化政治学を再考する

 
まずこれまでの2冊の著作の復習的な内容がおかれている.進化政治学は進化学的発想(特に進化心理学)を政治学に応用する試みであること,自然淘汰や進化学の概説,進化心理学の概説,特に領域固有性(モジュール性)の解説が簡単に行われている.ここではヒトラーによる独ソ戦の決定(ネオリアリズム的には不合理な決定だが,過信により説明できる)の説明,ロングとブルケによる領域固有性と和解心理に基づいた国際政治理論などの話題が出てくるのが進化政治学書らしいところになる.
 
ここから進化政治学がもたらす政治学のパラダイムシフトが解説される.

  • 進化政治学のもたらす大きなインパクトは非合理的な政治行動を科学的根拠が備わった形で説明できることだ.(非合理な行動としては引きあわない戦争の開始,自爆テロが例に挙げられている)
  • 2番目のインパクトは既存の研究に進化的視点から科学的根拠を与えることができることだ.(古典的リアリズムのアナーキー観の根拠付けが例にあげられている)
  • 進化政治学は究極因まで考察するので,現状の問題の解決策を(ほかの政治的な立場より)深く考察できる.(ここでは至近要因に偏りがちな政治心理学と,究極因も視野に入れる進化政治学の統合が提唱されている)

 
最後にこのようなパラダイムシフトの具体的な成果がいくつか紹介されている.

  • 新たな理論的視座が提供されている.例えばマクデーモット,ロペス,ピーターセンは進化政治学に基づいた新奇な国際政治学的仮説を提唱している.(集団を単一アクターとして少々する心理メカニズム,指導者による敵への憤りの利用,相対的利得と絶対的利得の選好の条件性(同盟国なら絶対性,敵国なら相対性),好戦的な外交政策をとる要因,特に性差を用いた仮説になる) 
  • 国際関係論のリアリズムを科学的根拠を持つ形で再構築している.セイヤーは古典的リアリズムを人間本性の観点から再構築し,ジョンソンとともに攻撃的リアリズムを科学的に強化した(自助,相対的パワー極大化,外集団恐怖を用いる).
  • ペインは戦争を狩猟採集時代から現代まで連続的に解明しようとしている(感情,特に名誉にかかわるものを要因として考える)
  • 過信について様々な科学的根拠を持った議論がなされている.ジョンソンは過信をキーに肯定的幻想理論を構築し,第一次世界大戦,ヴェトナム戦争,イラク戦争を説明した.またティアニーとともにルビコン理論を構築した.
  • ジョンソンとトフトは戦争における領土の重要性を進化ゲーム理論から説明した.
  • マクデーモット,ロペス,ハテミは進化的な知見に基づいた政治的リーダーシップのモデルを構築した.
  • セイヤーとハドソンはイスラム世界で自爆テロが多いことを一夫多妻制と包括適応度から説明する仮説を提示し,データの裏付けを行った.
  • セイヤーは核抑止論を合理的アクターのゲームではなく,損失回避や感情を組み込んだアクターのゲームとしてモデル化して第三世界の独裁者による瀬戸際外交を説明した.
  • ロングとブルケは国際紛争の和解をめぐる進化的モデルを構築し,和解に向けたシグナルの重要性を説明した.
  • メルシエは国際政治学の分析概念としての感情を4つのカテゴリー(付帯現象,非合理性の原因,機転の利く戦略のためのツール,合理性の構成要素),3つの分析レベル(個人,国内,国際システム)で分析した.

 
基本的にはおさらいの章で,前2冊を読んでいない読者には親切な作りだ.様々な進化政治学の議論が進展している様子は興味深いところだ.
 

第2章 政治学と人間本性

 
第2章では既存の(政治学を含む)社会科学の何が問題なのかが整理される.1冊目の「進化政治学と国際政治理論」では既存の理論についてブランクスレート,合理的経済人のような科学的事実とはいえない前提を持つ社会学や経済学,および道具主義にたつ経済学や政治学を実在論の立場から批判してきたが,本書ではかつてコスミデスとトゥービイが行った標準社会科学モデル(SSSM)批判の枠組みに整理し直している.

  • SSSMの前提はブランクスレート説(ヒトには遺伝的に決まる人間本性はない),ヒトの行動は生物学の対象にならない(生物学恐怖),ヒトの行動は文化を含む環境要因のみにより決定される,進化は脳に及ばない(デカルトの機械の幽霊)というところにある*4が,これらは正しくない.
  • これらの前提はロック,ルソー,デカルトに由来するといえる.ロックは「人間悟性論」でブランクスレート説的主張を行った.これは人間は皆平等であるという考えにつながり,フランス革命などの民主主義的革命の大きな影響を与えたが,片方で権威主義的ハイモダニズムやソビエト共産主義や中国の文化大革命の根拠ともなった.ルソーは「高貴な野蛮人」」説を唱え,西洋文明に批判的だった.これはポストモダニズム的な反文明論につながり,ギアツやミードの文化相対主義に影響を与えた.デカルトは心身二元論を主張し,ヒトの本質は心にあり,それは物理科学的に分析できないとした.これらの主張が科学的に正しくないことは今や明らかである.
  • これらに対して最近の科学的知見はホッブスの見方が真実に近かったことを示している.ホッブスは人間本性の中に競争,不信,誇りという争いの原因を見いだした.これらは進化環境における部族間闘争,相互敵対状況のゲーム理論的分析,抑止の信頼性の分析から裏付け可能である.ホッブスはこの争いの解決策としてリヴァイアサンを提示したが,現代の国際関係にはリヴァイアサンは存在せず,アナーキー状態である.それがリアリストが国際関係の分析において国内政治のアナロジーを拒否する理由になる.リヴァイアサン不在時にはヒトはより人間本性(部族主義,自己胞子バイアス,楽観性バイアスなど)にしたがって行動しがちになる.国際関係においては人間本性の考察は非常に重要になるのだ.

 
ここは著者のよって立つ科学哲学の実在論をSSSM批判という形で整理して見せてくれている章になる.著者の立場は実在論にたって,科学的知見であるホッブス的人間本性を政治学に組み込むべきだというものになる.
 

第3章 修正ホッブス仮説

 
第3章ではホッブスの議論を拡張,ブラッシュアップして新たな自然状態論である「進化的自然状態モデル」が提示される.

  • 進化的視点から考察すると,ヒトには攻撃適応があると考えられる.ヒトには攻撃システム(自己や敵の戦闘能力を査定し,それにより条件的に振る舞う)が存在し,それには性差がある.様々なリサーチはそれを裏付けている.
  • セルは怒りの修正理論を提唱している.それによるとヒトは無意識に相手の強さのキューを検知し,強い男性ほど怒り,攻撃経験,攻撃性の支持,好待遇の期待,争いの成功経験を持ち,強い兵士ほど怒りと攻撃の閾値が低く,戦争の効用を信じる傾向にある.
  • 片方でヒトには協調適応もある(互恵性や社会的交換について解説がある*5).
  • ヒトの自然状態論を考察する際に重要になるのが部族主義だ.ヒトに部族主義があることは科学的に説明できる.*6
  • 狩猟採集時代のダンバー数程度の集団は特別に高い地位を占める男性に率いられ,かつ平等主義的であったことが推測されている.(ボームの平等主義とリバースドミナンスの説明が解説されている)*7 真の意味でリアリスト的な政治的指導者は単に相手を恐れさせるのではなく,尊敬されることで権力を獲得,維持,拡大するものだったはずだ.
  • このような初期のヒト社会の中では協調すると見せかけて自己利益を追求できることが最適解になるだろう.この状況が自己欺瞞を説明する(トリヴァースの自己欺瞞の理論が紹介され,ドナルド・トランプについて議論されている).政治指導者が自己欺瞞に陥ると,政治学的に「過信」と呼ばれる問題が生じる.これは不合理な開戦決定,軍事的無能などを説明する重要な概念になる.
  • ホッブスに端を発するリアリストリサーチプログラムに科学的根拠を与えて整理したのが(著者による)進化的リアリズムの戦争適応仮説だ(集団レベルの戦争を奇襲と会戦に分けてそれぞれの心理メカニズムを整理した前著の議論が要約されている.*8
  • この戦争適応の政治学的インプリケーションは,戦争原因を国家間アナーキーにのみ求めるネオリアリズムが必ずしも妥当ではなく,人間本性が戦争を起こすと考えた古典的リアリズムの方が分析レベルにおいて優れていた(国家間アナーキーがキューとなって政治指導者の人間本性に与える因果効果が重要)ということだ.

 
この章で科学的知見としての人間本性を組み込んだ著者の国際関係モデルが提示される.そしてネオリアリズムよりも古典的リアリズムの方が,そしてそれをブラッシュアップした進化的リアリズムの方が(実在論的意味で)優れていると主張されている.実在論は著者の立場ということだろう.私としては前著の書評でも書いたが,あえて声高に実在論を叫ばなくとも道具主義的に立ったとしても,そして今回のプーチンのウクライナ侵略を説明できるかという1点だけからでも進化的リアリズムの方がネオリアリズムより優れた道具だと主張できると考えられる*9し,それで十分ではないか(道具主義に立つ政治学者に対しても進化的フレームワークの有用性が主張できて学界内での説得力が増すのではないか)という思いを禁じえない.*10
なおこの章は(註に落としておいたが)進化的な説明のところどころで説明がやや雑になっており,危なっかしい記述が目立つ部分になっている.
 

第4章 平和と繁栄の原因

 
第4章において著者はピンカーの暴力減少説を基礎に進化的リベラリズムを提唱する.

  • ピンカーの提示した暴力減少説はリベラリズムにとって重要だ.それはリベラリズムが平和のための環境要因として主張してきた民主主義,経済的相互依存,国際制度と暴力減少との因果を科学的根拠をもって再構築していると同時に,(科学的にはルソーより正しい)ホッブス的人間本性がリベラル啓蒙主義により相殺されて平和が生まれるという新奇知見を付け加えるからだ.(これらの再構築と新奇知見が追加されたリベラリズムを著者は進化的リベラリズムと呼ぶ)
  • ピンカー説を批判する政治学者も存在する*11が,進化的視点にたつ学者の圧倒的多くはピンカー説を支持する.
  • ピンカー説に立てば,平和のために重要なのは理性と科学による啓蒙ということになる.理性によりシステム1のバイアスを抑え,情緒的な議論(ドグマ,オカルト,宗教,神秘主義,ロマン主義)の問題点を理解し,科学により無知と迷信(そして科学を敵視するポストモダニズム)から脱却すればよいということになる.(ここで科学的実在論の擁護と反実在論の依拠する決定不全性のテーゼが誤っていることについての議論がなされている)
  • 事実として暴力が減少傾向にある(これをデータで裏付けるのが合理的楽観主義になる)にもかかわらず多くの人が世界を悲観的に見てしまうのはなぜかについては,自然主義的誤謬,(事実から規範を導こうとする)生得的認知バイアス,(物事を悲観的に見て警戒しようとする)ネガティビティバイアス,利用可能ヒューリスティックとマスメディアの姿勢から説明できる.
  • 進化政治学はリベラリズムが論じてきた平和の因果論に新しい理論的説明を付け加えることができる.これは科学的実在論でいう使用新奇性の意義を持つ.

 
本章は著者なりのピンカー読解ということになるだろう.コンパクトによくまとまっていると思う*12
 

第5章 進化的リベラリズムに対する批判:欺瞞の反啓蒙仮説

 
第5章では第4章で説明された進化的リベラリズムにしばしば寄せられる非理性的な反発がなぜ生じるのかを扱う.

  • 社会や学会には,現代の科学が明らかにしたホッブス的人間本性を拒絶するラディカル左派やラディカル右派が存在する.これらの非理性的態度はいくつかの生得的バイアスから説明可能だ.
  • ヒトはパターンを探し,(火災報知器の原理から)より重大な悪い結果をもたらすリスク(そしてこれはしばしば悪意あるエージェントの意図になる)を過大に評価する.これによりヒトは超自然現象や陰謀論を信じやすくなっている.
  • ミームはそれが真実かどうかではなく,伝播しやすいかどうかで広まるかどうかが決まる.そして成功するミームの中にはヒトにとって望ましくない悪性ミームも存在する.しばしば凄惨な殺し合いを招いてきた正義を掲げる宗教は悪性ミームとして理解できる.
  • トリヴァースは他人を説得するための心理的適応として自己欺瞞を説明した.自己欺瞞傾向が強いという特徴はナルシスト的パーソナリティにあることが知られる.この概念をもちいてトランプやヒトラーやスターリンの政治的行動を説明することが可能だ.
  • ヒトにはモラライゼーションギャップ(自分は被害者であると思い込むバイアス)や自己奉仕バイアスがあることが知られており,これは紛争の種になり,報復の連鎖をより悪化させる.そして集団レベルでは部族主義と相まってマイサイドバイアスを発生させ,より状況を悪化させる.
  • そしてこれらのバイアス(や悪性ミーム)の存在は啓蒙主義の理念の重要性に帰結する.

 
著者はここで進化的視点をとる社会学説への反発をヒトの持つバイアスとミームから説明している.これらももちろん要因として大きいだろうが,さらに進化的な人間本性を認めるかどうかが自分が学界の中の主流派であるかどうかのバッジになっている(このバッジをつけないとインナーサークルに入れず追放されるリスクが生じる),かつてそのような雰囲気の中でそのような主張をしてしまっており今更撤回できないなどの事情なども大きいのではないかという気がするところだ.
 

第6章 進化政治学と道徳

 
では啓蒙はどう進めればいいのか.それを考えるなら進化によって組み込まれたシステム1的道徳感情を理性的に(システム2的に)克服することが啓蒙のキーになる.第6章では道徳が論じられている.

  • 進化により組み込まれた道徳感情が(平和を実現するために)不合理なものであるなら,その問題性を自覚する必要がある.それには(人文系も含めた広い意味の)科学が重要になる.
  • 進化リベラリズムによる啓蒙に対する疑問には3つある.それは(1)自然主義的誤謬になるのではないか(2)システム1の直感的道徳感情を利用して平和は実現可能なのではないか(啓蒙はむしろ有害ではないか)(3)システム2の理性的議論が共産主義や権威主義的ハイモダニズムの様な失敗に陥らないための条件は何かというものだ.(本章では(1)と(2)が議論される)

 

  • 確かに事実命題だけから当為命題は引き出せない(ヒュームの議論)し,事実的性質だけから価値を定義できない(ムーアの議論).しかしムーアの議論は意味論にとどまり存在論的に「事実的性質を持って価値を記述すること」は可能だ(著者はこれを道徳の存在論テーゼと呼ぶ).
  • 道徳を進化的に論じる際には,直感的道徳感情を議論するのか,理性的道徳推論を議論するのかの区別が重要だ.
  • ハウザー,スリパーダ,ニコルズたちの研究では(彼等の間には様々な論争があるが),道徳感情には生得性があることが示されている.これには協力推進のための合理的デフォルト戦略のようなものだけでなく縁故主義や内集団贔屓などのような性質も含まれる*13.(だからシステム1の道徳感情だけによる平和の構築は難しい)
  • ここから道徳的進歩はシステム2的理性的議論によるシステム1的道徳感情のコントロールによるものだと考えられる.「道徳とは何か」の考察は進化による知見の影響を受けず,生物学的な意味での道徳的な行為はない(著者はこれを啓蒙の反実在論仮説と呼ぶ).進化適応としての道徳的感情はヒトの包括適応度極大化戦略に資するものにすぎないのだ*14*15.(ここではジョイスによる啓蒙の反実在論仮説の洗練された議論が紹介されている)
  • 啓蒙の反実在論仮説への批判としては,徳倫理学からのもの,道徳的構成主義からのもの,反応依存説からのものがある(それぞれの批判の概要とそれに対する反論が書かれている).
  • ハイト,ブルーム,グリーンは進化的視点から道徳を論じていて,いずれも反実在論と親和的だ.ブルームとグリーンは功利主義的な理性を擁護する.進化リベラリズムは同じく功利主義により人間本性のもたらす悲惨から脱却することを目指すものだ.

 
本章は様々な道徳的な議論がコンパクトにまとまっていて内容は深い.基本的な主張は平和のためには(包括適応度最大化戦略に過ぎない)道徳感情を含む人間本性だけに頼ることなく理性的に最大多数の最大幸福を目指す方がよいということだ.
ただし自然主義的誤謬についての道徳の存在論テーゼの部分はよくわからなかった.価値を定義せずに記述することにより「道徳感情が進化適応産物だ」という議論ができるというのはわかる.しかし結局進化リベラリズムによる啓蒙を擁護するなら,どこかでたとえば「私は自由で平等で平和な社会の実現に資すものを善と定義する」と価値に踏み込んで宣言するしかない(リベラリズムをよしとする基礎も功利主義をとる基礎もそこに求めざるを得ないし,その価値を認めないものに対しては真正面から価値観を議論するしかない)のではないだろうか.
 

第7章 人間本性を踏まえた啓蒙

 
第7章は前章で示された疑問(3)が扱われる.啓蒙を成功させるための条件は何か,著者はこれを進化啓蒙仮説として提示する.

  • システム2の道徳のヒトの受容可能性はシステム1の人間本性により制約を受ける.外在的道徳律は無制限に設定できるわけではない.人間本性から乖離した社会は持続しがたく,人間本性の適応上の利点を軽視した啓蒙は失敗する可能性が高い.(ボイドとリチャーソンによる)適応文化仮説からは「文化は個人の包括適応度に資するものでなければ受容される可能性が低い」ことが示唆される.このことから啓蒙の対象として成功しやすいのは人間本性が現代環境とのミスマッチを起こしている部分や悪性ミームの部分ということになる.
  • 過去の啓蒙の成功例としては歴史的な人類の暴力減少が挙げられる.これらの暴力減少はいずれも個人の包括適応度に利するものであったと考えられる.(戦争による被害の減少や,ヒューマニズムをとることによる評判の上昇などがその傍証と指摘されている) 
  • 失敗例には(私有財産制の廃止,完全な平等主義,家族制度の解体を目指した)イスラエルのキブツがあげられる.これらは性役割心理,血縁間の絆と愛情,部族主義という人間本性を無視した試みだったために失敗したと考えられる.
  • 進化的リベラリズムが考える啓蒙は人間本性を踏まえた平和と繁栄になる.個人の包括適応度を考慮した啓蒙は古典的リベラリズムが「消極的自由」と呼ぶものを擁護することと重なる可能性が高く,また家族制度を重視する点で保守主義との関連性もあると考えられる.
  • (ここで前著で示された「適応としての人間本性,個人の遺伝的差異,後天的要因,環境のキュー」という4段階の人間行動モデルが解説される)人間本性は人間行動モデルの第1レベルにあり,進化的リベラリズムは第3レベルにおいて働くものと整理できる.

 
本章では啓蒙は人間本性を無視してはうまくいかないことが主張されている.古典的リベラリズムの消極的自由と保守主義の家族価値の重視が啓蒙を成功させるために重要であるかもしれないことが示唆されている部分は興味深い.
ここで啓蒙が人間本性を無視すべきでないことは同意できるが,しかし見極めの条件が「現状において個人の包括適応度に資しているかどうか」と考えることには同意できない.基本的には問題となる人間本性がどこまで頑強かという要素(これは現在ではなく過去の進化環境における淘汰圧の強さが関係する)と,共感の輪の拡大(これは包括適応度を上げるとは限らない,ある意味人間本性をハックするテクニックということになる)やよい評判を得られるかという説得力の要素のかねあいで決まると考えるべきではないだろうか.
 

終章 理性と啓蒙を通じた繁栄

 
終章では簡単に本書の概要が提示され,ここから導き出されるインプリケーションがいくつか示されている.

  • 自然科学と社会科学の融合により新しい学際的知見を生み出すことができる.本書はEOウィルソンのいうコンシリエンスの実践試論である.
  • ヒトの人間本性から来る非合理性(あるいは生態的合理性)は政治に重要な影響を及ぼしている.これは政治学の方法論的仮定に取り込まれるべきである.そして政策決定者や個人はマイサイドバイアスや楽観性バイアスによる「欺瞞の陥穽」に注意を払うべきである.
  • リアリズムとリベラリズムはともに近似的真理を措定しそれに漸進的に接近できると考える点において科学的実在論と親和的であり,メタ理論的に擁護されうる.本書はリアリズムについて進化的自然状態モデル,リベラリズムについて進化的リベラリズムを構築した.これによりこれらの考え方はポストモダニズムや社会構築主義からの批判を克服可能になる.
  • ネオリアリズムが国際政治学を席巻するにつれて古典的リアリズムは非科学的と批判されるようになった.しかしネオリアリズムはSSSMの陥穽に陥っている.人間本性を科学的知見として取り入れて古典的リアリズムを再構築することによりこれを克服できる.
  • (リアリズムの一派である)攻撃的リアリズムは,国際関係のアナーキー構造と安全保障のジレンマを強く見積もり,戦力均衡による抑止,バックパッシングが有効だと主張する.また(同じくリアリズムの一派である)防御的リアリズムは,安全保障のジレンマは協調により解決可能と考え,軍縮,融和政策の有効性を主張する.この両派の論争に対して,本書は攻撃的リアリズムに(戦争原因をアナーキーから人間本性に移すという)理論的修正が可能であり,世界は攻撃的リアリズムが想定する悲惨なものから防御的リアリズムが想定するマイルドなものに移行していった(暴力減少説)と考える.世界は攻撃的リアリズムの世界観がデフォルトだが,啓蒙により防御的リアリズムの世界観に移行していったのだ.
  • どのような啓蒙が成功するかを考えるには人間本性の考慮が重要だ.

最後に著者はもう一度SSSM的な立場からの進化政治学への(想定される)批判とそれに対する反論を整理し,アイデンティティポリティクスやラディカルフェミニズムなどの(ポストモダニズム的)イデオロギー的信念体系がリベラリズムに与える脅威を指摘し,それは事実と理性によりリアリズムとリベラリズムを再構築することにより克服できると主張して本書を終えている.
 
以上が本書の内容になる.進化政治学と人間本性について(SSSM批判を含めて)再整理し,国際関係論の自然状態を部族主義から再構成し,ピンカーの暴力減少説を人間本性に対抗する理性からの啓蒙と要約し,どのような啓蒙が望ましいのかを道徳と絡めて,どのような啓蒙が成功しやすいのかを人間本性と絡めて議論している.そしてこのような立場から議論するなら政治学としては古典的リアリズムの主張を再構築すべきであり,平和の実現のためにはリベラリズムを再構築した進化的リベラリズムからの啓蒙が重要であると主張されている.
著者の進化心理学と政治学のコンシリエンスの試みは最初の「進化政治学と国際政治理論」2冊目の「進化政治学と戦争」そして本書へのわずかな期間で大きく前進している*16.なおところどころ進化的議論の危うさは残っているが,刮目すべき進捗という印象だ.私的には政治学のリアリズムについての議論が大変興味深かった.さらに一層のコンシリエンスの進捗を願うものである.
 
 
関連書籍
 
著者の前著2冊.私の書評はそれぞれhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2020/04/20/113326https://shorebird.hatenablog.com/entry/2022/02/28/105349

*1:当初は進化のリアリスト理論と呼称していたが,のちに進化リアリズムと改めている

*2:心理学者や生態学者が受け入れている行動モデルを政治学者向けにモデル化したものと見ることができるだろう

*3:進化的リベラリズムに基づく啓蒙を唱える本書が,真っ先に啓蒙されるべきものとして名指しするのがキャンセルカルチャーだというのはちょっと意外な気もする.著者の伊藤自身が最近キャンセルカルチャー運動家から攻撃されており,強く問題意識を持っているということなのだろう

*4:方法論的全体主義はここでは指摘されていない

*5:なおこの部分で「包括適応度が個体の利己性を示し,(ドーキンスの遺伝子視点に沿う)遺伝子の利己性と異なる」ように読める記述があるが,これはミスリーディングだ.包括適応度は遺伝子の利己性を考えたときに,エージェントとしての個体がどう振る舞うべきかを記述するものであり,「個体の利己性」を示すものではない

*6:部族主義の説明のところは特に議論が雑になっている印象だ.著者はヒトに部族主義があることを示唆するものとしてダンバー数,マルチレベル淘汰理論,二重過程論,内集団バイアス,血縁淘汰理論をこの順序で並列に挙げている.まず部族主義は外集団への敵意と内集団贔屓が合わさった概念と思われる(著者自身部族主義について「自らの所属する集団にポジティブな感情を抱く一方,外部の集団にネガティブな感情を抱く傾向」と定義している)が,著者は(4番目の要因説明として)内集団バイアスがあることが実験的に示されており,これが部族主義の至近的説明であるとしている.至近的説明というより部族主義の一要素という方が適切ではないか.そもそも(外集団への敵意も含む)部族主義的傾向がヒトにあることを示す社会心理学的な実験が多数あるのであるから,部族主義があることを示すならそちらをダイレクトに示す方が遥かにわかりやすいだろう.またマルチレベル淘汰理論と血縁淘汰理論は数理的な進化理論であって,何らかの実証的事実ではないので部族主義があることを示すものとして並べて論じるのは適当ではないだろう.さらにマルチレベル淘汰理論と血縁淘汰理論にかかる説明もあまり感心できない.マルチレベル淘汰については「狩猟採集時代においてうまく団結して協力体制をつくった集団はそれに失敗した集団に打ち勝ってきた」として部族主義が根拠づけられるとしているが,かなりナイーブで問題含みだ.部族主義的な心性を持つ集団が闘争で強ければ,それは個々のメンバーにも利益をもたらすのであり,マルチレベル淘汰を持ち出さなくとも(敵対部族との部族間戦争が頻発する進化環境における)個体淘汰で十分説明可能だろう.説明のためにマルチレベル淘汰(あるいはそれに数理的に等価な血縁淘汰理論)を持ち出す必要があるのは,自己犠牲的な利他行動になるが,部族主義は利他的行動が中心的な要素にあるものではない(仮に部族主義に利他行動的要素があると主張し,その説明としてマルチレベル淘汰理論を持ち出すならわかるが,その場合にはグループ間淘汰の方がグループ内淘汰より強いという条件を満たす必要がある.しかしここではそのような吟味はない.)血縁淘汰理論については内集団バイアスの根拠として引き合いに出しているが,内集団バイアスは血縁集団でなくとも容易に生じることが知られており,短い説明としては適当ではないだろう.そして内集団バイアス自体も進化環境における個体淘汰で説明可能だろう.またそもそもマルチレベル淘汰理論と血縁淘汰理論は数理的に等価であり,なぜここでことさらに区別して,さらにかなり重なる概念である部族主義と内集団バイアスのそれぞれの別の根拠とするのか全く理解に苦しむ.一読したかぎりではこけおどし的にとりあえず関係ありそうな知っている事実や理論を並べて見ましたという印象で,深く考察されているようには読めない.これは本書全体の議論に疑念を生じさせかねない著述態度であり,啓蒙書としては損だと思う.部族主義があることを科学的に説明したいなら,まず実際にそういう傾向があることを示す社会心理学的知見を示し,次の段階でその究極因を考察し,近隣部族間での戦争が頻発したであろう進化環境における(個体淘汰で十分説明できる)適応であることが推測されるとまとめるべきだっただろう

*7:なおここでリバース・ドミナンスが「自分は弱者である」と訴える方が適応的だったことを意味する(そして現代の社会正義運動の根源がここにある)との解説があるが,疑問だ.ボームのリバース・ドミナンスはわがままで利己的なリーダーを集団の皆で制裁することによって生じるのであり,そこで弱者アピールが有効だったという証拠はないのではないか

*8:なおここでもマルチレベル淘汰理論に入れ込んだ説明がなされているが,先ほどと同じく利他性をことさらに問題にしているわけではなくあまり適切な解説とは思えない.詳しくは前著の書評でも述べたことなのでここでは繰り返さない

*9:実際に著者はフォーサイトにプーチンの決定についての寄稿を行っている.https://www.fsight.jp/articles/-/48927

*10:そもそも経済学でフリードマンが道具主義を説得力高く提示できるのは,経済的合理人の仮定でもかなり精度高く経済現象が説明できるし,知られているヒトの非合理性を組み込んだ精度の高い経済モデルが構築困難という事情があるからで,政治学にはそのような事情はないのではないだろうか.であれば実在論でも道具主義でもどちらでも進化的リアリズムの有用さを主張できるだろう

*11:セイヤーはピンカーの議論は非西洋圏には適用できないのではないか,中南米の対立のシステム要因を見逃しているのではないかと批判し,レヴィとシンプソンはピンカーのあげる文化的観念的要因は物質的制度的要因の内部変数に過ぎないのではないかと批判し,フリードマンはピンカーの挙げる要因だけではなくパワー構造,同盟関係,核抑止などのリアリスト的要因にも目を配るべきだと主張しているそうだ

*12:私的には政治学者たちのピンカーに対する反応をもう少し詳しく読みたかったところだ

*13:それだけではなく正義や報復にかかる感情も国際平和においては脅威となるだろう

*14:ヒトの適応産物としての道徳感情が客観的倫理基準と合致する必然性がないことについて重複論法(道徳感情が進化的に説明されるのであれば,それと異なる客観的道徳からの説明を信じる理由がなくなる)と特異性論法(ヒトの進化史が異なるものであれば異なる道徳感情が進化したはずだ)が紹介されている.特異性論法はEOウィルソンがシロアリの道徳がいかにヒトのそれと異なりうるかを提示したことで有名だ

*15:またここではDSウィルソンによる適応産物としての宗教擁護論も批判されている

*16:例えば1冊目では暴力減少を謎だと扱っていたのを本書ではきちんと進化政治学のフレームで説明できている