書評 「無限の始まり」

 
本書は量子計算・量子コンピュータの概念を世界に提示したことで知られる物理学者デイヴィッド・ドイチュによるヒトの文化を含めた世界の成り立ちを語る独創的な本だ.ピンカーが「21世紀の啓蒙」において引用していることもあって気になっており,しばらく電子化されるのを待っていたのだがどうもなりそうもなく,物理本で手にした一冊になる.「無限の始まり」という題名は良い説明をキーとするヒトの科学的文化的活動は一度始まってしまえば無限に広がる可能性があることを示している.原題は「The Beginning of Infinity」.
 

第1章 説明のリーチ

 
まず科学理論とはどういうものかが解説される.それは何かから導き出されるものではなく,観察から大胆に推量されるものだ.ではどのように推量されるのか.ここでドイチュは経験主義(繰り返しによる推量),帰納主義(過去との類似による推量)を否定し,それは新しい良い説明を創造することだと主張する.そしてそこで重要なのは可謬主義(権威に頼らず,自分たちがいつでも間違う可能性を認め誤りを修正しようとする態度)だとし,啓蒙運動による科学革命はまさにその実践だとする.
「良い説明」(細部を変更すると説明自体が成り立たなくなるような説明.神話などの権威主義的な説明はこの要素を満たさない)は可謬主義を系統的に追求することでしか得られない.そしてこのような追求の結果得られた「良い説明」は非常に広いリーチを持つことができ,問題解決に役立つことになる.
 

第2章 実在に近づく

 
ここでは(具体例を示しながら)あらゆる科学的観測は間接的なものであること(観測は理論負荷的で何かを直接観測することはできない),知識の成長は説明を良くしていくことで得られることが説明されている.
 

第3章 我々は口火(スパーク)だ

 
科学革命以前の説明は偏狭で人間中心的だったこと(わずかな例外は古代のユークリッド幾何学になる)がまず取り上げられる.そのような説明は人間関係以外に良い説明を与えたためしがない.それはヒトの希望や行動が宇宙全体から見れば全く重要でないからだ.
ドイチュはこの偏狭主義からの脱出は大いなる成果を上げたが,逆に「平凡の原理」(地球は宇宙全体の中ではごく平凡な太陽系に属し,ヒトはそこにある浮きカスのようなものだ),「宇宙船地球号のメタファー」という2つの誤った考え方につながったと主張し,そうではなくヒトのリーチは無限だとしている.少し詳しく紹介しよう.

  • そもそも太陽や地球のような天体は宇宙全体の中では非常に特殊だ.
  • 地球の物理的条件が少しでも異なれば生物圏には重大な影響が現れるし,過去多くの激変を経てきている.地球の生物圏に長期的に生命を維持する仕組みや能力はない.ヒトの生息場所を増やしてきたのはその知識の創造によるものであり,「地球には生物圏維持装置があって,それを身勝手なヒトが壊しつつある」という宇宙船地球号のメタファーは間違っている.
  • ドーキンスは平凡の原理の上に立って,ヒトの認知能力は進化過程における適応問題の解決のために進化したもので,宇宙の成り立ちをすべて理解できると考える理由はない,つまりヒトの能力は必然的に偏狭だと主張する.それは世界が説明不可能だという非常に悪い説明につながる.
  • しかし進化や生物圏に制限されない良い説明はあるのだ.そしてヒトは説明的知識を生みだしうる実体であり,物質とエネルギーと証拠があればそのリーチは無限に伸びうる.
  • ヒトが生き延びて知識を創造し続けるためには問題を解決しなければならない.問題は不可避だが,解決可能なのだ.適切な知識があれば物理法則で禁止されていないことはすべて達成可能だ.可謬主義の立場で取り組めば,到達可能な状態は無限に高められる.
  • この宇宙において,良い説明による知識とそれを生みだすヒトは非常に重要な存在だ.

 
ドーキンスのコメントへの解釈はやや強引で賛成できない(ドーキンスの狙いは量子論や相対性理論が直感的に理解しにくいということの説明であり,ヒトの物理世界の理解には一般知性を用いても絶対的な限界があると断言しているわけではないと思う)が,ドイチュの議論はなかなか啓発的で面白い.特に最後の一段落は印象的だ.ここで引用しておこう

  • 宇宙では想像もつかないほど数多くの環境が,何十億年ものあいだ,全く何もせずに・・・まるで口火を待つ爆薬のように,じっと待ち構えている.そうした環境のほとんどが,適切な知識が到達すれば全く異なる種類の物理的活動,つまり激しい知識創造をいきなりはじめ,元の状態に戻ることはなくなる.その環境は,自然法則に内在するあらゆる種類の複雑性や普遍性,リーチを示すと共に,現在典型的なものから将来典型的になり得るものへと変化する.望みさえすれば,我々がその口火になることも可能なのだ.

 

第4章 進化と創造

 
ここでは物理学者からみた進化学説史が解説されている.ここもなかなか面白い.

  • ヒトの知識とDNA(に刻み込まれた知識)はいずれも淘汰を経て進化するという点で似ている.(ただし生物学的知識は非説明的で有限のリーチしかないが,ヒトの脳の知識は無限のリーチを持つところが異なる)
  • 生物学的進化についての歴史的誤解を吟味することにより,ヒトの知識についての誤解に気づくことができる.
  • 創造説の欠陥は適応としての知識の創造の説明を欠いている(あるいはあっても権威主義的か非論理的)であることだ.そこでは知識が無限に創造されうるという見方が否定される.そして自然発生説の欠陥も生物を生みだすための知識の源泉の説明を欠いていることだ.
  • (創造説についての)ペイリーの目的論的証明は説明されるべき問題(適応の説明)の理解においては正しかったが,究極の設計者の設計者は誰かという論理的矛盾を抱えていた.
  • 最初に適応の問題に説明を与えたのはラマルクだった.ラマルクの間違いは帰納主義と同じ論理を用いたことで,適応という新たな知識が経験の中に存在すると考えたところだ*1.知識はまず推量されテストされなければ得られないのだ.
  • ネオダーウィニズムは遺伝子がライバルの遺伝子よりも多く自らを複製することに適応すると考える.(ここで種のため進化などのよくある誤解が解説されている)そこではライバルの遺伝子を犠牲にした自己複製の方法についての知識が創造される.
  • ヒトの説明的知識はより複雑なメカニズムで進化する.そこでは偶発的な誤りだけでなく創造力による変異が重要になる.
  • ネオダーウィニズムを反証するために必要な証拠は「カンブリア時代のウサギの化石」*2ではなく,異なる仕組みで知識が創造されたことを示すものになる.もしそれが発見されれば,我々はペイリーやダーウィンが直面したのと同じ未解決問題に直面することになる.

 

  • 現代の創造論による「宇宙定数の設定における設計らしきもの」の議論に対しては,そもそも惑星や化学反応が生命の形成にとって不可欠だということを暗示する良い説明がないと反論できる.「人間原理」を使って反論する試みは筋が悪い.まず宇宙定数が何個もあれば,人間原理により選ばれる領域の圧倒的多数は少なくとも1つの定数の領域の端に近くなる.そしてそもそも(無限に存在しうる異なる物理法則を無視して)同じ物理法則の下での物理定数にだけ焦点を当てるのは偏狭だ.そしてあらゆる可能な物理法則を持ち出す説明は良い説明にはなり得ない.

 
創造論者の持ち出す宇宙定数問題についてドーキンスはかなり人間原理に肩入れしているが,それを悪い説明だと一刀両断するところは結構衝撃的だ.
 

第5章 抽象概念とは何か

 
ここでは物理学の良い説明とは何かが説かれる.ドイチュによればそれは高レベルでの創発的な現象を説明できるものであり,還元主義も全体論も良い説明かどうか以外の基準で理論の容認や拒絶を行う点で不合理であることになる.ここでドイチュは創発現象は無限の始まりであり,良い説明があるレベルから次のレベルまでジャンプする上で中間形態が有用である必要がない点で生物的進化とは異なるとコメントしている.
ドイチュはこのような創発現象の良い説明には抽象概念が必要であり,それを理解するヒトの能力も創発的な性質だと主張する.抽象概念の知識は良い説明を追求することによりもたらされ,経験は実証的テストの役割を果たす.
またドイチュは抽象的な実体は実在すると主張し,道徳についても議論している.「である」命題から「すべき」命題が導き出せないのは確かだが,道徳についても良い説明は可能なはずだ.還元主義的な功利主義は間違いであり,道徳についての良い説明は事実についての良い説明を結びついているだろうとしている.
 
最後の道徳についての主張はなかなか独特だ.具体的にどのような説明が良い説明なのかを説明せずにこう断言されてもちょっと理解しにくいというのが私の感想だ.EOウィルソンがかつて「シロアリの道徳があるとするなら,それは全くヒトの道徳と異なるものになるだろう*3」と説明したように,ヒトの道徳(特に直感的な道徳)はヒトの包括適応度最大化戦略と密接に絡んでおり,偏狭な要素を持つものだと考えるべきだと思う.
 

第6章 普遍性への飛躍

 
ドイチュはある体系を記述するのにリストで示すよりもルールで示す方が効率的でリーチが長いと指摘する.例としては表意文字と表音文字,(数字の)画線法→ローマ式記数法→位取り記数法が挙げられている.そして啓蒙運動以降このようなルール記述による普遍性は偏狭な問題を解決するために意図的に追求されるようになった.その例として活版印刷への道,コンピュータへの道(ジャガード織機→バベッジの解析機関→チューリングマシン)が挙げられている.
ここでドイチュは生物の遺伝暗号の普遍性についても考察する.遺伝暗号は初期に非常に大きな普遍性を獲得したあとシステムとしては進化を止めた.それは生命体の規定方法として最高の普遍性は獲得できていないのではないか,良い説明を求めるヒトの作り上げる普遍性システムに比べて劣っているのではないかというのがドイチュのコメントになる.
 
この最後のコメントには少し違和感がある.進化は自己複製子の複製効率向上に向かってすすむもので,そのメカニズム的基礎となる暗号システム自体の効率向上に向かって進むわけではない.暗号システムに改善の余地があっても,改善に向けた変異システムを(頻度が低い時点で)用いる自己複製子が既存の暗号システムを使えないことによるデメリットを受けて複製効率の低下を被るのであれば,暗号システムがそこで停滞しても何ら不思議はない.進化が何に向かって進むのかについての理解不足のように思われる.
 

第7章 人工創造力

 
ドイチュはここでAIを取り扱う.チューリングテストにかかるドタバタを論じたあとクオリアをとりあげる.ドイチュはデネットのクオリア幻覚論を批判し,それはいつか説明できると主張する.
ドイチュによるとそもそもチューリングテストは意識の仕組みが説明される前でも機能が実現できるかもしれないという希望のもとに考案されたもので,行動のみに注目した基準を求めるという経験主義の誤りを犯しているが,候補が正真正銘の知性を持つかどうかの判定には仕組みの説明は欠かせないはずだということになる.問題は候補になる発言(そしてその元になる創造力)を誰が設計したかであり,プログラム設計者ならそれは人工知能ではないし,プログラムそのものならそれは人工知能なのだ.ここでもキーになるのは「良い説明」ということになる.
ドイチュはさらにプログラム自体を人工進化させればどうなのかを論じている.この部分はやや難解で,ドイチュ自身も結論を留保しているが,基本的には少なくとも現時点におけるプログラムの人工進化による人工知能の誕生の可能性について否定的なようだ.
  

第8章 無限を望む窓

 
この章は「無限」と「物理法則」を扱う.まず良い説明は普遍性に向かい,そこでは無限への言及が起こりやすいことを解説し,「存在するのは有限の抽象実体だけだ」という有限主義数学哲学は道具主義を数学に当てはめた誤謬だと切って捨てる.
そこからカントールの体系をヒルベルトが考案した「無限の部屋を持つホテル」思考実験に沿って詳しく解説している.ここはなかなか楽しい.そしてこのような無限の体系について理解すると物理定数についての人間原理がいかにおかしいのか*4を説明している.
またここでドイチュは無限に絡む様々な問題の決定が物理法則依存になっていることに話を進める.具体的には,ゼノンのパラドクスやユークリッド幾何学の真理性の問題を示し,自然界で何が有限で何が無限かを決めるのは物理法則であること,ゲーデルにより示された証明不能な問題は基本的には無限集合の問題において現れるもので,ある無限集合の問題が決定不能か,計算不能か,証明不能かも物理法則で決まることだと主張する.結局ある命題が真か偽かに関する我々の知識は物理的実体がどう振る舞うかの知識に依存し,数学的命題が真か偽かは物理とは独立だが,その証明は物理の話であり,数学の一分野ではあり得ないとする.(このあたりはかなり難解だ.ドイチュによると現在の我々の行う計算が自然に思えるのは,我々の知る物理法則がたまたまNOT,AND,ORといった演算に特権的地位を与えていることに大きく寄っていることになる)
そして物理法則についてこうコメントしている.

  • 物理法則は密接に絡む次の3つの方針で微調整されているようだ.(1)どの法則も基本演算からなるただ1つの有限集合で表現できること(2)すべての法則が有限演算と無限演算の一貫した区別を1つだけ共有すること(3)物理法則による予測がただ1つの物理的実体,すなわち普遍的古典コンピュータによって計算できること
  • これによりヒトの脳はクエーサーの物理さえも理解できる.しかしこの普遍性は(ヒルベルトが誤解したように)物理と独立ではない.それは我々の世界の支配する物理の範囲内においてのみなのだ.
  • だから物理法則には計算や予測や説明に極めて好都合という何か特別そうなところがある.人間原理的な理由ではこれは説明できない.

そして最後に証明不可能であっても説明は可能で,決定不可能性と問題は解決できるという原理は矛盾しないのだと主張している.
 
ここはいかにも物理学者らしい考察で面白い.本書の白眉といえる部分だと思う.
 

第9章 楽観主義

 
ドイチュはここまで述べてきたことを踏まえて「知識はどこまで成長するのか」という問題に進む.知識の成長は新しい知識の創造によって成り行きが大きく変わり,どのような創造が起こるのかの予測は不可能だ.だから我々は未来を知り得ない.ではこれに対してどのような哲学的な立場があるのか.ドイチュはこれまでに唱えられたライプニッツの楽観主義,ショーペンハウエルの悲観主義などの議論を悪い説明だと切って捨てる.
問題は避けられず,解決するためには知識が創造されなければならない.そして知識の創造に限界があると信じる理由はないというのがドイチュの立場だ.現代においてしばしばみられる文明についての悲観主義*5はわかり得ない未来についてわかると主張していることになると厳しく批判する.
では予測ができず,検証もできない未来についてどう対処すべきか.悪は知識不足から生じるので正しい楽観主義は過去の失敗を説明し,無限の始まりを常に追求すべきなのだ.だから文明が楽観主義に傾いたときには小啓蒙運動が生じ(古代アテネ,メディチ家のフィレンツェなど),悲観主義に傾いたときには停滞する(スパルタ,サヴォナローラのフィレンツェなど).
 
この第9章までが本書の総論部分になる.ここからは個別テーマに沿った考察やエッセイのような章が展開されている.
 

第10章 ソクラテスの見た夢

 
この第10章は本書の中でもとりわけ凝ったもので,プラトンに倣ってソクラテスとの対話篇の体裁になっている.ここでソクラテスは神であるヘルメスと価値観,道徳,知識の源と可謬主義について対話し,弟子であるプラトン,カレイポンと文明の進歩(アテネとスパルタの差)について対話している.ここまでの復習のような趣もあり,読んでいて楽しい.
 

第11章 多宇宙

 
冒頭でSFにおける「良い説明」が取り扱われていてちょっと楽しい(自分自身を含めた熱狂的SFファンは架空の科学であってもそこにつじつまが合っていないと気が済まないとコメントされている.何となくよくわかるところだ).そこから量子論における「多宇宙解釈」の問題が取り扱われる.ここでは代替可能性の概念が量子干渉と共に深く掘り下げられ,量子物理学特有の様々な問題への蘊蓄が語られている.
 

第12章 悪い哲学,悪い科学

 
第11章で解説されたドイチュのとる多宇宙解釈は実は物理学者のあいだでは少数派だ.そうである理由をドイチュは悪い哲学のせいだという.ここでいう悪い哲学とは道具主義のことで,量子論の場合には「黙って計算しろ解釈(量子論とは観測される実験結果を予測するための経験則の集合に過ぎない)」ということになり,それは「遷移は観測(つまりヒトの意識)によって生じる」というボーアのコペンハーゲン解釈につながった.
ドイチュはここで悪い哲学とは何かを考察する.啓蒙運動以前は権威主義的な(悪い)哲学が主流だった.啓蒙運動以降良い哲学が登場したが,悪い哲学はさらに悪くなったとドイチュは主張する.続けて啓蒙運動以降の(物理学に関する)悪い哲学(実証主義,反実在論,論理実証主義,言語哲学*6,ポストモダニズム,脱構築主義,構造主義)を列挙して批判し,それらの特徴は科学から良い説明を排除することだとする*7
ドイチュによると厄介なことに悪い哲学を良い哲学で反駁することは簡単ではない(悪い哲学は自らを批判から遠ざけているからだ).しかしそれは実際に生じた進歩によって反駁可能になるのだ*8
 

第13章 選択と意思決定

 
ここではまず選挙の議席配分方式のパラドクスが説明されてアローの定理に進む.そしてその種の意思決定にかかる制度問題では純粋に数理的な解決はなく,なんらかの選択をしなければならないこと,その選択は論理ではなく良い説明に基づくものであるべきことが説かれる*9.そして例題として選挙制度の選択問題(比例代表制か相対多数制(小選挙区制))かを考察する.ドイチュは進歩のために必要なのは批判に耐えられないアイデアを排除し,新しいアイデアの創造を許すことであるとし,そのためには政権交代が生じやすい小選挙区制が優れていると主張している.
 

第14章 花はなぜ美しいのか

 
次のテーマは美だ.ドイチュはこれについての文化相対主義を斥け,客観的な美が存在するはずだと論じる.そしてその証拠としてヒトが(昆虫などの訪花者への誘因形質として進化したはずの)花を美しいと感じることを上げる.(花の美については対称性や色やコントラストだけではなく,偽造されにくいパターン照合アルゴリズムを認識できるように設計された模倣しにくいパターンとして客観的な美が選ばれていると想定している)
 
面白い議論だが,やや疑問もある.ヒトが何を美しいと考えるかはヒトの認知の進化から考えるべきだろう.例えばヒトが花を美しいと感じるのは性淘汰の選り好みハンディキャップとしてのコストの要素をそこに見るからだとすると,美とはコストリーシグナルの要素であり,ある程度の客観性を持つものかもしれない.しかし片方で,ある季節に花が咲いていると次の季節に果実が入手可能であることがあるので魅力を感じるという要素もあるのかもしれない.それであればそこには客観性はないということになるだろう.
 

第15章 文化の進化

 
ドイチュは創造力は脳内におけるミームの変異と淘汰によるものだとし,全面的にミーム論の立場に立って文化の進化を考察する.ここではまずミームと遺伝子の違い,利己的なミームの問題が整理されている.
そこからミームの進化環境として啓蒙運動前の静的な社会と啓蒙運動後の動的な社会をとりあげる.静的な社会ではミームの変化を妨げる慣習,法,タブーがあり,創造力と批判能力を働かせないように子どもを育てる伝統がある.そこではミームには忠実な複製に向けた淘汰圧がかかり,ホストにも変化への恐怖心を与えるように作動しがちだ.このような社会では指数関数的な知識の成長は生じない.これに対して動的な社会ではミームはホスト個人の役に立つなら広がっていく.そして役に立つのは正しいアイデアになる.そのためホストに批判能力を与えるように働くミームが有利になる.つまり静的な社会ではミームは真理から離れるように進化し(反合理的ミーム),動的な社会ではミームは真理に向かって進化する(合理的ミーム).
 
このミーム進化環境の考察はなかなか面白い.
 

第16章 創造力の進化

 
ドイチュはこの無限の始まりをもたらす創造力はどこからもたらされ,なぜつい最近まで革新を実行できなかったのかを考察する.祖先はそれを革新に用いなかった.それは革新を生みだすことが生存に有利になる淘汰圧として作用していなかったことを意味するだろう.では性淘汰か.ドイチュは,創造力は人工的に再現することのできない高度な適応であること,配偶相手がその能力の差を見極めることが難しいから創造力が直接性淘汰産物であるとは考えにくいとしている.ここからドイチュは再びミーム論を語る.行動を単に模倣するということはあり得ず,その前にアイデアを知る必要があることを指摘しし,実際にヒトは他人の行動を観察したときにそれを説明しようとし,アイデアを理解しようとすることを強調する.
ドイチュはここからヒトのミームを複製するのは創造力であり,創造力は進化の中でミームを複製するために使われたのだと主張する.つまり他人の行動のアイデアを理解するための能力が,副産物として創造力を生んだという主張になる.
ここでドイチュは創造力の起源に戻る.(人類の祖先環境である)静的社会では成功するためには他人より革新的でないようにする必要があり,そのために(つまり他人の行動の要点を理解し,そこから外れないようにするために)創造力が使われ,それにより創造力は有利性をもたらしただろう,そしてそういう形で淘汰圧を受けたのだと主張している.
 
この章の議論全体はやや無理があって受け入れがたい.ドイチュの性淘汰否定の根拠は脆弱だ.多くのヒトが異性に対して自分のオリジナリティをディスプレイしようとすることからみて,祖先環境でも同じようなディスプレイがあり,創造力が直接性淘汰圧を受けた可能性はかなりあるのではないだろうか.ただ他人のアイデアを理解するのに創造力が必要だという指摘には興味深いところがある.
 

第17章 持続不可能性(見せかけの持続可能性の拒否)

 
ドイチュはここで文明に対して(いまのままでは持続不可能だと)否定的なスタンスをとる悲観主義者を批判する.イースター島は(まさに宇宙船地球号のミニチュア版として)森を破壊したために社会が崩壊した例としてよく取り上げられるが,ドイチュにいわせれば,それはイースター島が静的社会であり,無限の始まりを経験しなかったからだということになる.グレートブリテン島がイースター島最盛期の3倍の人口密度を維持できるのは無限の始まりによる持続不可能性のおかげなのだ.
そして物理法則は進歩にいかなる限界も課すことはできず,進歩自体は無限に持続可能であること,但しそのためには動的社会の持つ正しい楽観主義が必要であると主張している.
ここではアッテンボロー(イースター島のドキュメンタリー)やジャレド・ダイアモンド(銃,病原菌,鉄における生物資源による限界の説明)をまず槍玉に挙げ,70年代の人口学者エーリックによる消費者社会の持続不可能性議論を問題解決,技術進歩の可能性を考慮できていないと厳しく批判している.そしてそれは現在の気候変動をめぐる議論にも当てはまるとドイチュは指摘する.解決は二酸化炭素排出阻止しかないという考え自体が悲劇であり,気温を下げるための計画や気温が上がってもうまくやる計画により取り組むべきだと主張している.
 
ここはピンカーの「21世紀の啓蒙」の主張の先取りのような章になっている.
 

第18章 始まり

 
最終章は我々の知識の成長はまだ始まったばかりだということを扱う.まずファインマンの「これからも次から次に新しい物理法則が発見されるとは考えられない」というコメントに少し触れたあとで,ホーガンの「科学の終焉」における主張を偏狭主義だと厳しく批判し*10,我々の現在の状況はまだ無限の「始まり」に過ぎず,これから限りなく進歩していけるのだということを強調している.
 
 
本書は物理学者による世界の進歩についての考察の書であり,様々な啓発的な議論にあふれている.本書を通じて科学革命と啓蒙運動以降知識は素晴らしい増加曲線に乗り,社会は動的になり,我々の生活は大きく向上した.そして原理的にはそこには限界がないという楽観主義が一貫して主張されている.
この中には確かに私的には一部乗れない議論はある.例えば適応産物としてのヒトの認知能力からみて良い説明が難しそうな問題(例えば意識とは何か)はあるだろうし,道徳や美も客観的ではなくてあくまでヒトの進化環境における包括適応度最大化戦略という偏狭な問題に大きく制限されるだろう.それにドイチュは道具主義を厳しく批判しているが,解決すべき問題によっては道具主義にも良いところはあるような気もする.しかしそういう部分を越えて本書は深い.物理学者からみた様々な論点(例えば計算は数学ではなく物理だ)は大変興味深いし,全体を貫く啓蒙運動と進歩の本質を見据えた議論はとても啓発的だ.いろいろと気づかされることの多い本だと思う.


関連書籍
 
原書

 
ピンカーの「21世紀の啓蒙」.私の訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/11/26/151137

 
同原書.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/11/23/143736

*1:ここはドーキンスもラマルクの本質的な間違いは獲得形質の遺伝の部分ではなく,複雑な適応形質を作るための指令はレシピになるはずで,それが使用だけで形成されるはずがない(使用ではブループリント的なものしか生まれない)ところだと指摘している.

*2:ホールデンが「進化は反証不可能ではないか」といわれて提示した反証の例とされている.ダーウィニズムへの反証というよりも現在構築されている進化の事実的主張への反証例という意味合いが強いので,こうとりあげるのはやや強引な気がする

*3:それは圧倒的に全体主義的で,暗闇への愛が唱えられ,互いに糞を食い合うことを賛美するものになるだろうというようなことが主張されている

*4:無限の可能性がある中ではラベルのつけ方次第で微調整自体をどこかにやってしまえることになる.するとこれは理論で言及されている実体へのラベルのつけ方で科学的説明が左右されることを意味し,理論による予測が成り立たないことになる.

*5:この悲観主義の例についてはマルサスからホーキングまで幅広く取り上げられている.ホーキングの悲観論とは「地球外文明との接触は危険であるので人類は宇宙で目立たないようにすべきだ」というものだそうだ.

*6:哲学問題に見えるものは実は日常生活でどう言葉が使われているかというパズルに過ぎず,哲学者が意味を持って研究できるのはそれだけだという立場だと説明されている

*7:ここでその顕著な例として心理学の行動主義も取り上げられている

*8:小さすぎて見えないことを理由に原子の存在を否定した20世紀初頭の実証主義者は電子顕微鏡のような観測機の進歩によって窮地に追いやられるだろうという例があげられている

*9:その意味で既存の社会選択理論自体は間違った前提の上に立っていると批判している

*10:物理法則が発見され尽くす一歩手前でないことを最もよく示す例としては宇宙の膨張速度加速観測と暗黒エネルギーの問題が示されている.

From Darwin to Derrida その16

 
生物個体内の遺伝要素間コンフリクト.次は性染色体に絡む問題が取り上げられる.
  

性染色体

 

  • 有性生殖生物の平均的な遺伝子は,オスの身体内とメスの身体内で,平均して同じ時間を過ごしている.それはすべての生物個体は1個体の母と1個体の父を持つからだ.しかしながら,一部の遺伝子は片方の性の中にいる方がより有利になる.(片方の性における有利性が伝統的な適応度であっても,分離比にかかるもの(マイオティックドライブ)であっても)このような性的拮抗遺伝子は(その遺伝子にとって有利な方へ)性決定を歪める遺伝子と一緒にいると有利になる.
  • ある性に性比を歪める遺伝子とその性で有利な遺伝子は互いに相手の存在が有利になるために,この過程は自己増強的に進み,連鎖不平衡を強める方向に働く.この結果ゲノムはどちらの性にも同じ時間通過する遺伝子群(常染色体遺伝子)と特定の性でより時間を過ごす遺伝子(性染色体遺伝子)に分離する傾向を持つようになる

 
まず最初に取り上げられているのは性染色体の起源の問題だ.ここではヘイグはそれは遺伝要素間のコンフリクトに絡む同盟から生じたのだと主張している.
 

  • 精子形成,あるいは卵形性におけるマイオティックドライブは,片方の性への歪比を有利にし,性染色体の進化を引き起こす.そして(一旦性染色体が進化した後)性染色体上で生じた歪比遺伝子は有利になるだろう.
  • マイオティックドライブのエージェントと性決定遺伝子の連関は性比自体の歪みを生むが,(常染色体上の)遺伝子議会の対抗を受けるだろう.なぜなら常染色体遺伝子は少数の性にいる遺伝子が有利になるためにフェアな分離を押し進めるからだ.

 
そしてそのような同盟は性比を(常染色体上の遺伝要素にとってのESSから離れるように)歪めようとするために常染色体上の遺伝要素とコンフリクト関係になる.
 

  • ハミルトン(1967)は,しかし,常染色体上の遺伝子も時に性比の歪みを好むことを見いだした.彼は非血縁の少数のメスが局所的な集団を創設し,子どもはその中でのみ交配し,受精したメスが分散する場合のケースを考察した.
  • (XYシステムで性決定する生物において)オスが2倍体で分離が厳密にメンデリアンであればグローバルな交配集団の性比は1:1にになるはずだ*1.またこのとき,局所集団においてはX染色体のある精子とY染色体のある精子の比率がランダムにばらつくために,それぞれの性比はこのグローバルな1:1性比から若干のばらつきが生じるだろう.
  • ここで,あるメスの子どもの期待適応度はその局所集団の性比にかかわらずグローバルなメスの平均適応度と一致する*2.しかしオスの子どもの期待適応度は局所集団の性比がメスに傾いている方がグローバルの平均より高くなる*3
  • このためメスに傾いた集団を引き起こすことのできる常染色体上の遺伝子は平均より高い適応度を得ることになる.すると1:1性比はもはやunbeatable戦略ではなくなる.
  • この例では遺伝子の議会は性比について異なる政策を好む政党に分かれることになる.X染色体党,常染色体党,ミトコンドリア党は,Y染色体党に対抗して,メスに傾いた性比を実現するための同盟を組むだろう.しかしこの3党も正確な望ましい性比については意見を異にする.性にかかる政治は減数分裂の議会ルールを根本的に危うくしうるのだ.

 
ここはハミルトンの局所配偶競争(LMC)理論についてのヘイグ流の解説になる.最後の4政党のメタファーは面白い.ここでESSといわずにunbeatable戦略という用語を使っているところにヘイグのハミルトンへのリスペクトが感じられる.相手の戦略に自分の戦略の適応度が依存するようなゲーム的な状況でどのような戦略が進化するかという問題についてESS的な思考を最初に公にしたのはこの1967年の論文でunbeatable戦略という用語を使ったハミルトンになる.後にメイナード=スミスが数理的に明晰に記述したESS概念を提唱したためにそちらが主流になる.ハミルトンとメイナード=スミスのあいだには包括適応度理論のオリジナリティをめぐっていろいろ確執があったことが知られるが,この一件もその背景になっているようにも思われる.ただハミルトンがESSについて自分が先に出したアイデアだと公的に主張することはなかったようだ.
 
ハミルトンとメイナード=スミスとの確執についてのはこの本がくわしい.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20130322/1363949965

*1:分離が厳密にメンデリアンであれば,X染色体のある精子とY染色体のある精子の比は1:1になるから状況の如何に関わらず子どもの性比も1:1になるはずだという趣旨

*2:いずれにしても受精して分散するので局所集団の性比の影響は受けない

*3:オス1個体当たりより多くのメスを受精させられるためにそうなる

From Darwin to Derrida その15

 
生物個体内の遺伝要素間コンフリクト.次は核内遺伝子と細胞質内オルガネラ遺伝子の対立だ.

 

真核生物連合

 

  • ほとんどの核内のコンフリクトはフェアな分離比と組換えによって鎮められている.しかし真核生物にはミトコンドリアや葉緑体にも遺伝子があり,それらは減数分裂条約に加わっていない.それらはもともと共生バクテリアのものだ.多くの共生バクテリア由来の遺伝子は核内に移ったが,いくつかは今日もミトコンドリアや葉緑体遺伝子として残っている.
  • なぜ一部の遺伝子は核内の公正ルールを受け入れ,一部の遺伝子は独立を保っているのか,そしてなぜこれらの同盟変更は一方向(オルガネラ→核)のみなのかというのはよくわかっていない.核とオルガネラは相互に依存しているが,この伝達ルールの違いはパートナーシップにおけるコンフリクトのもとになる.

 
なぜオルガネラの遺伝子が核内に移る傾向があるのかというのは面白い問題だが,ヘイグによると未解決問題ということになる.オルガネラに残っている遺伝子はオルガネラの存続にとって不可欠だからという説明はあり得るだろう.そうすると残る問題はオルガネラ遺伝子が核内に移るのは誰の利益になっているのかということかもしれない.オルガネラ遺伝子にとって核内にいた方がメリットがある(次節にある片親からのオルガネラ遺伝を抑制する仕組みが進化した後ではオスの体内のミトコンドリアにとっては精子の核に潜り込むことが唯一の生き残り戦略になる)のでうまく潜り込んだのか,それともコンフリクトを下げることにより利益を受けるのは核内遺伝子であって核内遺伝子がコンフリクトに勝利しているということなのか,あるいは双方にメリットがあるのだろうか.
 

  • もし由来の異なるオルガネラ血統が同じ細胞質に入ったら,血統間で細胞質を取り合う競争が生じ,核にはコストになるだろう.コスミデスとトゥービイは核遺伝子は,接合子の片方のオルガネラ血統を破壊することで,血統間のコンフリクトを抑えるように進化するだろうと指摘した.彼等はこの理由により精子にある核内遺伝子は受精前に精子のミトコンドリアを排除するのだろうと推測している.これは精子と卵の(異型接合性の)進化のキーファクターなのかもしれない.これに関連してハーストとハミルトンは核の遺伝子を細胞質融合なしに交換している分類群では配偶子の異型性が進化していないことを指摘している.

 
このあたりの配偶子の異型性進化の問題も興味深いところだ.オルガネラ血統間コンフリクト抑制以外にも,単純な出合い確率を用いた説明,ミトコンドリアの均質性が有利になるという説明などいくつもの異なる説明があって決着はついていないようだ.
 

  • ミトコンドリアと葉緑体が片親からの遺伝に限定されていることにより上記のコンフリクトは解消された,しかしこれにより別のコンフリクトが生まれている.核遺伝子は精子と卵により伝達されるが,オルガネラ遺伝子は卵からしか伝達されない.これによりオルガネラはオス機能を通じた伝達を防ぐことに(よりメス機能を通じた伝達リソースを増やせるなら)利益を得る.細胞質雄性不稔性は植物で何度も進化している.よく調べられたケースでは皆この不稔性はミトコンドリア遺伝子により生じ,核遺伝子により不稔性を修復するように対抗されている.葉緑体もメス伝達だが,このような不稔性を生じさせることは観察されていない.そのようなメカニズムを欠いているか,あるいは容易に核遺伝子に対抗されてしまうのだろう.

 
このミトコンドリアによる細胞質雄性不稔も大変面白い問題だ.実際にこの性質は栽培植物の育種家にとって大変便利なツールになっているようだ.植物の多くは雌雄同株なので,花粉産出を抑制しても(そのリソースを卵(胚嚢)産出に回せるから進化しやすいのだろう.
ヘイグもコメントしているが葉緑体との違いはなぜあるのだろうか.また雌雄異株植物や雌雄同体動物ではどうなっているのかも興味深いところだ.
 

  • このような内部コンフリクトにもかかわらず,真核生物は見事に繁栄している.ダニエル・デネットはヒトにおける遺伝子とミームの共生の成功を真核生物の偉業になぞらえている.遺伝子とミームは異なる伝達ルールに従い,(真核連合と異なり)片方がもう片方の伝達ルールを受け入れることもない.だからコンフリクトはあることが期待される.実際に一部のヒトは信念のために死に,一部のヒトはセックスのために信念を捨てる.

 
この最後の遺伝子とミームのコンフリクトに関するコメントも面白い.

From Darwin to Derrida その14

 
生物個体内の遺伝要素間コンフリクト.まず真核生物における組換えがなぜあるのかという問題を減少原則がどのように破られているのかから説明した. 
次に遺伝要素に緑髭効果があればどうなるのかが考察される.緑髭効果は連鎖した遺伝子同盟によるただ乗りリスクを生むが,それは組換えの高さによってある程度防ぐことができる.そしてこの文脈の中で最もよくリサーチされている利己的遺伝要素が引き起こす現象であるマイオティックドライブが解説される.
 

オープンな社会とその敵

 

  • 減少原則は遺伝子座間の緑髭効果があると壊れる.緑髭効果があると遺伝子は自分と同じ遺伝子がある確率が高いチームに直接利益を与えることができる.そして前述したように pB > C であれば遺伝子はそれによってネットの利益を得る.もし(利益を与える)チームのすべての遺伝子にとってこの確率が同じならば問題はないが,遺伝子ごとにこの確率が異なると(緑髭効果によりある遺伝子が別のチームに利益を与えようとするときには通常この確率は異なる),遺伝子ごとに利益を得たり損失を被ったりする.
  • 連鎖不平衡があると小さな遺伝子同盟は公共財を蝕むことができる.しかし組換えが高いレベルにあれば(緑髭効果エージェントが利用する)ある程度一貫した連関性が壊れる.他のチームメンバーはこのような同盟が成立する前に壊すことでこれを阻止できる.
  • このような企みの中で最もよく調べられているのはマイオティックドライブ(減数分裂歪比現象)だ.よくあるのは異型接合2倍体生物でハプロタイプが自分のコピーがない接合子を殺すもので,2遺伝子座の毒と解毒剤システムによるのが典型的だ.このハプロタイプが固定していないならば,チームの他メンバーによる何か強力な対抗戦略が発動しているのに違いない.つまり連鎖していない遺伝子はこのような企みを壊すために組換えを増進するように淘汰を受ける.
  • リー(Egbert Giles Leigh, 1971)はゲノムを遺伝子達の議会と呼んだ.
  • それぞれの遺伝子は自分の利益を追うが,ある遺伝子が他の遺伝子を傷つけるなら皆でそれを押さえつけようとするのだ.分離比の歪曲や関連する現象はフェアネスからの逸脱になる.
  • 減数分裂の規則は犯されざるべきフェアプレイの規則に進化する.それはならず者から議会を守る憲法なのだ.小さな議会が少数者の陰謀に弱いのと同じように,小さく緊密に連鎖した単一染色体の生物は歪比者の餌食になりやすい.

 
ヘイグはマイオティックドライブの様々な詳細には踏み込んでいない.これに関して最も面白い本はバートとトリヴァースの本だ.冒頭の歪比遺伝要素の話で一気に引き込まれたおぼえがある.
私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entries/2006/11/27 訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20100416/1271413839

From Darwin to Derrida その13

 
生物個体内の遺伝要素間コンフリクト.いよいよ減数分裂に絡むコンフリクトが登場する.私たちヒトを含めた真核生物において個体内の利己的な遺伝要素間コンフリクトで最も華々しいのが減数分裂の歪比に絡むものだ.これをヘイグがどう解説するのかに興味が持たれる.
ヘイグはまずそもそもなぜ減数分裂と組換えがあるのかという問題(ヘイグはここでは踏み込んでいないが,これは有性生殖の2倍のコストの問題とも関連する)をとりあげる.
 

性革命

 

  • バクテリアの組換えには,コレプリコン間のパートナーシップの形成と解消,あるいは遺伝子の交代が伴い,(コレプリコンの)勝ち負けがはっきりしている.
  • これに対して減数分裂に伴う組換えには,メンバーを入れ替えて新しい2つのチームが現れるという平等な2つの暫定チーム間の関係があるだけだ.より成功したチームのメンバーはそうでないチームのメンバーより次世代に残る可能性が高くなる.だからいろいろなチームで成功に貢献できるチームプレイヤーがより成功する.このシステムはチャンピオンチームではなくチャンピオンプレーヤー達のチームを有利にする.プレイヤー達が同じ目的を追求するのは,彼等の長期的な成功がリンクされているからではなく,減数分裂のルールがうまくやれたチームのメンバーが同じ機会を持つことを保証しているからだ.
  • もしすべての遺伝子が減数分裂時にランダムにシャッフルされるのなら,プレイヤー達は長期的なパートナーシップを形成することはできない.このようなランダムな組換えは,多くの染色体を持つ生物のほとんどの遺伝子対について当てはまる.ただし,同じ染色体の近くに位置する(緊密に連鎖した)遺伝子対だけは長期間同じチームに入ることが期待できる.もし一部の連鎖遺伝子対がほかのチームにいるときによりうまくやれるならこのような組合せは成功するチームに多くみられ,より多くの子孫を残すだろう.このようにして自然淘汰はランダムではないプレイヤー達の連関を創り出す.しかしこの連関は常に組換えにより乱される可能性を持っている.

 

  • 進化遺伝学の大きな謎の1つは「なぜうまく働いている遺伝子の連関を,(新しい機会を試すためにという理由で)組換えにより頻繁に壊してしまうのか」という問題だ.
  • ジヴォトフスキー,フェルドマン,クリスチャンセン(1994)は,この問題にかかる多くのモデルについてこうまとめている.
  • ランダム交配集団において,もしある変更遺伝子にコントロールされた組換えを受けている遺伝子座のペアが,コンスタントな生存淘汰(両性間で同じ方向の淘汰)を受け,さらにもしこのシステムがメジャーな遺伝座間で連鎖不平衡がある状態で遺伝的に平衡になっているなら,この変更遺伝子座の新しいアレルは組換えを減らすものでなければ侵入できない
  • この「減少原則」の直感的な説明は,組換えによって生まれる新しいチームは,これまで淘汰を何世代も受けてきたチームより平均して低適応度になるために,個別の遺伝子にとっては組換えが少ない方がより成功しやすいからだというものになる.

 

  • しかしこの減少原則に反して,自然界には組換えが普遍的に観察される.減少原則の前提になんらかの見過ごしがあるのだ.
  • もしまだ遺伝的に平衡になっていないなら組換え促進遺伝子は侵入可能だ.その場合組換えは最適組合せに向かう効率を上げる.これは遺伝子Aと遺伝子Bがともにある場合の適応度上昇分が,個別の上昇度の足し合わせより小さいときにそうなる.また遺伝子Aと遺伝子Bがともに損傷(変異)したときに適応度減少分が,個別損傷による減少分の足し合わせより大きいときにもそうなる.
  • この両ケースにおいて組換えの増加は淘汰効率を上げる.それは劣ったプレイヤーが成功チームにヒッチハイクするリスクや優れたプレイヤーが劣ったプレイヤーに引きずられるリスクを下げるのだ.
  • 組換えの適応的アドバンテージをパラサイト耐性に求めるハミルトンの議論も実は同じ種類の説明になる.この議論は最も優れたアレルの組合せは一時的なもので,常に劣化していくという環境を前提としているからだ.

 
減少原則がまず解説されるのがヘイグの工夫ということになる.オリジナルの原則の言い回しは難しいが,ヘイグがやさしく言い換えているように,世代を繰り返して淘汰を受けてうまくいっている遺伝子チームを壊すのは平均して不利なはずだということになる.これは2倍のコストがなくても組換えが進化するはずがないという原則になるので,より根本的な問題ということになる.そしてこの問題は(ホストとパラサイトのアームレースが普遍的にある場合にそう期待されるように)環境が変動するために,ある世代での最適組合せが長期的平衡にならないとすると解決可能になる.
ヘイグはハミルトンの議論をここで引いているが,ハミルトンはさらに2倍のコストの問題(オスが子育て投資しない場合になぜ単為生殖突然変異が侵入できないか)まで解決しようとしているので,より難しい問題に取り組んでいることになる.
 
関連書籍
 
ハミルトンの自撰論文集第2巻 性の進化.2倍のコストに挑んだハミルトンの格闘の奇跡が収録されている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20060429/1146310327

 
有性生殖の2倍のコストの問題について詳しく解説された日本語の本は少ない.簡単な解説がある最近の本としては以下のようなものがある.私の書評はそれぞれ
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20170622/1498135500https://shorebird.hatenablog.com/entry/20160315/1457995356