「進化心理学を学びたいあなたへ」 その15

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

 

5.3 ヒトを特別なチンパンジーたらしめるもの

 
日本を代表する進化心理学者の1人として長谷川寿一の寄稿が置かれている.

  • 私は行動学(エソロジー)と動物認知を基盤に進化人類学と進化心理学の研究を進めてきた.研究上の興味は(1)霊長類と鳥類の配偶システム,配偶者選択(2)動物の認知(3)自閉症児の社会的認知(4)ヒトとチンパンジーの配偶システム,生活史,社会的認知の比較というところにある.
  • 進化心理学について強調しておきたいことの1つはヒトと他種との比較研究の重要性だ.特にヒトとチンパンジーの比較はヒト進化の理解する上で大きな意味を持つ.チンパンジー(とボノボの両種)から見ると,ゴリラではなくヒトが最も近縁な種になる.私の研究上の興味はすべて「何が我々を特別なチンパンジーにしているのか」という疑問から生まれたものだ.

 

  • 30年前に妻の長谷川眞理子とタンザニアのマハレでチンパンジーのフィールド研究を3年間行った.野生のチンパンジーを間近で見るという経験はその後ヒトを進化的な視点から理解するときのかけがえのない財産となった.
  • チンパンジー・ヒト系統群にだけ見られ.ほかの大型類人猿に見られない特徴を考えてみよう.それは狩り,肉食,オス集団の形成になる.集団で獲物を狩り,オス集団同士が時に殺し合い*1,政治を行う.
  • これらの特徴をもたらした淘汰圧については議論があるが,私は森林生活への適応だと考えている.対捕食者戦略とナワバリ防衛戦略によりオス集団が進化し,栄養供給の新たな手段として肉食が進化したのではないだろうか.
  • ではこの系統の中でのヒトの特徴は何か.それは(1)女性の結びつきの強さ(2)子どもの共同養育(3)社会脳だろう.ヒトは女性がグループで採集・調理・食事をし,閉経後の高齢女性を含めた共同繁殖を行い,他者を思いやり,他者と協力するチンパンジーなのだ.

 

  • いずれ進化心理学は認知神経科学と融合するだろう.それによりヒトの行動と認知の生物学的基盤がより明らかになり,ヒトの存在を分子,遺伝子,神経,行動,認知,進化適応すべてのレベルにおいて理解できるようになるだろう.多層的な研究の期待されるフロンティアの1つは色覚だ.さらなる進展が期待される分野は社会的認知,パーソナリティ,精神障害だろう.

 

  • 日本では自然生育地における霊長類研究の長い歴史があったので,ヒトの生物学的基盤に進化からアプローチすることについて(欧米とは異なり)社会から容易に受け入れられた.原理主義との争いの必要はなかった.アジアの一員として中国やほかのアジアの国々の仲間との意見交換が進む事を期待している.

 
コンパクトな寄稿の中に,チンパンジー・ヒト系統群の特徴と淘汰圧の推測,その中のヒトの特徴,進化心理学の将来展望,日本における進化心理学の現状と盛りだくさんの内容だ.


長谷川寿一の本

長谷川眞理子との共著.今でも日本語で読める進化心理学の入門書の最良の一冊であり続けている.

進化と人間行動

進化と人間行動


5.4 話すことと書くこと デヴィッド・ギアリー

 
ギアリーは1986年発達心理学で博士号を取り,認知,発達,進化心理,教育,医学など幅広い分野で研究を行っている.進化心理分野においては生活史と性淘汰を研究し,この知見を発達心理学の研究と統合することを試みている.その他一般知能の進化過程の解明と認知的モジュールの統合の試み,数学能力の発達,数学学習障害などにも取り組んでいる.

  • ダーウィンの自然淘汰の原理は生物科学史上最重要なアイデアだ.私の興味は非常に多くの点でダーウィンが「人間の由来」において表明したものに似ている.ここでダーウィンはヒトの心の進化と性差の謎を扱っているのだ.
  • 認知過程やバイアスを研究する際に,進化の歴史を直接反映するものと文化や経緯に強く影響されるものの区別は重要だ.私は早くからこの区別を重視し,生物学的一次能力と生物学的二次能力として区別してきた.一次能力はヒトのあらゆる文化に見られ進化によって直接形成されたものだ.言語能力などがこれにあたる.これに対して二次能力は文化によって見られたり見られなかったりし,一次能力の基盤の上にしばしば公教育を通じて獲得されるものになる.代表的なものには識字能力がある.
  • 子どもは二次能力の獲得については,(一次能力と異なり)生得的な学習動機バイアスを持たない.そして二次能力を獲得するには努力してトップダウン処理に従事する必要があり,子どもにとって遙かに難しい課題になる.
  • このような作業をサポートするメカニズムは一体何者で,そのように進化したのだろうか.私の「The Origin of Mind」はこの疑問を取り上げた一冊だ.
  • 非常に重要な最初の課題は生物学的一次能力の分類法の確立だった.具体的には素朴心理学,素朴生物学,素朴物理学の各素朴領域を考えた.これが基盤システムになり,そこから二次能力が形成される.
  • 各素朴学は特定タイプの情報を処理するバイアスがかかっており,これらはモジュール能力であると言える.しかし同時に人類の進化過程においては関連情報の変動に対応することが重要であったこともあるはずで,これらの能力には一定の可塑性があると期待される.例えば顔認識システムにおいて親とそうでない他者の区別は重要になる.進化の帰結として制約の範囲内で調整可能な「柔らかなモジュール」が生まれるだろう.

 

  • しかしそれだけでは一般知能を説明できない.実証研究では二次能力の獲得を最もよく説明できるのは一般知能だった.
  • この課題に対しては,進化的に新奇な状況への対処を可能にしたメカニズムの特定から始めた.気候変動を重視する論者もいるが,私は社会の変動の方が重要だと考えた.
  • 私が提唱したのは,多様で変動する状況に人々が対処することを可能にする中核的メカニズムは自伝的メンタルモデルであるという説だ.これは自覚的注意に基づき,ワーキングメモリを使って形成される状況の心的表象だ.これにより過去や現在を想起し,未来のシミュレーションを行い,起こりうる複数の事態に対処する戦略を練れるようになる.
  • 社会的競争が脳と認知能力の進化を促し,ヒトはモジュール化した一次素朴能力と(ワーキングメモリ,一般知能,自己認識などの)それを担う認知メカニズムを獲得した.これらの進化的機能は,不確実である未来の状況を予測し,問題解決にあたることだ.
  • 続いて論文集「Educating the Evolved Mind」を出し,これらのメカニズムが生得的な動機バイアス,文化的歴史,学校教育とどう相互作用しているかを論じた.結果的に進化教育心理学分野の概説を書くことになった.

  • 「人間の由来」のもう1つの大きなテーマは性淘汰だ.
  • 進化について勉強し始めたときに性淘汰は取っつきやすいテーマに思えた.既に多くの動物で研究されていたこともあるが,当時のアメリカ学術界の政治的環境もそれに取り組むことを魅力的にした.当時は(ヒトの)いかなる性差も取るに足らないもので,社会的に構築されたものだと信じられていたからだ.これは何もナイーブな人達を苛立たせることが面白かったという意味ではない.重要なのは当時ヒトの性差についてほとんど関心が向けられていなかったことだ.心理学者たちはヒトの性差について多くの知見を集積していたが,それを説明するメタ理論を持っていなかった.私にはこれが好機に見えたのだ.
  • そして1998年に「Male, Female: The Evolution of Human Sex Differences」を出版し,2010年に増補版を出した.増補版では集団遺伝学や認知神経科学の分野の知見も取り込んでいる.

 

  • 未来の進化心理学者への最良の助言は「進化学と進化生物学に関する主要文献を読め,ダーウィンを読め」ということだ.配偶者選択に興味を持ったときにはヒトの配偶者選択だけではなく他種の配偶者選択の文献も読み,比較研究の視点を持つようにしよう.他種の類似行動の進化的理解なしにヒトの行動と進化を理解するのは困難だ.


対人関係がもたらす複雑な状況が大きな淘汰圧になって,一般知能,自伝的メンタルモデル,(あるいは意識)が進化したというのは様々な論者が議論していて興味深いテーマだ.なお様々な議論が続いているようだが,ギアリーの「The Origin of Mind」は邦訳もされており,ある意味この問題の基本文献と言えるだろう.


ギアリーの本


本文でも紹介されている「The Origin of Mind」

The Origin Of The Mind: Evolution Of Brain, Cognition, And General Intelligence

The Origin Of The Mind: Evolution Of Brain, Cognition, And General Intelligence



同訳書 私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20080203/1202001368

心の起源―脳・認知・一般知能の進化

心の起源―脳・認知・一般知能の進化





Male, Female: The Evolution of Human Sex Differences, Second Edition

Male, Female: The Evolution of Human Sex Differences, Second Edition



Children's Mathematical Development: Research and Practical Applications

Children's Mathematical Development: Research and Practical Applications

*1:これはボノボでも見られると注意書きがある

「進化心理学を学びたいあなたへ」 その14

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ


第5章 文化と知性を進化から考える その1

 

5.1 文化の進化抜きにはヒトの進化は語れない ピーター・リチャーソン

 
リチャーソンはロバート・ボイドとともに文化進化についての分析フレームを提示していることで有名な生態学者だ.進化心理学者とは言い難いし,そのナイーブなグループ淘汰擁護論やヒトの利他性をグループ淘汰と文化との共進化で説明しようとする議論には首をひねらざるを得ないところがある.ここでは文化進化研究の第一人者として寄稿を依頼したということだろう.寄稿の中身も文化進化についてのものになっている.

  • 文化については「個体の行動に影響を与えうる情報のうち,教育や模倣,あるいはその他の社会的伝達を通じて同種個体から獲得されるもの」という操作的定義を用いる.この定義によると動物にも広く文化が見られる.
  • ヒトは最もうまく社会的学習を行う動物種だ.連続的な革新を積み重ねて農業をはじめとする複雑な文化的適応を築き上げた.
  • 文化人類学者はヒトの文化に多様性を見つけた.認知心理学者たちはこのような多様性の多くが比較的表面的なもので,生得的な認知メカニズムに還元でき,文化的な説明は不要だと主張した.チョムスキーの言語の「原理とパラメータ」に関する議論,トゥービィとコスミデスによるユニバーサルな認知法則の議論もそういう枠組みで捉えることができる.
  • しかしここ20年で多くの証拠から文化的多様性は確かに重要だと認識されるようになった.多くの言語学者(エヴァンズとレビンソンが引かれている)は生得的原理とパラメータだけで言語多様性を説明できないと考えるようになった.チョムスキー自身もミニマリストアプローチにより生得的な統語構造の影響は最小限だと主張を変えた.
  • 人間行動の集団間差異のかなりの部分は遺伝ではなく文化に由来すると考えられる.加えて興味深い遺伝的多様性の発見が相次いでいる.これは遺伝子の文化の共進化の産物だと思われる.

 

  • 多くの進化心理学の仮説は,淘汰と認知能力と社会的適応が直接つながっていることを仮定している.これに対して文化進化的な説明は通常集団レベルの文化の性質に基づくものになる.模倣や教育という心理的プロセスが継承システムであり,単純な前駆体から文化的多様性を作り上げるのだ.ドゥアンヌは間違いなく文化進化産物である読字能力は脳の物体認識システムを利用したものであることを示し,ケアリーは子どもたちが文化の足場を利用して独自に複雑な概念を獲得することを示している.
  • 文化進化にはいくつかのプロセス(文化的変異,文化的浮動,意思決定の力,伝達バイアス,自然淘汰)があり,集団レベルで働く.これらのプロセスが協調してもたらす最終的な結果が文化の変化になる.この中で自然淘汰の効きは遅く,意思決定の力の方がより重要だ.
  • なぜヒトでのみ累積的文化進化が生じたのか.この問題は複雑な文化に必要な巨大な脳がそのコストの大きさにもかかわらずなぜ進化できたのかという問題とつながる.それは新生代最後の数十万年の間に生じた気候変動の大きさが意思決定能力に有利に働いたからだろう.
  • いくつかの証拠が数千年前の農業の開始に伴って多くのヒトの遺伝子進化が始まったことを示している.文化進化の進み方の速さを考えると,文化進化は遺伝子進化を先導したのではないかと考えられる.遺伝子と文化の共進化仮説は複雑な言語,宗教,社会システムの進化の道筋を説明する傑出したアイデアだ.
  • EOウィルソンやランスデンは「遺伝子の文化の共進化プロセスにおいては文化は遺伝子の鎖でつながれている」と主張しているが,文化が遺伝子を先導しているならこの主張は自明とは言えない.
  • 集団レベルでの文化の性質を考慮せずにヒトの進化を理解しようとすることは重力を考慮せずに惑星の動きを理解しようとするようなものだ.

 
 
(筋悪のグループ淘汰擁護がなかったのは幸いだが)恐れた通りかなり強引な主張が入り交じった寄稿になっているというのが第一印象だ.トゥービィとコスミデスの主張は,文化的多様性の基礎にユニバーサルな心があるというもので,多様性が重要ではないとか表面的だとか主張しているわけではないだろう.行動の集団間差異は確かに文化間に存在するが,それは生得的な条件付き行動戦略パターンに対して,デフォルト戦略のパラメータが文化ごとに異なるとしてかなり説明できるように思う.
議論の中では特にヒトの累積的文化について脳の大きさのみを問題にし,その要因を気候変動に求めるのはかなりずれているのではないだろうか.新生代の気候変動の時代に生息していたほかの動物に巨大な脳が進化しなかったことを全然説明できないだろう.
農業以降の文化との共進化は,(乳糖耐性など)食べ物と消化系作用の間には確かにあるだろうが,それ以外は主に(寒冷適応,高地適応などの)単なる地域的環境適応,地域的流行があった感染症耐性が見つかっているだけで,ここのリチャーソンの主張も強すぎるように感じられる.

とはいえ,これで彼等の文化進化分析の枠組みの概要は知ることができる.最初のとっかかりとしては意味のあるものだろう.


リチャーソンとボイドの本


文化進化についての一般向けの解説書

Not By Genes Alone: How Culture Transformed Human Evolution (English Edition)

Not By Genes Alone: How Culture Transformed Human Evolution (English Edition)


より専門的に書かれた本

Culture and the Evolutionary Process

Culture and the Evolutionary Process


彼等の分析フレームを日本語で読める本としてはこれがある.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160614/1465901048

文化進化論:ダーウィン進化論は文化を説明できるか

文化進化論:ダーウィン進化論は文化を説明できるか


同原書

Cultural Evolution: How Darwinian Theory Can Explain Human Culture and Synthesize the Social Sciences (English Edition)

Cultural Evolution: How Darwinian Theory Can Explain Human Culture and Synthesize the Social Sciences (English Edition)

 
 

5.2 制度という環境の中でヒトは生きる 山岸俊男

 
次の寄稿は今年の5月に逝去された日本の社会心理学者山岸俊男だ.比較文化研究と社会における信頼をテーマに研究を続け,信頼,不公平現象,内集団びいきなどについて多くの業績を上げている.本章冒頭の紹介文では好意と敵意が異なるドメインにあることの発見,囚人ジレンマや最後通牒ゲームの選択に見られる文化差はその社会が社会的相互作用において採用しているデフォルト戦略の差が効いていることを明らかにしたこと,同じ集団主義とされる日本と中国の文化差が所属集団を基本にするか人的ネットワークを基本にするかの差であることの解明などが主要業績として紹介されている.

  • 進化も文化も適応という観点から理解できる.
  • 私は個人の心理と社会構造との間のミクロ・マクロの動的関係に関心を持つ社会学的社会心理学者としてスタートした.この関心は現在においても私が研究を進める原動力になっているし,私を進化心理学に引きあわせたと言える.
  • ヒトが周囲の世界を知覚し,解釈し,相互作用する方法には奇妙な生得的特性が見られる.それは大半が社会的環境への適応として選択されてきたものだ.
  • 私は文化心理学にも興味を持った.進化心理学はヒトの心理はEEAによって形成されたと考える.同様に文化心理学はヒトの心理はECA(現在適応環境)によって形成され続けていると主張する.これは1種のニッチ構築とも考えることができる.
  • ヒトは様々なニッチ構築を行っているが,適応として最も重要な環境は社会的ニッチだ.私はこれを「制度」と呼んでいる.制度はヒトが作り上げたものだが,同時にヒトの行動を抑制したり促進したりする.制度は制約や誘因の安定的な集合体なのだ.文化心理アプローチではヒトの文化特異的な心理や行動を社会的ニッチへの適応として分析する.
  • 現在の社会的ニッチつまりECAへの適応は社会的に賢い行動(生存や繁殖という適応度を高める行動)として表れる.制度アプローチの核は何がある行動を社会的に賢いものにするのか(適応価を上げるのか)を分析することだ.そして適応価はその行動に対する他者の行動に左右される.
  • 私は文化心理学に,進化心理学で用いられているリバース・エンジニアリングの手法を導入した.それはまず,素朴な観察者にはその適応価が明らかでないようなヒトの行動や認知的傾向の特定から始まる.
  • ここで,例として私自身の一般的信頼の日米比較の研究を紹介しよう.アンケート調査によると,一般的に集団主義的だと思われている日本人の方が,見知らぬ人を信頼せず,協力もしないことが明らかになった.これをリバース・エンジニアリングの点から一般的信頼の高低がどのような社会的環境で適応的になるのかを明らかにしようとした.その結論は集団主義的なECAは強固な個人的つながりの範囲を超えて信頼が発達し拡張するのを妨げるというものだった.
  • 集団主義社会においては,社会秩序の維持は強固な個人的つながりによる相互監視と相互統制によってなされるのだ.私はこのような社会を「安心社会」と名づけた.このような社会ではただ乗り発覚のリスクが高く他者が裏切らないことを確信できるために,他者の信頼性を評価しようという誘因がなくなり,その結果一般的信頼が不要になる.そして社会的相互作用を強固なネットワークの中だけで行うようになり,外側の他者に対しては安心を失い協力できなくなる.
  • こうした集団主義的社会を構築し維持する根本的な原動力は,公正で効果的な法体系の欠如だ.法体系がないと社会は緊密な人間関係の中で互いに監視制裁するシステムによって構築され維持される.このようなECAは(公正で効果的な法体系のあるECAよりも)EEAに似ているだろう.これは集団主義的な文化の特徴としてこれまで考えられてきた行動傾向や心理が,普遍的なヒトの適応を反映していることを意味している.私は自分の評判に敏感であることが集団主義的文化に特有な心理的機能の核であると考えている.
  • 現在(日本を含む)東アジアの社会の集団主義的性質は,法体系を基礎にする社会に急速に転換しようとしている.このような社会の変化はそれぞれの社会で異なる形で推移している.私の現在の興味は東アジアの異なる社会間での変化の違いが心理的機能にどう影響するのかを明らかにすることにある.例えば中国の「グアンシイ」と日本の集団志向的心理にはいくつかの重要な違い(例えば中国の方が,「自分は信頼できる」というシグナルをより積極的に発信する)があることが明らかになっている.
  • もう1つの私の興味は,EEAに起源を持つ心理がどのようにしてECAの形成やそれに伴う現代社会での知覚,認知,行動上の奇妙な特性の形成に寄与しているのかを明らかにすることだ.


山岸のアプローチの姿勢が明確に説明され,有名な安心社会と信頼社会の知見についてもコンパクトで見事な解説がある.また集団主義社会の方が,EEAに似ているだろうという指摘は面白い.
将来的なテーマとして挙げられているものも興味深いものだ.同じ公正で効果的な法がない世界でも,日本のような集団主義的な社会になるのとアメリカ南部のように自力救済的な社会になることの差はどこから来るのだろうか.


山岸の本


安心社会と信頼社会についての本

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム



同じテーマで一般向けに書き下ろされたもの

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)



長谷川眞理子との対談集 私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170115/1484477256

きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」

きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」

訳書情報 「魂に息づく科学」

魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言

魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言



以前私が書評したリチャード・ドーキンスによる「Science in the Soul」が邦訳出版された.これはドーキンスがいろいろなところで寄稿したり発表した小文を集めた論考・エッセイ集であり,2003年に出された「A Devil’s Chaplain(邦題:悪魔に仕える牧師)」から久々に編まれた2冊目ということになる.
内容的には多岐にわたっており,科学とはどのような営みかに関するもの,進化理論について解説したもの,世界観や未来予測についてのもの,新無神論関係のもの,ヒトの認知の歪みと差別に関するもの,自然史についてのエッセイ,ユーモアエッセイ,追悼文がそれぞれいくつかずつ収められている.冒頭の科学についての見解や,ダーウィンの洞察の本質的な解説などは素晴らしく明晰な解説であり,読みどころだ.その他にも火を噴くような新無神論の主張,楽しいナチュラルヒストリー,思いっきり英国式のユーモアエッセイなどドーキンスファンには堪えられないものが多い.


なお邦題「魂に息づく科学」は原題の味わいを残していてとても素晴らしいと思う.ただし副題は「ドーキンスの反ポピュリズム宣言」となっていて,これはブレクジット国民投票とトランプの大統領当選にショックを受けたドーキンスが,もう一度科学的啓蒙主義の重要性を主張したいと本書を出すことにしたという趣旨の序文を書いているので,それを受けてのものだろうと思われるが,実はそういう内容は冒頭の3つの寄稿に限られていて,本全体の副題にするにはややミスリーディングな気もしないではない.なお原書の副題は「Selected Writings of a Passionate Rationalist」となっている.


原書

Science in the Soul: Selected Writings of a Passionate Rationalist (English Edition)

Science in the Soul: Selected Writings of a Passionate Rationalist (English Edition)


原書の私による書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170908/1504863547



2003年のエッセイ集

A Devil's Chaplain: Selected Writings (English Edition)

A Devil's Chaplain: Selected Writings (English Edition)



同邦訳

悪魔に仕える牧師

悪魔に仕える牧師

「進化心理学を学びたいあなたへ」 その13

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ


4.7 ビジネスとマネジメントに進化心理学を導入する ナイジェル・ニコルソン

ナイジェル・ニコルソンは,ウェールズで心理学を学び,シェフィールド大で社会応用心理学を教えたあと,ロンドン・ビジネススクールに移り組織行動学の教授となっている.ビジネスにおける協力,リーダーシップ,組織変革,リスクマネジメントなどがリサーチエリアで,そこに進化的な視点を取り入れているということになる.

  • 1995年以降,進化心理学のアイデアをビジネスの世界に紹介することが私の使命になっている.
  • この試みは賛否両論の反応を巻き起こした.組織行動学と産業・組織心理学の大部分にはSSSMが依然として君臨し続けていたのだ.特に社会構成主義学派は進化的な見方を素朴な生物学的決定論として誤解して激しく抵抗してきた,しかしこの15年で進化的視点も大分受け入れられるようになり,新たな学問的統合が起こりつつある.
  • 1998年にビジネス誌(Harvard Bisuness Review)向けの記事を出すと,一部の実業家から強い反発を受けた.彼等は自分たちは事業遂行についての無限の自由と裁量を持っていると感じており,ヒトの本性や生得的バイアスなどの不都合な真実に邪魔されたくなかったのだ.しかし同時に多くのポジティブな影響も与えられた.あるコンサルタント会社はこれを飯の種にして繁盛したし,ある会社(Australian Flight Centre)は進化心理学の知見にあわせて組織を再編成*1した.
  • これにより私の仕事はよく知られるようになり,学会で進化心理をテーマにしたシンポジウムも開かれるようになったが,なお組織行動学の主流にはなれず,少数派に止まっている.


<家族企業>

  • 2000年頃,血縁関係を基盤にする家族的経営には多種多様な葛藤や問題が生じるが,同時に強みもあるはずだと考え,文化や気風,リーダーシップ,企業内対立についてリサーチを始めた.そして以下のことがわかった.
  • 家族企業は世界のあらゆるところで存続している.これは血縁関係と企業が自然で相性のよい組合せだからだ.家族はその献身と活力を中心に柔軟で実利的な会社を作ることができる.
  • 家族企業は強力な企業内文化を創ることにより,しばしばそうでない会社をしのぐ業績を上げる.これによる強みは家族性が企業内に浸透することにより,家族の一員だという感覚が家族以外の社員にも共有されることによって作られる.
  • そのような家族意識を浸透させる際にはリーダーが重要な役割を果たす.特に重要なのは家族とそれ以外のメンバーを差別し身内びいきに陥るリスクを回避することだ.
  • 血縁関連の対立は家族企業特有の問題であり,予測し,抑制する必要がある.家族は外部からの役員と対立しがちだ.父と息子の対立,兄弟間の対立はしばしば生じる.姻戚間の対立も無視できない.


<進化心理学をビジネスリーダーたちに紹介する>

  • ビジネス界に進化心理学を紹介すると,年齢の上下や役職の高低によって異なる反応が見られた.若い人や役職の低い人は,自分は何でもできると信じたがり,反発しがちだ.年を重ねた上級職の人は状況の制約,ヒトの本性,自分自身のバイアスにより自覚的だ.
  • 近年の不況(リーマンショック後の不況を指すと思われる)は進化心理学の浸透を後押しした.ヒトの本性(特にアニマルスピリット)が市場や経済を動かし,従来の理論では予測も制御も困難だという認識が広がったためだ.
  • 企業幹部と一緒に行う研究では次の3つのテーマを扱ってきた.
    • リーダーシップの共進化:共通目的のためにグループの行動を指揮・調整する権利を1人(または少数)の主体に付与するというのは,ヒトが特に好む方法だ.その基礎は順位制にある.多種多様なリーダーシップのあり方は二重継承理論に基づく文化進化の枠組みで理解できる.(狩猟採集時代以来のリーダーシップの歴史,リーダーに女性が少ないことの理由*2が概説されている)
    • 個人差,自己制御と適応:これまでのリーダーシップの研究は個人差研究に終始してきたが結論は出ていない.それは(文化との共進化産物であるため)オールラウンドなリーダーなど存在しないからだ.リーダーの失敗は主に(1)柔軟性の失敗(自己制御の失敗,自己欺瞞に起因する文脈への適応の失敗)(2)十分なインパクトを生み出せないことにある.自己制御理論はこのような過程の分析をするための枠組みを提供してくれる.
    • ヒトの本性とグローバルな課題:現在世界は気候変動,エネルギーをはじめとするリソース枯渇問題,戦争やテロという問題を抱えている.進化的分析からは多くの社会病理や脅威は「世界的な共有地の悲劇」問題に起因するものであると考えられる.歴史はヒトの創意工夫がほとんど無限であることを示している.マット・リドレーは「繁栄」の中でこれに基づく楽観論を唱えている.この見方には説得力があるが,進化心理的に考えるとヒトの自己制御に関する最も危険な特徴は「自己欺瞞」の能力であり,これの克服こそが我々の最大の課題なのだ.


ビジネス世界では最近行動経済学の人気が高く(ビジネス書もたくさん出ている),進化心理学はなおマイナーな認知に止まっているだろう.しかしビジネスもヒトが行う試みであり,当然進化心理的な知見が有用な状況があるだろう.家族企業についてはまさにそういう場面なのだろう(もっとも個別の知見は長年の経験的な智恵として知られていたものが大半なのだろうが).そしてビジネスはやってきたことの是非が利益や財務諸表を通じてすぐにフィードバックされる世界(そしてイデオロギーや権威が役に立たない世界)であり,一旦有用性が周知されると一気に浸透する可能性を秘めている.今後面白いエリアだと思う.


ニコルソンの本


Harvard Bisuness Reviewへの寄稿が元になった一般向けの本

Executive Instinct: Managing the Human Animal in the Information Age

Executive Instinct: Managing the Human Animal in the Information Age


家族企業を扱ったもの

Family Wars: Stories and Insights from Famous Family Business Feuds

Family Wars: Stories and Insights from Famous Family Business Feuds


最新刊.リーダーシップを扱っている.

The

The "I" of Leadership: Strategies for Seeing, Being and Doing

 
 

コラム4 なぜヒトのシグナルを研究しているか 大坪庸介

日本人研究者のコラム第4弾は大坪によるもの.北大の社会心理出身で,学部時代にロバート・フランクの「Passion within Reasons」を読んで惹かれたが当時はどう自分の研究に活かせばいいかわからなかったこと,博士号をとった2000年頃から進化的視点を取り入れたいと考え心の理論や意図性推論の研究に着手したこと,しかしなぜ心の理論が進化したかの説明に納得がいかなかったこと*3,そこでザハヴィのハンディキャップ理論に触れてヒトのシグナルの研究に進んだこと,そこで謝罪するヒトが伝える誠意こそ心の理論を使って推論する対象ではないかと気づいたことなどの自分の研究歴が語られている.また今後は神経学的基盤などの至近メカニズムもあわせて研究したいという抱負も語られている.


大坪の本


社会心理学を見開き左ページに英語,右ページに日本語で解説するという異色の本.世界を目指す研究者を養成するなら,教育は英語で行うべきだという信念から生まれた本だ.

英語で学ぶ社会心理学 有斐閣ブックス

英語で学ぶ社会心理学 有斐閣ブックス


進化的視点を取り入れた社会心理学の教科書.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130503

進化と感情から解き明かす 社会心理学 (有斐閣アルマ)

進化と感情から解き明かす 社会心理学 (有斐閣アルマ)

  • 作者: 北村英哉,大坪庸介
  • 出版社/メーカー: 有斐閣
  • 発売日: 2012/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 1人 クリック: 9回
  • この商品を含むブログを見る


最初に触れられているフランクの本の邦訳.共訳者として参加している.

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

*1:会社を,家族,村,部族として再編成し,部族の人数はダンバー数以内に抑えたそうだ.

*2:男性優位の順位制に基づいた組織デザインによりトーナメント方式の出世競争がビルトインされており,それが女性にとって魅力のないものになっているという説明になっている.なお現在のビジネス界のトレンドはよりフラットな組織であり,これは女性にとってより好ましい方向だとコメントされている

*3:相手を出し抜くために推論レベルを上げるというのが当時の説明だが,ゲーム理論的には一段下げてもいいはずで,納得できなかったそうだ

「進化心理学を学びたいあなたへ」 その12

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

 
 

4.5 医者の不養生:産業組織心理学者がルールを守らないわけ スティーヴン・コラレッリ

コラレッリは最も早く進化的視点を産業組織心理学に応用しようとした研究者の1人で,研究テーマは,現代的な人材管理技術への進化心理学の応用,組織変革における進化的ダイナミズムの理解などになる.ここでは産業組織心理学者の視点から進化心理学への旅を語っている.

  • 1980年代私はコンサルタントとして働いていた.その時代ほとんどの組織は私が大学院で学んでいた最先端の人材管理手法を利用していなかった.伝統的な採用面接,推薦状,ニーズ分析なしの研修という手法が好まれていた.数年後大学の教職についてみると,産業組織心理学の同僚自身も,新しい教職員を雇うときに同じく伝統的な手法を好んでいることを発見した.講義では面接は構造化すべきで,推薦状は当てにならないと教えていたが,大学自身は推薦状を要求し,面接は構造化されていなかった.認知能力テストが能力の予測因子としてベストであり,他の予測因子と統合して単一の予測指標を作るべきだと教えてきたが,大学自身は判定にあたって場当たり的に対応していた.
  • 私はここに根本的な何かがあるはずだという問題意識を持った.この問題に対するスタンダードな説明は経営者の教育が足りないというものだったが,それがもう何十年も続いているのだ.経営者たちはほとんどの領域で新しい革新的な手法を取り入れるのに躊躇していない.私は,伝統的手法に私たちが気づいていない利点があるのだろうか,あるいは提唱している洗練されている手法に私たちの気づいていない非実用性があるのだろうか,と考えるようになった.
  • こうした考えをまとめるきっかけになったのはドナルド・キャンベルの伝統的な社会的慣行の機能知と有効性についての論文だった.人材資源の管理方法も,効果のないものが淘汰されてきた文化進化の産物であるという視点で考え始めた.
  • 組織におけるトレーニング量は,実用性と離職率のトレードオフで決まっていくだろう.(採用人数が少なくその後顔をつきあわせて働く)上級職の雇用には面接が,選考の効率が重要になると標準的な試験が使われるようだ.つまり人事慣行もその組織にとっての効用とヒトの心理メカニズムとの適合性について歴史の審判をくぐり抜けてきた文化進化産物なのだ.
  • 進化心理学をより深く学ぶにつれて,私の興味は進化産物である心理メカニズムが組織内での行動に及ぼす影響についての研究にシフトした.
  • 具体的にはセクシャルハラスメント,アファーマティブアクション,組織における集団行動の性差,移民の企業家精神,組織の人事選好における標準テストの採用/不採用について進化心理学的研究を行ってきた.現在は現代的環境とのミスマッチが組織デザインに与える含意について研究している.
  • 現在進化心理学的な視点を持つ組織心理学者や経営学者は依然として少数派ながら増えてきている.志を共有する研究者たちは国境を越えた緩やかなネットワークを作って共同研究を実施している.
  • しかしここまでの道は逆境の中の悪戦苦闘だった.未だに産業組織心理学や経営学と進化心理学の融合の歩みは遅い.その要因は,これらの分野の研究者には進化のバックグラウンドが薄いこと,そして応用実践を重んじる傾向があることだ.彼等はもっと学際的な視点に柔軟になり,クルト・レヴィンの「優れた理論ほど実践的なものはない」という言葉を思い出すべきだ.
  • このような状況の中,私のような教員は大学院生の指導に当たってある種の道徳的ジレンマに直面する.院生には進化的なアプローチを用いた研究をして欲しいが,そうすると就職に苦労するのではないかと心配なのだ.だから2方面戦略をとっている.まず産業組織心理学を専攻する院生には進化的視点を紹介するにとどめ,後は様子を見る.興味がある院生にはこの視点の受容が進んでいない現実も正直に話す.そしてもう片方で同じ大学の実験心理学研究室と交流を持ち進化心理学を学んでいる院生と共同研究ができる環境を作ることだ.
  • 私は今世紀のうちに進化心理学的視点が組織心理学や経営学の理論的基盤になると信じている.転機は年配の研究者が若い研究者と入れ替わるときだろう.


21世紀の日本でもほとんどの組織は人材管理にあたって面接中心の採用,ニーズ分析なしの研修といった伝統的手法を好んでいるようだ.本当にそれが文化進化の産物なのか,そして効果的な手法なのか(ほかの方法と比較した効果測定ができているのか)については疑問なしとしないが,人材管理担当者の心理メカニズムとはいかにも関連がありそうで,進化心理学的には面白い現象であることは間違いないだろう.


コラレッリの本

これは2003年の著作.ハードカバーしかないが,面白そうなのでamazon.comの船便で注文した記憶がある.
採用面接や推薦状については組織における個人の利益や複雑性から利点もあると説明している.
実務的な部分では,採用については少人数の採用であれば面接と紹介状による伝統的方法,中規模の採用(企業の一部門など,これからともに働く人が直接採用を担当する場合)なら伝統的な方法に進化的な新奇環境の観点からの修正(インタビューと採用決定者を分ける,紹介者にもフィーを払うなど)を加える方法,大人数の採用(大学入試や大企業の一括採用)については一定条件まで機械的方法で選んだのちくじ引きが良いのではとしている.訓練,研修については内容と文脈の重視(会話やゲームの存在)単一能力をあまり重視しないこと,進化的に新奇な技術についてはドリルの重要性などを説いている.あまり類書のない貴重な本だと思う.

No Best Way: An Evolutionary Perspective on Human Resource Management

No Best Way: An Evolutionary Perspective on Human Resource Management

 
 

4.6 仕事と性差 キングスレー・ブラウン

キングスレー・ブラウンは人類学を学んだあと法学に進み法学博士号をとり,裁判所や法律事務所で労働法専門の法曹として働いた後に大学の法学教授となった.最も早くから進化心理学の視点から性差の問題に取り組み,この問題を労働法に関する理論研究に応用した1人である.

  • 法科大学院時代,そして弁護士時代に非常に驚いたことがあった.それは訴訟でも社会風潮でも「男女は根本的に同じであり,行動に見られる性差は性差別的な社会化や差別そのものに起因する」という思い込みが広がっていたことだ.これは個人的な観察事実とは食い違っており,こじつけに思えた.そして性差と法をテーマにして研究を進め,進化心理学の理論を取り入れて論文を公刊してきた.
  • SSSMの支持者はヒトの本性を否定し,生得的な性差についてはさらに強硬に否定し,観察される性差は性差別的な社会化によって生じると主張する.一方現代の心理学は性差の包括的な記述を行っており,進化心理学はそれに理論的な説明を与えている.(簡単に概説がある)
  • SSSMの観点は,社会科学だけでなく公共政策の分野でも長らく支配的だった.企業幹部の男女比率や給与の性差はすべて差別によるものだと考えるのだ.進化心理学的な立場からは,差別に起因するものがあることを否定はしないが,生得的な性差が職業選択や昇進機会に対して男女で異なる選択をするように動機づけられていることにも注目する.つまり性差別を完全になくしてもなお幹部数や給与の男女差が残るだろうと予測する.


<ガラスの天井>

  • 企業幹部に占める女性の割合が低いことについて,しばしばそれは性差別に起因するとされるが,実際にはかなりの部分は性差によって説明できる.企業幹部になるには競争的で,野心(権力)のために仕事に身を捧げ,リスクをとることが有利になる.女性にとって最高権力者になることはそれほど魅力的ではなく,(転勤や仕事への献身により)家族や社会的つながりが断たれることを好まない.子どもへの投資についても男性は収入を上げることで貢献しようとするが,女性はより直接的な世話を選好するのだ.


<報酬におけるジェンダーギャップ>

  • アメリカにおける男性に対する女性の年収比率は0.78だ.これも性差別に起因すると説明される.しかしここにも上記心理的性差が大きく反映している.アメリカの賃金格差の大部分は婚姻関係や家族の状態とかかわっている.独身女性は独身男性とほぼ同じ年収を得ているが,結婚すると男性の60%となる.報酬に影響する妥当な影響*1を統制すると男女の賃金格差の大部分は消失する.


<職業分離>

  • アメリカでは性差別を禁じる法制度が半世紀以上施行されているが,なお男女は異なる仕事に従事し続けている.細かく見ると,かつて大半が男性であった仕事について女性が大きく進出している仕事(医師,弁護士など)とそうでない仕事(電気技師など)がある.これはSSSMでは説明できない.これは職業選好の性差から容易に理解することができる.(人への興味とモノへの興味,数学などの推論,空間把握,リスク選好の性差と職業選好の関係が説明されている)


<戦闘での女性>

  • いかなる時代においても戦争における戦闘要員となるのは男性の責任だと通文化的に見做されてきた.それは単に責任であるだけでなく,男らしさの象徴であったり,戦闘に参加して初めて一人前だと認められるということが様々な文化で見られた.しかしこうした歴史にもかかわらず,多くの現代国家では男性と戦争の関連を断ち切ろうという政策に舵を切っている.
  • カナダやノルウェーでは女性の戦闘参加の制限がすべて撤廃されたが,女性の地上部隊志願者はごくわずかにとまっている.アメリカやイギリスでも多くの戦闘関連職務を女性に開放しているが,攻撃的な地上戦への参加は禁止し続けている.
  • 地上戦部隊に女性を採用する政策は事実に反する仮定に基づいている.それは「過去女性が戦闘から排除されてきた理由は身体能力の問題だけであり,現代戦では知力だけが問題になるから女性排除の理由はなくなった」というものだ.
  • しかし身体的能力以外は男女は同じだという前提は誤っている.また現代戦では身体能力は問題にならないというのも間違いだ.
  • 戦闘任務では民間の職場以上に男女の心理的性差の影響が大きく出る.相手を殺す意思を含む攻撃性,進んでリスクをとる傾向,恐怖耐性は当然影響するし,女性により見られる思いやりや共感も戦闘意思(相手を殺すこと)への抑制要因になる.
  • さらにこれらの個人的な問題を克服した有能な女性兵士がいたとしても,彼女が部隊に属すること自体が問題を引き起こしうる.それはチーム内に性的な競争や嫉妬を生みチームの凝集性を阻害しかねないし,女性を守ろうとする男性隊員の心理が戦闘任務の障害になり得るのだ.(チームの凝集性の心理的なメカニズムについて詳しく解説されている)

 
 

  • 進化心理学は公共政策にかかわる多くの問題の分析する上で重要な道具になる.またある種の公共政策の成功の見込みに関しても洞察を与える.ヒトの本性は政策立案者にとって根本的に重要であり,それを無視することは大きな危険をもたらしうるのだ.


ブラウンは法学者なので,ここではかなり微妙な「政治的正しさ」問題についても大胆に踏み込んでいて,気迫を感じさせる.なお日本だと,(先日東京医科大入試問題が発覚したように)そもそもの剥き出しの性差別がまだ残存しており,なお「統制すると格差の大部分が消失する」ような状況には達していないのかもしれない.
 
 
ブラウンの本


ガラスの天井,および報酬格差についての本.

Divided Labours: An Evolutionary View of Women at Work (Darwinism Today series)

Divided Labours: An Evolutionary View of Women at Work (Darwinism Today series)

邦訳

女より男の給料が高いわけ 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

女より男の給料が高いわけ 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

  • 作者: キングズレー・ブラウン,竹内久美子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/02/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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同じ題材をより深く論じた本のようだ.

Biology at Work: Rethinking Sexual Equality (The Rutgers Series in Human Evolution)

Biology at Work: Rethinking Sexual Equality (The Rutgers Series in Human Evolution)


軍における女性地上戦闘員を認める政策がいかに軍を弱くするものであるかを切々と訴える本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20091116/1258322102

Co-ed Combat: The New Evidence That Women Shouldn't Fight the Nation's Wars

Co-ed Combat: The New Evidence That Women Shouldn't Fight the Nation's Wars


ガラスの天井や報酬格差に関する議論については以下の本も参考になる.


ハーバード総長ローレンス・サマーズの発言に端を発した.科学技術分野における女性進出についてエビデンスベースでの双方の議論を収録した本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20140313/1394710018

なぜ理系に進む女性は少ないのか?: トップ研究者による15の論争

なぜ理系に進む女性は少ないのか?: トップ研究者による15の論争

  • 作者: スティーブン・J.セシ,ウェンディ・M.ウィリアムス,Stephen J. Ceci,Wendy M. Williams,大隅典子
  • 出版社/メーカー: 西村書店
  • 発売日: 2013/06/08
  • メディア: 単行本
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原書

Why Aren't More Women in Science?: Top Researchers Debate the Evidence

Why Aren't More Women in Science?: Top Researchers Debate the Evidence


女性側のライフスタイル選好,プライオリティの面から議論している本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20090713/1247493384

なぜ女は昇進を拒むのか――進化心理学が解く性差のパラドクス

なぜ女は昇進を拒むのか――進化心理学が解く性差のパラドクス

 

*1:何が妥当な影響とされるものかについてここには記載がない.このため結婚したらなぜ60%になるのかについて,妥当な(心理的)要因と妥当でない(差別的な)要因を分けて統制しているのかどうか明らかではないが,おそらく最も重要な論点だろう