Enlightenment Now その31

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

第12章 安全 その2


ピンカーは殺人に続いて,その他の事故に関する安全を取り上げる.

  • 前著「The Better Angels of Our Nature」を書いた時に,「人の命の価値は過去安かったが,だんだん貴重になってきた」というアイデアを持っていたが,それに自信はあまりなかった.それは証明不可能だしほとんど循環論法のようだったからだ.だから私は現象により近接した要因,例えばガバナンスや貿易などで説明しようとしたのだ.
  • 刊行後,それについて少し考え直すようになった.私は車を買い換えようと考えて「Car and Driver」誌を手に取ったのだが,そこには「数字で示す安全:交通事故死率は歴史上最低になった」という記事があった.そこには1950年から2009年までの事故死率の推移グラフが掲載されていた
  • そこにははうねりながら1/6に低下する(私にとっておなじみの)形が現れていた.しかしこれにはドミナンスや憎悪は何の関連もない.いくつかの力の組合せが事故死率を着実に低下させてきたのだ.そしてそれは命がより貴重になっていることを示しているようだった.

(ここで1920年から2015年まで伸ばしたグラフが示されている.1920年からだと1/24に低下していることになる.ソースはNational Highway Traffic Safty Administration)

  • いくつかの力とは技術,商業.政治,そしてモラルの力だ.ラルフ・ネイダーをはじめとするモラル騎士が自動車会社に突撃したのは有名だ.しかしグラフはそれ以前から低下を始めている.1956年のフォードはシートベルト,ダッシュボードとバイザーのクッション,縮退式ハンドルなどを組み込んだ「ライフガードパッケージ」というオプションを用意している.そしてエンジニア,消費者,訴訟,政府官僚たちがスロープを登らせ始めたのだ.車の安全性能は上がり,安全規制が強化され,安全な道路網が整備された.交通法規も改正され,ドライバー教育もなされるようになりさらに安全性は向上した.多くの命が救われたのだ.
  • これはアメリカだけ起こったのではない.裕福な先進国では例外なく生じたことだ.富は命を買うのだ.
  • 交通事故死が減少したとしても,そもそも自動車が事故死を増やしたのならそれには疑問もあるだろう.しかし自動車以前の社会がより安全だったわけではない.馬によるリスクは車のそれよりも10倍高いという試算もあるのだ.
  • (ロサンゼルスに移る前の)ブルックリン・ドジャースはブルックリンの歩行者が疾走する車を避けて道を素速く横断する様子から名付けられたものだ.そして皆がうまく渡れたわけではない.信号,横断歩道,陸橋,交通法規,車の正面の危険な装飾物が消えていったことにより歩行者はより安全に歩行できるようになった.

(ここで1927年から2015年までのアメリカの歩行者の10万人あたり死亡の推移グラフが示されている.2015年だと1930年代のピークの6/1程度になっている.ソースはNational Highway Traffic Safty Administrationほか)

  • 2014年のアメリカの年間死者が5,000人だというのは(テロによる44人と比べると)ショッキングだが,1937年の死者は15,500人だった.人口は2/5で自動車は遙かに少なかったにもかかわらずだ.そして近い将来,自動運転技術の普及によりこの数字はさらに下がるだろう.
  • ヒトのリスク把握についてはよく飛行機は自動車より遙かに安全なのに人々が不安がることが指摘される.そしてこの不安は航空機のさらなる安全向上に役立っている.1970年には航空機事故で死亡するのは乗客百万人あたり5人だったが,2015年にはそのリスクはさらに1/100になっている.(その推移グラフも示されている.ソースはaviation Safety Network)

 
 

  • 自動車や航空機の発明より以前から人々の周りには危険がいっぱいだった.ヨーロッパ中世では,両親が働いている間,子どもたちは劣悪な環境に放置されていた.チョーサーにある,子どもを喰らうブタのイメージは現在では突飛もないものだが,当時の子どもたちへの動物による危険を反映したものに違いない.
  • 大人たちも危険に取り巻かれていた.当時の死因を調べたWebsiteによると,腐った魚による食中毒,窓に登っていて挟まれる,泥炭に押しつぶされる,背負い籠に取り付けていたロープで首が絞まる,狩猟の際に崖から落ちる,ブタの屠畜の際にナイフの上に倒れるなどの歴史記述があるそうだ.ガス灯や電灯の発明までは,夜歩きは常に水路での溺死のリスクを伴っていたのだ.
  • 今日,赤ん坊がブタに食われる心配はなくなった.もちろん危険がなくなったわけではない.自動車事故につぐリスクは,墜落,溺死,やけど,毒物などだ.そもそもそれを知ることができるのは事故についての分析と詳しい統計があるからだ.分析の結果は政策に反映されて,世界はより安全になっていく.アメリカ人が事故死する確率は1930年代に比べると70%減少している.

(様々な10万人あたり事故死の推移グラフが示されている.墜落,溺死,やけど,毒物(気体)はいずれも大きく減少している.薬物(固体・液体)のみ近年リスク上昇している.ソースはNational Safety Councilほか)

  • 溺死とやけどは90%減少している.ライフジャケット,水泳時の教示,消防組織の整備,消火設備の充実,安全教育などが寄与しているのだ(歴史的経緯について詳しい説明がある)石炭ガスから天然ガスへの転換,ガス器具の安全対策の向上によりガスによる中毒死も大きく減少した.
  • 例外は毒物(固体・液体)だ.最初私はこれが理解できなかった.実はこれにはドラッグ中毒死(92%)とアルコール中毒死(6%)が含まれているために1990年頃から大きく上昇しているのだ.農薬などによる死亡事故はこの数字の0.5%以下だ.つまりこれは生活環境から来る事故死の減少傾向の例外ではない.別の薬物中毒リスクの上昇を示しているということになる.薬物中毒リスクは1960年代の幻覚剤流行時から上昇し始め.1980年代のコカイン・クラック,そして最近の(医療性鎮静剤を含む)オピオイド流行につながっている.このオピオイド禍についてはいくつか対策が採られ始めていて,減少していくことが期待される.またこの中毒の中心は(ドラッギーベイビー世代とも言うべきコホートである)中年世代であることにも注意が必要だ.最近のティーンエイジャーたちは以前よりも健全になっている.高校生のアルコール,タバコ,ドラッグの使用は統計を取り始めた1976年以来の最低レベルにあるのだ.

 
 

  • アメリカ経済が製造業からサービス業へ転換するにつれて,かつての工場や鉱山が盛んだった時代を懐かしむ風潮がある.しかし昔の製造現場は非常に危険な場所だった.(当時の状況が詳しく解説されている)事故は不運だったと片付けられ,運命だと受け入れることが求められていた.(このためaccidentという単語自体に運命的な意味が付着してしまった.だから今日のリサーチャーはこの単語を避けて事故についてunintentional injuryという用語を用いる)
  • 製造現場が変化し始めたのは19世紀の終わりになってからだ.労働組合が組織され,マスコミも原因を追及するようになった.政府もデータを集め始めた.鉄道を例にとると10万人あたりの事故死は1890年代には852もあり,エアブレーキを義務づける法律が制定された.さらに欧州から雇用者の補償義務の法制が持ち込まれた.これは経営,そして保険会社の動機付けを変えた.企業は安全に留意するようになったのだ.そして同じ生産性を保ちながら事故死を減らすことは達成可能なエンジニアリングの問題だという理解が広まったことも大きい.結果は明白なものになった.

(10万人あたりの事故死の推移が示されている.1910年代の60が2010年には5以下になっている.ソースはBureau of Labor Statisticsほか)


日本でも交通事故死は人口増加と自動車の台数増加にもかかわらず,昭和40年代に比べて大きく減少している.生活環境,労働環境も高度成長時に比べると遙かに改善された.日本の薬物中毒死の推移については明確な統計は見つけられなかったが,検挙数等はほぼ横這い(大半が覚醒剤で,危険ドラッグ取り締まりも強化中.オピオイドはあまり問題になっていないようだ).アメリカのような状況ではないようで一安心というところだろうか.

Enlightenment Now その30

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しばらく間が空いたが,ピンカーの本に戻ろう.
次のテーマは「安全」だ.世界は殺人を含む不慮の事故を減少させるように進歩しているのかが議論される.

 

第12章 安全 その1

 

  • ヒトの身体は脆弱だ.祖先はヒョウやワニなどの捕食獣に簡単に捕食され,様々な生物毒に晒された.果実を求めて樹上に上がれば落下の危険を,魚を求めて水に入れば窒息の危険を背負った.狩猟技術はライバルの殺害にも利用された.
  • 今日捕食されたりヘビ毒で死ぬ人は減ったが,事故はアメリカで死亡原因の第4位にとどまっているし,世界全体でも全死亡の11%を占めている.対人暴力も若者の死亡の大きな原因になっている.
  • 人々は事故の原因や避ける方法を昔から考えてきた.(ユダヤ教の祈りの例が引かれている)
  • そして事故原因と回避方法についての知識は神意を思い巡らす時代から大きく改善され,我々は最も安全な環境に生きている.
  • まず殺人を見ていこう.世界大戦の例外を除くと戦争の死者より殺人の死者の方が多い.近年の通常比率は1:10程度,シリア内戦のあった2015年でも1:4.5だ.
  • 過去においては遙かに殺人リスクが高かった.中世ヨーロッパでは領主はライバルの使用人を殺し,貴族は決闘で,市民もつまらない言い争いの末に殺し合い,強盗殺人が頻繁に生じていた.そして14世紀以降ノルベルト・エリアスの言う「文明化プロセス」が生じ,争いはより非暴力的な方法でなされるようになった.さらに19世紀に刑事司法制度と商業インフラが整備された.マッチョたちの名誉カルチャーは紳士の威厳カルチャーに移り変わった.
  • 犯罪歴史学者のマニュエル・アイズナーはエリアスの主張をデータで裏付けた.そしてそれはヨーロッパで当てはまるだけでなく,世界中で見られる移行だった.

(ここで西欧,米国,メキシコの殺人率の1300年から2015年までの推移グラフが示されている.ソースはアイズナーほか)
 
 

  • 私は進歩を議論するに際し,傾向は絶対的ではなく時に小さな逆行があり得ることには注意を促していた.そして実際に西洋,特にアメリカの暴力犯罪傾向は1960年代に小さな逆行を示している.そしてこの逆行は進歩に対する貴重な教訓を与えてくれる.
  • 高犯罪率時代にほとんどの専門家は暴力犯罪への対処策はないとしていた.それはアメリカの暴力社会に組み込まれており,その根源原因である人種差別,貧困,不平等を解決しない限り犯罪を押さえるのは不可能だと彼等は主張した.この歴史的悲観主義は「根源原因主義」とでも呼ぶべきもので,それは「すべての社会的な疾病は何か深いモラル問題の表れであり,このコアを治療しない限り解決できない」という誤った認識だ.現実世界の問題は単一の根原因に帰せられるようなものではなくもっと複雑なのだ.
  • 1960年代の犯罪爆発について言えば,事実そのものが根源原因理論の誤りを示している.その時期は市民権運動により人種差別は劇的に減少し,経済ブームとともに不平等も失業も下がっていたのだ.そして1992年以降アメリカの犯罪率は激減し始める.この時期こそアメリカで不平等が拡大し始めたのだ.そして2007年以降の不況時にも殺人率は低下し続けている.世界全体のデータは限られているが,2000年以降継続的に低下している.

(ここで1967年から2015年までのアメリカと英国,2000年以降の世界の殺人率の推移グラフがある.ソースはFBI,英国統計局ほか)
 
 

  • 暴力犯罪は解決可能な問題なのだ.世界全体の殺人率をゼロにすることができないかも知れないが,アイズナーがWHOに提案している「30年間で世界の今の殺人率を半減させる」ことは達成可能な目標だ.達成可能だということを示唆する2つの事実がある.
  • 1つは殺人率の地域分布が非常に歪んでいるということだ.世界全体でも1国内でもそれは歪んでいる(世界の中で殺人が多いのは南米北部とサブサハラアフリカ南部地域だ.一国内で見ると,ほとんどの場合それはいくつかの特定の都市に集中している).
  • もう1つは歴史的に見て高い犯罪率が急速に下がったことが何度もあるということだ.(実例がいくつも引かれている)
  • これを組み合わせると,いくつかの高犯罪地域で劇的な殺人率の低下を実現させると30年間での殺人率半減が達成可能であることがわかる.そして1国内での地域的な歪みは社会的根源原因論が間違っていることも示している.根源原因など無視して目の前の現象に注目すべきなのだ.
  • まず重要なのが法の執行だ.これをきちんと行うことにより人々は復讐の連鎖,ホッベジアントラップから抜け出せる.その証拠は刑事司法が機能不全になった様々な事例が見事に示している(いくつもの実例が紹介されている).アメリカの1992年以降の犯罪率の劇的な減少も警察と刑事司法によりかなり説明可能なのだ.
  • アイズナーは目標達成のために「効果的で,正統的で,素速く,フェアで,抑制的で,人道的な法の執行」をアドバイスしている.これは右翼によくある「犯罪に厳しく対処」という考え方と好対照になっている.厳罰主義は感情的に受け入れられやすいが,実効性は薄い.犯罪者はそれを運の悪い厄災だと考えるだけだからだ.予測可能な罰の執行こそが毎日の意思決定における鍵なのだ.
  • 最近の大規模なメタアナリシスは,暴力犯罪減少のための最も効果的な戦術は焦点を定めた抑止戦略であることを示している.まず犯罪頻発地域に焦点を当てる,さらに暴力的な個人や特定グループにフォーカスする.そして許さない行為を明確にしてそれを行えばどうなるか警告する.その上で実行するのだ.
  • もう1つの効果的な方策は認知行動セラピーだ.これは精神分析的なものではなく,衝動的な犯罪者に自己コントロール戦略を教え込むものだ.アンガーマネジメントと社会スキルトレーニングにより挑発に対するトレーニングを行うことができる.
  • 無政府状態,衝動と並ぶ犯罪要因は(ドラッグなどの)密売だ.実際に禁酒法時代に暴力犯罪率は上昇した.マリファナの合法化は1つの方法なのかも知れない.攻撃的な摘発よりも薬物法廷の方が効果的だというエビデンスもある.
  • これらのエビデンスベースの解決策に抵抗するのが「想像力だけによる解決策」推進者だ.スラムクリアランス,銃の買い入れ,ゼロトーラレンスポリシング,三振アウト政策などなどだ.彼等はガンコントロール政策にもエビデンス不要だとして反対する.

 
 
殺人率の歴史的な推移については前著の議論の繰り返しになっているが,1960年代以降の犯罪率の逆転,1990年代以降の急低下についてはより詳しく議論し,さらに解決策についても具体的に踏み込んでいる.前著以降様々な議論に巻き込まれて考えが深まった部分ということだろう.

書評 「まちぶせるクモ」

まちぶせるクモ 網上の10秒間の攻防 共立スマートセレクション

まちぶせるクモ 網上の10秒間の攻防 共立スマートセレクション

 

本書は渋いラインナップで科学読み物を出している共立スマートセレクションの1冊.行動生態学者中田兼介によるクモの最適採餌行動,特に円網およびそれを使っての狩猟行動がどのような適応の産物なのかを解明していく研究物語になる.

第1章 まちぶせと網

冒頭でクモについての総説を置いている.4対の脚の手前にある触肢の解説が面白い.

  • 触肢には味や匂いを感じるセンサーがあるとともに,オスではメスに精子を受け渡すという役割がある.オスはまず精網という小さな構造を糸で作り,そこに精子を放出し,これをスポイト状になっている触肢で吸い取る,そして交接*1の際に触肢先端部をメスに挿入して精子を受け渡す.種によってはこれを交尾栓として使い捨てるものもある*2

続いて円網の張り方について詳しく解説がある.これは図鑑や解説書でよく見かける通りだ.円網にはよくある垂直に張られるタイプのほか渓流沿いなどに水平に張られるものもある.これはカゲロウのような昆虫が羽化して飛び上がるのを狙っていると考えられている.円網以外の網(棚網,皿網,不規則網)についても簡単に解説がある.

第2章 仕掛ける

いよいよここから適応の話になる.円網はどこに張るべきかが最初の問題だ.それは基本的に餌の多いところだが,クモはどうやってそれを見分けるのか.中田はここで,光や臭いや痕跡などの手がかりについての過去の研究を紹介している.
餌量が推定できたら,次はどのぐらいの大きさの網を仕掛けるのが最適かという問題になる.円網のサイズは網のコストと獲れる餌の量にかかわる.コストは網の面積に比例するが,網のサイズ大きいと端にかかった餌がクモがそこにたどりついて捕獲するまでの間に逃げられる可能性が高くなるので,獲れる餌の量は網の面積に対して上に凸(収穫逓減)になる.だから最適の網のサイズは餌の多いときの方が大きくなる.
次に円網は餌の量を確かめるアセスメントの機能も持つ(餌量が少なければ引っ越す,多ければより大きな網をかけるなどの調整が可能になる).このアセスメントへの投資は一括前払いになるので,面白い意思決定問題になる.ここから中田の研究物語になる.

  • ギンメッキゴミグモは餌が獲れないと網を引っ越し,獲れると同じ場所を使い続ける傾向がある.観察では引っ越ししたあとは小さな網を張るようだった.
  • 最適採餌戦略の研究分野ではパッチ型の餌場の引っ越しについて精緻な理論が作られている.しかし(クモのような)待ち伏せ型の場合には餌は周囲から流れ込むので,同じ場所にいても餌が減っていくわけではないし,引っ越しタイミングで網を張る前払い一括のコストがかかるので状況は異なると考えられる.単純に考えれば,移動前の餌期待量と移動後の餌期待量の差が引っ越しコストを上回るときに引っ越しすべきことになる.
  • しかしクモにとって移動後の餌期待量を知るのは難しい.さらに移動前であってもサンプリング誤差の問題がある.誤差を小さくするには長期間待つか網を大きくすれば良いが,それぞれコストがかかる.
  • 引っ越し頻度の高いクモより定住性の高いクモの方が,誤差を小さくするメリットが大きいと考えられる.そこでギンメッキゴミグモと(網にゴミを付着させるためにより定住性の高い)ゴミグモを比較したところ,確かにギンメッキゴミグモの方が引っ越し直後に(それ以降より)小さな網を張る傾向があった.

 
サンプリング誤差を考慮した最適採餌というのは面白いアイデアだ.通常はこれはあまり問題にならないが,一括前払いコストが大きいとアセスメント誤差も重要になるというのはいわれてみればなるほどという感想だ.

第3章 誘いこむ

クモの円網は飛び交う虫を濾し捕るフィルターというイメージが強いが,実は虫を誘い込む様々な工夫がある.中田は様々な研究を紹介している.

  • 円網を形成する糸は紫外線をあまり反射しない.これは(フィルターとして)目立たなくする機能を持つものだと考えられている.逆に粘球は光を反射して糸を目立たせる.タカラグモはこれを組み合わせて(定置網のように)餌を誘い込む構造を持つ円網を作る.
  • 餌の食べかすを発酵させて(その匂いで)ハエをおびき寄せるクモ(ハグモやジョロウグモの一部)もいる.
  • ゴミグモは食べかすだけでなく自分の脱皮殻,落ち葉など様々なゴミを網に飾る.飾り方は種によって異なる.飾りがあった方が餌が多くかかるという報告,逆に餌がかかりにくいという報告がある.よくわかっていないが匂いが関与している可能性がある.
  • 白帯は以前はクモがその背後に隠れるための構造と考えられていたが,最近では様々な役割があることがわかってきた.まず紫外線をある形に反射して餌をおびき寄せているものがある.花と誤認させているのではないかという有力説があるが,反対説もあって議論が続いている.

 
ここから中田の研究になる.

  • 一旦誘因説が主流になったが,自分がクモの対捕食者戦略を調べるために音叉(捕食者の羽音を模したもの)を使っていると,音叉で脅かしたサガオニグモが白帯を大きくすることを見つけた.これは白帯が対捕食者防御の役割を持つことを示唆している.
  • そこで音叉で脅かす,餌を与えるという2条件を組み合わせた実験を行った.白帯は音叉で脅かすと大きくなったが,餌を与えても大きくならなかった.サガオニグモにおいては白帯は対捕食者防御の機能が主であるようだ.
  • 白帯の角度によって誘因効果が異なるという報告もある.どうやら白帯は形によって様々な機能を持つようだ.

 
さらに白帯の研究はクモの体色や模様の機能の議論に拡張している.目立つ体色や模様が餌の誘引効果を持つという報告,持たないという報告があるそうだ.確かにクモには派手な模様を持つものが多いので,これはなかなか興味深いところだ.

第4章 止める

次は円網の工学的な機能の解説.円網はまずよく伸びて飛んでいる餌の運動量を受け止め,さらに餌が逃げないようにそこに止めておく必要がある.横糸はよく伸縮し,縦糸は大きな引張強度とヒステリシス*3を持ち,餌の運動量を受け止める.餌が逃げないように止めるのは主に横糸の伸縮性と粘着性の機能だ.中田はヒステリシスや粘着性の分子的な仕組みまで詳しく解説している.
次は餌の種類と円網の性質の関係.クモが状況に応じて円網の性質を変えていることを示唆する報告がいくつかあることが説明され,網の工学的性質が餌の捕獲との関係でトレードオフの塊であることが強調されている.

第5章 見つける

低コストの研究機具作りの工夫や,クモの触覚機能の説明を行ったあと,円網が触覚機能の拡張装置であることが具体的な振動の種類,時間差をどう使うか,ノイズの問題などの話とともに解説されている.
ここからどこまで小さな餌まで食べに行くかという問題が扱われる.クモがかかった獲物を食べるためには,定位置からそこまで移動し,捕獲するという一定のコストがかかる.だから栄養状態によって限界利益が変わるなら,その閾値は栄養状態に依存して変わることになる.カタハリウズグモで確かめると確かに空腹時にクモはより小さな餌まで食べに行くが,その襲撃閾値の調整は一旦網に作った白帯の形によって触覚の敏感性を変えることによっていることが明らかになったそうだ.
 
ここから中田の研究になる

  • ゴミグモでは円網を脚を使って引っ張ることにより触覚の敏感性を可変にしているようだ.これを確かめるために5年かけて餌が円網に衝突する動画データを集め,引っ張っている垂直方向の方がより触覚が鋭敏になっていることを確認した.さらに実験的に水平方向に張力を加えるとその方向上に鋭敏性が高まることも確かめた.
  • なぜ垂直方向に引っ張るのか,それは網が真円より少し垂直に長いためだろうと思われる.さらに水平方向のみに餌を与え続けるとクモは水平に張力を加えるようになることも実験的に確かめた.

ここもユニークなアイデアと研究が楽しいところだ.

第6章 襲いかかる

円網の餌を留め置く力は完全ではないので,一旦餌がかかったらクモは素速く餌に到達して噛みついて相手を麻痺させるなり糸で絡め取るなりして捕獲しなければならない.ではこの襲撃時間をできるだけ短縮するためにはどのような円網が適応的かというのが問題になる.
ここで効いてくる要素はクモの定位置,向き,方向転換に要する時間,上下左右での襲撃速度の差になる.ここからの中田の解説は楽しい,本書の白眉だ.

  • 円網は縦に長く,クモの定位置は中心より上にあることが昔から知られていた.これを下向きの襲撃速度の方が(重力の影響から)速いことによる適応だとする説明が主流だった.
  • しかしこれは観察事実がまずあって,それを都合よく説明してみせた「後付けの理屈」だ.本当かどうかを確かめるためには,理論を使って知られていない現象を予測して検証する方が望ましい.
  • ここでゴミグモ属には,通常の頭を下に向けているゴミグモのほかに,上向きのギンメッキゴミグモ,ギンナガゴミグモや,方向が決まっていないシマゴミグモ,ミナミノシマゴミグモが存在する.まずこれはなぜかを調べることにした.
  • 円網の形を調べると,ギンメッキ,ギンナガの円網は定位置より上の方が大きいことがまずわかった.統計解析すると,ゴミグモ属の中で,頭の方向と網のサイズ非対称性にきれいな対応関係があることが確認された.
  • ここでクモは下向きにより速く移動でき,方向転換に時間がかかるとした最適採餌モデルを作った*4.このモデルでは,最適な方法は網の中心よりやや高い位置で下向きにいることであり,上向きのクモの最適位置は下向きのクモの最適位置より低いということが導き出された*5
  • では何故ギンメッキは上向きなのか.モデルに入れ込めていない状況は,餌は時に下向きに転げ落ちてくることではないかと考えモデルを拡張した.これによると上下の移動速度差が小さく餌が転げ落ちる状況があると上向きが適応的である場合があることがわかった.
  • ここまでならこれも後付けの理屈になる.そこでまだ誰も測定していない普通のクモと上向き定位のクモの移動の上下速度差を測定して検証することにした.測定の結果ギンメッキやギンナガで上下速度差が小さいことが確認された.これはクモの大きさが効いているのだろう.またクモに重りを付けて上下速度差を増してやると定位置をより上にすることも確認した.
  • ではこの網のサイズ非対称性は縦糸や横糸の角度や糸間距離にどう影響するだろうか.観察する通常の円網では縦糸の角度は下部の方が小さく,横糸も下部の方が多い.これは餌の転げ落ち対策からそうなっているのかも知れないし,網の工学的性質から縦糸の角度が決まって横糸の密度も決まっているのかも知れない.これも上向きのギンメッキゴミグモやギンナガゴミグモで検証できそうだ.
  • 実際に円網を写真に撮って精密に測定すると,ギンメッキ,ギンナガでも横糸密度は下部で高かった.横糸密度が下部で高いのは転げ落ち対策であるようだ.また縦糸は(工学的な強度からの予想と異なり)より広い上部で角度が小さくならずに逆に大きくなっていた.これはなぜか,1つの説明は横糸密度がまず決まって,その風による絡みつき防止のために縦糸の角度が決まっているというものだ*6.クモの円網の形は重力によりクモの移動速度差と餌の転げ落ちが生じることから来る因果の連鎖により決まっているのだ.

 
 

クモの円網の適応についてのみでこんなに楽しい一冊の本になるというのが,行動生態学の楽しいところだ.一括前払いコストを払う必要にあるアセスメント投資のあり方,白帯の謎(角度によって機能が大きく異なるのいうのは驚きだ),クモの体色と模様の機能,網を引っ張ることによる襲撃閾値の調節,重力が最適円網に与える複雑な因果関係,いずれも大変興味深い.そして謎に迫っていくアイデアがいずれも小気味よい切れ味だ.行動生態学徒だけでなく多くの生き物好きの人に推薦できる一冊だと思う.


関連書籍


クモの進化史を縦軸にクモを解説する一冊.白帯の謎にも触れられている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20130820/1377005741

クモはなぜ糸をつくるのか?

クモはなぜ糸をつくるのか?


同原書

Spider Silk: Evolution and 400 Million Years of Spinning, Waiting, Snagging, and Mating

Spider Silk: Evolution and 400 Million Years of Spinning, Waiting, Snagging, and Mating


クモに寄生するクモヒメバチを扱った一冊.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160123/1453521881

*1:頭にある触肢を使うので交尾とは呼ばない

*2:このような種ではオスは生涯で2回しか交接できない

*3:変形のための必要エネルギーが過去の履歴により異なる性質.これがために一旦飛び込んできた虫が反動で跳ね返されることがなくなる

*4:網を1次元にして簡略化したモデルの解析解がボックスとして収録されている.

*5:直感と異なり方向転換の時間は結論に影響を与えないとある.この部分はこれ以上の解説がないが,本当に影響がないのだろうか.厳密な最適位置を考えると,方向転換に非常に時間がかかるとすると上向きのクモの最適位置は最下部で,下向きのクモの最適位置は最上部になるだろう.やや納得感がないところだ

*6:さらにここでは非対称性,横糸密度,縦糸角度について回帰分析でいろいろと考察している

「進化心理学を学びたいあなたへ」 その20

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ


6.5 進化に興味を持つ人達への4つのアドバイス ジェフリー・ミラー

 
ジェフリー・ミラーはヒトの心理と知能は性淘汰によって大きく形作られていると主張する進化心理学者で,その著書「The Mating Mind」がベストセラーになったことでも有名だ.またヒトの消費行動やマーケティングについても進化的な視点から分析している.ここでは自分がこれまでたどってきた道と若い研究者向けのアドバイスが述べられている.
 

  • コロンビアで学部を卒業したあと,1987年にスタンフォードで認知心理学の院に進学した.そこで認知心理学はあまりに退屈な空理空論に思えてきたときに,当時私に指導教官の下にポスドクとしてきていたコスミデスとトゥービィからヒトの本性の研究への進化理論の適用可能性を知ることができた.
  • しかしどのように研究を進めていいかわからなかったので,友人のピーター・トッドと遺伝アルゴリズムを使った神経ネットワークの研究を行った.これによりサセックスでポスドクの職にありつき,人工生命と進化ロボット工学を研究することになったが,やっているうちに自分は本当は人間心理に興味があることに気づくことになった.
  • スタンフォードにいる頃から性淘汰には興味があった.性淘汰の理論は当時(1990年代)ようやく進化生物学の中で注目を集めるようになっており,手に入る限りの論文を読みあさった.そして配偶者選択はヒトの心理に大きく影響を与えているに違いないと思うようになった.これは2000年に出した「The Mating Mind」やそれ以降の私の研究の大半の基礎になっている.
  • 2001年にニューメキシコに移った.そこにはギャンゲスタッド,ソーンヒル,カプラン,ランカスターなどの研究者が集まっており,進化心理学の研究の中心地の1つだった.テニュアをとる初めてのチャンスでもあり,「The Mating Mind」で展開したアイデアをどう検証するかに一心に取り組むことができた.そしてもっと個人差について,知能,パーソナリティ,精神病理,行動遺伝学という観点から勉強しなければならないことに気づいた.ここ数年は進化心理学と個人差を統合するために多くの時間を割いている.
  • とりわけ力を注いでいるのが,ヒトの心の特性を性淘汰や社会的な淘汰の中で現れた適応度指標と見做して分析することだ.これは精神病理や女性の排卵周期と心理の関係というテーマにもつながっている.

 

  • 1990年代後半にロンドンのUCLで働いているときに経済学的意思決定と消費者行動にも興味を持った.広告やマーケティング,プロダクトデザインは現代文化の中心で,進化心理学はこれにも注目すべきだと思ったのだ.これが「Spent」といくつかの研究につながった.
  • 最近ニック・マーティンの遺伝的疫学研究グループでサバティカルを過ごし,多変量行動遺伝学とゲノムワイド関連分析についても学ばなければと思うようになっている.

 

  • 進化心理学のこれまでの発展は一様ではなかった.配偶行動,育児,集団生活,身分や地位,攻撃性の研究は大きな影響を持ち,発達,精神疾患,パーソナリティ,言語,知能,感情,意思決定の研究にもそれなりの影響を与えている.しかし認知心理学,産業・組織心理学,消費者心理学,文化心理学,ポジティブ心理学,健康心理学,そしてさらに心理学以外の分野(精神医学,人類学,政治学,経済学,社会学,言語学,哲学,人文学)にはほとんど影響を与えていない.
  • これらはこれからの若い研究者たちによって埋められていくだろう.私からの助言:他分野の研究者と話すときにはどんな問いにも答えられるかのような傲慢な進化心理学者になってはいけない.学際研究には相互信頼,社交術,進んで学ぼうとする姿勢が重要だ.
  • 進化心理学者が成功するには,進化心理学を理論が不備で資金が豊富な分野(ポストや旅費が容易に得られる),教授一人あたりの学生数が多い分野(新奇な話題が学べるコースを希望する学生の声が反映されやすい),傲慢でなく不安感のある分野(分野を救う新しい考え方を受け入れやすい)に輸出することだ.この観点から見ると経済学は難しく,健康心理学,精神医学,消費者心理学,ポジティブ心理学には受け入れられやすいだろう.
  • 心理学の研究手法はより一層強力になるだろう.特に期待しているのは,嗜好学習ウェブサイトとスマホだ.GoogleやFacebookなどの大手IT企業が持つ膨大な顧客データは彼等に専有されているが,新しい市場に進出する際に心理学者を雇って調査したり,共同研究が持ちかけられるかも知れない.スマホを使えば,膨大な数の参加者を用いた心理学実験が,位置情報などのフィールドデータ付きで可能になるかも知れない.
  • 進化心理学に興味を持つ若い人への4つのアドバイス
    1. グローバルな視点を持とう.英語が通じて中国人学生に友好的な最高の大学に進み,そこから進める最高の大学の職を得よう,そして望むならそこから中国に戻ることだ.
    2. 英語を一生懸命に勉強しよう.英語は21世紀を通じて科学界の共通言語であり続けるだろう.英語のネイティブスピーカーと共同研究をすれば論文が非常に明瞭になる.受理されるには作文能力も重要なのだ.
    3. 進化心理学の求人がとても少ないことは理解しておこう.テニュア付きの教授職の公募が出やすいのは認知神経科学,臨床心理学,社会心理学,健康心理学,パーソナリティ心理学,行動遺伝学,統計法などの「ホット」な領域だ.これらのどれか1つ以上の領域で研究スキルを取得し,講義を受け持ち,論文を出版し,学会に行き,指導的な研究者とつながりを持ち,小規模な研究助成金を複数回得ておこう.
    4. 特に有益な技術スキルは,脳イメージング,多変量統計学,多変量行動遺伝学,ゲノムワイド関連分析,進化理論,集団遺伝学,適応的行動のコンピュータシミュレーション技術,生態学的に妥当な相互作用実験の計画法だ.多くの欧米の学生はこれらが修得できるほど賢くないか,勤勉でないか,数学的素地が足りない.このほか小規模人類社会や野生動物のフィールド経験は進化心理学分野では尊敬される.

 

  • まとめると中国の進化心理学の未来は明るいということになる.早ければ2020年には大規模データ,スマホ,全ゲノム解析,安価な脳イメージング,神経遺伝子発現の動物モデルが心理学の世界に革新をもたらすだろう.ナノテク,仮想現実,知能増進薬剤も視野に入ってくる.あなたがヒトの起源や本性を探求するというこの大冒険に参加したいと思ってくれたら幸いだ.

 
 
やはりミラーの文章は面白い.最後のアドバイスも実践的で渋いものだ.私的にはミラーの研究上の興味がどのように性淘汰から消費者行動へ広がったのか,そしてパーソナリティ個人差へのこだわりの背景がわかって有意義だった.


ミラーの本


ヒトの様々な特徴が性淘汰産物であることを説得的に論じた本.初めて読んだときはまさに目からウロコだった.

The Mating Mind: How Sexual Choice Shaped the Evolution of Human Nature

The Mating Mind: How Sexual Choice Shaped the Evolution of Human Nature


同邦訳

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)


マーケティングと個人差について扱っている本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20101009/1286588967

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior (English Edition)

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior (English Edition)


同邦訳.私の訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20171226/1514240384

消費資本主義!: 見せびらかしの進化心理学

消費資本主義!: 見せびらかしの進化心理学



進化心理学を応用したオタクのためのもてるためのハウツー本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20180101/1514810891

Mate: Become the Man Women Want (English Edition)

Mate: Become the Man Women Want (English Edition)



コラム6 ヒトの繁殖戦略と生活史戦略,そして現代環境 長谷川眞理子

 
本書邦訳本の最後を飾るコラムは長谷川眞理子の手になるものだ.
 

  • 自然人類学の教室で野生チンパンジーを研究して博士号をとり,行動生態学をやりたいと考えてケンブリッジでシカや野生ヒツジの研究を行った.しかし帰国してもそのような研究ができる職を得られず,行動生態学を本格的に研究するという希望は消えていった.
  • 進化心理学を目指すきっかけになったのは1990年に参加した2つのシンポジウムだった.
  • 1つはシチリアで行われた「ヒトと動物における子どもの保護と虐待」についてのもの.そこでは一流どころの行動生態学者と濃密な議論ができた.そしてそこでマーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンに出会えた.
  • もう1つはサンタクルスでの女性研究者のみ参加の「メスの生物学と生活史」にかかるシンポジウムだ.そこでは行動生態学的なテーマと共に,「性差が存在している進化的理由を理解しているわれわれ女性研究者はフェミニズムとどう向き合っていくのか」というテーマが柱になっていた.当時の私はそんなことを全く考えていなかったので,自分の浅さを突きつけられたシンポジウムになった.以降,この問題については社会的にも発言するようにしている.
  • 夫の長谷川寿一は心理学者であり,心理学と自然人類学という2つの異なる分野で育ちながら野生霊長類の行動生態の研究を一緒にやってきた.長らく2人で研究の話をしながら過ごしてきたことが最終的にヒトの心理と行動を進化的に探求することにつながった.それはある意味必然だったのだろう.
  • しかし実際にヒトの研究にどう取り組めばいいのかはなかなかわからなかった.それがはっとわかったのは,マダガスカルでクローニンの「アリとクジャク」を訳しているときだった,そこではコスミデスとトゥービィの4枚カード問題の研究が紹介されていた.それを読み,進化環境で出合った諸問題,ヒトの脳の働きと領域固有性,文化と言語の役割が有機的につながり,私の頭の中で整合性を持ってつながるようになったのだ.それ以降,マーティンとマーゴに促されて日本の殺人の研究に取り組み,学会を作り,新学術領域で思春期の研究を始めるという具合に続いてきた,
  • 今後は「少子化は何故起こるか」の説明を含めヒトの繁殖戦略と生活史戦略を統合する研究を進めていきたい.それには文化と言語の役割に関わる新たな視点も必要だと考えている.また現代環境がいかにヒトにとって「新奇」でありそれがどんなストレスをもたらしているかについて発言していくことも進化心理学者の義務だと思っている.
  • 若い人達には大きな絵を描くことを常に心がけた上で,その大きな問題を取り組み可能な問題に分割して緻密な研究を展開して欲しい.研究とは大きなジグソーパズルを書くことだと思っているから.

 
 
サンタクルスの女性限定シンポジウムの企画はいかにもアメリカ的で面白い.最後の言葉も味わい深い.どこかでジグソーパズルも趣味の1つだと書かれていたと思うが,そういう意味合いもあったのかもしれないと思わせる.ここまでの経緯と若い研究者への助言がコンパクトにまとまっていて最後に収めるのにふさわしいコラムだ.


<完>

「進化心理学を学びたいあなたへ」 その19

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

 
 

6.3 消費するヒトの発見 ガッド・サード

 
ガッド・サードは最初に進化心理学をマーケティングと消費者研究に導入した学者の1人になる.レバノン生まれで,マギル大学で数学とコンピュータで学士,マーケティングで修士をとり,コーネル大学に移ってマーケティングの博士号をとる.そこからマーケティングに進化心理的学的視点を取り入れ,消費者行動の原因と特徴を考察し,現代マーケティング学と行動経済学領域で研究を進めているそうだ.
 

  • 私が進化理論の単純明快な説明力に気づいたのはコーネルの博士過程の1年目だった1990年のことだった.社会心理学の講義の中で,デイリーとウィルソンの「Homicide」を読むという課題が出されたのだ.私は進化理論の美しさに打ちのめされ,進化の虫は私に取り憑いたのだ.
  • 博士論文ではヒトの探索停止戦略を扱った.わかったのはヒトの探索停止意思決定は「ホモ・エコノミクス」としてなされるのではなく,様々な状況に応じて停止戦略を変化させていることだった.まだ進化的な枠組みは採用していないが,進化が与えた可塑性については取り入れていたことになる.その後コンコルディア大学において進化消費行動の分野を立ち上げた.

 

  • 私はマーケティング/消費行動,ビジネス,心理学,経済学,計量書誌学,医学など様々な分野に取り組んできた.研究手法も様々なものを用いた.そして進化理論はこのような様々な研究領域を歩くための理論的な乗り物だ.
  • 私のこれまでのリサーチから2つ紹介しよう.1つは人目を引くような消費行動が男性のテストステロンレベルに及ぼす効果についてのものだ.ポルシェを運転すると男性のテストステロンレベルは上昇する.面白いことにこの効果は繁華街でもさびれた田舎道でも同じように生じる*1.2つ目は女性セックスワーカーのウエストヒップレシオについてのものだ.48カ国で分析したが,世界中の様々な文化において男性の普遍的好みとされる範囲内(0.68~0.72)に収まっていた.
  • 2007年に「The Evolutionary Bases of Consumption」という消費を進化的視点から包括的に論じた.これまで調べられてきた消費の側面をすべて書き出してそれをダーウィニズムから解釈するという戦略に乗って書かれた本だ.後にこの内容を元に一般向けの本「The Consuming Instinct」も出した.その一節をここで繰り返しておこう.「Ultimately, nothing in consumption makes sense except in the light of evolution. (進化の光を当てなければ,消費についてのどのようなことも意味をなさない)」

 

  • このような研究テーマを教育にも結びつけてきた.消費行動,意思決定などの講義の中では進化心理学を使っている.学生の反応を見ると彼等の中でパラダイムシフトが生じていることがはっきりわかる.進化心理学というミームは感染力が強いのだ.

 

  • 私が研究人生で得た教訓はガルブレイスの言葉に端的に示されている「自分の考えを変えるか,変える必要がないことの証明するかの選択に迫られたら,ほとんど全員が変える必要がないことを必死で証明しようとする」.私は消費者心理学者,行動決定理論学者,進化心理学者という3つの帽子をかぶってきたが,交流を持ってきた学者グループによってヒーローにも異端にもなった.ここ15年多くのマーケティングと消費行動の研究者は私の研究に並々ならぬ反感を抱いてきた.ホールデンは新しい理論が受け入れられるまでの反応を4段階「(1)無価値で馬鹿げている(2)面白いが突拍子もない見方だ(3)正しいが重要ではない(4)昔から私もそう言っていた」にして示しているが,それは私が受けた反応そのものだ.第3段階まで移行したマーケティングの研究者は増えてきたが,まだ第4段階に至った者が少ないのが現状だ.しかし科学的方法論の自動修正能力に照らして考えると第4段階に至るのは時間の問題だと確信している.
  • 進化心理学に向けられる懸念の一部は思想的観念的なものだ.(邪悪な動機に基づく政治的道具だ,差別などの非難すべき価値を科学的に正当化しようとしている,人間を利己的怪物だとみている,神への不信を広めているなど)さらに一部には認識論的なデマもある.(進化心理学は遺伝的決定論だ,ヒトは文化的な存在であり当てはまらない,個人差を無視している,反証可能性のないなぜなに物語だなど)
  • これらの攻撃は不死身の怪物のようなものだ.進化心理学者は反論してきたが,新たな無知の世代の登場と共に攻撃は再開される.将来の進化心理学者の課題の1つは(フラットアース論者が今日おかれているような状況をもたらす)決定的な解決法を見つけることだろう.
  • 進化心理学の最も大きな成功例は普遍的な性差の説明だ.しかしヒトにとって新しく重要なほかの領域の説明について進化的視点を持ち込むことには臆病だった.進化心理学を適用できる他の分野は驚くほど多い.将来の進化心理学が新領域に進んでいくことを願っている.

 

  • 研究者のキャリアを考える上で,狭く定義づけられた分野で研究するか,領域を超えて興味ある問題に取り組むかという戦略選択問題がある.名声を得るには前者の方が有利だ.しかし私は後者の方を勧める.その方が刺激的だし,人生には限りがあるのだ.
  • 進化心理学は,進化理論や進化心理学嫌いの人々の批判にどうしても直面する.それに立ち向かえるだけの図太さを身につけておこう*2
  • 自らの倫理と規範に妥協してはいけない.度を損なわない程度に完璧主義を目指そう.


ガッド・サードの本

The Evolutionary Bases of Consumption (Marketing and Consumer Psychology Series)

The Evolutionary Bases of Consumption (Marketing and Consumer Psychology Series)




ガッド・サードはマーケティングから進化心理学に入った学者だが,逆に進化心理学からマーケティング領域に進出した研究者としてはジェフリー・ミラーの名を挙げることができる.この「Spent」を最初に読んだときは衝撃的だった.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20101009/1286588967,読書ノートはhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20100220/1266624157から.

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior (English Edition)

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior (English Edition)


同邦訳.私の訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20171226/1514240384

消費資本主義!: 見せびらかしの進化心理学

消費資本主義!: 見せびらかしの進化心理学

   

6.4 レポートが論文になるまで:進化心理学は科学たりうるか ティモシー・カテラー

 
カテラーは1993年にミシガン大学でパーソナリティ心理学で博士号を取得,UCバークレーで,ポール・エクマンとリチャード・ダヴィッドソンの指導を受けている.研究領域は感情の役割に関するテーマが中心で,行動経済学,実験心理学,ゲーム理論などを含めた学際的な視野の元に研究を進めている.
ここでは自分が進化視点のアプローチの有効性に気づき,進化心理学の擁護者になることを決めたきっかけと,そしてそれを総括する論文を書いた経緯について説明されている.内容は科学哲学的になっていてなかなか面白い.
 

  • 私が進化心理学に触れたのは,1989年,ミシガンの大学院生の時だった.セミナーでどんなテーマにおいても面白いことを言うブルース・エリスという学生と知り合ったのがきっかけだ.彼の独創性の秘密は適応主義的アプローチだった.エリスはHBES創立メンバーの1人パット・マッキムのもとで学んでいた.彼は同時にサイモンズと性的ファンタジーの共著論文を書いており,のちに「Adapted Mind」で1章を担当した唯一の大学院生になった.
  • そのセミナーでバスの講演を聴いたときに,私はその内容を刺激的だと感じたが,同席した多くの院生にとっては全くそうではなかった.高学歴でリベラルな社会科学専攻の学生たちにとって「認知過程に性差がある」という主張はタブーだったし,「種特有で複雑な性質は適応的デザインか,その副産物か,ノイズ化のどれかだ」という議論は根本的に間違っていて危険だったのだ.しかし私にとってはそれは心理学に対する劇的に異なったアプローチを説得的に説明するものだった.それは自分が関心を持っている「感情」を説明できるかも知れないのだ.
  • 元カトリックで殉教者に詳しかった私は,理性を欠いた批判者たちの強大な集団を相手に生涯続く戦いに身を投じ,ヒトの感情のデザインをわずかでも明らかにするというアイデアに取り憑かれた.
  • 蔓延する「アンチ進化」感情を知ることにも利益があった,理性的な人が善意に基づいてとる行動を観察する機会になったし,いくつかの善良な批判者による懸念に合理的な回答を返す最初に機会も得られたのだ.
  • その最初の機会はまさにそのセミナーでバスの講演に関してエルスワースとスミスによって出されたレポート課題においてだった.課題は「(1)楽観主義について進化的な説明をせよ(2)悲観主義について進化的な説明をせよ(3)もし進化心理学が両方を説明できるならそれは何を意味するか」というものだった.明らかにそれは「このリサーチプログラムは哲学的に疑わしい」という方向に誘導するように作られていた.
  • 私はこの2年前に大量の科学哲学の本を買いあさっており,ネオ・ポパー主義に対抗するラカトシュの哲学を知っていた.ラカトシュは「リサーチプログラムはそれ自体が正しいか間違っているかで判断されるべきではなく,それが進歩的か退行的かで判断されるべきだ」と主張していた.リサーチプログラムは個々の仮説とは異なる哲学的な道具を用いて評価されるべきと言うことだ.
  • 私はこのレポート課題について,まず社会心理学者のマーシャルとワートマンが「楽観主義と悲観主義は反対の構成概念ではなく直交している性質である」ことを示していることを引き,(3)について「それは,その研究者がマーシャルたちの最近の知見を知っていることを示すに過ぎない」と指摘し,さらに「仮にあるリサーチプログラムがほぼすべての性質とその反対の性質を説明できるとするとそれについて何が言えるか」について論を進めた.そしてラカトシュを引き,リサーチプログラムはそれがライバルのプログラムから期待されないような新しい事実を生みだすのか,核となる仮定に注意書きを付けずに例外を説明できるかという観点から評価されるべきだと主張した.
  • レポートは「A」の評価をもらったが,それで終わりにはしなかった.当時大学院生だったジェフリー・ミラーが書いた認知心理学の問題点とそれが進化的なアプローチで解決できることを示した論文に影響された私は進化心理学の核となる論理を剽窃する理論論文を書くという試みに取り組むことにしたのだ.
  • 1年ほど試行錯誤したあと,私は科学哲学についてはともかく進化心理学については十分な知識がないことに気づいた.そこでブルース・エリスに共著を依頼し,2人でこのプロジェクトに取り組んだ(かなり詳しい経緯が書かれている).そして5年間かけて進化心理学が科学的に進歩的なリサーチプラグラムの特性を持っていることを示す論文を書きあげ,それは「Psychological Inquiry」誌に2000年に受理された.セミナーから10年かけて取り組んだ成果としてそれは決して悪くないものだった.

*1:なぜかは解説されていない.

*2:数年前の有名ビジネススクールでの講演の際に寄せられた怒りの質問が紹介されている.「消費者は動物だというのか」「同性愛や自殺を進化的な視点から説明できるのか」「消費者は文化的な存在であり生物学を超越している」「ビジネスを行う者は普遍性には興味がない.消費者の多様性を説明して欲しい」などなどだったそうだ